【2】 1章 挿穂
1章 挿穂
1
前方から二人連れの女子高生が歩いてくる。どちらも細身で、かなりの美人だ。
晴れ渡った薄い空の下、秋風に踊るサラサラの長い髪。
ロングとセミロング。
香水のような、ほのかに甘い残香が運ばれてくる。
すれ違いざま、なんだ、と聞えよがしの声が聞こえた。
「たいしたことないじゃん、アレ」
……アレて。
振り返って思いっきり睨みつけてくれたのは隣を歩く和歌子ちゃんだ。
顔を戻したとたん、今度は振り返らない私にすごむ。
「華~緒~」
「だって……」
「だってじゃない。言い返しなさいよ!」
「言い返す根拠がないもの」
「ちんくしゃとまで言われて悔しくないの」
「待て、そこまでは言われてない!」
一昨日言われたでしょ、と和歌子ちゃんは目を吊り上げる。
「今週だけでもう両手両足超える嫌味と嫌がらせじゃないの! たまにはガツンと言ってやりなさいよ!!」
彼女は三回目で堪忍袋の緒を引きちぎった。以降、反論と倍の嫌味とガン飛ばし。
美人なだけに、すごむ時のその迫力たるや。
「意気地なし」
睨んでくる目が怖い。あわわ、と私は慌てて口を開く。
「で、でもさ、『意気地』ってのはそもそも物事に向かってそれをやり通す気力のことを言うのであって」
「この件」については、やり通す気力のあろうはずがないのだ。最初から。
和歌子ちゃんは鼻から息を吐き出す。
「名詞『意気地』に、接続助詞『が』と形容詞『ない』とくるならばそうだけど、この場合は『なし』を形容詞の文語体と考えて一語の複合名詞としなさい」
「……そのココロは?」
「弱虫ってことよ!」
タテ突いてすみません、学年成績ヒトケタ台様。
「ホントに意気地なし華緒。昔に逆戻りじゃないの」
「でも反論するったって『いいえ私は美人ですケド?』とかって言えるわけないじゃない!」
ブスと言われて美人だと返す。どんなレベルの喧嘩だそれは。
「『悔しかったら選ばれてみれば』とかって言えばいいじゃない」
立ち止まり、腕を組んで胸を反らす。見事。立派。堂々たる見下しっぷり。
はっとして我に返る。
迫力美人の女王様に見惚れている場合じゃない。
「そんなこと言ったら、血の雨が降るわよ!」
「いいのよ、この件は華緒が悪いわけじゃないんだから。……そうでしょう?」
後半、顎を反らした和歌子ちゃんの視線の先、校門の隣で待っていたのは微笑みの貴公子だ。
「元凶の王子様に堂々と責任取ってもらえばいいのよ」
「……日に日にご立腹度合が増しますね眞山さん」
嫌味など、どこ吹く風の佐久間先輩が苦笑する。
私たちが一緒に来れたのは、教室からこの校門まで。周囲は敵だらけとはいえ、この短い距離だけが、唯一心の休まる時間だった。
「さ、黒田さん」
優美に手を差し伸べてくる佐久間先輩を、殺傷力の強いまなざしで睨んでから、和歌子ちゃんはものも言わずにその脇を通り過ぎていく。
「……和歌子ちゃん」
思わず後を追う、泣きそうな呟きくらい大目に見てほしい。
私だって、出来ることならこのまま和歌子ちゃんと帰りたいんだから。
「ドナドナじゃないんだからそんな目しないで。僕は牛飼いですか」
じゃあ私は牛か? ベゴなのか?
失礼極まりないことを、呆れたように言う先輩は、確かに今日も素敵だった。
――見た目だけは。
「さ、帰りますよ」
愛しげに目を細めて、手を引かれる。
とたんに恨みがましい視線が四方から飛んでくる。
きっと仲睦まじいカップルに見えるのだろう、通りすがりのおばさんたちはアラアラと目を細めて微笑んでいる。
「フフフフフーフーフーフー」
機嫌のよさそうな佐久間先輩の鼻歌。
……知ってるよ、その歌。
私は大きなため息をついた。
――――その手が揺れる。
※※※
私の名前は黒田華緒。十五歳。
頌栄館高等部一年B組。身長一五八センチ。そんなに太ってもいないかわりに痩せてもいない。(ブスじゃないと和歌子ちゃんは言ってくれるが)美人ではなく、ついでに取り柄も特技も賞罰もない。
ないない尽くしの平凡な女子高生だ。
隣を歩く超イケメンの先輩は佐久間麗。
優秀な人間しか入ることができないという頌栄館高等部生徒会の書記にして、容姿端麗眉目秀麗明眸皓歯、博学多才温厚篤実手長足長(?)の非凡で完璧な学園のアイドル。
なんと、私が「お付き合い」している男性だということになっている。
――表向きは。
お付き合い宣言をした今週の始めから、金曜日の本日に至るまでの騒動は思い出したくない。
さきほどの嫌味など全然軽いほうで、上履きは隠される、教科書は捨てられる、ボールはぶつけられる(ドッジボールだったけど)、靴に画鋲は仕込まれる(バレエ漫画か!)などなど、賑やかな嫌がらせのオンパレードだった。
クラス内での嫌がらせはほぼないが、大半が表だって私との関わりを避けているのがあからさまだったし、昼休みに和歌子ちゃんが来れない日は、時間中ずっと職員トイレにこもって自衛するしかなかった。
隙あらば先輩女子からの「呼び出し」がかかるためだ。
凡庸すぎる一年女子と、優秀すぎる二年男子。
