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【1】 4章 孵化

4章 孵化

 葦家市市民病院まで直通のバスはあったが、やはり前回の恐怖からか、乗るのが躊躇われて結局、私は自転車を使った。


 しかし、こう何度も事故に遭いトラウマが増えていけばそのうち、外に出れなくなるんじゃないだろうか。


 眼帯はつけてこなかった。わらわら湧いてくる妖怪を見たいわけはないが、見えないまま襲われるのも嫌だった。


 ――せめて、すぐに逃げられるようにはしていたい。


 それでもビクビクしながら電車に乗ったが、今のところ、特にあの化け物たちは見当たらない。本当に心臓に良くない。


 強い陽射しの下、アスファルトに浮かぶいくつもの黒い影に眼を上げると、傍の大木に雀だか小鳥だかが止まろうとしているところだった。


 実際、暑い。日陰を恋しがる気持ちはわかると苦笑しながら病院の坂を上がると、大声で名前を呼ばれた。


「華緒っ!」


 病院の大きな入口で手を振っている和歌子ちゃんが見える。五分丈のシンプルなカットソーにクロップドパンツに帽子。私は驚くより先に呆れた。


 どうしてこの段階で抜かりなく私服なのか。


「怪しまれるからに決まってるでしょ」


 当たり前のように彼女は言う。


「元々、今日はフケる気ではいたのよ。緒方のところに行くために」


 ドキっとして私は和歌子ちゃんの顔を見つめた。


「和歌子ちゃん……緒方って」


 和歌子ちゃんと私と緒方。三人とも小学校からの腐れ縁でここまで来たけれど、その中での恋愛沙汰なんか、一度もなかった。まったくなかったはずなのに。


 ――いつのまに、和歌子ちゃん、緒方のことを……?


 私の想像を察していないのか、和歌子ちゃんの顔は真剣なまま腕を組む。


「あいつ私のMP3持ってったままなのよね。あれがないと昨日出たばっかりの新譜、覚えらんないじゃない?」


 一週間だけっていうから貸してやったのに、と彼女は腕を組む。


 私は眼を瞬いた。


「え、MP3?」


「そうよ、自分で買えっての。ⅰpodでもなんでも。なのにいろんなところを確めてからじゃないと、とか言って私の借りるんだよね。昔MDの時もそうだった。最初は私の借りてから自分はさんざん吟味して一番いい機種買うの。しかも安くなってるやつ。それってズルくない?」


