【1】 3章 癒着
3章 癒着
1
月曜日の玉突き事故は、かなり大きな扱いでニュースにも取り上げられた。が、今回は私や佐久間先輩、居合わせた緒方への呼び出しはかからなかった。
事故に遭ったのは私たちのバスだけではなかったこと、今回は私たちを見ていた人間がいなかったこと(居たかも知れないが、学校側に言わなかったようだ)で、個人の特定ができなかったためだろう。
――もっとも呼び出されていたら今度ばかりは副島の嫌味には反論できなかったかもしれないけど。
「二度あることは、三度あるわけよ」
それは運の悪さとどう違うのかと問い質したかったが、和歌子ちゃんの中ではあくまでも偶然という位置付けらしい。
「あるのよ、そういうことも。だから運が悪いとか、運命とか、そういうこともう言わないの!」
予想通り。和歌子ちゃんはぴしゃりと言い放つと、豪快にサンドイッチを頬張った。
昼休み――グラウンドに出て行った大半の男子の留守を守った女子は、人目を気にせずダラダラしている。
委員会で呼び出されて昼休み半ばに戻った和歌子ちゃんは、わざわざ人の教室に来てお昼を食べている。
「だいたい事故に遭っても無事だったことが運の強いことの証明にならない?」
「眼は怪我したじゃん」
「それで済んで幸いじゃないの。だいたい、本当に運が悪いんだったら、佐久間先輩にハンカチなんか借りないんじゃないのー?」
声がデカいっ! と慌てて周囲を見回した。幸い、クラスの女子は気づいてはいない。
「……あんまり嬉しそうじゃないね。どうした? 憧れの佐久間先輩と近づけたのに?」
和歌子ちゃんはペットボトルのお茶を飲みながら訊く。
「そんなことないよ……」
「そう? それに、なんかまた眼帯も復活してるし。痛み出した?」
反射的に眼帯に触って私は笑って誤魔化した。
「……ちょっとね」
怪訝そうに彼女は私を見て、だけどそれ以上の追及はせずにそのまま残ったサンドイッチに集中し始めてくれた。
私はそっと眼帯に触る。
あの美女の―聖さんの話を聞いた上で、裸眼で出てくる度胸は私にはない。
彼女の話を信用するなら、私の眼に飛び込んだ鬼卵石のおかげで、右眼は鬼とか化け物が見えるようになったのらしい。
確かにこの眼の怪我のおかげで、佐久間先輩とお話は出来た。名前も覚えてもらえた。そこは嬉しい! 飛び上がるほど嬉しいが。
――化け物とかってオプション、マジで要らないし!
しかもその鬼卵石っていうのは非常にレアなもので、化け物にとっては垂涎の的らしい。なんでも食べれば(!)力が得られるというので、私の眼は無数の鬼に狙われる……言わばWiiやⅰ-Phoneの初回発売時並みの人気と競争率になったということで。
「……絶対イヤ」
無数の化け物が私の眼を狙って行列してる姿を想像してしまった。顔を顰めて呟いた私に、和歌子ちゃんが眼を上げた。
「何がイヤ?」
なんでもない、と慌てて手を振る。ますます怪訝そうな顔で、けれど和歌子ちゃんはそれよりも生理的欲求が勝ったらしく、トイレ行ってくる、とゴミを持って立ち上がった。
「……和歌子ちゃんには言えないしな」
笑顔で手を振りながら、心底途方に暮れていた。
これで鬼が見えるとでも言いかけたら、彼女は本腰を入れて私の説教にかかるだろう。仮に信じてくれたとしても……彼女を巻き込みたくはない。
『他の身を心配できる立場かえ?』
その通りだけど! でも和歌子ちゃんは別だ。それでなくても私は一度彼女を巻き込みかけている――あのスクランブル交差点で。
あれが私を狙った事故だとしたら、和歌子ちゃんは本当にとばっちりだ。
――どうしたらいいんだ、今後。
『満月の日に鬼卵石を食せば妖力が増す』
満月といえば、今週の木曜日――奇しくも私の手術の日だ。
「手術……」
はっと顔をあげる。
「そうだ、手術だよ!」
手術すれば鬼卵石は全部取れるんじゃないの? 私の眼にはまだ石のカケラが入ってるって先生も言ってた。それの摘出をする手術なのだと。
鬼卵石は私の右眼にあるという。ではやはりそれが原因なのではないのか? 右眼に残った鬼卵石をこそ、妖たちは狙っているのではないのか。
「だったら、やっぱり手術まで頑張ればいいんじゃん!」
聖さんも言ってた―満月までは守ってやると。つまり。
「木曜過ぎたら、全部クリアになるじゃないの!」
見えてきた一筋の希望。そう、解決はあるんじゃないか!!
「華緒っ!! 華緒っ!!」
呼ばれて首を捻ると、教室の入口で真っ赤な顔をしたクラスメイトが叫んでいる。上擦ってる声に首を傾げる。どうしたんだ?
