【5】 10章 哀毀
10章 哀毀
1
たどり着いたそこは、妖の赤い光の溢れる場所だった。
かなりの数の妖の死骸、その中央にまだ何十も群がる集団が見える。あらためて眼を凝らすまでもなかった。
「梶村先生!」
人ではありえぬほど長い両腕を、鎌のようにしならせながら、戦う者がいた。
身のこなしは驚くほど軽い。鎌の攻撃も、確実に連続で相手を仕留めている。
だが背後からの攻撃が当たり始めていた。
視力が悪いと聞いていた。同時に疲労も溜まっているのかもしれない。
緒方達を逃がすために、ここで囮になってくれているのだろうが。
「後ろ、やります!」
一気に中心部にまで跳躍し、梶村と背中合わせになる。
「……君に背後を任せるなんてね」
「つべこべ言わず、前に集中してください」
ちらりとこちらを見て、彼は笑ったようだった。
「那須先生なら、ここであなたの外見に突っ込みをいれるところなんでしょうね」
判っているなら言うなよ。私は刃と化した左手を繰り出した。
鬼頭刀は腰に下げている。玄女に遭うまでは使う気はなかった。
「強い波動を感じるね。妖刀?」
「神刀です」
むっとして答えると、鬼神は紙一重だよ、と梶村が楽しそうに言う。
「……お疲れじゃないんです、かっ!?」
「君に心配されるとは、僕も耄碌したもんだな」
口の減らない。私は角端と呼ばれる妖を屠りながら思い出す。
――うっすらと覚えている。
自分が血に酔って、妖怪を殺し続けていた、さきほどのことを。
だからまだ自我が啖われたわけではないと思う。身体は変化したままだが、こんなにも私の意識は明瞭だ。
その代わり―――ここにきて鬼雛の意識が読めなかった。
これまでに伝わってきた喜びの感情も、哭いている気配も、怒りからの苛立ちさえも。
まして、言葉など。
身体は考えるまでもなく動く。繰り出した刃が獣の口の中を貫通する。
「手際がいいですね、黒田さん」
立て続けに八体の角端を屠り、飛んできた海蜘蛛の糸を敢えて手に巻きつける。
「それ、切れにくいですよ」
「知ってます、ってば!」
引っ張り始めた海蜘蛛を、逆に力で巻き上げる。直後に糸を長く伸ばして逃げようとする海蜘蛛の落下地点を予測し、糸を巻きつけたまま跳躍する。
為す術なく落ちてくるそれのど真ん中から一刀した。
降りしきる黒い血がシャワーのようだ。
鬼雛の刃に海蜘蛛の糸は弱い。一瞬でぶった切り、再び飛ぶ。今度は私が予測されていたらしい、落下地点で犇めいているのは、五体の犀渠だ。
「少しは、懲りろ!」
集団行動をする、多少は知性のある妖だ。圧死させようと間合いを計っているのだろう。
私は刃を指に戻す。そのまま爪と一緒に鋭く伸ばした。
「うおおおお!」
次の瞬間、五体の身体のど真ん中を貫いたのは、私が伸ばした指だ。
とんぼ返りの要領で体を反転させて、そのまま指を抜く。着地するのと、五体が一斉に倒れるのとが同時だった。
「大した戦闘能力だ。その身体を自在に操れるんだな」
梶村が感心したようにつぶやくのが聞こえた。
「そっちは」
「あらかた」
短い言葉に頷く。
「そういえば、緒方くんたちを見たかい?」
「いいえ。途中までは鉄拐さんが援護してくれたみたいですが、今は」
急速に鎌首を擡げる不安に、梶村が頷く。
「なら僕はそちらに行った方がいいだろうね」
「お願いします。後は私が」
梶村は咄嗟に何か言いかけるように口を開いて、それからいや、と軽く微笑んだ。
「なんでもない。……じゃ」
その場を蹴って姿を消した。
私は後を追わせないよう、妖の前で刃を構える。
だが 異変にはすぐに気づいた。
――妖が潮の引くかのように一斉に闇に姿を溶け込ませている。
どうして、と問う間もなかった。
ほう、という声が聞こえた。
「しばし見ぬ間に良い形になっておるではないか。……ようよう、自我を啖らわれたかえ?」
満月の光をスポットライトのように浴びて。
――九天玄女がそこに立っていた。
※※※
月明かりが、眩しいほどに下界を照らす。
「鬼雛を見たのは何千年ぶりかの」
少女は眼を細める。
「まだ本形態ではなさそうではあるが」
中途半端よの、と玄女は値踏みするように眺めまわした。
「……なまじ自我を啖われずにおるようだね。どこまで保つかの。その形は最終形態の手前のものであろうが」
――最終形態、手前?