 私は姉さんらのお下がりなのに! と彼女は悔しそうだ。


「和歌子ちゃん、緒方の見舞いに来た訳じゃないんだ?」


「やあね、お見舞いよ」


 和歌子ちゃんは綺麗に笑う。


「メールで具合聞いたら、私のMP3は学校が持って来てくれた鞄の中にそのまま入ってるっていうからさ。だったらついでに返してもらおうと思って」


 利息は乾電池五本だったけど、それは後日でいいからさ、と悪戯っぽくウインクをする。


 私はホッとしたような、がっかりしたような、複雑な気持ちで苦笑した。


「なんだ。要するに取立てか」


「やあね人聞きの悪い。見舞いだってば。そうだ、いくら?」


 和歌子ちゃんは財布を出した。私は途中の商店街で買ったフルーツの詰め合わせを抱えている。これはワリカンで見舞いにしようとメールで取り決めていたヤツだ。


 一緒に病院に入ってから、和歌子ちゃんは私にどうする? と聞いてきた。


「佐久間先輩のところ、先に行く? 六階の六〇一一だってよ」


 行きたいけど、と私は首を振った。


「先に、緒方のところに行く」


 緒方は私を庇ってくれたのだ。私が最初にお礼をしなければならないのは彼のほうだ。


 そ、と和歌子ちゃんは嬉しそうに私の背を押した。


「……喜ぶわ、緒方」


 エレベーターは五階で降りる。採光の大きな窓が特徴的なナースステーションとホールを過ぎて歩くことしばし、奥の五○五室が緒方の部屋らしい。


 隣を歩く和歌子ちゃんがふと小声になった。


「気をつけてよね。隣の部屋、副島の部屋だそうだから」


「マジでっ!」


 それって最悪じゃん、と蒼ざめたとき、まさにその隣の部屋のドアが開いて誰かが出てきた。私たちは慌てて顔を伏せる。


 盗み見た上目遣いで、あちゃ、と私は声を漏らした。


 ――副島だ。


 すっぴんだが、大仏のような頭はそのまま。


 ちらり、とこちらを見たようだったが制服じゃないからわからないのかもしれない、急ぎ足で通りすぎてくれた。そっと首を巡らせば、トイレに入ろうとするところだった。


「危ない危ない」


 私たちは大慌てで緒方の部屋に飛び込んだ。怪しんだかもしれない副島が顔を出す前に、退散しなければならないだろう。


「よ」


 緒方はベッドに身を起こしていた。小柄な身体が着けているのは一見普通のパジャマだが、その背は包帯が巻かれているという。


 暑くてな、と彼は笑う。


「しかしわざわざこんな時間にくるなんておまえたちらしい。びっくりするじゃねえか」


 食事はとっくに済んでいたらしい。


 お見舞いの果物を対して嬉しそうでもなく(いつものことだが)受け取ると礼を言った。


 和歌子ちゃんが剥いてくる、と果物を手に出て行く。もちろん、副島の存在がないか、慎重に確めて。その仕草がおかしくて、緒方とふたりで軽く笑いあった。


「……悪かったね、緒方」


 謝った私に、彼は怪訝そうに首を傾げる。


「なんでおまえが謝るんだよ」


「だってさ」


「おまえが俺にモップをぶつけたわけじゃないじゃん」


 そうだけど、と私は口の中でもごもごと呟いた。


 緒方の眼にはいきなり突風がモップを押し上げ、それが向かってきたようにしか見えなかっただろう。


 ――だが、あれは私を狙っていたのだ。


 とっさに緒方が庇ってくれなければ、そうやってベッドに起き上がっていたのは私だったのかもしれないのだ。


 俯いて、繰り返すしかなかった。


「ごめんね」


「おまえさ」


 緒方は眼鏡の奥の眼で私を見据える。


「……何隠してんの?」


 え、と顔をあげる。


「運が悪い、って愚痴ることはあってもさ。あんな妙な風のことまで自分のせいにするほど、出来た人間じゃないだろ」


 ……どう聞いても貶してるようにしか聞こえないが。


「いや……でも実際、私は庇ってもらったわけだし」


 それは違う、と緒方はムキになったように声をあげた。


「俺はおまえなんか庇っちゃいない。おまえにぶつかってコケただけだ。そんだけだろ」


 心もち頬が赤いのは照れているせいだろうか。


「どうしたって、おまえが悪いわけじゃない。なのになんで、そんな気持ち悪く殊勝になってんだ? そんなキャラじゃなかったろ」


 ――気持ち悪くって、アンタ。


 緒方は腕を組む。パジャマから覗いた手首のあたりまで巻かれた包帯が痛々しい。


「学校じゃ事故も多いし。おまえの眼の事故を皮切りにな」


 どきりとして視線を泳がせる。


「眞山も心配してた。いつもの黒田らしくないって。なんでもすぐに自分に相談するのに、今回はそれがないってさ」


 緒方はまっすぐに私を見つめた。


「おまえ、隠し事なんかできねーだろ? 俺らが幼稚園の隣の家の木に登って、梨泥棒したときも、俺も眞山もシラを切ったのに、おまえだけ正直に白状したんだよな」


「あれは小学校の時だよ」


 そうだった、と懐かしそうに緒方は遠くを見つめる。


 本当は末っ子のくせにお姉さん気質の和歌子ちゃん、身体は小さかったけど昔から博識で、口では誰にも負けてなかった緒方。


 私は二人に守られるようにして遊ぶことが多かった。


 同じ幼稚園のスミレ組だった頃から、家の近かった三人で居ることが日常だった。


 小学校に入ってもそうだったし、緒方だけ先に頌栄館の中学に入ってからも時々は。


 緒方は不意に焦点を私に合わせた。


「――ゲロっちまえよ」 


 私は不意に笑いがこみ上げてきた。小作りの顔だが、物言いがおっさんめいている緒方。まるでお父さんみたいだ。


「……信じてもらえないよ」


 緒方は視線を私から離さない。


「おまえ、隠し事だけじゃなく、ウソも苦手だろうが。いいから話せ、判断は俺がするから」


 がらり、とドアが開いて、焦ったあといいながら和歌子ちゃんが戻ってきた。


「副島がウロウロしてるよ。カギ、閉めといた方がいいんじゃない、ここ?」


 緒方の部屋は三人部屋だったが、たまたま今はベッドが二つ空いていて、事実上緒方の個室のようなものだ。和歌子ちゃんはカギを閉めると、剥いてきた林檎を差し出した。


「ちょうどよかった。眞山も来たし。ほら、黒田」


 観念しろと緒方にせかされて、私はひとつため息をついてから、最初から話し始めた。


                ※※※


 ふたりは遠慮会釈もなく林檎をパクつきながら私の話を聞いていたが、それでも途中で遮ったりはしなかった。


 最後まで聞き終わると、和歌子ちゃんが近づいてきた。


「あの時に?」


 和歌子ちゃんが私の右眼を覗きこむ。あの時に―あの眼に石が飛び込んだ時に。

私は頷いた。


「入ってるんだって。その鬼卵石とかっていうのが」


 彼女は声をあげた。


「ほんとだ……よく見ないとわからないけど、虹彩が緑だわ」


(けん)()の力を手にいれた証拠ってことだな。なるほど」


 緒方がわかったように頭を振った。


「知ってるの緒方。見鬼眼って」


「中国の文献にあるんだよ。見鬼()、って言葉はないけどな」


 緒方が眉を寄せた。


「えーとあれだ、そう、たしか『漢書』だ。ある時、田氏という人が病気になり、体中が痛み出し発狂した。帝が視鬼者を呼んで見させたところ、田氏が殺した怨霊たちが祟って田氏を笞打って殺そうとしているのが見えた、という。だから体中が痛んだんだな。で、この場合、()鬼者(きしゃ)というのは(けん)鬼者(きしゃ)と同じ意味だ。巫覡(ふげき)の類だと思っていいかもしれない」


 なんだその文献。しかも巫覡? 初めて聞く単語なんですけど。


 緒方は馬鹿にしたように、本くらい読めよと言う。


 私は膨れた。そんな難しい本読めないことを知ってていうな。


「巫覡っていうのはかんなぎのことだよ」


「神社にいる巫女さんてわけね。おみくじ売ってる」


 おまえの巫女像とはちょっと違うけどな、と緒方が訂正しそうな顔で言うので、わかったわかった、と(なだ)めた。放っておくとこいつの説明は長くなる。


「一応、()が女性で、(げき)が男性だと言われてるけど……ま、同じだな」


 ねえねえ、と私は気になった事を訊ねた。


「その田氏ってどうなっちゃうの? その後」


 なぜそんなことを、と緒方が首を傾げる。


「死ぬんだよたしか」


 ぞっとした。


「視鬼者って助けてやらないの?」


「出来る人間もいるだろうな。それは見鬼ではなく(こっ)()とか辟鬼っていうらしい。見鬼とは別の能力だ。見鬼自体は道士や沙門(ぼーさん)に多いんだよ。鬼っていっても化け物のことだけじゃない。中国では、鬼って書いて幽霊のような存在を指す場合も多いんだけどさ。そういうのを見える人たちのことを見鬼人とか、視鬼者とかって呼ぶんだよ」