『なんであんたみたいなのが、佐久間と付き合ってんのよ!』
――私にそれ聞きますか。
『佐久間先輩、目を覚まして』
――私が血迷わせたみたいな言い方すんなよ。
彼らには何を言っても無駄だろう。たとえ、真実を伝えたとしても。
ため息を吐いた時だった。
「はい黒田さん、そこ避ける!」
いきなり繋いだ手を離されて、私は慌ててその場を逃げる。
直後、私が居た場所に突き刺さったものがあった。
「なにこれ? つ、爪?」
どうみても動物の爪だった。ネコ科のような。鋭利に湾曲したものだ。人の指三本分はあるだろうか。コンクリートに半ばまでめり込んでいる。
ぞっとした。
アスファルトでそれなら、もし人間の身体だったら。
「昨日の妙な気配は勘違いじゃなかったんですね。やっぱり来ましたか」
嬉しそうに佐久間先輩は上空に手を伸ばす。
「璿璣」
その声に反応したように強風が起こった。手の先に現れたのは青、紫、緑の羽模様、真っ赤な嘴に澄んだ黒い瞳の美しい鳥。
この鳥を鴆という。
佐久間先輩の頭上で、璿璣は遠慮ない羽ばたきを繰り返す。
恐ろしく強い風が辺りを逆巻いて、私は簡単に飛ばされてしまった。
道路の上を、制服のままで右に転がり、左に転がる。
翻弄されて、悲鳴を上げているのに、佐久間先輩は一顧だにしない。
なんとか近くの電柱にしがみついて、必死に爪を立てた。
―――少しはこっちにも気を遣えっての。
悪態を吐いて必死に風に耐えること数分、突如、目の前に真っ赤な獣が現れた。
璿璣が羽ばたきを止め、先輩の肩に舞い降りる。
「これは珍しい。日本で猙を見ることができようとは」
佐久間先輩はにっと笑う。キィ、と小さな声で璿璣が鳴いた。
獣――それは五本の尾を持つ巨大な真紅の豹だった。間違いない。
……関西のおばちゃん方に絶大な人気を誇る、見慣れたあの柄だもの。
「……王母の狗めが」
猙は明らかな人語を話す。佐久間先輩が優雅に首を傾げた。
「それほど鬼雛が欲しい輩だとは思えませんけど。まさかどなたかのお遣いですか」
「抜かせ」
鋭い牙が先輩を襲う。が、どこか余裕の態度で先輩はそれをかわした。
「崑崙には渡さんぞ!」
「笑止ですね」
先輩は嬉しそうに自らの腕を振る。肘から下が巨大な獣の前肢になった。
思わず目を瞠った。初めて見る……その黄金の肢。
金色の柔らかそうな毛並が生き物のように光を放つ。
「獲れるものなら、獲ってごらんなさい」
襲い掛かる豹に、先輩は鋭い爪と太い腕で応戦する。
どこか嬉々として見えるのは気のせいだろうか。
「お前は知っているのか」
ギン、と鋭利なもの同士がぶつかる音がする。豹の頭上には鋭い角のようなものが突き出ており、それが佐久間先輩の腕と拮抗する形で止まっていた。
「崑崙が鬼雛を使って何をしようとしているのかを」
「……何をしようと」
先輩は冷たく笑う。
「あなたがたに渡るよりは、はるかにマシでしょう、よ!」
すりあげてすぐに突く。その鋭い爪は豹の胸元に入り、しかし浅かったのか、そのまま豹は後方へと退避した。ざっと豹の背に翼が生える。
血のついた爪に自らの舌を這わせて、佐久間先輩は笑う。
「戯言で惑わせたつもりですか? 僕にそれは通用しませんよ」
「……走狗風情が」
翼を動かして、豹が滑空してくる。
なんとでも、と佐久間先輩は凄絶な笑みで一瞬のうちに爪を繰り出した。過たず、それは豹の先ほどと同じ傷口をえぐる。
ぎゃああという悲鳴があがり、だがそれでも豹は地に落ちず、そのままさらに上空へと姿を消した。
「璿璣」
先輩は声をかけたが、鴆は豹を追おうとはしなかった。
「逃げたか」
先輩はそっと自分の右肢に左の手を触れる。瞬く間に右は元の腕に戻った。
「さて……あ、そこにいたんだ、黒田さん」
今、気づいたみたいに私を見つける。
……いや、いいんですけどね、そんな扱いでも。慣れてきましたから。
終わったよ、と微笑む白い頬に飛び散った血の跡。
そんなスプラッタな顔なのに、どうしてそれすら美観を損ねないのだろう。
電柱にしがみついていた私は彼の顔から目を逸らした。
美形だと認めるのは癪だが、これほど雄弁な事実もない。悔しいが。
「怪我はないよね?」
ないわけがない。道路の上を転がったのだから。
スカートはあちこち破け、両足も両腕も擦り傷が満載だ。
だが、出された手に縋って立ち上がって、私は気づいた。
泥で汚れてはいるけれど、滲んでいた擦り傷は、跡形もなく綺麗になっている。チリチリする痛みもない。
「……まただ」
「また?」
佐久間先輩が、ついでのようにスカートの泥を払ってくれた。
「傷が……」
ああ、と先輩は感動薄そうに頷いた。
「鬼雛の影響でしょうね。怪我の治りが早くなっているのも」
確かに昨日、靴の画鋲に気づかずに踏んでしまっても、すぐに痛みを感じなくなった。靴下を脱いだときには跡形もなかった。
残ったのは穴の空いた靴下と、小さな血の染みだけ。
それと同じ現象だ。
「で、何か、それで不都合でも?」