わずかに狼狽した私に、玄女は気づいたようだった。
「今更何に恐懼する? もはや己が人だとは思っておらぬだろうに?」
唇を噛む。玄女は笑った。
「そなたに慈悲を与えてやろう。多少なりとも人の意識がある間に殺してやる。人と信じて死ねるのは、ある意味幸せであろう?」
私は無言で腰に下げた鬼頭刀をつかんで構えた。
玄女の眼が瞠られる。
「……おまえ、それはまさか踊哭か!?」
なぜ玄女が銘を知っているのか。疑問が表情に出たのか、玄女が睨んできた。
「それは聖姑姑が鋳造し、鼎沸を目論んだ諸悪の源。使い手を選んで妖刀にも神刀にもなる、稀代の名剣だ。聖姑姑を捕えた折、天界の宝物殿に封印したはずのそれが、数百年後忽然と姿を消した。その剣がどうしてお前の手にあるのだ?」
私は知らず、ああ、と声を漏らしていた。
どうしてだろう、脳裏に粗末な小屋が浮かぶ。
木製の卓子の上に置かれたまま、埃を被った簪。そこに寄り添う誰かの霊。
そして――数年後、その簪を取り上げる、若き聖娘子の姿。
なぜか、解ってしまった。
聖姑姑は、おそらく自身が死ぬ際に呪を掛けたのだ。魂魄のみの姿となって。
自らが鋳造した刀を、我が娘の簪に封じ込めた。
それは、玄女の言うように世を騒がせるためではなく、復讐のためでもなく。
――こうして、後世で私が命を懸けて戦うことを知っていたから……?
突飛な考えじゃない。だって私には経験がある。
也子の姿をした八狐子に心臓を貫かれた時に、それを体験した。
――魂魄は、時空を飛び越えることが出来る。
「そうでなきゃ、あそこで急に封印が解けるはずない」
涙が頬を伝う。
都合の良い解釈かもしれない。そんな理屈はないと、緒方あたりなら言うかもしれない。
だが、これが事実であろうことが、私にはわかるのだ。
――聖姑姑が託してくれた、最後の希望。
乱暴に涙を拭って、強くその柄を両手で握り締めた。
ふん、と玄女が鼻を鳴らす。
「まあよい。それはお前を殺した後で、回収してやろう」
彼女は自分の掌の中から、二つの弾丸を取り出した。軽く二度回してから上空に投げる。
高く飛んだ弾丸が金色の光芒を引いて落ちてくるのを優雅に受け止めた。
その手の中に、鋭利な光。
細身で緩やかに湾曲した、さほど大きくはない剣。それは聖さんの持つ二本の剣と酷似していた。
「行くぞ!」
小柄な少女がまっすぐに私へと突っ込んでくる。
「うおおおおおー!」
大声で叫びながら、私もその場を駆けだした。
2
「眞山!」
緒方が走ってくる。
「東の札が破られた。妖が入ってくるぞ」
和歌子は札に視線を落した。
――残りは一枚。
緒方に担がれて逃げている最中、誰かが近づいてくるのが解った。見れば、杖に乗った汚い老人だった。鉄拐、とか言っただろうか。緒方は八仙と呼んでいた。
鉄拐はとともにしばらく妖と交戦した後で、二人を松原の中に誘導した。
『お前さんらを渡したら、冥府で玄焔になんと罵られるかわからぬでな』
軽口を叩きながら、それでも護ってくれるという。
だが緒方が首を振った。
『俺たちのことはいい。どうか、華緒に玄女がここに居ることを報せてほしい』
鉄拐は眉を上げた。
『無支祁が前方の妖を引きつけて留めてくれている。こちらには札もある。まだ十分交戦できる。だが、華緒が消耗し、玄女と戦えなくなったらどちらにせよ後がない。一刻も早く、華緒に玄女の居場所を伝えて欲しい』
反論しようとした鉄拐を、和歌子も留めた。
『華緒が、玄女と戦って勝てば問題はないんでしょう。それまでは踏ん張ります』
鉄拐は顎髭を触っていたが、ええい、と思い切ったように立ち上がった。
『四方に簡単じゃが結界を張っておく。しばしここで身を隠すがよい』
ただし長くは保たんぞ、と鉄拐は顔を顰めた。
『結界については儂は麻姑ちゃんの足元にも及ばんのじゃ。何事にも得手不得手があるでの。破られれば、そなたらは自力で窮地を脱せねばならぬ。捕まれば、鬼雛の嬢ちゃんも終わりじゃ。それを肝に銘じよ』
判っている、と頷いた。
それからどのくらいの時間が経ったのだろう。
――折れた肋骨が軋む。
「大丈夫か。立てるか?」
「――緒方。別行動をしよう」
和歌子は支えられて立ちながら、緒方を見る。
「二人同時に捕まっちゃいけない。あんたは北へ、私は南へ逃げよう。少しでも妖との接触を避けて」
言葉を続けるために息を継いだ。その時だった。
緒方が不意に和歌子を抱きしめた。
「……死ぬな」
はっと眼を瞠る。
「あんた」
