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【1】 5章 手術

5章 手術


 バタバタと地面を叩く雨音で目覚めた。かび臭い。


 薄暗い室内に眼を凝らしたが、光源が乏しいので、ほとんどわからない。


 ようやく慣れてきた眼に映ったそこは、みたこともない板張りの小部屋だった。


 いや――小部屋じゃない。何かものが置かれているところに近寄って見ると、それが床の間のような場所で、その上にいろいろな神具が置かれているのがわかった。


 立ち上がると、頭をついてしまうかもしれないほどの大きさ。


 ゆっくりと立ち上がって、扉らしきものに近づく。上のほうから明るいとはいい難いが光が漏れている。


 そっと扉の隙間から覗くと、鳥居が見えた。石畳の先には、しかし見慣れた建物はない。


 逆に、狛犬がすぐ近くにある。ここが百武神社であることはもう疑いようがなかった。


 ガタガタと扉を動かしてみるが、外から閂をかけられたのか、まったく動かない。


「誰かー! いませんかあ!」


 叫んでみるが、雨音にかき消されてまったく効果がない。


逆に聞こえてきた轟音に思わず首をすくめた。どこかで雷が落ちたようだ。


 何時なんだろう、と私は身体を探ってみる。時計は今日に限ってつけてこなかった。


 時計代わりにしていたケータイはバッグの中で、佐久間先輩の病室の中に置き去りだ。


 雨雲はぶ厚いらしく、今がどのくらいの時間なのかさえつかめない。まだ夕方なのかもしれないし、もう夜なのかもしれなかった。


『気の毒に』


 声が聞こえてぎょっとした。首を巡らせるが、どこから聞こえてくるのかはわからない。


「……誰?」


 人気はない。だが声は続いた。


『つくづく運に見放された、哀れな娘よ』


 思わずむっとする。運がないことくらいわかってる。


「誰なのよ?」


 チチと声がした。頑丈な木の格子の嵌った窓が、申し訳程度に両方の壁の上、ほんの十センチくらいの大きさでついている。その窓枠に陰が見える。小鳥―雀だ。


『自分が狙われていたことすら、気づかないとは』


 驚いてまじまじと見つめてしまった。どう聞いても―雀が喋っているようにしか聞こえないのだけど。


 ふと思い当たった。


 この境内で黒眚(しい)に襲われた時――襲われる前に、雀がいなかったか?


 思い返せば――初めて聖さんを見かけた時もそうだった。鳥目って、雀には当て嵌まらないのかと思ったりしたではないか。


「あんた、誰? ずっと私のこと見張ってたの?」


 影だけしか見えないが、雀は笑ったようだった。


『眼に入っておりながら、わかっておらなんだとは可哀想に。自分の頭の足りなさを恨むことだな』


 カチンときた。なんで雀にまで馬鹿にされなくちゃならないんだ私は。


『どのみちおまえは逃げられん。おそらく何も気づいてないのだろうから、儂が説明してやろうか』


 聖さんといい、この雀といい、どうしてこう化け物ってのは上から物を言うのか。


 むかっ腹を立てながらそれでも頷く。自分がどうしてこんなところに閉じ込められているのかわからないのだから。満足そうに雀は喋り始めた。


『鬼卵石を狙っておるのは雑魚ばかりではない……おまえの友人の人間ですら、それには気づいていただろう?』


 こいつどこから盗み聞いてたんだと思う間もなく、緒方の声が甦る。


 ――化け物同士の。


『鬼卵石がおまえの眼に飛び込んだ時、真っ先に動いたはあの王母の(いぬ)だ。おかげであの周辺におったものどもは標的を見失って、おまえと似た背格好の人間を襲ったようだがな』


 やはり一連の事故は私を狙ったものだったのか。知らず眉が寄る。


『おまえはこの辺り一帯の標的となった。おまえは気づいておらんだろうが、おまえが意識している以上におまえは命を狙われたのだぞ。それがことごとく失敗に終わったのは、あの王母の狗や聖娘子らが邪魔をしたせいだ。幾度となくな』