「華緒っ!! 先輩だよ先輩!!」
「先輩?」
片眼では見えにくいんだが。眼を眇めて……次の瞬間、硬直した。
「さ、佐久間先輩……?」
や、と軽く手を上げた様が、廊下の窓からの陽光を背にしてまるで後光のようで。
クラス内はその瞬間、室温が二度は上昇したと思われる――たぶん。
※※※
「大丈夫だったかなって思ってね」
貴重な昼休みを使ってわざわざ出てきてくださった先輩を一目見ようと押しかける野次馬たちを避けて回って、なんとかたどり着いたのは熱風吹きすさぶ屋上だった。
まだこの時期、残暑の影響のせいか生徒はいない。
暑いね、と先輩が眩しそうに眼を細める。
こんなところにお連れしてごめんなさいと恐縮する私に、少しでも涼しいところをと探してくれる先輩は優しい。
で、見つけたのが中庭を見下ろせる場所の柵のところ。風の通り道なのだろうか、ここだけよく風が吹いている。
眼下には中庭に学園長ご自慢だという大きな池が見える。けっこう深いらしく、水の色が濃い。気持ち良さそうだ。パシャン、と魚が撥ねる音も聞こえそう。大きな魚影が見える――たぶん鯉だろう。
こころもち、風も水分を含んで冷たいような気もする。気のせいかも知れないが。
「あの事故に一緒にいたのに、怖い思いをさせちゃったら申し訳なかったなって……」
先輩、優しすぎます! 思わず眼が潤んでしまう。どうしてこう、出来たご発言が嫌味に聞こえないのだろう。
「黒田さんは、事故にナーバスになってるだろうになって思ってさ」
ああ、あの時、ボロボロと泣いてしまったのを気にしてらっしゃるんだと思ったら、胸が痛んだ。
『事故のトラウマでもなんでもなくて、あれは単に化け物が怖かったんですぅー』
と打ち明けられない自分がもどかしい。しかし言ったら完全にイタイ女だ。和歌子ちゃん曰く『口が悪い』『ツッコミが多い』『嘘がヘタ』な私は、願っても不思議ちゃんキャラにはなりえない。
――なりたくもないけど。
「大丈夫です。ちょっと……びっくりしただけで。あ、眼も全然大丈夫なんです!」
慌てて私は眼帯を外す。ほら、平気でしょと瞬きすると、よかった、と軽く覗き込んで先輩は目元を和ませてくださった。
本当に心配してくれていたようだ。
「……優しいんですね」
佐久間先輩は首を振った。
「そんなことないよ。僕は……我が儘だし頑固だし」
「そんな」
先輩が我が儘だったら、優しい(・・・)人など絶滅危惧種並みに減ってしまう。
我が儘だよ、と彼は爽やかに笑うと、改めて私の正面に立った。
「誰彼構わず心配なんかしないよ。……気になる子は別だけど」
私は動きを止めた。
――今、なんて仰いました?
先輩の顔がまっすぐに私を見つめている。まっすぐに眼を。
え、嘘。マジで?
風が吹き抜ける。先輩の柔らかな髪が風になびく。
「それって……」
タイミング悪く、ちょうどそこで予鈴が鳴り出した。……なぜチャイムを屋上まで響かせるのか。なぜあと一分、いや、三十秒でも待ってくれないのか。
――ほら、先輩があっさりとそこで顔をお上げになるからっ!!
「ああ、もうこんな時間だ。今日は日直なんだ。……じゃまたね」
「あ、先輩。お借りしたハンカチ…」
言いかけて気づいた。私のバカ、教室に忘れてきてるし。先輩は手を振る。
「また今度!」
「! はいっ!」
手を振り返しながら、私は信じられない今の出来事を即座に反芻していた。
『誰彼構わず心配なんかしないよ。……気になる子は別だけど』
――気になる子、気になる子って……!?
「うえー、マジかよう」
顔がニヤつくのを止められない。いいんだよね勘違いじゃないよね文脈からすると絶対そうだよね国語はちょっと得意なんだ指し示していたのはひとりだよね、具体名はなかったけど。なかったけど!
しかも『また今度』って言ってた。今度ってことは、つまり今度があるわけで。
「ぎゃーっ!」
意味もなく喚いてしまう。どうしよう。あの佐久間先輩が。私を?
信じられないけど、こういうこともあるのかもしれない。眼を化け物に狙われるなんていうのはハタ迷惑で願い下げの最悪メニューだけど、オプションとして佐久間先輩が眼の怪我をきっかけに私に興味を持ってくれたのだとするならば。
――運、向いてきたのかも。
そうだよ、満月までは聖さんも守ってくれるし、手術をすればこんな迷惑な見鬼眼ともおさらばできるかもしれないんだし。
今日は火曜日だから、あと二日の辛抱じゃないか!
「よし頑張るぞー!」
気合を入れて、眼帯を持ったままの拳を突き出したとき。
ふと、顔に水滴がかかったような気がした。
「……雨?」
軽い気持ちで顔を上げて、直後、私は絶句した。
キラキラと水滴を撒き散らしながら宙にを飛んでいるのは、巨大な魚だった。
「何あれ……」
魚の頭部分が、どうして虎に見えるんだろう。
魚は重力に従って屋上へと落ちてくる。しかし、それがどうして見る間に虎へと変わっていくのだろう。
軽やかに着地すると、虎は私の方を向き直った。
「……嘘、私?」
当然、ここには私しかいない。
グルル、と不気味な声が聞こえる。やっぱり幻覚じゃない。
私は数歩走る。だが、虎も軽く走ってくる。――ちょっとあんたフットワーク軽すぎやしませんか。そんなに重そうなのに!