「俺は死なない。俺は……華緒を殺すと約束したから。でもお前は、華緒の足手まといになるくらいならって考えるだろ」
手の中にあるのは―――最後に残った、「焔」の一枚。
肋骨を折って、札もない。これ以上逃げ切ることは不可能だ。
おそらくは捕まるだろう。ならば。
華緒のために出来ることは―――。
「だって……」
「もういいんだよ眞山。華緒はそんなこと望んじゃいない」
思わず涙があふれてきた。
「……贖罪とか、罪の意識とか、そういうものとは無関係なんだ。あいつは。何も知らない、気づかないままでここまできた。でも、すべてを知っていたとしても、あいつは俺たちを親友だと呼んでくれただろう。違うか?」
――華緒は気づいていない。そう、確かに知らないだろう。
――幼いころ、ふたりが山中で彼女を殺そうとしていたことなど。
――逆に、華緒に助けられて、助命できたことを。
「あれからずっと俺たちはあいつを守ることで贖罪に代えようとしてきた。だがあんなことがなくても、きっと俺たちはあいつに惹かれて、一緒にいたと思う。あのお人好しの馬鹿の眩しさには、誰も敵わないんだから」
華緒、と頬に涙がこぼれた。
「詫びなんかじゃない。過去に何もなくったって、俺たちはあいつが好きなんだ。あいつが大切なんだ。喪うわけにはいかない。だからといって」
緒方は顔を覗き込む。
「お前も俺も、あいつの前から消えちゃいけない。あいつに二度と喪失を感じさせちゃいけない。生きるんだ。あいつのためと……それから俺のために」
「緒方?」
緒方ははにかんだように笑う。
「俺はお前のことだって大好きだよ眞山。華緒とは違う感情だけど。それでもお前を喪うわけにはいかない。華緒にも、俺にも。お前を喪うなんて恐怖を与えないでくれ」
「……華緒とは違う感情、って。上等だわ」
緒方の頬に和歌子はキスをした。驚いたように緒方が和歌子を見つめる。
「ありがと。私も少しは好きよ緒方。華緒とは違う感情だけど」
ふたりで笑い合う。
「緒方。それでも私たちはどこまで行っても同志なのよ。あの子がいるから生きていられる。ならば私たちが生きるためには、あの子を守らなくちゃ」
「……そうだな」
頷いて、緒方は破られた東の結界の方向へ札を構えた。
ゆっくりと入ってくるのは、角端三体。
緒方の手にも札はもう一枚しかない。どうしたって、一体は仕留めきれないだろう。
「運に立ち向かおう」
和歌子は頷く。
――運という言葉は嫌いだった。
華緒がその言葉を口にするたびに悉く否定してきた。運なんて目に見えないものに振り回されるなんて馬鹿のすることだと。
自分の人生に立ち向かえない、弱虫の言い訳だと。
だが、華緒に襲い掛かった出来事は、目に見える形で彼女を翻弄した。
たまたまその眼に落ちたというだけで――。逆らうこと、逃げることを許さない不条理さで。
彼女が命を懸け立ち向かう先は――天界という巨大な運だ。
勝てるとは思えなかった。あの子はまだ十六にもならない、非力で、ひ弱で、軟弱で、馬鹿で、お人好しな、ただの女子高生でしかないのに。
それでも――彼女は戦うしかない。
生きるために、運という理不尽なものに立ち向かい、ねじ伏せるしかない。
生き抜くという――強い意志。
華緒の中のそれを、闇雲に信じるしかない。
そこに勝機がなくても、せめて――私たちだけは。
「俺たちも最後まで足掻こう眞山。あの馬鹿のために」
「ええ、可愛いあの馬鹿のために」
彼女を見倣って、私たちも立ち向かわなければならない。
覚悟を決めたその時、大きな鎌が、松原とともに角端を切り裂いた。
とっさに緒方に庇われて、和歌子は目の前に吹っ飛んできた角端の上半身を避ける。
「よく捕まらなかったね。さすがは僕の教え子たちだ」
現れた梶村の姿に安堵が広がる。思わず先生と呼びそうになるのを必死でこらえた。
※※※
梶村は途中で放置された也子の抜け殻も拾ってきていたらしい。華緒の着ていた服をつけた彼女を抱きかかえた和歌子を、更に梶村の長い腕が抱いて、一同は夜の海岸を飛ぶ。
状況を聴きたかったが、その場所には思ったより早く到着した。
「……華緒?」
交戦する人影が二人。
「あれ、華緒?」
自分の声が震えているのを、和歌子は自覚できなかった。
片方に胸当てをした棒切れのような少女――九天玄女。二口の剣で明らかな優勢を見せている。
もう一方は。
「嘘……」
こちらも女性らしいとはお世辞にも言えない細い身体。走る足には也子が着ていた細身のデニム。だがその上にあるものは。
破れた袖から覗く隆々とした筋肉、蒼黒い肌、頭に黒く張り付いた髪の毛。月光に閃く、鋭い牙。