 ――鬼が見えるだけ。


『よしんば仮に見鬼であっても見るだけしか出来まい。力がなければそなたを守ってやることなどできはしないのだ』


 聖さんの言ってた言葉がここで初めて納得できた。


 あの風の化け物に襲われた時もそうだ。私にはただ見えるだけしかできなかった。


 助けてくれたのは結局聖さんだものな。


「おまえの場合さしずめ(こっ)(けん)()だな」


 不意の緒方の言葉に、考えていた顔をあげた。


「……黒見? なによそれ」


 和歌子ちゃんも眉を顰める。緒方は苦笑した。


「別に悪口じゃない。見鬼はよく名字を頭につけて呼ばれるもんなんだ。林さんなら林見鬼、って風にな」


「下の名前じゃダメなの? 華緒だから華見鬼とか。その方が字面綺麗よね。華があるわ」


「そういう問題?」


 私が顔をしかめると、二人は笑う。


「呼び方はまあどうでもいい。ただひとついえるのは、見鬼っていうのは珍しいわけじゃないってことなんだ」


「え?」


 ――珍しくない?

「言ったろ? 中国の文献には多いって。日本でも今でもよく言うだろ、幽霊が見えるとか見えないとかって。調べてみたらきっと、数としてはかなり出てくるだろうな」


「でも化け物は私の眼を狙っているって」


「だから珍しいのは、その鬼卵石ってヤツのほうなんだよ」


 瞬きをする。


「鬼が見えるようになったのは、あくまでオプションだ。カレーでいうなら、頼んでもないのについてくる福神漬けみたいなもんだ。メインはあくまでカレーなんだよ」


「……あんた、まだ福神漬けダメなの? 幼稚園からずっとじゃないの」


 呆れたような和歌子ちゃんを無視して、緒方は続ける。


「やつらが狙っているのは見鬼眼じゃない。鬼卵石なんだ。その鬼卵石がどれだけ化け物にとって旨いカレーなのかはわからないが……とにかく眼にあるだけで鬼が見えるようになるほどの厄介なシロモノだ。一刻も早く取り出した方がいいだろうな」


 そうだよと和歌子ちゃんも同調する。


「そんなもの、とっとと手術して取り出してさあ。早く安心したほうがいいよ。……でも納得したわ、事故にあったのがどうして頌栄館ばっかりだったのかってことにも。化け物たちは華緒を狙ってたんだね」


 無差別だよ、と緒方が笑いを引っ込める。


「性別や背格好なんかたいした違いはないんだろう。もともと化け物は目があまりよくない。匂いで区別するって言われてる」


「匂い」


 無意識に鼻を鳴らした。緒方が首を振る。


「人間の感じ取れる嗅気しゅうきじゃないから。……しかし、腑に落ちないな」


「……信じてくれないんだ?」


 愕然として呟くと、馬鹿だね、と和歌子ちゃんと一緒に緒方がハモった。


()に落ちない、のと、信じてない、は意味も言葉も違うのに、どうして早とちりするかな」


「日本語を勉強する必要があるぞ黒田」


 そんなに怒らなくてもいいじゃない、といじけてると、緒方が腕を組んだ。


「腑に落ちないのはいろいろあるぞ。整理するからよく聞けよ」


 はい先生。私は椅子に座りなおした。


 緒方が言うには、一連の事故には一貫性がないという。


「一貫性?」


「いいか? まず最初の事故……ああ、鬼卵石がぶつかった事件は除いてな」


「私と交差点に一緒に居たときの事故ね」


 和歌子ちゃんに緒方は頷く。スクランブル交差点で、車が突っ込んできた事件だ。


「そうだ。あれで黒田は鬼を見てるんだよな」


 ボンネットに乗っていた、子どもくらいの大きさの鬼。あれは見間違いでも気のせいでもなかったのだろう。


「その車は、どうして直前でおまえを避けたんだ?」


「え?」


 あの車は直前で曲がった。隣の歩行者信号機にぶつかったのだ。


「なぜおまえを轢かなかったんだ? 化け物の思惑通りに。普通ならそこで死んでるはずだろ?」


 私は黙った。


 化け物は明らかに私を狙っていたのだろう。だが、車は直前で方向を転換した。おかげで私も和歌子ちゃんも助かったわけだが。


「次の事故もそうだ。ふたつめな」


 佐久間先輩と緒方がバスに乗っていた時に起こった、玉突き事故の件。ドアの外

ひしめいていた無数の鬼たち。


「でもバスのドアが開いたら、いなくなってたんだよな?」


 うん、と私は頷く。


「次は神社。みっつめ」


 和歌子ちゃんが言う。


「犬の化け物に襲われたのよね?」


 そのとおりだ。黒眚しいという犬の化け物。危ないところを、聖さんに助けてもらった。


「その化け物に、その……聖? っていう化け物は、『使役か』って言ったんだろ?」


「うん。そんなこといってた」


 なるほどな、と緒方が小さく呟いた。


「まあいい。で、よっつめが屋上か」


「佐久間先輩が帰った後に、池から……虎が出てきたんだっけ?」


「最初は魚だったんだよ!」


 えーわかんないと顔をしかめた和歌子ちゃんに、緒方はシャチホコだな、という。


「それは名古屋でしょ」


(しゃちほこ)っていうのは、元は魚虎と書いていたんだ。今は一字でシャチ、と読ませるけどな。そもそもは中国にいた怪魚で、陸に上がると虎になったと言われている」


「……まんまじゃないの」


 和歌子ちゃんが驚く。


「で、それも聖さんが助けてくれた、と」


「ラスト、五つ目」


 緒方は他人事のように言う。


「廊下を歩いていたら、(かま)(いたち)が襲ってきた」


「カマイタチ?」


 たぶんな、と緒方は軽く背中を見るようにする。


「俺はいま仰向けでは寝れない。背中にいくつもの裂傷があるからな。うつ伏せで寝てる。その裂傷も、ガラスで切ったものじゃない。ガラスだとしたら恐ろしく高速で切られないと切れないような切り口だってさ。医者によると三十七箇所、深くて縫う羽目になったのが十箇所だそうだ」