調子に乗って眼帯なんか外すんじゃなかった。あんなもの、見たくもないのに!!
――でも外さなかったら、見えもしないまま食い殺されてるんじゃないの?
「それも嫌っ!!」
ヒトリツッコミを自分で完結させて、私は虎と向き合い、ゆっくりと後退する。
屋上へのドアを探す。佐久間先輩がさっき出て行ったところ。屋上への階段。南側の入口。
虎は間合いを計っているのか、こちらへゆっくりと迂回しながら歩み寄る。
「来ないでよ……私なんか美味しくないってば」
涎の滴る口元がここから見ても巨大だ。覗く牙は私の指より太いんですけど。
こんな口に噛み付かれたらひとたまりもない。
後ろ向きに歩いていた背中がふと影に入った事を教えてくれた。ドアだ!
助かった! と飛びつく。しかし。
「……開かない?」
ノブを回す。しかしドアが開かない。鍵だろうか。だが先輩はここから教室へ帰ったはずだ。先輩が鍵を閉めるわけがない。錆びたドアだから、たてつけが悪いのかもしれないけど。
「開いてよ、ちょっと」
後退を止めた私に気づいたのか、虎がゆっくりとこちらへ足を踏み出す。
「……来ないでよ。ね? いいこだから」
唸り声が大きくなる。くっそ、誰だよ虎を猫科だなんて言ったの!!
現代日本で虎に食い殺される女子高生なんて私くらいだ。嫌だ、そんな記録作るの!!
「お願い、止めて……」
虎は完全に私を射程距離に捕らえている。
絶体絶命だ! と思った時だった。
「困ったらお呼びよって、言ったのにねえ」
お馬鹿ちゃん、と眼前に降り立った人がいた。
「聖さん!」
涼しげな白い着物だ。いや、着物というよりこれは―民族衣裳だろうか。
袖も裾もたっぷりとしていて長い。胸元は着物のように袷になっているが、胸の下で綺麗な浅葱色の帯のようなものが締められている。チマチョゴリ、というにしては、ラインが細い。中国神話の仙女みたいな恰好とでも言えばいいだろうか。
今日は髪の毛をまとめていない。流した黒髪は、背中を隠すほどに長い。
「頼りにしてくれないのは、私を信用していないからかえ?」
思い切り頭を振る。
「ごめんなさい、忘れてました!」
つくづくお馬鹿だねえ、と聖さんは苦笑する。
「怖かったかい?」
「怖かったってもんじゃ……」
どんだけビビったか。
「いったい、どうしてこんな愉快なことになったのかい?」
「わかりませんよ!」
虎は獰猛な唸り声のまま、こちらに飛び掛るタイミングを測っているように見える。聖さんは愉しげな声をあげた。
「これは喰いでがありそうだね。……さがっておいで華緒」
言われた通りにドアに張り付く。しかし聞こえた不穏な言葉に眉を顰めた。
「――喰いで?」
聖さんはたっぷりした袖のところから二口の細い剣を取り出した。
「細切れにしてやろうほどに」
舌なめずりをする。
虎はその声に挑発されたかのように上体を低くすると、一気に踊りかかった。
聖さんも腰を落として、その場を蹴って飛び上がる。空中で虎の太い爪が聖さんめがけて繰り出されるが、彼女はわずかにそれを避けると、返す刀でその腕を切り落とした。
虎はものすごい咆哮を上げると、血のりを撒きながら、一目散に柵の方へと駆け出す。
「逃がすものか」
嬉しそうに聖さんはその虎の後を追う。だが、一歩早く、虎は空中に身を躍らせると、そのまま落下した。
ややあってバシャン、とここにまで聞こえるほどの大きな水音がしたから、池に落ちたのだろう。
「油断したか」
悔しそうな表情で聖さんが戻ってくる。
「大丈夫ですか?」
「戦利品はこれだけだねえ」
聖さんは切り落とした虎の腕を拾っていた。うわ、グロテスク。しかも彼女はそれを服が汚れるのにも構わずに右手でしっかりと捕まえて、その切断面に舌を這わせている。
「……聖さん?」
ん? と切れ長の綺麗な眼がこちらを向く。
「たたた、食べるんですかそれ?」
「それがどうしたんだい?」
何を訊くんだとばかりの表情に、私はようやくこの人が妖だと言ってた言葉が納得できる気がした。
――虎の腕は食わないだろう……ふつう人間は。生では。
「何だい、華緒も欲しいのかい」
そんなわけあるかい。
「そうじゃなくて!!」
グロイのは苦手だ。私は必死に眼を逸らした。聖さんは不思議そうな顔をすると、そのまま顔を仰向け、切断部分を下にしてその腕をそのまま口に入れて、嚥み始めた。
ゴリゴリと骨を砕き、肉を咀嚼する音も聞こえる。うわーやめて生々しい!!
私は瞼を閉じ、耳を押さえた。見ない見ない見ない見ない聞こえない。聞こえないから!