片方の腕を刃と化し、もう片方で幅広の剣を持ち。
あり得ないほどの跳躍と、身体能力。
幼い少女に躍りかかるそのさまは、紛うかたなき化け物――。
「眼を逸らすな」
醜怪なその姿に、思わず眼を伏せようとした時、緒方が肩に手を載せた。
「緒方」
「どんな姿になっても、あれはまだ華緒だ」
緒方はまっすぐに華緒を見つめる。
「俺には分かる。あいつはまだ何も手放しちゃいない」
視線の先を辿る。華緒は大きく玄女から後退しようとしていた。
「華緒、下がるな! 離れれば天罡の雷撃の餌食だ!」
声が聞こえたのだろう、はっとしたように緒方の方を見、それから再び玄女の方へ走り寄る。
「正解です、緒方くん。天罡の雷撃とやらは、十分に距離がないと使えない代物です。僕たちも少し近づきましょうか、ここで僕らが餌食になっては元も子もない」
緒方は梶村に頷く。だがその顔がこわばる。
「……とはいえ、近づけさせない肚のようだな」
妖が集まってきていた。玄女と華緒を中心として、まるで彼らを守るかのように円陣に。
「雷撃を落せる位置まで俺らを離し、そのうえで人質に利用する算段か。さすがだな」
緒方が悔しそうにつぶやいた。悔しいが、その通りだと和歌子も頷く。
その時だった。角端の足元が光った、かと思えば。
「わあ!」
吹きあげる爆風。まるで地雷でもあったかのように、次々に角端や他の妖たちが地面からの爆風を受けて飛ばされていく。
「……いいところに来たでしょ?」
背後に降り立つ影がそう言う。甘えたようないつものその声に振り返って、和歌子は絶句した。
「弼……」
流れる左の肩を右手で押さえ、弼が立っていた。左腕は肩からない。
更に右頭部も血に濡れていた。左眼しか開いていない。血が滲みるせいか、それとも右眼が潰されたのか。
「和歌子先輩~、僕ね、やっぱり強かったみたい」
その場に倒れ込む弼に和歌子は駆け寄り、抱きとめる。勢いよくそのまま地面に座り込んだ。
へへ、と和歌子の膝の上で仰向けになって、弼は笑った。
「でも今のでホントにもうガス欠。今なら和歌子先輩の呪札一枚で殺せるよー。やってみる?」
「死ぬなバカ!」
和歌子は思わず怒鳴り、直後、その頬の上に何かが伝うのを感じた。
顎の下から落ちて、驚いた弼の顔に落ちる。
「あんたが死んだら……華緒が悲しむでしょう!」
「お人好しだもんね、華緒」
弼はへらへらと笑う。本当にもう力が入らないようだった。
「どうして、こんな……」
柔らかな栗色の髪は血糊で固まり、ふっくらした頬には無数の傷が口を開けている。右眼は血で蓋されていて開く気配もない。どうやら本当に潰されているらしい。
和歌子は左肩に手を伸ばそうとした。その手を、弼の右腕が止める。
「呪が掛かってる。触らない方がいい」
「引き受けるわよ、呪いのひとつやふたつ!」
なぜか和歌子は激昂していた。弼が眼を瞠る。
「しっかりしなさい! はやく回復しなさいよ! いつもみたいに軽口叩いてなさいよ! 檮杌でしょう! 四凶なんでしょう! あんたが、……あんたが死んだりしたら」
ボロボロと涙を落す和歌子の頬を、弼がそっと触る。力なく笑った。
「和歌子先輩がキスしてくれたら治……んっ!?」
言い終わらないうちに、和歌子は弼の唇に自分の唇を押し付けていた。
「……治しなさいよ、これで」
驚いたように目を見開いた弼が、ゆっくりとその眼を笑みに形取る。
「……もう一回」
「甘えるな」
和歌子は強く弼を睨んだ。
「遊んでる場合じゃないですよ」
焦ったような梶村の声に顔をあげる。
「残った妖が集まり始めている。すぐに移動を」
「でも」
和歌子は満身創痍の弼を見下ろす。
「儂が運ぼう」
声に振り返ると、そこには聖娘子を支えるようにして立つ鉄拐が立っていた。
「鬼雛と玄女が戦っておると報せたで、麻姑ちゃんもすぐに来るじゃろ。もっともその場合は閃電娘娘も追ってくるだろうがの」
鉄拐は二人の戦いを凝視する。
「八仙たる儂や麻姑ちゃんがおるで、天罡の雷撃は撃たぬかもしれん、と楽観視したいところじゃが、むしろ裏切り者と断じて遠慮なく雷撃を落すことは充分に考えられる。玄女は非情じゃでな」
どれだけ怖い人なんでしょうね、と梶村が呆れたようにつぶやいた。
「じゃが玄女の思い通りにはさせぬ。天罡の雷撃は使わせんよ」
「いざとなったら、私の結界に入れてあげるわよ」
その場に降り立った気配に全員が振り向く。
「麻姑ちゃん」
麻姑も衣服に無数の破れがある。腕と脚の付近に、濃い血の染みが見て取れた。それでも完璧な姿態の腰に手をやり、ふん、と顎を反らす。