 緒方の読みは正しかった。複数回、事故に居合わせることは偶然ではなかった。


 そこで助かったことも偶然ではなかった。


 ――化け物同士の、邪魔のし合い。


 そのものズバリだったのだ。


『聖娘子も王母の狗も、うすうす互いの存在に勘づいてはいたようではあったがな』


「王母ってなんなのよ」


 さっきから出てくる言葉だが、私は知らない。何も知らぬ小娘よ、と心底馬鹿にした口調で雀が言う。私は内心腹を立てながら指を折った。


 ――今からおまえが馬鹿にした回数を数えてやるからな。


西王母せいおうぼすら知らんのか。崑崙(こんろん)に住まう仙女どもの首魁だ。首魁という表現をすればあの狗は怒り狂うだろうがな』


 シュカイってなんだろう、と私は思った。ここで聞くほど私もお馬鹿じゃない。


 ……後で緒方に聞いてみよう。


「先輩がその西王母の狗ってどういうことなのよ。手先って意味なの?」


『文字通りだ。あやつは王母の手先、おそらくは(こう)という妖仙だろう。あるいは(こう)という獣精かもしれんがな。いずれにせよ敵に回せば手ごわいやつよ』


 コウコウ言われてもわかるか、と私は不貞腐(ふてくさ)れる。こいつは私が分からないと思ってわざとこういう喋り方をしているのか。


聖娘子せいじょうしは言わずと知れた聖姑姑せいここの末裔だろう。あれもやたら残虐だ。かつて、あやつは強大な力を持ち、目的のためとあらば、妖人問わず、対峙するものを問答無用でほふっておった。敵に回せばどちらも面倒なことになる。……だが、さきほどは好都合だった。あれらが対峙し、極度に緊張していたせいで、気が逸れたのが幸いだった。あれを待っていたのだ。機を見ていたのは正解だったな。こうして鬼卵石をかすめ取ることができたのだから』


 ケケケと雀が声を立てる。


「……ちょっと待ってよ。それって、佐久間先輩と聖さんのほかにも私を狙っていた妖怪がいるってことよねつまり……あんたみたいな」


 先輩が最後に不思議がっていた光景が浮かぶ。


 ――私が放ったのは鯱のみ。黒眚だの鎌鼬だのというのは?


『つまり、が何だ。……呆れるほどに理解の遅い娘だの』


 ブチっと頭のどこかで何かが切れる音がしたが、とりあえず、指をまた折る。


 ――こいつ、いつか焼き鳥にしてやるからな!


「要するに、黒眚とか鎌鼬とか……お前みたいなやつを私に襲わせていた黒幕が別にいるってことでしょ!」


 たのしそうに雀は鳴いた。


『おまえは本当に学習能力もない、哀れな娘だ。なのに人一倍強運だ』


 さっきは運が悪いといっておいて、今度は強運と来たか。どっちなんだよ。


 どっちにしても馬鹿にされていることには変わりない。


『鬼卵石を眼に宿したまま普通の生活をするなど、通常の人間ではあり得ぬ話。それをやってのけているあたり、もう運とも呼べるシロモノでもないやもしれん』


 運じゃなかったらなんだというんだ。私はいいかげんにこの雀のひとりよがりのお喋りにうんざりしてきた。


「あのね。私はとっとと眼に残ってる鬼卵石とやらを取ってしまいたいの。取ったあとの石ならあんたらにあげるからさ、もういいかげんにここから出してくれない?」


 雀はびっくりしたように口ごもり、ほう、と感嘆を漏らした。


 え? と私は手を頬に当てた。


 ――何、なんか私、鋭いことでも言いました?


『……驚いた。かつてこれほどの阿呆(あほう)にはお目にかかったことがない』


 二、三本まとめて血管が切れた。折っていた指を全部拳に変えて、扉を叩いた。


「ふざけんなっ! いいかげんにここから出しなさいよ! なんなのよあんたたち!」


 罰当たりだとは判っているが、思い切り扉を蹴り上げる。だがもちろん、その程度で開くはずもない。


 ばさばさと羽音を立てて戻ってきた雀は、妙に厳かな口調で言う。


『鬼卵石を普通の石と思っておるあたりが愚かだ。王母の狗めが言わなんだか? それは既におまえの右眼と癒着しているのだと。瞳が変色しているのがその証拠』


 私は思わず右眼を隠した。


 ……癒着?


『満月に鬼卵石は孵化を始めるとは聞かなんだか。鬼卵石は既に癒着し、おそらくはおまえの目玉を新たな殻として選んだのだろう。孵化したての鬼雛ならば、十分なる力を得ることが出来ような』