 そんなに、と私は口元に手を当てた。


 おまえのせいじゃないって、と面倒くさそうに緒方がいう。


「何度も言わせるな。おまえ、あの時俺に逃げろっていったよな? 副島にも言ってたみたいだったけど。あれはおまえが見えてたからだろ?」


「そうだけど」


 透明で、風のラインが見えた。嘴のようなものをもっていて、金色の眼があって。


 明らかに私を見ていた。私を狙っていた。


「でもそいつは黒田を仕留めることができなかった。……俺が邪魔したんだろうけどな」


 緒方は折っていた指を開く。


「どうして化け物たちは、失敗したんだ? 最後はともかく、それまでの四件は全部、黒田を狙おうと思えば狙えた。殺すことができたはずだろうに。バスの時もだ。完全にあの時、あのバスは孤立してた。おまえなんか袋の鼠だ。数に任せて押しかければ間違いなく殺すことができたはずだ。なのに急に化け物たちはいなくなってたんだろ? おかしいとは思わないか?」

私は頷く。確かに……あの状況は袋の鼠だ。逃げ場もない。恰好の獲物だったろうに。


 そうよね、と和歌子ちゃんも首を傾げている。


「とはいえ化け物の攻撃はこれからはおまえひとりに集中するだろうな。今まで無差別だったときとは違う。やつらはおまえの匂いを覚えたのかもしれないし」


 不穏なことを緒方は言う。


「ひっかかるのは俺が巻き込まれた最後の一件を除く四件。いいか、共通するものがあるだろう?」


「何?」


 ひとつは、と今度は和歌子ちゃんが指を折る。


「どれもこれも失敗してること」


 そうだ、と緒方は肯う。


「おまえは現時点で無事だ。なぜ死んでいないのか。実際、最初の何回目かの事故で死んでたっておかしくないわけだろ、相手は妖怪なんだしさ」


 無事で悪かったな。死んでた死んでたって連呼するなよ。


「次に、聖っていう化け物が言ってた『使役』。この二つを足すと、解が出る」


 私にはその計算式が見えていない。なんだいったい。


 緒方はもったいぶって言う。


「――化け物同士の、邪魔のし合い、だ」


「同族間の足の引っ張り合い、だね」


 私よりも早く式を見つけたのだろう、和歌子ちゃんも頷いた。


「納得できる。そうよね、華緒の眼を欲しがっているのは無数、だけど手に入れられるのは先着一名だもの」


 取り合いにもなるわよ、と彼女は言った。私の目玉は懸賞品か。


「ある妖怪がおまえを殺そうとしても、そこに別の妖怪の邪魔が入ってたということだ」


 だから、おまえはそれで無事なんだ、と緒方は言う。


「これまではな」


「これまでは、って……これからは違うの?」


 珍しく察しがいいじゃないかと返された。ムッとするのも忘れて、私は訊ねた。


「どうすればいいのよ」


「いいか。過去の事例を分析するのには意味がある。必ず何かヒントがあるはずなんだ」


「傾向を知らなくちゃ対策もできないもんね」


 問題集か何かと間違えているような発言を和歌子ちゃんまでがする。


「なによ、分析だの傾向だのって」


「これまでの事故の中で複数回、登場してる人物がいるだろう」


 へ? と和歌子ちゃんと私は顔を見合わせる。複数回?


「まず、眞山な。最初の一回。次に佐久間先輩。バスと屋上。この二回な。」


「何いってんのバカー!! 佐久間先輩は巻き込まれたでけでしょ! 第一、先輩はあの時、屋上にはいなかったんだから」


 ムキになった私に、うるせー、と緒方は鼻に皺を寄せる。


「いいから聞け。バスの件に関しちゃ、俺もカウントに入るだろうが。で、その聖って言う化け物が、神社と屋上との二回」


「化け物っていうの、止めなよ。聖さんは私を助けてくれたんだよ」


 緒方は頭を掻いた。


「あのな。いい化け物、なんていないんだよ。良い悪魔って言ってるようなもんだぞ」


 良い悪魔なんだったらそれは天使って呼ぶしねえ、と和歌子ちゃんも同調する。


「でも聖さんは私の眼は目的じゃないっていってたし」


「……あのな。人だってウソはつく。お前は苦手かもしれんが、俺だって眞山だって、ウソはつく。むしろ得意だ」


 任せてよ、と変な自慢を彼女もする。


「化け物がウソをつかないって、誰が決めたんだ?」


 でも、と私は唸る。


「だったら満月まで外に出るなとかって言わないでしょう? 守ってくれるとも言ってるんだし」


「満月までに鬼卵石を手に入れる―そう言ったのは聖とかいう化け物だろ? いいか、言い出しっぺのいうことが必ずしも本当だとは限らない。また、その聖とかいう化け物が、本当はおまえの眼を狙っていないとも限らない」