首を傾げる先輩に、私はとっさに抗議しようとして……口を開けたまま、諦めた。
何を言っても無駄な気がした。
なにせ相手は――――妖怪なのだ。
2
半月前のことだ。
横断歩道で信号が変わるのを待っていた私の前を、トラックが通り過ぎた。
トラックの荷台には砂利。何らかの拍子にその中の一個が弾かれて、私の右目にぶつかったのだ。
ただの石ならばよかった。
運の悪い、事故だったねと、それで済んだかもしれなかった。
しかし私の目に落ちた石はただの石ではなく、妖怪たち垂涎の的、『鬼卵石』という厄介なシロモノだったのだ。
満月までにそれを食せば、莫大な力を得ることができるらしい――――そのために私の右目は無数の妖怪に狙われることとなった。
もちろん佐久間先輩も、鬼卵石を狙っていた妖怪のひとりである。
しかもその鬼卵石のせいで、私の目は妖怪が見えるモノへと変化した。
見鬼の力を得――――見鬼眼となったのだ。
それでも満月さえ過ぎればいいと、私は簡単に考えていた。「満月までに食すこと」が条件ならば、そこまで無事にやりすごせばいいのだと。
そもそも満月の日には手術をして、鬼卵石のカケラを取り出すことになっていた。
手術でカケラを取り除けばいいのだろうと、安直に考えていたのだ。
だが目に落ちた鬼卵石は、満月を境に孵化を始めた。
――よりによって私の中で。
孵化したものを『鬼雛』というらしい。
鬼卵石の状態でしか手を出すことが出来ない妖怪は下位、さほど力のない有象無象なんだそうだ。
だが、鬼雛の状態でも手を出すことの出来る妖怪―つまり力を持った上位の妖怪たち(フロアボスレベル…ってこの例えであってんのか?)が、この先鬼雛を(要は私を)狙い始めると言われて、私は耳を疑った。
鬼雛を制したものがこの世を制す。そんな俚諺がある物騒なシロモノを身に宿して、平気でいられる女子高生がこの世にいるならゼヒ教えて欲しい。無理だから絶対。
おぞましさと恐怖に気がおかしくなりそうだった。
『僕は君の傍にいたほうがいいだろうな』
佐久間先輩はそう言った。理由は不埒な妖怪から鬼雛を守るため――だそうだ。
冗談じゃないと突っぱねたけれど、結局は一枚も二枚も上手なこの性悪妖怪の目論見通り、私たちは全校生徒公認のカップルとして、こうして付き合うことになっている。
かつて憧れた先輩との交際。
ほんの半月前なら、どれほど浮かれるシチュエーションだっただろうか。
「こちらに誘い込んでよかった」
先輩は肩をすくめた。
学校から少し離れた、人気のない寂れた公園だ。駅からはかなり離れており、近くには立ち入り禁止の溜池もある。そこに年中虫が湧くから、イチャイチャしたい恋人たちでさえ近づこうとしない。
襲い来る妖怪たちを迎え撃つには確かにうってつけの場所だった。
「やはり登下校は僕と一緒で正解でしょう?」
不本意ながら頷く。和歌子ちゃんと一緒にいる時に襲われたとしたら、と考えるとぞっとする。守りきる自信はない。今週に入って、これで三度目。
思った以上の頻度だった。
「…しかし、まさか猙までを使役としてくるとはね」
「き、昨日までのヒトたちとは違うんですか?」
ん、と先輩は頷く。
「昨日までのはあからさまに雑魚だったでしょう? 僕たちの力を削ぐだけが目的の。でもさきほどの猙、あれは章莪山の妖怪です。プライドが高く、一匹狼ですから基本的に誰かの使役になるような類のものじゃない。力量だけをみれば、さほど上位妖怪というわけではないんだけど……ちょっと厄介だね」
「厄介?」
「猙さえも操るモノか……ひょっとして背後に口の巧い輩がいるのかな」
どうやったら出てきますかねえ、と彼は腕を組んで考えこむ。
私は大きなため息をついた。
「……聖さん」
思わず言葉がこぼれた。
こうした戦いのたびに出てきてくれるのではと期待するが、いっこうに姿を現してくれない。
「……もう、いないのかな」
「まだそんなことを言ってるの」
顔を向けると、先輩の表情は厳しかった。つぶやき程度だったが、聞こえていたらしい。
「聖娘子の危険性はさんざん伝えたと思っていたが。あんな妖狐に何を期待するの?」
私は先輩から視線を逸らした。
聖娘子―有名な妖怪の末裔だという。
聖という名のその美しい女性の妖怪に私は何度も命を助けられていた。
『お馬鹿ちゃんだね』
笑んで細めた目で、そう言いながらずっと守ってくれていたのに。
鬼雛が孵化した時の戦いで深手を負ったのか、以降、姿を見ていない。先輩は生きているとはいうけれど。
「二度と関わりを持たないほうがいい。君のためにね」
厳しい顔でそういうのだ。
「命がけで助けた? それもプレゼンだよ。君に対するね。鬼雛を欲すればこそだ」
これまですべてが妖狐の奸計だと断言してはばからない。
「助けるふりをして信頼を勝ち取ること、これこそがあの妖狐の思惑だよ。まんまと乗ってどうするんだ」
「でも……」
仮にそうだとしても。
本当の思惑を、本音を、私はまだ聖さんの口から聞いていない。
ありがとうすら伝えていない。