 ぞくりとする。眼を手で押さえたまま、私は後退した。


 ――見られている。


 視線を感じる。その視線は、四方から私を取り囲んでいるようにもみえる。


 ――見張られているのだ、こうしている間も。


 背筋に冷たいものが走る。


「あんたなんなのよ! 私をどうするのよ!」


 雀は愉快だと言わんばかりに甲高い声をあげた。


『ゆっくり恐怖を味わうといい。そのうち、それ鬼雛がおまえの眼を食い破って出てくるだろう。儂はその瞬間こそを待つためにここに居るのだ』


 どん、と足で扉を蹴る。雀は気に触る声で鳴きながら飛んでいった。


 ――鬼雛がおまえの眼を食い破って出てくる。


 おぞましいその想像に、私は思わず大声をはりあげた。


「嫌だあー!」


 緒方の言う通り、やっぱりまっすぐに家に帰って鍵かけて寝るんだった、と叫んでから私はその場に突っ伏した。


                 ※※※


 これだけ切羽詰った状態でも身体は正直だ。


 私は自分の腹の音で起きた。


 思えば昼から何も喰ってない。そういえば水一滴飲んでないのだ。


「おなかすいた……」


 緊張感のない台詞だとは思うが、実際空いているのだからしょうがない。口に出したところで、喰われる恐怖がこれ以上増すわけでもない。


「くっそー、こんなことなら緒方の見舞い、全部食べればよかった!!」


 和歌子ちゃんが剥いてくれた林檎には結局手をつけていない。


 悪態をついて、私は右眼を押さえた。鏡もないうえに、薄暗い空間だからどうなっているかはわからないが。


「生きてんの……これ。マジで?」


 問い掛けてみるがもちろん返事などはない。


 先輩はわからないと言った。だが、あの雀は既に癒着しているという。


 どちらにも共通しているのが、虹彩の変色だ。


 痛みもないし、熱もない。何の不都合もない。だけど、ただひたすら気味が悪かった。


 先輩はわからないといった。違うかもしれないと。


 せめて先輩の言う通り、鬼卵石の力を取り込んでいるだけならいい。孵化しないのなら。


 だけど、もし。


 ―本当に孵化するのなら。


「冗談でしょ!」


 第一、食い破ってくるなんてグロすぎる。エイリアンばりじゃないか。あんなスプラッタを自分の身で体現するなんて。考えただけでもぞっとしない光景だ。孵化したとして、じゃあその後、私の眼はどうなるわけ?


 ――私の体は? 命は?


「和歌子ちゃーん、緒方―」


 自棄になっていたのかもしれない。名前を出した瞬間、涙があふれてきた。


「わーん、和歌子ちゃーん! 緒方ァー! 助けてよう!!」


 声を限りに叫び始めた。


「冗談じゃないよ、なんでこんな現代で、私ひとりが妖怪に食われないといけないのよ、私が何をしたっていうの、事故に遭っただけでも充分不幸じゃないのよ!」


 喚き始めると止まらなかった。


「何度も事故に遭ったり妖怪につけまわされたりされた挙句に眼に鬼が宿っててそれが食い破って出てきたら別の妖怪が私ごとそれを食べちゃうだなんてそんな馬鹿で理不尽な話がいったいこの世のどこにあるってのよ私の青春と未来はこれからどうなるのよお!」


 学生時代にたくさん恋愛をして、頃良いところで可愛いお嫁さんになって、若いうちに三人くらい子ども産んで一緒に遠足なんか行って、都心に庭付き一戸建てを立てて、犬と一緒に川べりをジョギングしたりする、アクティブなママになるのが夢だったのに!


「結婚どころか、恋愛もロクにしないままで妖怪に食われてどーすんのよ、私が強運だって言うんならちょうどいいところで助かるのが定石なんじゃないの!」


 映画や小説、漫画やアニメ、全部ヒロインは最後に救出されてるんじゃないの。


 人知れず眼から鬼が孵化して、しかもそれごと別の妖怪に食べられる――なんて結末の悲劇があってたまるか。


 涙をぬぐう。両サイドの窓を見上げた。


 どう考えても、この暗さは夜だ。疑いようもない。更にムカつくことに、あれだけの雨は止んでおり、うっすら外が明るいのがここからでもわかる。ぞっとした。


 ――満月の夜を境に。


 思わず眼を押さえる。


 ――月が昇り始めたのだ。


 産毛が逆立つ。


「冗談じゃないわよ!!子どもがこんな夜遅くまで帰ってないんだもの、探しにくらい来るわよね、ママァ、パパァ!!」


 ――今日は私も夜勤入っちゃったから、お留守番お願いね。パパはどうせ午前様だから先に寝てて。明日の手術はママがちゃんと付き添うから。


 唐突に昼間の母親の言葉を思い出す。


「わあ、もうママの馬鹿!!」


 家は気持ちよく無人だ。ということは誰も心配なんかしないあまつさえ探しにもこない。


「人知れず喰われてたなんて、やーだーあー!!」


 最悪だ、と私はじたばたした。


 窓にはもう雀もいない。私が出られるわけもないとたかをくくっているのだろう。こうなったらご近所に響き渡るほどの大声を出してやる。


 誰か、来るかも知れないじゃないか。


「誰かたすけて、たすけてください!! 黒田華緒はここに居ます。化け物に狙われてます! だれか助けて!」


 自分で言っててバカみたいなセリフだし、誰も信じてくれないだろうが、声を限りに叫ぶしか方法はない。


 声が嗄れてきた。だが叫ぶのを止めたとたんに化け物が入って来るような恐怖があった。


「お願いだから助けて! 和歌子ちゃーん、緒方―。佐久間先輩―!」


 佐久間先輩も私を狙っていたひとりだけど、こうなったらもう誰でもいい。


「助けて、助けて、助けて!」


 叫びながら、私はその名を呼んだ。


「ひじり、さんっ……」


 あの時の傷ついたような表情が甦る。佐久間先輩の病室で。本当は、緒方や佐久間先輩の言うとおり、私を騙していたのかもしれない。信頼を勝ち得、油断させたところで襲うつもりだったかもしれない。けれど。