 緒方はピシャリという。油断させてるだけかもねと和歌子ちゃんも私を見ながら言った。


 君たちは、人を疑うということしか知らんのか。……相手は妖怪だけどもさ。


「でも聖さんは助けてくれたんだよ」


「おまえの信頼を勝ち得るためかもしれないだろ?」


 緒方は一蹴いっしゅうする。


「同じ人間が複数回、事故に巻き込まれている。それが偶然ばかりとは思えない。まして、その中には、得体の知れないヤツもいる」


 まさか、その中に佐久間先輩をさしているんじゃないだろうな、と睨むと、緒方は思いの外、強い眼差しで睨み返してきた。


「念のため確認しておくが、俺と眞山は除外してろよ」


 わかってるよ、と私は顔をしかめた。――誰も疑ってないってば。


「私たちが化け物に対抗できる力を持ってるんなら話は別だけどねえ」


 和歌子ちゃんが悔しそうに言う。


「華緒ばかりが狙われるなんて可哀想だもの」


 ああ、優しい言葉をかけてくれるのは和歌子ちゃんだけだ。


「ありがとねえ和歌子ちゃん」


 ひしと抱き合う。なぜか不機嫌そうな緒方が、そこで口を挟んできた。


「今までの検証からひとつだけ、確かなことが言える」


「何なに!?」


 顔を上げると、緒方は私に指をつきつけた。


「今すぐ帰って鍵かけて寝ろ。手術まで、おまえはもう誰も信じるな」


 予想通りの冷酷な解答に、私は思い切り肩を落とした。



 とぼとぼと私は病院の廊下を歩いていた。


 二人が話を信じてくれたのは嬉しい。


 あのリアリスト和歌子ちゃんまでなんだかものすごく化け物という単語に馴染んでいた。それはそれで驚く話だが、心配してくれるのは素直に嬉しい。……嬉しいが。


「信じるなって、言われてもねえ……」


 怪しいと二人が口を揃える対象は、疑いようもなく聖さんのことだ。


 妖なのに、私を守ってくれるという。その行為そのものが怪しいと彼らは言う。


 でも、と私は眉を寄せる。


 最初こそ怪しかったけれど、事実、彼女は何度も私を守ってくれた。口は悪いけど(バカにされたりもしたけど)、それでもあの人は私に鬼卵石のことも、見鬼眼のことも教えてくれた。


 私の信頼を勝ち得るため―そう緒方は言ったけど、本当に私の眼が目的なのだったら、鬼卵石のことを教える必要もない。あっさり私を殺してしまうことだって出来たはずだ。


 そう、彼女がその気になれば、簡単に私の命なんか奪えたはずだ。これまでに何回、そんな機会があったろう。


 だから私は聖さんを疑いたくない。疑いたくはないけれど……。


『おまえはもう誰も信じるな』


 ため息をついて、エレベーターを見上げる。肩からズリ落ちたバックを持ち上げて、ふと気づいた。


 大口のバックから覗く―小さなブーケ。思い出した。これは途中で買ったものだ。


「あ……」


 和歌子ちゃんに話は聞いていた。病室は六階の六〇一一―佐久間先輩。


 誰も信じるなって緒方は言うけど、先輩は事故に遭って骨折してらっしゃるわけで。


「それに、今までだって、巻き込まれただけだし」


 バスの時も、屋上の時も。なんら先輩に落ち度はない。ないばかりか私の心配までしてくれるような優しい人だ。


「お見舞いくらい行かなくちゃだよね」


 私は帰るはずの足を、思い切り真逆に向かわせた。


 階段を上がる胸が、やっぱり少しだけドキドキしていた。


                ※※※


 ノックをすると、どうぞ、と柔らかい声が返った。


「やあ、黒田さん」


 微笑の貴公子って、誰のネーミングだったっけ。まさにそんな顔だ。


「失礼しマース」


 ドキドキしながら私は室内に入る。


 ここは個室なんだそうだ。白い壁だけは緒方のところと同じだが、家具や柱は高級そうな落ち着いたダークブラウンの木目で、どこかのホテルの一室のようだった。


「嬉しいな、わざわざ来てくれたの?」


 そこにひしめくたくさんの花束の数々に、私は入るなり圧倒されていて、なんだか自分のブーケがものすごく貧相に見えてくる。なんで今朝事故った人のところにこんなに花束が届いているのか。……だが、今さら出さないわけにもいかない。


「ありがとう」


 先輩は落胆なんか微塵も見せずに、嬉しそうに受け取ってくれた。やっぱり優しい人だ。


「お加減、大丈夫なんですか?」


 彼は頷く。左足に石膏がついている。車に撥ねられた拍子に骨折したらしい。


「うちの学校で事故が相継いでるからって、生徒会でも注意喚起してたところなのに、率先して事故に遭ったみたいで面目ないよ」


 そんなことないですうーと私は力いっぱい首を振る。


「私だって、軽く三回は事故に遭ってるし」


 ――あげく化け物にも狙われているし。


 そうだよね、と先輩は苦笑する。


「黒田さんの運の強さには、全然かなわないからね」


「運が悪い、の間違いですよ」


 いいや、と彼は真顔で首を振る。


「強運なんだよ。そうじゃなくちゃ……説明がつかない」


「説明?」


 先輩は急に窓を開けてくれないか、と私に頼んだ。


「空気がよどんでいるからね」


 足が不自由なら窓ひとつ開けるのも大変だろう。わかりましたと私はいそいそと窓に近づいて鍵を開けた。


 バルコニーも余裕があって、まるでマンションのようなつくりだ。


「ああ、いい風だね」


 さわやかな風が入る。まだ陽射しは暑いが、風は日ごとに秋めいてきていて、涼しい。


 思わず、バルコニーへと一歩足を踏み出した。


「君は本当に強運だ」


 先輩が呟くように言う。そんなこと、と振りかえろうとして、私は顔を引き戻した。


 風が一瞬、妙なところから吹き付けた気がしたのだ。


 顔を上げる。風は真上から吹いた。遥か上空から、何か光るものが落ちてくる。


「……何あれ」


 走り出したバルコニーの上、透明な渦が見える。きらり、とその中心でふたつの目が光った。


「あれは!!」


 慌てて室内に戻り、窓を閉める。


「ご、ごめんなさい、先輩。私、帰ります」


 ここにいては、先輩まで巻き込んでしまう。


 しかし、先輩は首を振った。


「帰らなくていいよ。もう少しお話しましょう」


 いつもだったらここで舞い上がってるはずだが、私は慌ててドアに近づいた。

 いつ、あいつが窓からこの部屋に入って来るかどうかもわからない。


 ――まず、ここを離れないと!