「天罡の雷撃なぞ、結界内部にまでは絶対に届かないわ。ただし、この場では外傷が大きいでしょうから結界が吹っ飛んで、内部だけ亜空間に逃げちゃって戻ってこれない可能性もあるけどいい?」
「……丁重にご辞退を」
全員がコントのように息を合わせて一斉に頭を下げる。もう、と麻姑が頬を膨らませる。
「じゃあ、とっととあの二人の近くに行くしかないんじゃないの!」
それ寄越しなさい、と和歌子から弼を奪い、抱き上げる。
「えー、こんな年増より和歌子先輩のほうがいい」
「殺すぞえ」
至近距離で凄まれて本気で怯えたらしい弼が口を噤む。とはいえ、本当に動けないのだろう、ぐったりと身体を預けたその姿はただの幼い中学生にしか見えなくて。
和歌子は苦笑した。殊勝な姿を見れたことが、なんだか嬉しかった。
もしかしたらSっ気があるのだろうか。自分には。
「動くぞ!」
鉄拐の声に、全員が頷いた。
3
皆がこちらに近寄り始めた。こうなっては天罡の雷撃が使えないだろう。
「生意気なことを」
玄女がそう口走ったのが聞こえた。不愉快さを隠しもせず、玄女は私を見据える。
「勝ち目もないこの戦いに命を擲つ阿呆ばかりだの」
勝ち目のないことは解っている。さきほど頬にざっくりと走った傷がゆっくりと閉じていく。
玄女は強かった。
二刀流を見るのは初めてじゃない。聖さんもそうだし、かくいう私も左を刃に、右に踊哭を持ち戦ってきた。
だが玄女のそれは段違いだった。
第一に捷さ。単に素早いのとは違い、まるで光だけが舞うように閃く。一瞬で、空気までを切断する。
動きに無駄はない。運ぶ足が見えない。気が付いたら眼前に刃先の光があって、必死に剣を持ち上げるのが精いっぱいだ。すりあげて飛び退る。
そのわずかな距離さえ、一瞬でつめられて脇腹を強かに足の裏で蹴られた。
息が止まるほどの衝撃で、砂丘に吹っ飛ぶ。だが、咄嗟に身を反転させる。その場に斜めに、しかも半ば以上突き刺さる剣は、明らかに殺意を持って投げられたもので。
体勢を整え構える脇で、その剣が自分の脇を勝手に飛んで、玄女の手に納まる。聖さんと同じタイプの飛刀なのだろう。
――聖さんと、似てる。
聖さんに聖姑姑の記憶はないという。だが聖姑姑は天罡を知り、玄女も熟知している。
だとすればこれは天罡の技なのだろうか。
剣技も含め、やはり無意識のうちに思い出した記憶があったのだろうか。
「気を散じるな、華緒!」
聖さんの声にはっとして頭を下げる。剣が頭上を越えていく。ほっとしたのもつかの間。
「甘いっ!」
顔面に鋭い蹴りが入る。
吹っ飛ばされて、すぐにまた起き上がる。
「弱いのう、鬼雛よ」
まったく傷のついていない身体。痛みに顔を顰める。鼻が潰されたらしい。片眼にも衝撃があり、開けていられない。
「踊哭はお飾りかえ? もっともお前のようなものにまともに扱えるとも思えぬが」
血をしたたらせながら立ちあがる。玄女が双眸を光らせた。
「確かにこの距離では天罡の雷撃も撃つことは叶わぬが、それで私を制したつもりならお笑い草というものだ。観衆の前で膾にしてやる」
余裕を見せて彼女は微笑んだ。
「華緒!」
近くでみんなの声がする。私は流れてくる血を乱暴に拭った。
玄女の殺意は本物だ。
「うおおおおー!」
踊哭を構え、叫びながら突進する。
「遅いっ!」
玄女が消えた。目標を失って棒立ちになる私の右を上から何かが通り抜ける。
右腕が飛んだ。踊哭が吹っ飛んでいく。
「はっ……があっ!」
肩から血飛沫があがる。直後の激痛に、私はたまらず叫んだ。
「こんなものではなかろう、鬼雛よ」
玄女は更に私に向かって走る。反射的に左の腕の刃を構えるが、それも斜めに切り落とされる。
「あああっ!」
血を撒きながら跳躍し、その場から離れようとする。が。
「逃がすかえ」
少女は薄く笑ったようだった。
跳躍を繰り返しながら荒い息を吐き、私は喘ぐ。
「……踊哭……」
見えなくなった剣を呼ぶ。だが応える光はない。
風を切って再び跳躍し、着陸する。はっと顔をあげると、天空に影が見えた。
凄まじい勢いで滑空してくる影――玄女。
――もう避けられない。
「わあああ!」
――――そして、辺りが光に包まれた。
※※※
何が起こったのかを光の中で把握する。
自分の両腕が生えていた。肩が焼けるように熱い。腕の先から滴る血も乾かないうちに、その傷は熱とともに再生していた。
すぐ目の前に、ひときわ輝く光の塊がある。
(……贏って)
誰の声……?