『華緒が無事でよかった』


 助けてくれたのは事実だ。何度も、何度も。


「聖さん、いえ、聖娘子さんー! あれ、聖姑姑だっけ?」


 記憶はうろ覚えだ。


「ええい面倒だ、とにかく聖さんー!! 聖さん聖さん聖さん!! 助けて!」


 黒眚から私を守ってくれたように。虎の化け物をくらったあの頼もしさで。


 虫のいい願いかもしれないけれど。


「もう一回だけ、お願い、助けてえー!!」


 声を限りに叫んで、私はわあああとそのまま泣き出した。


「死ぬなんてやだあー……」


 ドン、とその時、外で大きな音が聞こえて、私はぴたりと泣きやんだ。


「……何事」


 化け物が来たのだろうか。


 ドン、ゴトンと音がして、突然、扉が開いた。


 恐怖に息を止めた私に、その細身の影が口を開く。


「やかましいお姫様だの。外まで筒抜けだ」


「聖さんっ!!」


 満月を背負って―。


 銀髪の美女は、黒いシルエットの中で凄みのある笑みを浮かべたようだった。



 満月がこれほど明るいとは思いもしなかった。


「遅くなってすまなかった。あのあとここにも捜しに来たんだけれどわからなかったのだ。……結界に閉じ込められていたのだね」


 結界の意味がわからなかったが私は頷いた。あの社は、本当に私を閉じ込めていたから。


 よろよろと明るい境内に出てきた私はぎょっとした。


 あちらこちらに獣の死骸が転がっている。ほとんどが黒眚のものだ。何匹も斃れている。


「人遣いの荒い」


 ぶつくさいいながら月下に現れたのは佐久間先輩だ。声をかけようとしてぎょっとした。


 先輩の白い頬にはたくさんの血が飛んでいる。服にもだ。


 なかでも腕は血に濡れて肘から先は真っ黒に濡れている。


「ああ、そこにいたんだ黒田さん。大丈夫?」


 先輩の端正な顔が不意に恐ろしくなる。思わず、聖さんの後ろに隠れた。先輩は肩をすくめた。


「困ったな。聖娘子が君を騙していたと知っても、まだ君は彼女を信用するのかい? 彼女は君の鬼雛を狙ってるんだよ?」


「……言った筈だよ小僧。私は華緒を守りたいだけだとね」


 勝ち誇ったように聖さんが言う。


「狐は嘘が上手いからなあ」


 先輩が不用意に片手を振った。そのとたん獣の生首がこちらに転がってくる。私は悲鳴をあげた。


 どうしてこの人たちはこう……。


「さて。あらかた片付けはしたが、これで終わりじゃないんだろ?」


 先輩は聖さんに聞く。彼女は顎で示した。


「ほれ、(おく)(すずめ)が騒いでおろう」


 慌しく、眼の前を飛んで過ぎるのは、さっきの雀だ。


「送り雀っていうんですか、あれ」


 思わずたずねる。


「そう。日本の土着の妖怪でね。これが出ると、ほどなくして化け物が現れるという凶兆の先触れとしても知られている」


 先輩が解説する。


「僕も聖娘子も大陸から来ているからね。土着のものには詳しくないんで見逃していた」


 不覚だったよ、と少し悔しそうだ。


「それにしても、先輩も聖さんも、どうして一緒にここへ」


「黒眚や鎌鼬を使った妖怪を仕留めるまで、一時休戦しているのさ。業腹だけどね」


 こっちも仇と馴れ合うなどまっぴらだが、と苦々しく聖さんが言う。先輩も微笑んで頷いた。


鷸蚌(いつぼう)の故事を地でやられた報復はしないとね」


「……なんですかそれ」


漁父(ぎょほ)の利、だよ。まだ習わなかったかな?」


 あの雀と違って、先輩は優しく聞く。その顔が蕩けるように素敵で、妖怪じゃなければなあ、と未練が一瞬、顔を出して、慌てて私はそれを打ち消した。


 不意に生生しい風が吹く。もはやなじみともなった強風に聖さんの腕にしがみついた。


「……鎌鼬が来たようだね」


 舌なめずりして、聖さんが袖から刀を抜いた。


「離れておいで、華緒。怪我するよ」


 聖さんがいきなり走り出す。境内の背の高い木に向かって。


「あんなところに!」


 鎌鼬の渦が見える。木のてっぺん付近だ。


 聖さんへ向かって鋭い風を送っているようだった。


 ひゅん、と一条の風が、聖さんの頬を切り裂く。


 弾けるように飛んだ血には頓着せず、聖さんは嬉しそうに木へと飛び上がる。


 その渦の中心へ突っこんで行った。

 