「先輩、本当に危ないんです。私、帰りますから」


 しかし、個室のドアは開かなかった。


「あれ……私、鍵なんか閉めてないのに」


「いいから落ち着いてよ、黒田さん」


 先輩は優しくそう言う。そしてブーケをサイドテーブルに置くと、ゆっくりと足をベッドの外に出した。左足には大きな石膏せっこうがついたままだ。


「先輩、無茶しちゃダメですよ!」


「無茶なんかしないよ。大丈夫」


 先輩は身軽な動作で、立ち上がった。私は眼を瞠る。


 ――骨折してたんじゃないのか?


 先輩は両手を広げた。


「病院は大袈裟なんですよ。それよりも僕、黒田さんに聞きたいことがあってね」


 がらりと音を立てて締めたはずの窓がひとりでに開く。


 耳に届くほどの轟音―いや、風の音だろうか。強風が窓ガラスを鳴らして部屋の中になだれ込んでくる。


 風に視界をさえぎられる。思わず腕で顔を覆った。


 そのとたん風にあおられて、バランスが崩れる。


 転ぶようにして先輩の方へ蹣跚(よろめ)いた。


 先輩が、しっかりと私を支えた。


「す、すみませ」


 眼をあげると、顔が間近にあった。その眼は私の両眼を見つめたまま。形のいい唇がするりと言葉を吐き出した。


「―君、見鬼(けんき)だよね」



 すべての動きが一瞬で止まった―気がした。



 風は相変らず部屋の中で暴れているが、例の化け物はなぜだか中に入ってこようとはしない。


 激しい風圧に先輩の髪が乱れた。先輩は私の腕を摑んだまま、眼を合わせたままだ。


「驚いたよ、こういうこともあるんだね。鬼卵石が人の眼に宿るなど……」


 こちらこそ驚きすぎて声も出ない私に、先輩は切れ長の眼を細める。


「否定しないんだね、黒田さん」


 私は視線を逸らす。すいません動揺しまくってて、返事ができません……とは言えない。


「鬼卵石を、君は知ってるんだね?」


 びゅん、と風に煽られて空を飛んだ私のブーケが、軽い音を立てて先輩の背に当たる。先輩はそちらを見ようともしない。


 再び眼を戻す。彼は私から眼を逸らさない。


「誰に聞いた?」


 壮絶に綺麗な顔に凄みが浮かんだ。


「だ、誰って……」


「鬼卵石に見鬼だなんて、誰かに聞かされてないと、わからない話だよね?」


 つかまれた腕が痛い。先輩は腕の力を緩めない。


「答えてくれるよね黒田さん」


「先輩……痛い」


「誰に聞いたの?」


 次の瞬間、先輩が急に険しい顔になると、勢いよく振り返った。


「男がみっともなく迫るでない、見苦しい」


 聞こえてきた声に思わず叫んだ。


「聖さんっ!!」


 声は、バルコニーからだった。開け放たれた窓に、美しい女性が立っている。


 不敵な笑みを浮かべて、その細すぎるほど細い腰に手を当てて。


 胸元に挿したかんざしが、激しい風になびいている。


「可哀想に、華緒が嫌がっておるではないか。その手をお放し」


 先輩は聖さんに笑ったようだった。だが、私の腕から手を離そうとはしなかった。


「……そう、アナタだったんですね。あの時彼女を助けたのは」


「やっぱり、あそこにいたのはおまえだったか。どうもいけ好かない獣臭さが華緒に纏わりついていると思ったら」


 二人が何を言ってるのかよくわからなかったが、この時になって、あの凶悪な風がぴたりと止んでいることに私は気づいた。


「聖さん、外に、化け物が!」


 ああ、と彼女は余裕な表情だ。


「ここに入ろうとしていたあの風のヤツかえ。私が来るなり逃げたぞ」


 役に立たない使役だわえ、と彼女が馬鹿にしたように言うと、先輩はわずかに眉を上げたようだった。


璿璣(せんき)が? 馬鹿な……」


「自分の眼で確めれば良かろう。その前にいいかげんその手をお放し。嫌がる女に無理強いするなど、下衆のやることだ」


「いいえ、得体の知れない化け物のところに駆け込もうとする女性を看過するのは、騎士道に反しますから」


 先輩は涼しげにそう言いきる。どうしてか、私はその顔が信用できなかった。


「あの、は、放してください」


「黒田さん、あの化け物に(だま)されているんだよ。気づかないの?」


 悲しそうな顔が言う。


「騙される?」


 うん、と先輩はそう言うと指を鳴らした。とたんに再び風がバルコニーから吹き付けてきた。


「先輩、止めて!!」


 明らかに先輩が起こしている。私は叫んだ。


「聖さん! 助けて」


 強風に揺るぎもせずに立っていた聖さんが意を得たりという風に頷くのが見えた。だが、その顔が急に一変する。


「なんだい、こいつは!!」


 バルコニーから風と共に室内に入って来たのは、例の嘴と金色の目を持つ風の化け物――ではなかった。


璿璣(せんき)