……先輩にそれを言えば、頭ごなしに否定されるだろうけど。
私は聖さんを諦める気はなかった。
「さ、帰りましょうか」
私の手を取ろうとした先輩が、刹那、鋭く振り向く。
「……なんだ」
ほっとしたように彼は肩を下した。
「君ですか」
「黒田」
気持ちよく先輩を無視して私を呼んだのは。
「…え、緒方?」
沈む夕陽をバックに、逆光の中で幼なじみの小柄な影が頷いたのが見えた。
※※※
緒方知世。
こいつは和歌子ちゃんと私の幼稚園以来の幼なじみである。
「どうしてあんたがここに?」
「……お前、今から家に来れるか?」
相変わらず仏頂面で、しかも自分の用件しか言わない。私の質問の回答はどうした。
「あんたね……」
「僕はじゃあ、ここで失礼しようかな」
佐久間先輩は無視されてなお、爽やかな笑顔を崩さない。
「何かあったら遠慮せずにすぐに呼んでね。駆けつけるから」
スマホを軽く掲げて見せる。……あんたホントに妖怪か。
「黒田さん、じゃあまた」
あっさりと帰っていく姿を見送った。
先輩には言ってないけれど、先輩を妖怪だと知っているのは和歌子ちゃんとこの緒方だけで、そういえ
ば、どちらも最初から先輩のことを快く思っていなかったことを思い出す。
学校広しといえども、佐久間麗を前にして無視及び「いけ好かない」と公言できるのは緒方と和歌子ちゃんだけだろう。
「で、なんだって?」
「今から俺ん家に来いって話」
幼なじみの緒方の家と自宅はさほど離れてはいない。帰り道だし構わないけれど。
「行くのは別にいいけどさ……あ、そういえばあんた、退院したんだ?」
私を狙う妖怪の攻撃の巻き添えを食らい、緒方は先週から入院を余儀なくされていたのである。背中を縫うほどの裂傷に加え、途中感染症を起こしたらしく、入院が長引いたという話は聞いていた。
実は少し前にもお見舞いに行ったのだけど、ちょうど高熱が出ていたらしく、面会謝絶で会えなかったのだ。
緒方は無感動そうに頷いた。
「いつ?」
「さっき」
「さっき?」
さっき退院したんならとっとと帰れよバカ野郎。
呆れた私の気持ちを察したのか、緒方は苦笑した。
「ウチの母親と一緒に学校に退院のあいさつをしに来たんだよ。練習もずいぶん休んだし、先生に今後のスケジュールも聞きたくてな。で、母親だけ先に帰した」
「なんで?」
「おまえに用があったから」
首を傾げると、緒方はさっさとひとりで歩き出した。
「学校行ったら、例の佐久間と一緒に帰ったって言うからさ。後追ってきた」
「バカ! あんたまた巻き込まれたらどうすんのよ!?」
「佐久間がお前をちゃんと守るかどうかも見たかったしな」
意外に冷静な表情でそう言われて、私は思わず口をつぐむ。
病院でしきりに緒方が『誰も信じるな』と言っていたのを思い出す。
こいつは人一倍慎重な男でもあるのだ。
「……見てたんだ」
「意外にちゃんと庇ってたな」
「っ! どこがよ! 放置プレイだったでしょうが!」
くわと目を剥いた私に、緒方は苦笑した。
「お前を端っこに転がしたのも、背にして戦わなかったのも、相手の攻撃が当たるのを回避したせいだろう。お前が標的にならないよう、注意深く戦っていたな。……ちょっと見直した」
そうですか、見直した結果が、無視ですか。
「……って、あんたあの妖怪、見えてたの?」
見鬼でない限り、それらは見えないのではなかったか?
「……いや」
緒方は顔を戻してまた歩き出す。
「突風や急に現れる爪とかで、さすがに相手がいることは判るもんだろ」
そっか、と私は納得する。
「でも気をつけてよ。いつまた巻き添えくらうかわかんないんだから」
「わかってるよ」
緒方は適当すぎる相槌を打ち、我先にと前を歩く。
「緒方ん家いくの久しぶりだね。……何の用なの? まさか退院祝パーティ?」
そんなわけないだろうなと思っていたら、緒方はちらりと肩越しに私を振り返った。
「……そんなもんだよ」
びっくりした私を置いて、小柄な影はまっすぐに夕陽へと進んでいく。
しばらく口を開けてその背を見送ってから、私は慌ててその後を追った。
3
緒方の家と和歌子ちゃん、そして私の家はほぼ同距離で正三角形を作ることが出来る場所にある。
それぞれ時間にして約十分くらいの距離だが、一番大きな家が緒方、次いで和歌子ちゃんの家、一番つつましやかな日本家屋が我が黒田家である。
……のび太くん家にシンパシー。猫型ロボットはいなけど。
緒方の家は古い(だが巨大な)洋館だ。ご両親はずいぶん遅くに出来た緒方を目の中に入れても痛くないくらい溺愛している。
「ああら、華緒ちゃん、久しぶり」
数か月ぶりに見るおばさんは相変わらず五十代後半とはとても思えぬ容姿で(見た目年齢驚異の三十代)、緒方と違って背が高い。元は声楽で名を成した人で姿勢も良く、当然ながらかなりの美人だ。
緒方のバイオリンの伴奏は、庄和先生が出来ない時は、おばさんが自ら担当しているらしい。
「こないだ病院来てくれたんだってね。ごめんね、面会謝絶の時で」
「いやこっちこそすみません、そんな時に行って」