 その勢いを風では殺せないと踏んでか、鎌鼬は渦を上空へ巻き上げて逃げようとする。


「逃がしませんよ」


 いつの間に上ったものか、同じように木の上に居た佐久間先輩が、手を振った。別方向から昼間の鴆が現れる。羽ばたいて風を送り始めた。


「病室では狭さに風を封じられましたからね」


 先輩は腕を上げる。さらに風が強くなった。確かに鴆の起こす風は思ったより大きい。これを病室でやられたら、確かに部屋が壊れていたかもしれない。


 下にも風の余波は凄い。転がっていた黒眚の死骸が風で一斉に土の上を転がりだした。


 私は社の階段の陰に滑り込んで、階段に爪を立てているのがやっとだ。


 さらに上空に逃げようとしていた鎌鼬は鴆との風が拮抗する形になり―つまりその場に留まった形となった。


 聖さんはその瞬間を見逃さなかった。


 ギャアアアと夜をつんざく悲鳴があがる。聖さんが壮絶に綺麗な顔をしたまま、刀を二本、渦の中心に突き刺していた。


 急激に辺りの風が収束する。軽やかに降り立った聖さんと先輩の傍へ、力なく上空から落ちてきたものがある。


 ――一匹の獣だった。


 身体の半分はいたちだ。だが半分は鳥にしか見えなかった。鋭利な嘴。心臓と片眼につき立てられた刀を引き抜いて、聖さんが周囲を睥睨へいげいする。


「さあ残った蚍蜉(ひふ)はどこのどいつだえ。どうせ高見の見物をしていたはず。出ておいで!」


 聖さんの声が響く。


「困りましたねえ、こんなに暴れられては。異国の方はまったく礼儀を知らない」


 いっそ穏やかな声にぎょっとする。


 鳥居から石畳を渡ってまっすぐに向かってきたのは杖をついた禿頭(とくとう)の小さな老人だった。


 私は拍子抜けした。


 ――誰よ、この爺さん。


 場違いすぎる。人違いじゃ、と聖さんの顔をみると、彼女の顔からは笑みが消えていた。佐久間先輩は微笑んではいるが、肩に止まった鴆が小さく黒煙を吐いている。警戒しているのだ。