しばらくそうしてから、今度は後ろを向いて、ドアノブを回した。開かないとはわかっているが。
これも聖さんに頼めばなんとかしてくれるだろうか。
「……え?」
かちり、と軽い音がしてドアが開いた。
「なんで」
「どうしたんだい」
聖さんを振り返ると、綺麗な白い顔に血がべったりとついていた。
拭いて下さい、と反射的に懇願する。これは失礼、と聖さんは愉快そうに笑った。
「で、ドアがどうかしたのかい?」
「さっきまで、開かなかったのに」
抵抗はない。ノブを引くとそのまま大きく口を開く。
「立て付けが悪かったのかな」
しんとした校舎内。はっとして時計を見ると、とっくに五時間目が始まっている。
「うわ、ごめんなさい聖さん。私行かなくちゃ」
「気にしなくていいよ。華緒が無事でよかった」
頷きながら細めた眼に、温かさを感じる。私は口を開きかけて……だけど、足はそのまま駆け出していた。
――だから私は、その後の彼女の呟きを聞きそびれたままだった。
「……獣臭い。誰か居たね、ここに」
2
遅刻した五時間目は最悪なことに副島のREADERで、私は八つ当たりのようにその時間内で三度も当てられた。完全に目をつけられたと言っていいだろう。
……どうするんだよ、それでなくても英語苦手なのに。
休み時間になると今度は女子に取り囲まれた。
「どういうことよ華緒。佐久間先輩に呼び出しとかっ!?」
だからそれはハンカチを、と言いかけると、今度はハンカチ見せろというパニックになり、私は這々(ほうほう)の体でその場を逃げ出した。もみくちゃにされながら、さらり嘘がつけるような器用さは持ち合わせていない。まんまと本当のことなんか吐かされた日にゃ、全校内女子から目の敵にされてしまう。私は身体を震わせた。化け物とは違う恐怖だ。
今日は三年生の専門学校推薦会議とかなんとかで、六時間目がカット、その代わりに掃除時間十五分延長となっている。
私は清掃委員だから、どのみちクラスのモップを取りに行かねばならないのだ。大義名分があってよかった。
「失礼します……」
入ったのは空き教室のG201号教室だ。空いていることをいいことに、すっかり掃除用具置き場と化している。
「ええと、1―B黒田さんね。あららひとりで来たの? モップ持てる?」
眼鏡を掛けた年配の先生が鉛筆を指し示す。太さ、重量ともに立派なモップが五本。
これは確かにひとりでは重そうだ。
「しかも替えモップもあるんだけど。Bクラスはもうひとり清掃委員居たんじゃないの?」
確かに居ましたけど――残念ながら今日は。
「……欠席なんですが」
困ったわね、とおばあちゃん先生は首を傾げる。
「二回に分けて運ぶ?」
「……僕が手伝いましょうか」
まあなんとご奇特な、と期待しながら声の方を振り向く。小柄な黒ブチ眼鏡。げ、と思わず声を漏らした。
「緒方じゃん」
「露骨に嫌そうな顔をするな。せっかく助けてやろうと言ってるのに」
立っていたのは緒方だ。自分こそ嫌そうな顔をしているというのをこいつは自覚していないだろう。……口元を歪ませたまま言うなよ。
「あんた、自分のクラスはいいの?」
「俺は清掃委員じゃねえ」
「じゃなんでここに居るの?」
「先生に今日のレッスンの時間を聞きに来ただけだ」
ねえ先生、と振り返る。おばあちゃん先生は頷いている。
「ピアノの庄和先生だ。……おまえ、せめて先生の名前くらい知ってろよ」
「庄和先生て……うちの学年じゃないじゃん」
そういう意味じゃなくて、と緒方は小柄な身体を上手く掃除用品の間に入れてモップを取り出した。
「日本を代表する有名なピアニストだぞ。知らないのか? かつての『アジアの真珠』を」
――それは何世紀のお話でしょう。『アジアの純真』なら知ってるけど。
「やあねえ、またそんな大昔の話を……緒方くんたら」
庄和先生は顔を照れたようにほころばせた。頬が赤い。この婆殺し。
緒方は中学から頌栄館に入学している。いわば、ここの先輩だ。それに音楽科だから詳しいというのもあるだろう。
知らない私に罪はない……はずだ。
庄和先生は急にご機嫌になると、うふふと可愛らしく笑った。
「私は音楽専攻科所属だしね。普通科の子は知らなくても仕方ないわよ。……じゃ緒方くん、この子のモップ運ぶの手伝ってあげてくれる? レッスンは今日は讃詠女学院との合同だから十六時半時出発でよろしく」