「その前にも和歌ちゃんと来てくれてたんでしょ。何度もごめんね。ありがとね」
おばさんは快活に笑う。
「あ、退院おめでとうございます。もう大丈夫なんですよね?」
私が心配するのは当然、お見舞いに行くのも当然なのだ。
――だって、緒方は私の身代わりになったのだから。
ありがとうとおばさんは目を細めた。
「大丈夫なのよ。庄和先生も心配してくれたけど、腕の腱、やられてないだけ助かったわ。バイオリニストの奏者生命にかかわるものね」
さらりと怖いことを言う。私は微笑んで、それからうつむいた。
絶対にもう巻き添えにしない。これ以上、友人たちを傷つけたくない。
――とはいえ、何もできないのも事実で。
「華緒、遅いよ!」
廊下の奥から和歌子ちゃんが顔を出していた。
「え、ナニ? ……なに、ホントにこれ、快気祝いなの?」
緒方は無言で頷き、和歌子ちゃんは破顔する。
「さっさと上がってきな! 華緒待ちだったんだよ」
私は慌てて靴を脱いだ。
※※※
居間は完全にパーティ会場と化していた。
居間と言っても、そもそもの面積が我が家とは違う。リビングダイニングで三十二畳は広すぎるだろう。モデルルームか。
「パパは出張中だし、遠慮しないで騒いでね」
騒いでいいと言うのは社交辞令でもなんでもなく、この部屋全体が防音だからである。たまにおばさんもここでアリアを歌ったりするらしい。
余談だが緒方父は大学教授だ。おばさん以上にものすごく明るい。なのに専門は哲学だという。おばさんの外見といい、ギャップのデカい夫婦だ。
中央の色鮮やかなホールケーキは某有名パティシエ作のフルーツタルト。クリスマスでもないのに七面鳥。香料たっぷりのローストビーフ。巨大なガラスの器にヴィシソワーズ。本格ラタトィユに野菜スティックにおばさんお得意のアスパラのキッシュ。
そしてなぜか山盛りのおいなりさん。
「和歌ちゃん華緒ちゃんのお家には電話しといたから。ふたりとも泊まってってね」
おばさんは上機嫌だ。本当に今日は帰してもらえないだろう。
小学生の頃、ここの家に来るといつもこうだったのを思い出す。
「……驚いた」
とりあえずウーロン茶で乾杯して(おばさんが惜しげもなく高いシャンパンを開けようとしたので慌てて止めた。一応ほら、未成年ですから)、お腹いっぱいになるまで夢中で食べてから、ようやく私は落ち着いて二人を見た。
「和歌子ちゃん、今日だって何も言ってなかったじゃない」
「サプラーイズ。大成功」
澄ました顔で和歌子ちゃんは最後のヴィシソワーズを抹茶碗のようなものに入れると、片手で豪快に飲み干した。相変わらずの健啖ぶり、料理のあらかたは和歌子ちゃんの胃の中に収まっている。
片や主賓の緒方は黙々とおいなりさん(だけ)十個目を食べ終えたところ。……十個て。この偏食家め。
おいなりさん十一個目(!)を口に入れてから、緒方は和歌子ちゃんを見る。
「眞山、もう食ったか?」
「大丈夫」
さすがにお腹いっぱいと和歌子ちゃんが腹をさすりながら満足そうなげっぷをする。
ダイニングでおばさんがワイングラスを片手にプロの声量で、なぜか『オペラ座の怪人』を歌っていた。すっかり出来上がっていてご満悦だ。。
動くぞという緒方の声に、私たちはぞろぞろと隣の部屋に移動した。
隣はおじさんの書斎だ。吹き抜けのホールにほぼ図書館並みの蔵書があって、小さい頃はよくここに入り浸っていた。冷たいタイル貼りの室内はしんとしていて、高い格子窓から降るような星がよく見える。
中央のテーブルに腰かけて、緒方が聞いてきた。
「確認するが黒田、例の聖って妖怪、あの後見たか?」
私は首を振る。
「あの満月の夜から会ってないのよ」
私はポケットから簪を出してテーブルに置いた。シャラ、と硬質の音が鳴る。
光を弾く銀色が切ない。
「その聖ってやつから調べてみた。聖姑姑って言ってたよな。それがヒントだ」
緒方は慣れた手つきで本棚から数冊の本を抜き出した。
「『平妖伝』。元は北宋時代の王則の反乱を題材に描いた話だ。時代を下って羅貫中が二十回本を『三遂平妖伝』、馮夢竜が四十回本を『北宋三遂平妖伝』としてまとめたものが、今に伝わっている。馮夢竜のが一番膾炙してるだろうな。滝沢馬琴など江戸時代の文人たちが『水滸伝』等とともに傾倒した作品だ」
「?」マークがものすごく飛びまわる。
「すみません、今の日本語に訳してもらっていいですか?」
「だろうな」
緒方は肩をすくめた。
「いわゆる伝奇もの。『西遊記』とかと同じ、と言えばわかるか?」
ああモンキーマジックとつぶやいて、嫌そうな顔をされる。悪かったな、それもアニメと実写再放送でしか観てないんだよ。
「内容は北宋時代の王則の乱を下敷きにしたものだが、黒田のために語弊を承知でざっくり言えば」
ひとこと余計だってば。
「天下取りにかこつけた、妖怪と仙人と人間による、ある秘術書の奪い合い、だ」
「秘術書?」
「できるだけ簡単に言うから」
思わず睨みつける。
――あんたの「簡単」は私の「難解」だってこと、気づいてるか?