「いやはや、こんばんは。お揃いのようですな」


 人を食った物言いだ。聖さんが睨みつけた。


「嫌らしく華緒を攫った張本人だね。何度も使役を(けしか)けたり、送り雀を張り付かせたり。好き勝手をしてくれたものだ」


 ほほほ、と老人は甲高い笑い声を上げた。嫌らしい、その声。思わず顔をしかめた。


 ――あの雀そっくりだ。


「好き勝手とは聞いて呆れますな。その鬼卵石を宿した娘がさもご自分のものかのような」


 聖さんは唇の端をあげる。


「脇から卑怯な手で(かす)め取っておきながら、盗人猛々しい物言いかえ?」


 ほう、日本の故事もよく御存知だ、と老人は頷いた。


「漁夫の利を得た、と申されるかな。儂は至極正当な遣り方をしたまでのこと。鬼卵石は先に食したものの勝ち。それ以上でもそれ以下でもありませんでしょう」


「……確かに。でもならば現時点では僕たちも正当化されますよね? 僕たちは真っ当な遣り方で鬼卵石を取り返したのだから」


「勝ち誇られるのはお早くないかな、お若い方」


 老人はカッと眼を見開いた。


「お二方は日本(こちら)の流儀を覚えた方がよろしかろう。即ち」


 とん、と爺さんは杖をついた。とたんに地面がぐらりと揺れる。


「認識の不足。ここが誰の住処(テリトリー)であるかということ」


 地面がいきなり鎌首を擡げた。


「華緒は私につかまっておいでっ!」


 聖さんが叫ぶ。私は聖さんへ向かって走ろうとして―不意に前方が坂になった反動で転んでしまった。


「華緒っ!」


 走りよってきた聖さんに、その時佐久間先輩が叫んだ。


「聖娘子!」


 気づけば、蛇の胴体が私に巻きつくところだった。聖さんはとっさに私を突き飛ばす。


 次の瞬間。


「しまっ……」


 聖さんの両手から刀が抜けた。彼女の細い身体に完全に巻きついた蛇。助けに走ろうとした佐久間先輩もまた足を取られ、胴体に締め付けられた。


「うそ、でしょ……」


 私は眼を瞠った。


 蛇は巨大だ。胴回りがたぶん三メートルはあるだろう。だがそれがそれぞれに巻きついているのはわかるとして。


「どうして頭が二つもあるのよ!!」


 聖さんに巻き付いて、今にも呑もうとするかのような巨大な蛇の頭。同じように佐久間先輩に巻き付いているのも、蛇の頭。


 うごめく長さは途方もないものだが、どうみても尾がない。


「し、枳首蛇(ししゅだ)だね」


 佐久間先輩が、苦しげな声で言う。


「御存知とはまた、博識ですな。もっとも、中国(そちら)両頭(りょうとう)()ではなく、日本(こちら)のものですがね」


 老人は愉しげだ。


「片方の頭、は、に、偽物だ」


「ほう、そこまで御存知か。でもそれがどちらか試してみますか? どちらかはその場で死ぬことになりますが」


 ま、そこでしばらく苦しまれるがよろしい、と老人は笑う。


「その間に、ほれ、月も登った。そろそろ孵化するだろう鬼雛をいただくことにしましょうか」


 舌なめずりをする、妙に長い、赤い舌が気持ち悪い。


 小柄なその影はゆっくりとこちらへ近づく。私は立ち上がれない。腰が抜けたのだ。


「来ないで……」


「そんなに怯えずとも。なあに、痛みは一瞬ですって」


 嫌だ、と首を振って、私は後退する。ふいに、その手が、何かをつかんだ。


 ――聖さんの刀だ。


 細身だった。二口(ふたふり)の刀のひとつだ。柄の部分はガラスのようなエナメルのような、凝った作りで出来ている。


「来ないでったら!」


 私はその刀を摑み、がむしゃらに動かした。老人は躊躇なく歩みを進めている。


「来ないでよ!」


「ムダですって」


 いやらしく笑った。突き出した一本の刀にまっすぐに進んでくると、そのまま胸に刀の切っ先を飲み込ませた。


 肉を裂く感触が伝わる。


「嫌アアア!」


 思わず柄を放すと、老人は苦しむ様子も見せず、それを抜いて地面に放った。


「度胸もないのに、刀なぞ振り回しちゃいけません。女子(おなご)は従順なのがよろしい」


 来ないで、と私は無理に腰を上げると、そのまま駆け出した。


 チチチ、と雀が足元に寄る。


『無駄だと言っておろうが。愚かな娘よ』


 老人と同じ声で喋っている。ガチガチと歯を震わせながら、私は聖さんを眼で追った。


 聖さんも、先輩も、悲痛な声を上げ始めている。


「聖さんっ! 佐久間先輩!」


 聖さんが不意に絶叫した。鈍い音がここまで聞こえる。


「骨が折れましたかな。妖力も封じてありますから、無駄な抵抗など無意味です。あっさり死ぬのが利口ですぞ」


 嬉しげな老人の声、観念しろという雀の嘲り。だが、次の瞬間、老人の歩みが止まる。


 一瞬遅れて、サクッ、と地面に突き立ったもの―。眼を瞠った。


 銀色の光。簪の。 


「……聖さん」


 胴をおぞましい蛇に締め付けられながら、唇の端から血を流して、彼女は老人を睨みつけていた。


「華緒、に、手を、出すでない。華緒、お逃げ」


 必死の思いで、(かんざし)を投げたのだろう。老人の頬がすっぱりと切れていた。


「聖さんっ!」


「逃げるんだ。華緒、おまえは生きて……」


 老人は私に背を向けた。


「しぶとい女狐め。ならばまずお前から始末してくれる!」


 老人の声が凄みを帯びた。巨大な蛇はその直後、勢いを増して聖さんを締め付け始めた。


「うああああああっ!」


「やめてええええっ!」


 その絶叫に被るように私は叫んだ。だが、直後、聖さんはがっくりと上半身を折り、ぴくりとも動かなくなった。


「ひ、ひじ……」


「噂には尾鰭(おひれ)がついておったようだの。伝説の聖娘子すらこの程度か。他愛もない」


 老人はそのまま佐久間先輩に向き直る。


「そちらは少しは骨がありますかな」


「さあて、どうだろうね」


 うそぶく佐久間先輩の顔からも血の気が引き、口元には血のりがついている。ぎり、と再び蛇が動いた。


「おねがい、もうやめて……」


 私はボロボロと涙を流していた。


 うわああ、と佐久間先輩が声を上げる。


 なぜこんな理不尽な目に遭うのかとか、恐怖とか、聖さんたちへの思いとか。そういう気持ちがないわけではなかったが。


 その瞬間――全部、吹き飛んでいた。


 頭にあったのは純粋な怒りだけだ。


 ――こんなことがあっていいはずがない。


 声を限りに叫んだ。


「もうやめてえっ!」


 次の瞬間、辺りに閃光が走った。


               ※※※


 光ったように感じたのは私だけだったのかもしれない。


 脳裏に光が溢れた。それは右眼から発されたものかどうかは私にもわからない。閃光が視界を奪い、すぐに消えた。


 巨大な枳首蛇は光が消えるとともに掻き消えたようだった。


 辺りに漂う夜の気配――土に落ちる満月の光。


 ゆっくりと視力が戻ってきた。


 老人が杖にしがみついている。聖さんは地面に投げ出され、佐久間先輩も、さすがに膝立ちで咳き込んでいる。


 私は自分の身体を見おろした。みんなが苦しんでいる。だが、私はなんともない。


 今――何があったのだろう。


「……孵化、したようだな」


 老人の表情が一変していた。


 血走った――と表現するには赤すぎる眼。その大きさもぎょろりと半ば飛び出したような形で、明らかに尋常ではない。


「なんと……これは鬼雛だ。間違いない。おお長年生きてきて、これほどの僥倖(ぎょうこう)にめぐり遭おうとは」


 よろよろとよろめいた老人が怖くて、私は後退した。


 ――しようとした。


 私の身体は、しかし私の意志を無視して、聖さんの刀を拾っている。


「黒田、さん……?」


「鬼雛を……あの方よりも儂の方が……鬼雛を寄越せ」


 老人の不気味な声が耳に障る。だが私の身体はそのまま刀を構え、彼のすぐ脇を歩いて通りぬけた。


 足が勝手に動いていく。


 どうやら飛ぶことも出来ずにいるらしい雀に近づく。


 雀は必死に逃げている。


「……ちょっと、待って、待ってなにこれ!」


 叫んだのは私自身、私の口だ。だが刀を持った私の手は、躊躇することなく、雀に向かって刀を投げつけた。


 思わず眼を閉じたが、閉じるのが遅かった。


 あやまたず――刀は雀に突き刺さる!