わかりました、と礼儀正しく頭を下げて、緒方はモップを三本持ってくれた。実際、二本でも充分重い。
意外に逞しいんだな、と感心していると、
「……怪我なかったか?」
ぼそりと聞いてきた。あのバスの事故のことだ。
「ああ……大丈夫だった。ありがとね」
緒方は何か言いたげだったが、躊躇った様子の後、
「そういえばおまえ、眼の方は、もういいのか?」
今さらだがな、と付け加えてこちらを見た。
眼の事故のことはこいつには言っていない。和歌子ちゃん経由の情報だろう。
そういえば、あのバスの事故の時は、結局私が混乱から泣いてしまい、そのまま一人で帰ってしまったのだ―緒方とも(先輩とも!)ほとんど話をしないまま。
練習で忙しい緒方とは、ここのところ頻繁に会ってたわけじゃない。話をするのはずいぶんと久しぶりなことに気がついた。
「大丈夫だよ。ほら」
――本当は大丈夫どころか、実は大変な目に遭ってるんですけども。
眼そのものは順調に回復してきているから、一応嘘じゃない。
緒方は真剣な顔をして覗き込む。身長はまだ私と同じくらいなので、モップを持ったまま、首だけ突き出した。
「……お前、今、コンタクトしてんの?」
え、と顔を引っ込めると、緒方は満足しなかったようで、更に首を伸ばしてきた。
「コンタクトなんか入れてないよ?」
「じゃあ、眼の色どうしたんだよ。変だぞ」
「変って……」
私は足を止める。お互いモップを抱えたままで、廊下に寄った。鏡持ってるか、と言われて、私はポケットから鏡を取り出す。
「ほら、明るいところで見てみろよ。……な? 右と左で虹彩の色が違うだろ?」
窓に近寄り、陽の光に鏡をかざす。
「虹彩って?」
ああ物知らず、と苛立ったように緒方がいう。悪かったな。
「瞳孔の周りにある輪だよ。ほら、左は茶色だろ? だけど右は」
「……濃紺?」
うん、と彼が頷く。
「俺も昔から虹彩が濃紺なんだよな。別にこれは珍しいことじゃない。ただ日本人には茶褐色が多いけどな。おまえの今の左眼みたいに」
覗きこんだ緒方の眼も、よく見れば確かに両方濃紺だった。
「遺伝が多いんだってさ、これって。でもおまえはずっと茶だったろ? 昔から」
「よく知ってるね……」
自分だって意識したことなかったものを。びっくりして顔を見ると、少しだけ緒方は慌てた風を見せた。
「別におまえのだけじゃない。俺は眞山のも知ってるぞ。小さい頃、眼見せろって言ってたことがあるだろ?」
「いつの話だよ」
小学校二年の時らしい。そんなことまで覚えてない。緒方は眼鏡を押し上げる。
「ともかく! 俺は昔から眼が良くなかったからな。それで虹彩が原因なのかって調べた時代があったんだよ。結局、因果関係はなかったけどな」
和歌子ちゃんも私も眼はいい方だ。だから茶の虹彩の方が視力が高いのかもしれないと思ったことがあったのだという。
「でも急に虹彩の色が変わるなんてことが……あるの?」
知らない、と緒方は首を振る。
「そこまでは俺も詳しくないし。でもおまえの場合、あの怪我が原因としか考えられないな。まあ左右で虹彩が違うなんてこと、至近距離からじゃなくちゃ普段はわかんないんだろうけど」
ふっと頭の中に、佐久間先輩が浮かんだ。
私の眼を覗き込んだ先輩。
先輩は気づいただろうか――。
「しかし珍しい。紺は紺でもえらく鮮やかだよな。藍色っていうのか……俺はこんなの見るの初めてだ。眼はどうなんだ? 見え方に異常とかないのか?」
どきりとして私は緒方の顔を見つめた。
――どうしよう。
不意に衝動が身体の奥から溢れた。
――喋ってしまいたい。
緒方なら信じてくれるだろうか。
この眼に、鬼卵石が入ったことを。
化け物が、見えることを。
――化け物に、命を狙われていることを。
「あの……さ、緒方」
話しがあるんだけど、と言いかけた時だった。
「……なんだ、あれ」
緒方が私の肩の向こうへ眼鏡を押し上げる。振り向くと、廊下の遠くで喚声が聞こえた。
「何……?」
眼を凝らす。廊下を歩いている生徒が、ウエーブのように規則的に倒れていく。
「なんだありゃ」
私は眼を瞠った。
風のように白い空気の層を作り出して、何かがいた。足元が見えない。が、鋭い嘴が見えた。
息を飲んだ。
「……嘘。校舎内まで」
え? と緒方が私を見たようだった。私は思わず後退する。
風のように薄い輪郭を持ったそのモノは、嘴をこちらに向けた。
二つの金色の目が光る。……こっちを見た!!