無意識に自分の手がその声に向かって伸ばされる。
光の塊の中に手を突っ込むと同時に、視界が開けた。
※※※
「貴様……」
眼の前に玄女がいる。その顔が憎悪に歪んでいた。片手の剣先から滴る赤いものは、玄女の血のようだった。
「……その真紅の眸。そうか、ようやく最終形態になったというか」
改めて自分を見下ろす。やはり切られたはずの腕が再生している。左の刃も復元していた。
さきほどと何が変わったのかわからなかった。
だが――右の手に、踊哭が戻っていた。
「踊哭……」
さきほどの声。光の塊。
――あれは。
「華緒!」
呼ばれて振り向く。驚愕を浮かべた人たちが視界に入った。
「……みんな」
私は鬼頭刀に自分を映した。磨き上げた剣は、鏡のように私を映す。
そこには――鬼が居た。
赤い双眸。弼が力を出すときのように、真っ赤な。
頬骨の下あたりまで口は裂けていた。そこから親指ほどもある大きな牙が二本覗いている。
蒼黒くごつごつした肌。
そして頭上に突きだしたのは――二本の角。
まごうかたなき、鬼の証。
――雲外鏡。
照魔の鏡。あれに映し出された姿はやはり嘘ではなかったのだ。
「華緒! 構わずやっつけちゃいなさい!」
和歌子ちゃんが叫んでいる。
「和歌……」
――こんな姿になっても、まだ華緒と呼んでくれるの?
「華緒! 勝つんだ! 諦めるな!」
緒方も叫んでいる。
倒れ込み、それでも上半身をあげまっすぐに私を見つめる弼、腹を押さえながら眼を逸らさない聖さん、その背後に立つ鉄拐と麻姑と、眼鏡を光らせる梶村が見える。
この姿を見ても、怯えず、厭わず、私を信じてくれる人たちがいる。
踊哭を構えた。眼の端から、涙が落ちる。
夜も更けた、と世間話でもするように天を仰いで玄女がつぶやいた。
顔を戻して、私を見据える。
「次で終わらせる」
眼前にその剣を構えた。
―――きっと。
今、正義はどちらかと問われたら。
この場を見た人は百人中百人、私たちが悪だと判断するだろう。
私たちは人に危害を及ぼしかねない、邪悪な妖の集まりで。
崑崙――玄女は、その脅威を取り除くために遣わされた正義の軍勢で。
あどけない少女が、醜怪な化け物を相手取って戦うこの図は、きっと見る者のほとんどを彼女の味方につけることだろう。
――生きることが、悪だとしても。
「うおおおおおー!!」
あらん限りの声を出して、私は走り出す。
――相手がどれほど過酷な運命だとしても。
『生き延びるんだよ華緒。自分を信じて』
私は諦めるわけにはいかない。
――あの人が生きろと言ってくれた、この命を。
鬼頭刀は玄女の剣をかいくぐって、その肩に深く食い込む。だが。
「死ね」
残った右の一本で、玄女は下から私の左腕を切り落とし、返す刀でそのまま腹を裂き、己の肩に食い込んだ鬼頭刀をも弾きあげた。
キン、と硬質な音を立てて、踊哭が弾かれる。
体勢を崩す私の腹を横から回し蹴りで飛ばし、うつぶせに転がり落ちた先で、背中に激痛が走った。
「ああああーっ!」
玄女の剣が、背中から地面に私を縫いとめているのだと悟った時、口から大量の血が溢れた。
「ここまでだ、鬼雛よ」
玄女が砂を踏んで近づいてくる足音がした。
びくびく、と身体が痙攣する。
「私も甘い。一撃で殺してやればよかったが、少しムキになったようだ」
残った手元の剣の腹で、血泡を吹く私の顎を持ち上げる。
「最後に遺す言葉があるなら聴いてやる」
睨みつけた先で、涙が伝った。
――ごめんなさい。
たくさん支えてもらったのに、駄目だった。
緒方、和歌子ちゃん、聖さん、弼。鉄拐さん、麻姑さん、梶村先生。
皆、死にもの狂いで戦ってくれた。
私を生かすために。命を繋ぐ可能性に懸けるために。
だけど、力が、及ばなかった。
「何もないなら……私も命を全うするまでのこと」
玄女は、私の頭上に剣を構えたようだった。
貫かれて絶命する。もう結末は見えているのに。
残った力で、顔をあげた。
玄女の顔は見えない。足元に、残った手を伸ばす。
――血まみれの右手を、伸ばす。
「往生際が悪かろう、鬼雛よ」
「……願」
ん、と玄女が問いを発する。
「今際の言葉なら聞いてやるが、助命はないものと思えよ」
片膝をつくその動きで、少女の顔が見えた。幼い、感情の籠らないその顔を必死で見上げる。
伸ばす手が、望むことは、ただひとつだけ――。
「……して」
玄女が怪訝そうに眉を寄せた。
「お願……返して」
ここで殺されるのが私の運命で、どうしても覆らないとしたら、それでもいい。
闘って敗北したそれが結果なら、甘んじて受け入れよう。
「あの人を、返して」
――だけど、あの人はそうじゃなかったはずだ!