「うおおおおおっ!!」


 そのとたん、誰かの咆哮にはっとして振り向いた。


 お爺さんが膝をつくところだった。口から血泡を吹いている。


「お……のれ。おのれ、小娘。よくも、よくもオオ」


 ぐずぐずと呪いの言葉を吐きながら、お爺さんはその場に崩れ落ちていく。


 おぞましいその光景に眼を閉じることもできない。


 泡がお爺さんを溶かし――あるいはお爺さんが泡となり。やがて、紐のようなものが、その泡の中に残っているのがここから見えた。


 顔を戻すと、まっすぐに地面に突き刺さっていた刀の下に小さな影が落ちていた。


 刀が地面に縫いとめているのは、掌ほども大きさのある――蛇の首。


 いきなり、リリリ、と虫の声が辺りに戻ってきた。


「黒田さん!」


 佐久間先輩が走ってくる。


 私はそのまま膝から崩れて落ちた。黒田さんと呼ぶ声が遠くなるのがわかった。


 ――仰向けになった瞼の上に、強烈な満月の光が当たるのを感じながら。


 眼を覚ましたのは、母親の声でだった。


「手術の時間変更になったんでしょ、急がないと間に合わないわよ!」


 その瞬間に、跳ね起きて、私は自分の身を確認する。


「パジャマ……」


 パジャマを着ている状況が、昨日の記憶と結びつかない。


 昨日、どうやって帰ってきたのかも記憶にないのに。


「……夢?」 


 見ると机に携帯の入ったバッグも置いてある。佐久間先輩の病室においてきたはずの。


「なんだ」


 私はちょっと笑った。


 私、昨日出かけなかったんだ。てゆーか。


「夢だったんだ昨日の! そうだよねえ……」


 そうだよそうだよ、と私はケタケタと笑った。バッグに手をつっこんで、領収書を発見するまでは。


「えーと、これはこれは緒方のお見舞いに持っていったフルーツ屋の」


 ついでにこっちのレシートは、佐久間先輩のブーケのレシートだ。


 しばらく固まってから、ぱん、といきなり手を打つ。


「そうそう、お見舞いには行ったのよ。それで帰ってきて、寝たんだよ、私」


 緒方にも帰って鍵かけて寝ろって言われたんじゃーん、と呟きながら、椅子にかけた、昨日のTシャツを取りあげる。


 ――一面に土の汚れと、何者かの返り血。


「えーとこれは……」


 さすがに解説に困ってから、私ははっとして鏡に向かった。


 ――右眼。


「……変わってない」


 嘘、と泣きそうな声が出る。


 右眼の虹彩は緑のままだった。しかもそれが暗い緑へと変色している。


「もう勘弁して……」


 昨日のアレが現実だったなんて、それを信じたくはない。というかもう何も思い出したくない。


「華緒、急ぎなさいって!!」


 母親にせかされるまで、私はベッドに腰かけていた。


 三度目のヒステリックな声にようやくのろのろと着替えに立ち上がる。


 その間のため息の数は、両手両足じゃ足りなかった。


               ※※※


 引き立てられる罪人のように足取りも重く引きずられて行った先で、相変らず無意味にご機嫌な若槻先生は、さっそく手術しましょうねえ、と私の背を押した。


「点眼麻酔だから、ほんと痛みないから。大丈夫だよ」


 頷いて手術台に上る。


「よかった、華緒ちゃんが無事で。実はちょっと心配だったんだよね」


 手早く手術の準備をしながら先生が言う。


 ――無事じゃなかったんスけど。


 言いたかったが、看護士さんたちがいるので我慢した。


 片眼だけ開いた、緑のシートを顔に掛けられる。


 右眼だけがぱっちりと先生を見ている形で、左眼には緑色のシートが映っていた。


「じゃ、麻酔しますね」


 看護士さんが目薬麻酔を落としてくれた。ただの目薬だ。確かに痛くもなんともない。


 先生の手にもった、銀色のピンセットが怖かったが、実際に近づいてくるピンセットはだんだん焦点がぼやけるもので、実際眼になにかされているなという程度だった。


 ただ瞬きをしない自分の眼というのを始めて認識した。これが点眼麻酔の効果なのだろうか。


 時間にするとほんの数十分だったと思う。


 自分でもあっという間に終わった感がある。


「はい、これで終了―」


 ピンクの眼鏡の奥で先生の眼が和らぐ。


「夜に、麻酔が切れてから少し痛むかもしんないけど、大丈夫だからね。そのためにほら、目薬の大盤振る舞い」


 何が嬉しいんだ、と突っこみたくなる明るさだ。だがそれに安堵したのか、母親が深々と頭を下げている。


「華緒ちゃん」


 先生は母親が看護士さんたちにお礼のお菓子を配っている隙に、ひょこひょことこちらへやってきた。


 久しぶりにした眼帯のせいで、私は眼を細めて彼の姿を見上げた。


「大丈夫だったんだ?」


 なんとか、と曖昧に濁すと、先生は少し疑わしげに私を見つめた。


「……どうしたんですか?」


「華緒ちゃん、気づいてなかったんだ。……左眼も虹彩の色が変わってるんだよ」