「何ごとですか、いったい!」
はっと振り向くと、後ろに副島が立っていた。大仏頭に白っぽいおばさんスーツ。私を見て眼をつり上げる。
「何をしてるの? 黒田さん、早く教室に戻りなさい。モップがないと清掃が出来ないでしょう?」
手ごろな説教物件をみつけたからだろ、副島が近づく。だが、私はそれどころじゃない。
「どっちを見てるの黒田さん!」
わああ、とその時また声があがって、生徒がバタバタと将棋倒しのようにその場に倒れた。強風がスカートを翻す。ヤバイ。
――あいつは私を狙ってる。
「……来る」
「何がだよ?」
怪訝そうに緒方が聞く。
「逃げて、逃げてふたりとも!」
何を言ってるの、と異口同音に二人が喚く。私はとっさにその場を駆け出そうとしたが、化け物の方が足が速かった。
ヒュウという風を切る音が聞こえた。足がもつれそうになる。
「黒田っ!!」
放りだした重いモップが宙に舞い上がる。竜巻のような風がその場を席巻し、耐え切れなくなったのだろう、ガラスが割れる音がした。
「危ないっ!!」
モップの柄が五本、一斉に私に向かって襲い掛かってくる。
悲鳴を上げた私と副島先生が、くしくも同じ方向へ走りだした。
足がもつれたのか、副島先生が目の前で倒れた。
その爪先に引っかかるようにして私もバランスを崩した。廊下に肩から倒れこむ。振り返ろうとした私に誰かが覆い被さったのがわかった。
キャアアとその場に悲鳴があがる。
「どうしたー!!」
異変に気づいて先生たちが駆けつけてくる音が聞こえた。
バリン、と窓ガラスがまた割れる。その隙間から、風が逃げ出したのを眼の端に捉えて、私はおそるおそる、自分の背中を見た。
「……っ緒方!」
私にかぶさってきたのは緒方だった。蒼白な顔は、私を見ると強がるように笑みを浮かべた。
「おまえって……足、遅いの変わってないのな」
そんなこと言ってる場合か、と慌てて緒方の下を抜け出すと、彼はぐったりとしてその場にうつ伏せになった。
「何があったんだ一体」
駆けつけてきた体育の先生が呟く。
「副島先生!」
顔を向けると、緒方と同じように副島先生が倒れていた。倒れた拍子に脳震盪でも起こしたのか、その顔はピクリともしない。
「誰か、担架もってこいっ!」
打撲だという声が耳に響く。
先生が処置をする中、私は視界に五本のモップを捉えていた。
その場に転がったモップ。
先生が緒方のシャツを脱がそうとしていた。私は慌てて手伝う。細い、筋肉のつき始めたばかりの身体――その背に。
「なんだこりゃ……」
いくつもの大きな丸い赤い痣――これはモップの柄がぶつかったのだろう。内出血が見て取れる。
そして――。
手に持ったシャツがハタハタと窓から入り込んだ風にゆれる。たくさんの布片となって。
「おい、救急車を呼べ! おまえたち誰か他の先生も呼んでこい!」
一面に切り刻まれた、赤い傷条――。血は今もゆっくりと蛇のように動いている……白い背中のうえを。
身体の震えが止まらなかった。
3
翌水曜は学校を休んだ。頭が痛いと嘘ついて。
母親はあっさりと頷いた。手術前だしねえ、と苦笑したところを見ると、娘が手術を気にしているとでも思っているらしい。
だがその誤解もこの際ありがたかった。
緒方はかなりの裂傷と打撲、副島先生も背中に二発の打撲を受けて入院している。
その場にいた生徒たちからの証言はみな曖昧だったが、結局は、時ならぬ突風で窓ガラスが割れ、緒方と副島先生は風のせいで浮き上がったモップにぶつかったものだと結論づけられたようだった。
つまり、緒方の背中の裂傷も、窓ガラスの破片によって出来たものだということらしい。
――私のせいだ。
突風のせいじゃないことは私が知ってる。緒方の傷が窓ガラスによって出来たものじゃないことも。
あの風の化け物は、私を狙っていた。
無意識に校内までは入り込んでこないものだと思っていた。夜にひとり歩きをすることさえ避ければいいと思っていた。何かあったら呼ばなくても誰かが助けてくれると思っていた。
――屋上での、聖さんのように。
化け物は見えるけど、現実感なんてない。私にしか見えないのだし、どこか全部が幻覚のような気もしていた。
命の危機なんか感じたことだってない。仮に何があったって、自分だけは大丈夫だと思ってた。実際、今現在も大丈夫だ。
「でも……!」
その安寧が誰かの犠牲に因るものかもしれないということを、改めて思い知らされた。
巻き込んでしまった、たくさんの生徒たち。私を庇ってくれた緒方。巻き添えになった副島先生。
学校に行けばまたいつ化け物が来るかもしれない。また誰が巻き込まれるかもしれない。
佐久間先輩や、和歌子ちゃん。巻き込まれて欲しくない人はそのほかにもたくさんいる。
――学校に行くこともできない。
この眼のせいで。
「華緒―。若槻先生から電話よー」
机に伏せていた私は、階下からの母の声に顔をあげた。
「こっちで取る!」
部屋にある子機に飛びついた。
「もしもし?」
『ああ、華緒ちゃん? ごめんね、昨日』
先生は、相変らず楽しそうな声だ。
昨日、私は学校からまっすぐ若槻医院に直行した。だが、先生は不在だった。身内に不幸があったらしく、空路で北海道に飛んだのだという。
『診察に関しては看護士さんが問題ないって言ってくれたんだけど……華緒ちゃんがご相談があるからって伝言受けてさ。何かあった?』
「手術して欲しいんです。今すぐ」
かみつくようにそう言った。
昨日看護士さんにそう泣きつくと、彼女は困ったような顔で先生の判断がないとダメだと答えた。それでもと食い下がると、後で先生に電話を入れさせると約束してくれたのだ。
『……うーん、今から飛んで帰ってもそっちに着くのは夜中だからね。結局木曜日の手術ってのは変わらないよ』
私は眼を閉じる。
「看護士さんとか……大先生とかじゃ無理なんですか?」
無理ではないけど、と先生は困ったようだった。
『でも担当である僕が執刀するのが一番いいから。それよりどうしたの、何かあったの?』
その声に、私は思わずしゃくりあげてしまった。
『どうしたの。今日、学校を休んだのにも関係があるの?』
さすがに気づいていたらしい。
「わ、私が話すこと……し、信じてくれますか?」
泣き声を押し殺して訊ねると、まずは聞いて見ないことにはねえ、と身も蓋もないことを言う。
『ともかく、話してごらんよ。話せば楽になるかもしれないからさあ』
私は唇を噛んでから、搾り出すように、これまでのことを話はじめた。
※※※
先生は途中で口を挟まなかった。全部語り終えてひとつため息をつくとこう言った。
『見鬼眼、か。僕もその単語は聞いたことがあるよ』
ほんとですか! と飛びついた私に、先生は冷静だった。
『鬼や化け物が見えるのは眼のせいだっていう患者が来た事があってね。……思春期の男の子で……結局それは気のせいだってことになったんだが』
君たちくらいの年齢の子には多いんだよ、と少しだけうんざりしたような声が続く。
『幽霊が見える、とかね。そうやって目立ちたい、人と違う能力を手に入れたいって言う、一種の現実逃避なんだろうねえ。思い込みが激しいっていうか、自意識過剰っていうか、そういう年頃っていうか』
そんな、と私は絶句した。
――先生は、まったく信じてはいない?