緒方は呆れた顔で天を仰ぐ。
和歌子ちゃんが私たちを見て、なぜかこの上もなく嬉しそうにしている。
「秘術書は『如意宝冊』。如意冊とも言う。天罡の部、地煞の部に分かれ、併せて百八の秘術が収められている。一瞬で数千人の首を落とせるという殺人術なんかがその最たるものだがな。『平妖伝』てのは、その如意宝冊を巡って、朝廷(人間)VS反乱軍(妖怪・人間組)VS仙人(神仙)が、三つ巴の争いを呈する話だと考えろ」
「全然簡単じゃない……」
私は頬を膨らませる。
今のであらすじを理解できないのは、私が悪いんじゃないと思う!
「だからその如意宝冊を誰と誰がどう奪い合うのよ。ちゃんと説明しなさいよ!」
「人物から説明するとすごー……く長いんだが」
緒方はため息をつく。
「『封神演義』や『西遊記』ほど人数も話も多くないんだけどな」
「珍しく言い渋るじゃない。何が問題?」
ざっと本をめくりながら、既に頭に入れたらしい和歌子ちゃんが首を傾げる。
「やたら生まれ変わりが多いってところ?」
「ビンゴ」
緒方は苦笑した。
「わかった。出来るだけ簡潔にという努力をしよう。まず仙人界から。……とはいえ、これが大前提なんだけどな」
緒方は腰を据えて話し出す。私も和歌子ちゃんも居住まいを正した。
「いいか、白い猿の妖怪がいると思え。名を袁公という。この袁公があるとき美少女に喧嘩を吹っかけて返り討ちに遭う。その美少女が九天玄女。玄女とも称する戦上手の女神だ。袁公は彼女の弟子になり、天界で図書館司書になる。……ここまでいいか?」
図書館司書? 意味わかんないけど、まあOK、と頷く。
「ところが袁公は玄女の留守の間に、図書館の宝物の中から如意宝冊を盗み出して雲夢山は白雲洞ってところに舞い戻った。もともと、袁公はここが故郷なんだ。で、折角のお宝を仲間たちにも読めるように、白雲洞の石壁にその百八の秘術を書き写した。人には読めない特殊文字でな。ところがその行為に天界が激怒する。袁公の仲間は全員放逐、とはいえ仮にも玄女の弟子ってことで袁公は情状酌量され袁公がたったひとり白雲洞で秘術を守るハメに陥った。大丈夫か?」
和歌子ちゃんが頷く。私も大丈夫だ……まだ、ここまでは。
「で、時と所は変わって、ここに聖姑姑っていう狐のばーさんがいる」
「聖姑姑?」
聞き覚えのある言葉だ。緒方が頷く。
「聖ってのは、聖姑姑の末裔だっていうんだろ? でもまあそれは置いといてとりあえず聞け」
時は宋の時代、あるところに女狐がいた。
名を聖姑姑。変術に優れた老狐であったという。
彼女には息子と娘がおり、二人を連れて人に化け、華山へと旅に出ることになった。
「その旅の途中で聖姑姑の夢枕に則天武后が立つんだ。則天武后はわかるよな?」
「側転がなんだって? 体操の?」
緒方がため息をついた。
「眞山~!」
「なによ、私のせいだっていうの?」
「なんでこんなにバカなんだ、話が進まないじゃないか!」
「華緒はバカじゃないわよ。ちょっと物を知らないだけよ!」
……和歌子ちゃん、それフォローになってません。
「あんたこそズルしない。割愛しないでちゃんと説明してあげなさいよ!」
あああ、と緒方が頭を掻きむしる。
「中国三大悪女のひとりだよ! 武則天とも言う。知らないか? 前皇后の両手両足を切断して酒甕に漬けて殺した話とか」
「なーにーよーそーれー!!」
悲鳴に二人が耳を押さえる。
私がスプラッタホラーが嫌いだって知ってて言ってるだろうこのヤロウ!
「そうじゃない。これは有名な話だ。恐怖と圧倒的な力で専横を敷き、皇帝すら意のままに殺した希代の女傑。 ついには六十七歳で帝位にまでのぼりつめたが志半ばで死去した。 ……八十二歳で志半ばってところが恐ろしいがな。その彼女が死した時の姿、強大な威光をそのままに、旅の聖姑姑の前に現れたんだ」
朝天髻という皇后にのみ許された髷で威厳を保ち、老いたりとはいえ、その鋭い眼光は生者よりも猛々しく。
彼女は聖姑姑にこう言った。
『妾は死してなお志を果たすためこれより男子に転生し、皇帝となる』
そんなの勝手に転生すればいいじゃん、と思ったのは私だけだろうか。
だいたい、なんでわざわざ聖姑姑の前に現れるわけ?