 嘘、と声が大きくなった。訝しげにこちらを見る母親になんでもない、とお愛想の笑顔を振り撒いてから、先生に鏡を見せてもらった。


「……マジかよ」


 出かけに鏡を見たときは右しか気にしていなかった。だが、今こうして覗ると確かに両眼の虹彩が、濃い緑になっている。


「……これって、もう元には戻らないんですか?」


 わからない、と先生は難しい顔をした。


「視力回復が先決だけど、虹彩は……どうしようもないな。おいおい時間をかけて戻って行くかもしれないし、戻らないかもしれない。気になるようならコンタクトでカバーすることは出来るけど。ああ、そうだ、これ」


 先生は透明なビニールに入ったものを渡してくれた。手術前に頼んでいたものだ。


「眼に残っていた鬼卵石の残りだよ。本当にほんの僅かだろ?」


 ピンセットを使ったわけがよくわかる。肉眼でも本当に僅かとしか思えないくらいのカケラだった。


「でも大丈夫かい、こんなもの持って。また狙われたりしないのかい?」


 大丈夫、と私は頷いて見せた。


 ――孵化しちゃってるんなら、これはもうただの抜け殻でしかないから。


 先生は私の表情から何を読み取ったのか、何かあったらいつでもおいでとしつこいくらいに繰り返していた。


                 ※※※

 病院を出て、とぼとぼと歩いた。足が重い。


 眼を怪我してから、わずか十日。たった十日で、私の人生は大きく変えられてしまった。


 ため息をついて歩き、ため息をついて立ち止まる。足取りが重いのは仕方がないだろう。


 買い物をして帰るという母親と別れてやってきたのは百武神社だ。


 ここに来たのは、目的があったからではない。足が自然に向いたのだった。


 昨日の惨状を見たくはなかったが、いざ、鳥居をくぐると、そこはいつもの神社の境内だった。どこにも血痕だの、生首だの、鳥や鼬の死骸などはない。


 嘘のように、夢だったかのように綺麗な境内。陽の光が染まり始めた黄色い葉に当たって眩しい。


「聖、さん」


 明るい陽射しの下、チュンチュンと言う雀を見ると、更に嗚咽が漏れそうになった。


 夕べの出来事は夢ではなかった。


 私は社に閉じ込められ、聖さんと先輩が助けにきてくれた。


 結界があったのだというが、それを破ることができたのは、私が彼らの名を呼んだせいなのか、鬼卵石の力なのかはわからない。


 そして枳首蛇に襲われ――私の眼は謎の光を発した。私の身体を私でないものが支配していた。そうして私はこの手で雀を殺した。それが枳首蛇の本体だったようだ。


 あの光は何なのか。そしてこの眼がどうなるのか。この身がどうなるのか。


 恐ろしいほどの不安を抱え――だけど誰も答えをくれない。


 答えをくれるはずの人が、いない。


「聖さん」


 嗚咽をこらえて、それでも涙だけ流しながら、私は足を進める。陽の光に、反射した銀色の鋭い光を捉えて。


 ――地面に突き刺さったままの簪へと。


 あの後、そのまま気絶した私を抱えて家へ送り届けてくれたのは誰だろう。聖さんではないのだろうか。


 朝から何度その名を呼んでも彼女は私の前に姿をあらわしてくれなかった。


 地面に投げ出された聖さんの姿。苦しみながら、それでも私を守ってくれようとしたその姿が甦る。


 謎は残っている。この身がどうなるのか。鬼雛は本当に孵化したのか。聞きたいことは山ほどある。けれどそんなことよりも。


 簪は深く地中に刺さっている。細工も美しい、細かい飾りは主の不在を察してか、風にも揺れず、音も立てず、ひっそりとそこに在った。


「私、聖さんにずっと言いたいことがあったんだよ」


 ずっと言いたかった。一度も言ったことがなかった。何度も命を守ってくれたのに。


 飄々(ひょうひょう)とした態度。そして毒舌。バカにしながらも、暖かく見ていてくれるような視線が恋しい。


「聖さんってば」


 出てきてよ! そう叫んでもどこからもそれに応える声はない。


 一度は疑った。傷ついたようなあの表情が心に痛い。私はそれを謝りもしていない。


 なのに彼女は助けに来てくれた。うるさいお姫さまだね、と軽口を叩きながら。


 その身を蛇に締め上げられながら、苦しみながら、それでも逃げろと彼女は言った。


『逃げるんだ。華緒、おまえは生きて……』


 生きて……その後なんと言いたかったのだろう。


『華緒が無事でよかった』


 最初から、何度もそう言ってくれる聖さんだったのに。


「聖さん」


 私は簪の前に膝をつく。直接言いたかった。なぜ一度も言わなかったのか。


 泣きながら私は口を開いた。


 

「ありがとう」

 


 まるで聖さんが応えたかのように、簪がシャラン、と風に音を立てた。


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