ショックで黙り込んだ私に、先生は慌てたように声を掛ける。
『もしもし華緒ちゃん? 華緒ちゃん聞いてるの? もしもし』
話したのが間違いだった。わかりそうなものじゃないか、それが――大人の反応だと。
信じる人間なんかいやしないのだ。こんな荒唐無稽な話を。私だって、自分が当事者じゃなければ一笑に付したかもしれない。
自分に腹が立って、電話を切ろうとしたときだった。
『華緒ちゃん? あれ、華緒ちゃん? ねえ聞いてるの?』
うるさいバカ禿げ医者! と罵りたかった。もう声も聞きたくない。
そのまま耳から受話器を話した。声が小さくなる。
『聞いてよ! 嘘だなんて言ってないでしょ! 僕だって昔は見鬼だったんだから』
「切」のボタンを押そうとしていた手が止まった。
※※※
華緒ちゃんて短気だよねえ、と先生は苦笑する。
「どういうことなんですかそれ!」
昔の話だけどね、と先生は声のトーンを落とした。
『子どものころ、亡くなった隣の家の爺さんとずっと付き合ってたらしい。……っていうか、僕はそのころのことはよく覚えてないんだけどね物心つく前だから。でも親には報告していたらしいんだな、これを』
今日はお爺さんがこんなことを言った、あんなことを言ったと幼い若槻少年の言う言葉を、最初は両親も嘘だと思っていたらしい。
『だが微に入り細に穿ってやたら詳しいし具体的だし、絶対に教えていない自分たちのへそくりの在り処まで言い当てられて、両親は気味悪がったんだね。何度かお祓いにつれていってもらって』
そこで、隣の爺さんの霊が見えているらしいとわかったんだと彼は言う。
『物心ついてからはあまり人前では話さなくなったな。親も……特に母親が嫌がったしね。それに左眼が極度の弱視だったから、すごいぶ厚い瓶底眼鏡かけてて……あんまり人も寄ってこなかったし』
僕の青春は暗かったんだよーとひたすら明るい声で先生は言う。……いや、そこは聞いてない。
『ただね、これだけは絶対に忘れないんだけど……僕、研修医時代にはっきりと化け物を見たことがあるんだ』
凄絶な美貌の化け物だったよ、と彼はいっそ懐かしそうな声で言う。
『墓場でみたから幽霊なのかなあって思ったんだけど。ちょうど墓場を通りかかった時でね。酔っぱらってて……そこで綺麗な女性に遭ったんだよ』
こっそり覗いていた若槻先生を、しかしその女性は目聡く見つけたのだという。
『他言無用だよ、と言うと彼女は一瞬にして消えたんだ。でも僕はご覧のとおり軽い男なもんで、翌日にはベラベラとそれを喋ってしまった。そしたら彼女が怒ってね』
ソッコーで報復に来たんだよ、となぜか嬉しそうに彼は言う。
「それ……雪女なんじゃないですか」
話がそっくりだ。違うからね、と先生はムキになる。
『違う違う。雪女は茂作爺さんの命を奪い、巳之吉少年のあまりの若さに免じて見逃してやって、成長した巳之吉の嫁になる話だろ』
やけに詳しい。僕はハーンの『怪談』が好きなんだ、となぜか威張って先生は語る。
『雪女は巳之吉の嫁になってる。でも僕はまだ独身だ。残念ながら、僕のところに来た化け物はその話を知らなかったんだと思うよ』
寂しそうに言う。
先生は、ひょっとしてその化け物に一目惚れでもしたのだろうか―。
だが私の憶測は、すぐにかき消された。
『まあとにかく彼女は僕のところに来た。そしてこう言ったんだ。白くて綺麗な長い指をつきつけてね』
――見鬼眼は、私がいただいていくからね。
ぞくりとする。脳裏になぜか眼球を持った爪の長い手の映像が浮かんだ。
「……それって」
『うん、僕の左眼は義眼なんだ』
私は口元に手を当てた。
『気づかなかったでしょ。ピンクの眼鏡してるしね。自分ん家が眼科でよかったなあって思ったのは後にも先にもあの時だけだったね』
衝撃的な事実を、先生はあっさりとそう片付けた。
『本来見鬼眼ってのは、見えるのは両方なんだけど、僕に残された右眼はそれ以来、化け物を見ていない。それが理由だったのか、あるいは彼女の気まぐれだったのか、それとも偶然だったのかはわかんないんだけどね。まあ片眼で済んだことを喜ばなくちゃいけないんだろう』
今は眼に問題はないんだけどね、と彼は言い添えた。
『だからね、患者が嘘ついてるかどうかなんて、僕はすぐにわかるんだよ。思春期の子どもの思い込みか本物かどうかくらいはね。話に矛盾も多いしさ。……ただ華緒ちゃんの場合は、さすがに少し気になってた』
「気になる?」
『うん。別に眼球におかしなところはないし、石のカケラも極小だし、検査の結果、なんの問題もない。ただ虹彩が日ごとに変わっていたこと以外は』
気づいていたのか、と私は驚いた。―何も言わなかった癖に。
『虹彩異色症という症例もある。でも事故によって虹彩の色が変わった事例を診るのは初めてだ。それを抜きにしても、僕も見鬼だった昔は、左眼が珍しい色だったし、まさかなって程度には気にしていたんだけど』
私は子機を持ったまま、鏡の前に移動する。
日ごとに変わる―?