 愛しげに名を呼ぶ先輩の腕に、その大きな鳥は止まる。


 体長は三十センチくらいだろうか。鮮やかな青、紫、緑の混じった羽模様、真っ赤な嘴に澄んだ黒い瞳に、長く美しい尾羽が印象的な鳥だ。


「良い子だね。さ、こちらの肩にお乗り」


 先輩は私を顎で示す。鳥は軽く羽ばたきしてから、私の肩へと降り立った。これほど大きいのに、重さをほとんど感じない。


 怖さはない。優美な鳥だ。肩に乗り、小首を傾げる様は、本当に可愛らしい。


「……(ちん)か」


 忌々しげに聖さんが唸る。


「よく御存知だ。運日(うんじつ)です」


「うん……?」


 意味がわからない。先輩は微笑んだ。


「雄の(ちん)のことを運日というんですよ。雌は陰諧(いんかい)。この子は名前を璿璣(せんき)といいまして、僕の大事な相棒なんです」


 先輩の差し出した手に、鴆は嬉しそうに嘴を寄せた。


「華緒、そこを動くでない」


 聖さんの表情は固い。


「鴆は猛毒を持つ鳥だ。羽が口に触れただけで人が殺せる。もう息も吸うでない」


「そんな……!」


 言いかけて慌てて私は息を止めた。……てゆーか無理。死ぬし。


 先輩は愛しげに鴆を見上げる。


「最初から、璿璣に協力してもらえばよかったんですが、いかんせん目立つ鳥でしょう? なかなか二人きりになれる場所も時間もなかったし」


「屋上があったではないか」


 皮肉げに言う聖さんに、先輩も余裕を崩さない。


「あそこには使えそうなモノがいたので、協力してもらっただけです。この子に汚れ仕事なんて、本当はさせたくないですから」


 璿璣と呼ばれた鴆は先輩の手に撫でられている。ちょっと待って、屋上って。


「それって、先輩が私を殺そうとしてたってこと!?」


 屋上で襲われた、あの虎の化け物―シャチホコ。


 いまさら何を言ってるのだといわんばかりに、聖さんが呆れたように両手を腰に当てた。


「華緒、まさかまだ、その男を人間だと思ってはいまいな?」


 これ以上なく眼を(みは)った先で、先輩がにっこりと笑った。


               ※※※


 おかしいとは思っていたのだ、と憎々しげに聖さんが吐き捨てる。


「華緒を狙う妖怪が、瘟鬼みたいな小物ばかりなはずがないからの」


 言うたはずだよ、と聖さんが眼で私に言う。


『名のある連中はあらかじめ形を変えてこの辺りに潜んでおったのだろうよ。誰よりも先んじて、満月までに手に入れるために』


 思わず大声を上げた。


「じゃあ、先輩も化け物なの!?」


「つくづくめぐりの悪い娘よ、今ごろ気づいたのかえ」


「僕は鈍い子も好きですけどね」


 よく聞けば身も蓋もないことを先輩も言う。腕を組んだ。


「鯱から逃げ出せるわけがない屋上で、よく無事に帰ってきたものだと思っておりましたが、そうですか、あなたが黒田さんを守っておられたか。鬼卵石を独り占めするために?」


 聖さんは唇を持ち上げる。


「馬鹿をお言い。この子を守ってやろうというだけのこと」


 なるほど、と先輩が人の悪い笑みを浮かべる。


「信用を勝ち得、相手が油断したところで食い殺す。なるほど……狐あたりのしでかしそうな企みですね」


 聖さんの眼がつりあがる。僕は鼻が利くんですよ、と先輩は愉快そうに腕を組んだ。


「黒田さん、この人があなたに鬼卵石を教えたんですね。ではそれについてなんと言いました? 満月のことには触れました? あるいは満月まで我慢すれば良いとでも吹き込まれましたか?」


 なぜそれを、と言いかけると、やっぱりね、と先輩が笑った。


「ううう、ウソなんですかそれ?」


「ウソではない!」


 聖さんも噛み付く。


「確かにウソではないよ。大事なことは言わなかったようだけど」


「大事なこと?」


 先輩は余裕を崩さない。


「鬼卵石は満月を境に孵化を始めるんですよ」


「孵化っ!?」


 それって、卵が孵るってことで――どういうこと!?


「孵化しちゃうんですか?」


 ――何がよ! 何が孵化すんのよ!?


 さあ、と先輩は冷たく肩をすくめる。


「そもそも鬼卵石が人に宿るということ自体、有史以来初めてのことだから、黒田さんの眼に宿った鬼卵石が生きてるのかどうかも怪しい。でもたぶん、その眼を食べるだけでも下位の妖なら妖力は増幅されるでしょうけどね」


 ちょっと待って。私は先輩の言葉を遮った。


 確認させて!


「私の目玉に入ってる鬼卵石さえ、取り出せればいいんじゃないの?」


 どうでしょう、と先輩は言う。


「あなたはもう(ひとみ)の色も変わっている。見鬼眼になっているのなら、その眼は鬼卵石を取り込んでしまったのかもしれない」


 ……取り込んで、って。


「実際はわからないですよ。違うかもしれない。でも下位の妖にとっては鬼卵石だろうが、鬼卵石を宿した見鬼眼だろうが、結局は同じ事でしょうね。満月まで時間もないですし」


「でも、だって……妖怪は満月以降は卵を食べられないんでしょう?」


 先輩は首を振る。


「満月以降に手が出せないのはおおかたの妖怪、それも下位のものだけですよ。彼らは孵化の際の光に耐えることができませんから。だから卵のうちに食うしかないんですよ。卵の方が手は出しやすいものね」


 でもこの人はそうではない、ということですよね、と先輩は聖さんを見据える。


「この人は、あなたの眼の中の鬼卵石がどうなるかを見たがってる。それだけじゃない、万一、あなたの中の鬼卵石が孵化をするなら……それを欲しがっているんです。だからこの人はあなたを守っているんですよ――満月までは」


 聖さんは私と眼を合わせない。冷静なその顔をわずかに横に向けて―だけど。


 傷ついたような表情に見えるのは気のせいか。


「聖さん……?」


 やっぱり、聖さんは味方ではなかったの?


 先輩は淡々と続ける。


「孵化した直後の鬼を鬼雛(きすう)といいます。鬼雛を得るものが五山を制す……でしたよね?」


「五山?」


「五岳とも言います。五山は泰・華・首・嵩、そして東莱。中国の仙山と呼ばれるものです。五岳は泰・衡・華・恒・嵩。即ち、それが世界を意味する」


 鬼雛を得るものが、世界を制す……?