息を飲んだように玄女がその細い眼を瞠る。
「玄焔を、返して」
『華緒』
困った子だね、という声が甦る。
ちょっと呆れたような、それでいて愛おしさにあふれた声。
絶対に死なないでという約束はひどい。
――あなたの居ない世界で、生きていく意味なんてないのに!
「私の先輩を返してよおっ!」
わああとこらえきれずに号泣した。
――どうして今、ここにあなたがいない。
『泣き虫だね、華緒』
そう言って頭に乗せてくれる、大きな手が、なぜここにない。
人ならぬ姿になり果て、それでも必死に生きるために戦ったのは、全部――全部、あなたの約束のせいなのに。
死なないと約束させた本人がどうしてこの場にいない。
なぜ私は記憶の声しか聴くことができない。
「玄焔を戻すことは不可能だ。奴は……死んだのだ」
少しだけかすれた声が聞こえた。
涙の中に、揺らぐ玄女の姿が見える。彼女が剣を持ち上げた。
「奴の後を追わせてやろう。これも慈悲だ」
ああ、と私は涙をこぼした。
――先輩に会えるだろうか。約束を守らなかったと、叱ってくれるだろうか。
それでもいい、と私は頭を垂れた。
――会いたい。
会いたくてたまらない。
訪れようとする死は、頑張った私へのご褒美なのかもしれなかった。
「先輩……」
だが呟いた私の耳に聞こえたのは、剣が空を切る音ではなく―――。
「それまで」
聞いたこともない、誰かの声だった。
4
玄女が素早くその場に跪くのが見えた。
顔をあげる。海の向こうが光っていて、一瞬、太陽が昇ったのかと思った。
否、――朝陽ではない。
金色の光に包まれるようにして、何かが近づいてきていた。
「大儀であったの」
声は頭上から降ってくる。
「元君。まさかこのような場に」
「観音に乞われたでな。よいよい。……鬼雛の子の剣を抜いておやり」
玄女は言われるままに私の背から乱暴に剣を引き抜いた。
「あああっ!」
激痛に体を縮める。どくどくと血が流れる音がする。
「元君の前だ、跪け」
のたうちまわる私に、玄女が冷静に恐ろしいことを言う。
「元、君……?」
「九霊太妙瑶池金母元君だ」
「西王母、と言えばそなたにもわかるかえ?」
はっとして顔をあげる。影が見えた。
だけど金色の後光のせいで、まったく顔が見えないのですけど……。
「さっさと礼を取らぬかノロマめ」
「よい。傷もまだ塞がっておらぬ。無理を言うでない」
西王母が優しく窘める。
「しかし元君。まだご下命を全うできておりませぬ」
「命は撤回する。鬼雛を殺す必要はない」
え、と私と玄女は同時に顔をあげた。
「……なぜですか」
私の問いがおかしかったのだろう、西王母は小さく笑ったようだった。
「おや、そなたは殺して欲しかったかえ?」
ここで頷いたら、聖さんたちの叱責が怖い、と妙なことを考えてしまい、口を噤む。
「危険です。ご覧ください、このような化け物を野放しにするなど!」
剣を抜かれてしばらくすると、腕は元の通りに生えてきた。鬼雛の回復力はすごい。だが、これまでと違い、ひどく遅いようだった。
その証拠に、背中を貫通した傷と腕だけがなんとか回復し、他の傷口はぱっくりと開いたままだ。血もまだ流れている。
いつまでたっても、それらには回復の兆しはなかった。
「鬼雛の力は既に半ば以上尽きておる。どんなものでも酷使すれば枯渇する。無尽蔵ではないゆえの」
しかし、と反駁する玄女に、声がかかった。
「……ならばやはり生け捕りにしてもよろしいですわね、母上」
背後から近づいてきたのは、閃電娘娘を従えた玉巵だった。
「ならぬ。玉巵、この者に介入するは今後一切罷りならぬ」
どうして、と不平があがるが、西王母は冷ややかに言う。
「そなたの私怨で鬼雛を利用してはならぬ」
玉巵はその一言で沈黙した。
「玄女や。この者にもう危険はない」
「何故でございます。腐っても鬼雛だというのに」
腐ってはないです……まだ。反論したかったが、玄女の剣幕が怖くて何も言えなかった。
西王母は静かに言う。
「この期に至って、この者の自我が啖われておらぬのが、何よりの証左じゃ」