鏡の中の右眼を覗き込む。
息を飲んだ。
「先生の……左眼の虹彩の色って……何色だったんですか」
僕のは珍しかったよ、と先生は笑った。
『濃い緑だったねえ』
まさに鮮やかなその色を見ながら、私はそっと鏡の中の眼に指を伸ばした。
※※※
結局、手術日の変更はできなかった。ただし、今から出て夜中にはこちらに着くので、明日は早朝に時間を変えてくれるという。結局二時間の短縮をしただけだった。
先生はともかくその聖という妖の助言に従い、今日はもう外に出ないほうがいいだろうという。
『でもあまりその人を信用しちゃいけませんよ。化け物なんていうのは、結局我々とは違う生き物なんだから』
だが、先生からの電話を切った直後、私のケータイが鳴り出した。
和歌子ちゃんだ。
『華緒? あんた今から出られる?』
「どうしたの? 私今日はあんまり……」
『じゃあ今からいうところに一時ね!』
和歌子ちゃんは人の話を聞いてない。彼女はとある住所を告げた。家からバスで十五分。最寄駅近くの病院だ。
『わかった? 葦家市市民病院三号棟』
「病院?」
そこは緒方と副島先生が入院しているところだ。
「緒方になんかあったの?」
緒方じゃないわよ、と和歌子ちゃんは言う。
『あんたの好きな佐久間先輩よ。今朝早く事故で運ばれたって。学校、大変なことになってる。女子は大騒ぎよ』
「嘘っ!!」
私は棒立ちになる。
「一体どうして」
『詳しくは知らないわ。ウチの女子が話してたもん。学校のトップニュースよ。……車に轢かれたらしいよ』
「無事なの!!」
さあね、と和歌子ちゃんは不穏な事を言う。
『私はどのみち緒方の見舞いもあるから行くんだけど、あんたも来なさいよ、気になるでしょう?』
そりゃあ気になる。気にはなるが……。
『どうせ頭痛なんて嘘でしょ』
決めつける声に容赦はない。はい、と頷くしかなかった。
『来るんなら放課後にかち合わないようにした方がいいわよ。絶対にウチの学校の女子と鉢合わせになるから』
そうだろう。学校の全女子は今、放課後が来るのを今や遅しと待っているはずだ。
――だが、私は。
華緒、と呼ばれて顔をあげた。
「なに?」
『……あんた、なんか悩んでるでしょ?』
絶句すると、彼女はため息をついたようだった。
『あんた単純だからね。落ち込んだり浮上したりって、すぐにわかるのよ。緒方も夕べメールくれてさ。なんかあんたが悩んでるみたいだって教えてくれた。まあ、私も気づいてたけどね』
『和歌子ちゃん……』
緒方も……。鼻の奥がツンとする。
――怪我をした身をおして、人の心配してる場合かよ。
『手に負えない時は、人に頼りな? あんた自分で解決できる事は人に頼ったりするくせに、自分の手に余るものはひとりで抱え込もうとするからね。昔から』
小学校の頃、滑り台に足をひっかけて着地したのをずっと黙ってて実は骨折してたこともあるでしょ、と忘れていたような昔話を持ち出された。
『ま、私もたいしたことは出来ないけどさ』
少し照れたように言って、じゃあ後でね、と彼女は言う。
和歌子ちゃんは学校どうするつもりだろう。サボるのだろうか。
『やあね人聞きの悪い。五時間目は自習なんだよウチ。ほら、副島のREADERだから。市民病院なら近いしすぐに行って帰ってこれるからさ』
すごい度胸だ。私は苦笑する。
向かう場所は病院なんだから学校よりも危険かもしれない。
――でも本当にすぐに帰るから。
緒方と、佐久間先輩の顔だけ見たらすぐに帰るから。
……ほんの少しだけだから。
「わかった、じゃあ一時に」
逡巡したのは一瞬、口はするりとそう言葉を滑り出していた。
了解と和歌子ちゃんは笑って、通話はそれで切れた。
準備を始める部屋の窓に、雀が一羽止まっていることに、私は気づかなかった。