「なに、聖姑姑は前世で則天武后の母だったとかってオチ?」
緒方は首を振る。
「黙って聞けって。聖姑姑と則天武后は直接つながってはいない。繋がっているのは、聖姑姑の娘、胡媚児だ」
武后は言う。
『その方の娘、胡媚児は我が寵を与えた張昌宗(張六郎)の生まれ変わり。だが短命ゆえ間もなく死ぬ。ただし二十八年後転生した胡媚児と妾は結ばれ、王となる。貝州の地で会おうぞ』
「二十八年後? 気の長い話……」
和歌子ちゃんがあくびをかみ殺している。緒方は首を振った。
「要点だけを言うつもりが、武則天の説明で長くなった。ここからネタばれでざっくり言うと、貝州ってところで乱を起こす王則ってのが武則天の生まれ代わりの人間な。反乱軍のリーダー。で、それに嫁ぐのが聖姑姑の娘、早逝した胡媚児の生まれ代わりである胡永児。
で聖姑姑は、卵から産まれた蛋子和尚ってヤツとともに、如意宝冊の妖術習得に全力をあげるわけだ」
「なるほどね。反乱を収めたい朝廷人間組と、何をしでかすかわからない反乱軍+妖怪組と、盗まれた秘術を使われたくない天界の三すくみ。なんかわかってきた」
相変わらずの見込みの早い和歌子ちゃんは本を見ながら頷いている。
「ネタばれだけど、蛋子和尚なんてずっと聖姑姑側だったのに、後半、天界に命令されて朝廷側の軍師にまでなっちゃうみたいだもの。で、結局朝廷側と天界側の思惑が一致して、反乱軍を潰しにかかる、と。あらら形勢逆転じゃないの」
和歌子ちゃんは楽しそうに本に没頭している。
「ちょっと和歌子ちゃん! 私ついていけてない!」
「ごめんごめん。でも確かにこの話、細かく人物追うのは難しいわね。○○の生まれ変わりってのがてんこ盛り。主要人物の名前を覚えるのすら華緒には無理だわよ」
「……だから!」
緒方が咳払いをする。
「長くなったが、やっとまとめだ。結論から言うと、王則の反乱は鎮圧される。王則と胡永児は処刑、聖姑姑の息子の左黜児も玄女の手にかかり死亡、蛋子和尚は後に即身仏に、そして聖姑姑は一旦、玄女と袁公に捕縛され、その後、袁公に代わってあの物騒な白雲洞の洞主にさせられた。洞主とはいえ、外に出ることは許されないという、ほぼ監禁に近い処罰だ。そこで如意宝冊の番人となったわけだな」
ふうんと私は生返事をする。かなり眠くなっていた。国語、それも漢文の授業に近い。
おなかはいっぱいだし、真夏じゃないから過ごしやすい気候だし。BGMは眠りの淵に引きずり込むのにうってつけで……。
「起きてるか黒田。おい、眞山起こせよ!」
「ああ、ごめん、読みふけってた。華緒起きて!」
和歌子ちゃんが私を揺さぶる。私はなんとか瞼を開けた。
「眠いよう……五言絶句がなんだって?」
「……この時間がすごい無駄だったような気がする」
緒方は何度目か知れないため息をつく。
「あのな。もう言いたいことだけ言うぞ。いいか、つまり文献上は、聖姑姑の末裔っての存在しないんだ」
私はその瞬間、ぱちりと目覚めた。
「存在しない?」
現金なコだわね、と和歌子ちゃんが呆れたように目の端で笑った。
5
結論。聖姑姑の末裔は存在しない。
……じゃあ、聖さんは?
あくまで文献上はだ、と緒方は断りを入れる。
「『平妖伝』はフィクションだ。妖怪も仙人もいるわけないと当然そう思っていたが……実際にお前みたいなのが存在するわけだから、これはもう創作だとも一蹴できない。だとしたら埋もれた文献、そこから見極めるべき真実を拾うしかなかったんだが」
悪かったな、私みたいの、で。好きで妖怪に狙われているわけじゃないやい。
「でもどうして聖姑姑に末裔がいないってわかるのよ?」
緒方は一本ずつ指を立てていく。
「まず聖姑姑は封印されている。で、彼女の最初の娘・胡媚児は若くして死亡し、子どもはいない。その生まれ変わりである胡永児も処刑。聖姑姑の息子も死亡。だとすると末裔ってのはどこから出てくるんだ?」
「生まれ変わりのセンは?」
和歌子ちゃんが首を傾げる。
「この話にはやたら転生が絡んでくるでしょ? その胡媚児・胡永児の生まれ変わりじゃないの?」
緒方は首を振る。
「さっきは割愛したが、胡媚児の転生にはものすごい労力が必要だったんだ。 魂魄の姿にあった胡媚児は張鸞という道士の力を借りてようやく転生を成功させている。処刑された胡永児にそれが出来なかったとは言わないが……なにせ天界を騒がせた魂だ。転生には天界も厳重に目を光らせていただろうから、そう易々とは解放しないだろう。難しいとみるのがいいだろうな」
「じゃあ……聖さんは聖姑姑の末裔じゃないの?」
「結論を早まるな。文献上はって断っただろ?」
緒方は眉を寄せる。
「聖の名は聖娘子だったよな?」
完全に覚醒した私は頷く。あの時の会話を思い出す。
『封印から七百年。聖姑姑の末裔、再来との誉れ高い聖娘子を、玄女は捨て置けなかったのだろうねえ。正義を気取って早々に退治に来たのだからその小心ぶりは笑えるじゃないか。おかげで聖娘子は何をするわけでもないのに、追い出される羽目となった……まだ年若い妖怪だったってのにねえ』
伝えるとなるほどな、と緒方は腕を組む。
「聖姑姑は元々妖術を得意とする老狐だ。一族の中でも秀でていたとされる。その一族からの末裔ということは出来るだろうけど」
聖姑姑の末裔、再来とまで言い切るのはどういう関係性なんだ? と緒方が頭を掻く。