へ、と全員がきょとんとした顔をした。
「思慕、いや情愛か。そなたの言う危険な鬼雛がそのような言葉を口にするかえ?」
先輩を返して、と叫んだ言葉を聞かれていたのだろう、一気に恥ずかしくなった。
「この最終形態で、この者が意識を保っていることは奇跡だ。これ以上の極限状態はあるまい。鬼雛は宿主の自我を啖らうどころか、もはやこの者の魂と融合したとみるのが正しかろうな」
西王母の優しい声が降る。
「鬼卵石に胡媚児の魂が入り込むなどあり得ぬことが起こり、あまつさえその鬼卵石が人の眼に落ち、癒着してまさかの孵化、さらに鬼雛の目付に遣わした金毛犼が心惹かれたこと――もはやすべてが天命だとしか思えぬ」
人の子よ、と呼ばれて顔をあげる。……相変わらず逆光で何も見えないんですが。
「そなたの玄焔を想う気持ちが、そなたの命を救ったのだね」
――鬼雛に君の自我を啖らわせたりしない。君を死なせもしない。緒方君にも殺させない。
涙があふれる。
あの時、言われた言葉はすべて現実になった。
あなたは本当にそれを叶えたのだ。
――自身の死によって。
わああん、と人前にも関わらず、私は声をあげて泣いた。
「……そんなことどうでもいいから、先輩を返してよぉ!」
失笑が起こる。失敬な、と玄女が苛立った声は自分の泣き声で聞こえなかった。
「金母元君」
老人の声がした。泣きじゃっくりが収まらず、しゃくりあげながら見れば鉄拐と、彼に抱えられるようにした聖さんが近くまで来ていた。彼女はわずかに目礼する。
「お初にお目にかかる」
「聖娘子だね。そなたの前世は、私もよく知っておるよ」
冷ややかな言葉の応酬に、少しだけ肝が冷えた。
「金毛犼玄焔の魂魄の一部は、まだ私が持っておる」
ぎょっとしたように全員が息を飲んだ。
「本人に頼まれたのでな。保険を掛けると。まさかこのような事態になるとは思わなんだが」
――万、いや億が一のための保険をかけておきたい。あなたにはそれが出来ると思うので。
和歌子ちゃんの病室で、そういっていた先輩を思いだす。
聖さんはその場に跪く。
「華緒のため、転生をさせてはもらえぬか」
頭を下げる。
「……愛娘のための頼みか。母であるこの身には、それも判らぬではないが」
西王母は苦笑したようだった。
「彼の魂は観世音菩薩の元にある。魂魄を送ったところで、どうなさるかは菩薩のご采配次第だ。私には何も言えぬ」
「構わぬ。受け取ってもらえるか」
聖さんは掌から一つの白く、丸い玉を生み出すと、それを送り出すように放った。
ふわふわとそれが空を泳ぎ、西王母の元へとたどり着く。
「預かろう」
恩に着る、と聖さんが頭を下げる。私は聖さんを見つめる。
「転生……先輩が?」
「華緒。私や媚児を見ればわかるであろうが、転生した者に前世の記憶はないのだよ。同じ魂魄を入れたところで、どこまで記憶を有するかは解らぬ。そなたを見ても、愛おしいという感情どころか、判別すらつかぬかもしれぬのだよ。それでも……」
私は胸を押さえた。
――私は知ってる。
粗末な小屋、送り出した母の声、耳元で鳴った簪。
あの夢の中の切ない感情。
あれが媚児のものでなければ、なんだと言うのだろう。
信じられる。
聖さんの中に無意識に見え隠れする、聖姑姑の記憶も、媚児の記憶も。
――それは魂にも、きっと。
「待てます」
私は先ほどとは違う涙を流しながらそう言った。
――全部終わったら……一緒に暮らしましょうか。
信じてる。あの言葉を。
「待ちます。絶対に待ちます。一生かかっても」
涙が落ちるそばから、その雫に当たった腕の皮膚が溶けていく。その下から柔らかい、人の皮膚が出てきた。
「……ありがとう」
私は顔をあげる。聖さんが近寄ってきて、小さい子どもにするように手で涙を拭ってくれた。
皮膚の擦れる音が耳に聞こえる。冷たい空気に晒された素肌が、息を吹き返すようで気持ちよかった。
「……元のカオだよ」
私は思わず聖さんに抱きついた。
それが、シャレであっても、今はツッコむのをよそうと思った。
海上から、本物の年始の朝陽が昇りはじめていた。