「……なるほどね」


 横を向いていた聖さんが、不意に口を挟んだ。


「鴆を使役し、五山にはまっさきに泰山をあげる。泰山娘娘たいざんにゃんにゃんに関わるもの。つまりはおまえ、忌々しい玄女げんじょの手先かえ?」


「げんじょ?」


 先輩が片眉を上げた。


「聞き捨てなりませんが。それが本当に九天(きゅうてん)玄女(げんじょ)娘娘(にゃんにゃん)を指しているのだとすればね」


「やはりそうかっ!!」


 聖さんの長い黒髪がその瞬間、一気に銀色に変わった。つりあがった眼が赤い。


「あの女の! ならばおまえは私の仇だ!」


「……僕も、あなたの正体がおぼろげに見えてきましたよ」


 先輩は組んでいた両手をほどいた。


「聖とはまた大上段な名をつけたものだと思ったが……なるほど、あなたは白雲洞ゆかりの方なのですね」


「はくうんどう?」


雲夢山(うんぼうざん)白雲洞(はくうんどう)洞主、聖姑姑(せいここ)。名にし負う大妖狐ですよ。残虐非道の限りを尽くした、伝説の妖怪です。もっとも、娘娘と袁公に封印されましたが」


聖娘子(せいじょうし)、という名に聞き覚えはないかい小僧」


 聖さんの眼が光る。


「封印から七百年。聖姑姑の末裔、再来との(ほま)れ高い聖娘子を、玄女は捨て置けなかったのだろうねえ。正義を気取って早々に退治に来たのだからその小心ぶりは笑えるじゃないか。おかげで聖娘子は何をするわけでもないのに、追い出される羽目となった……まだ年若い妖怪だったってのにねえ」


 聖さんがゆったりとした袖から二口(ふたふり)の細身の剣を取りだした。


「何をするわけでもないが聞いて呆れる。『烏竜斬将(うりゅうざんしょう)の法』を甦らそうとした悪名高い聖娘子。それがつまり……あなたでしたか」


「そちらも名乗ったらどうだえ、玄女の走狗(そうく)よ? 名乗れるほどの名もない小物かえ?」


 佐久間先輩は腕をほどいた。


「あいにくですが、娘娘は我が主ではありませんよ。また恥じる名でもない。(わたし)玄焰(げんえん)。鬼卵石がこの辺りに出現するという予言、王母の命を()け、抹消しに参ったのです。ロクな妖の手に渡ってしまう前に、抹消あるいは持ち帰るようにと。……人に宿ったのは慮外(りょがい)の事故でしたけど」


 私の肩に乗った鴆が軽く口を開く。赤い嘴の中からしゃあ、と黒い煙が吐き出されるのが見えてぞっとした。


 ――あれ、吸ったら死ぬの?


 先輩は本当に私を殺す気でいるんだ、と思った瞬間、腕にびっしりと鳥肌が立った。


 聖さんは鼻先で笑う。


「王母の手先か。ならば余計に始末に負えぬ。もっとも性質が悪いのは手先のおまえも同じか。華緒がおまえに好意を持っていることを利用するばかりか、こそこそと黒眚だの、鎌鼬だのをけしかけたり、屋上で襲わせたり。それで正義を気取るというのだからのう」


 聖さんが先輩に近寄り、間合いをつめていく。先輩も油断なくそれを交わしながら、それでも眉を顰めた。


「黒眚? 鎌鼬?」


 しらをきるでない、と聖さんの剣が鋭く宙を裂く。先輩は私を弾き飛ばすと、軽い動作でそれを避け、真剣な顔をした。


「私が放ったのは鯱のみ。それも、黒田さんの目玉だけを狙ったつもりですが? 黒眚だの鎌鼬だのというのは」


 いったいどういう、と先輩が続けようとした。


 ――その時だった。


 轟音が響いた。雷を数十も合わせたような、耳をつんざく爆音。だが事故ではないととっさに思った。


 音は天から響いてくる。バルコニーの向こうに広がる空は真っ黒だ。何十という光の帯がその黒い雲の中を蛇のように這うのが見えた。


 いきなり風が吹き付けてきた。


 先ほどと同じような強風が吹きすさぶ。


 部屋の中はめちゃくちゃで、肩に乗った鴆が、我慢できないといったように、ついに羽ばたきをした。


 ――その瞬間を狙い済ましたのか。


 私の体は誰かの腕に引っ張られるような、すごいスピードでバルコニーの外へと飛び出していた。


「華緒っ!」


「黒田さんっ!」


 心配しているような(という表現はおかしいかもしれない。先輩の言葉を信じるなら、聖さんも先輩も、私の命を狙っているのだから)声を背に受けながら、私は状況把握をしようと必死だった。


 ――えーと、先輩の病室が六階だから、ここはつまり六階で、バルコニーの外ってんだから、もちろん、ここも六階の高さがあるわけで。


 重力に素直に従って落下し始める自分の身体に絶叫した。


「助けて―っ!」


 慌てたような先輩と聖さんの顔が見えた。鴆が凄いスピードで私に追いすがる。


 ――できればあんたじゃない方がいいなあ。


 ばたばたさせながら、それでもあっという間に地面が迫る。


 私は覚悟して眼を閉じた。もうだめだ。


 たった十五年で人生終わっちゃうなんて。そんなことがあっていいのか。


『手術まで、おまえはもう誰も信じるな』


 ――ごめん緒方。


 忠告はど真ん中の的を得ていた。そうしとけばよかった。


 後悔先に立たず。(ことわざ)を浮かべてももう遅い。


 覚悟したときだった。 


「ようやく捕らえたぞ」


 だみ声とともに不意に身体が浮いたと思った。目を開けると、私の下には風の塊がある。


 その中心部で金色の目が光った。


 ――鎌鼬。


 その目に吸い込まれるように、私は意識を失った。


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