「東西の妖怪事典ももちろん漁った。なのに『聖娘子』の名前が確認できない。聖姑姑の名はあるのにだ」
ふと思い出して私は声をあげた。
「そういえば、あの時、先輩が言ってたけど」
緒方と和歌子ちゃんが私を注視する。
『何をするわけでもないが聞いて呆れる。『烏竜斬将の法』を甦らそうとした悪名高い聖娘子。それがつまり……あなたでしたか』
和歌子ちゃんが顎に手を遣って考え込む風情になる。
「佐久間先輩は既に聖娘子の存在を知っていたのか。その言い方じゃ、過去に天界に目をつけられる事件を起こしているってことよね。……ねえ緒方、『烏竜斬将の法』ってなに?」
「さっき言ったろ。如意宝冊の中の代表ともいえる殺人術だ。『烏竜斬将の神剣』ってのがあってな。それで犬の首を切り落とすと、何千という敵方の武将の首を落とすことが出来るという術だそうだ。そういうのがうじゃうじゃあるらしい」
「……確かにそりゃ門外不出にしてもらいたいもんだわね」
和歌子ちゃんが口をへの字にする。
「つまり天界は既に一度、聖娘子に目をつけてるのね。彼女自身、追われたって言ってたし。ということはやはり『聖姑姑の末裔』なんでしょう。なにせ天界が証人ですもの。……ねえ、こっちの材料は全然足りてないじゃない!」
焦れたような声に、わかってる、と緒方は渋い顔で頷く。
「アタマを切り替えよう。天界が聖姑姑の末裔だというんだ、証跡となる何かがあるんだろう。文献がないからといって聖姑姑との繋がりを否定するのは早計だ。ならば天界の持つ情報を入手するしかない。どこから手をつけたもんか……」
ねえ、と私は声を上げた。
「聖さんの正体が、そんなに大事?」
私にはよくわからないのだ。
和歌子ちゃんと緒方が何をしたいのか。いったい何を焦っているのか。
ふたりは一瞬顔を見合わせてから、当たり前だと綺麗にハモった。
「華緒! あんた仮にも聖さんに懐いてるわけでしょ? 懐く相手の正体も知らずにいいわけそれで?」
和歌子ちゃんは指を突きつける。
「聖姑姑の末裔だってことは半端な妖怪じゃないってことなのよ? 信頼して命を預けていいかどうか、相手の正体も真意も見極めずにどうやって決めるの」
直感、とかいったら千倍の説教食らうんだろうな、と漠然と考えて首を竦めた。
「眞山」
冷静な声で緒方が言う。
「黒田はダメだ。事の重大さがまだ呑み込めてないらしい」
「なによそれ」
憤慨した私に構わず、緒方はひた、と睨んでくる。
「いいか、妖怪はすべておまえの鬼雛が欲しい。片や天界はなまじな妖怪に渡るくらいなら、お前を消滅させるのも厭わない。つまり妖怪も天界も、お前を殺すのになんの躊躇もないんだ」
「……そんなの」
私はうつむく。
それから思い切り叫んだ。
「わっかってるわよおー!」
さんざん聞かされてきたことだ。
妖怪も佐久間先輩も私を狙ってることくらい、嫌というほどわかっとるわ!
「おまえは孤立無援なんだ。誰もかれもがお前を狙っている。しかもこっちに戦力はない。いるのは非力な人間だけだ。その中でなんとか生き延びる方法を模索するしかない。……気を抜いたら一瞬で負けの決まるデスゲームで、生き延びる可能性をわずかでも上げる方法はなんだ?」
「……方法?」
「情報だよ黒田。少しでも情報を集めることさ。佐久間は天界、聖は妖怪。どっちも敵だ。だが、聖は表向きはお前を狙っていないという。ならばその正体と真意をつきとめ、利用できるのなら利用する。定石だろ?」
「利用ってアンタ……」
そんな凶悪な顔して。ふたりとも。
「だって聖さんが自分から私を守るって言ってくれたのに。信じなくちゃ」
だめだ、と緒方はうなだれる。力なく挙がった左手に和歌子ちゃんがタッチする。
「おめでたいって言われ続けるのは癪でしょ、華緒。狙ってないと言われて、はいそうですかって頷くのはあんたくらいなものよ」
「だって……」
和歌子ちゃんは肩をすくめる。
「だからって別に全部を疑えと言ってるわけじゃない。あんたの好きな聖さんが本当に鬼雛を狙っていないというのなら、華緒を守る目的は何なのか。その正体は誰なのかを知らなくちゃ闇雲に信用なんか出来ないわよ。華緒が聖さんを信用したいというなら、そのためにも情報を集めなきゃ。でしょ?」
佐久間先輩は天界に所属している。
その目的も判っている。今のところ、私を守ってくれているが、西王母とやらの判断如何では、躊躇なく私を殺すだろう。
判っていないのは聖さんの正体だけだ。妖怪ではあるが彼女は鬼雛に興味はないと言った。ついでに言うなら天界の敵だ。そこは間違いないだろう。
「敵の敵は味方……そうなりえるかどうかは、相手の正体を吟味してからだ」
「問題は文献もう頼りにならないってことよね」
「……だったら聞けばいいんじゃない?」
へ、と二人が一気にこちらを見る。
その眼がいつになく険しくて、私は思わず後退りする。
「誰によ。本人は今どこにもいないでしょう?」
「佐久間先輩に、だよ。天界は聖さんの正体を知ってるんだよね? だったら聞けばいいじゃん。たぶん教えてくれる……んじゃないか、なあ?」
緒方と和歌子ちゃんは顔を見合わせた。
「あ、ごめん……やっぱムリだよね、それ」
「それだっ!!」
完璧なユニゾンで、こいつら双子かと呆れかえった瞬間だった。
――天窓が割れたのは。