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【5】 1章 錯落

1章 錯落(さくらく)



「我が旅に大禍(たいか)なきよう」


 二歩進んで止まり、また二歩進んで止まる。


まるでなじんだもののように滑らかに、だけど私の知らない動き方をしながら、そのたびに自分の口がそう唱えている。


()(てい)のために道を(はら)わん」


 唱え終わって、地面に拝礼する。拝礼の先は、白土で描かれた北斗だ。


「では行って参ります」


 振り返ると、眩い朝の陽の逆光でその人の顔は見えなかった。


 ただひどく懐かしいと思った。切なさに心が絞られるほどに。


 ――大好きな人。


「気をつけて……()


 一礼して踵を返す。耳元でシャラン、と涼やかな音が鳴る。


 思わず手を遣る。


 懐かしい音――でもそれが何かを思いだせない。


 進む道の先を見据えて歩きながら、なぜか頬に涙がこぼれていた。


 二度とその安穏な暮らしに戻ることのないことを、この時察していたのかもしれない。


 見たこともない山道。なのに足は躊躇なく先へと進む。


 ――木立ちの向こうに(まばゆ)い光が集まっていた。


            ※※※

(まぶた)を開ける前から、睫毛(まつげ)が濡れているのがわかった。


知らない夢だった。見たこともない風景だ。一体なんだったんだろう。


 ただものすごく懐かしくて、切なかった。


 瞼をこすってから、改めて眼を開ける。薄暗がりに和格子の天井が見えた。自分の家じゃないことは確かだ。


「……どこ?」


 体を起こした。とたんに節々が痛い。いきなり頭が割れるように痛み出した。


この感覚には覚えがある。風邪の時の症状にひどく似てる。熱が出ているのかもしれなかった。(だる)い。(のど)が渇く。


「……水」


 枕もとを見るが、サイドボードには飲み物らしきものはなかった。デジタルの時計が置かれている。四時五分を指している。AM表示。日付は十二月三十一日となっていた。


 ――……大晦日?


「私何日寝てたんだろう……」


 ぼんやりした頭で記憶を探る。終業式は十二月二十四日だったはずだ。そこからの記憶がない。


一週間近くも私は寝ていたのだろうか。


 二十四日――あの日のことを思いかえす。


 終業式後、私たちは『布袋(ほてい)』に集まった。そこで虹彩だけでなく、黒目の色がすっかり変わっていることを指摘された私は若槻医院へ向かう。


コンタクトを処方された後、妖怪たちの挑発に乗る形で百武神社へ向かい、私はそこで―彼らを殺した。


 右腕で眼を覆う。


――肉を裂く感触、鼻に(よみがえ)る血の臭気。


 誰にも見られたくなかった。なのにそこに緒方がやってきたのだ。


 私は怯えた。その姿を緒方に見られることに。


だけど。


 ――好きだよ、華緒。


 記憶の声に胸がしめつけられる。


『自分が一人だと思うな。横には立てないかもしれない、だが俺たちは必ずお前の背後で支えているから』


 その後、弼によって第三の妖怪による襲撃の報がもたらされ、私たちは学校に避難した。


 だが学校の前で待ち受けていたのは佐久間先輩と麻姑、そして第三の妖怪の使役である途方もない数の妖怪たちだった。


 校舎に逃げたのは私と和歌子ちゃん、緒方だったが、一瞬の間隙をついて二人は尻尾が(ふた)(また)に分かれた巨大な蛇に捕まってしまう。


 蛇を倒しはしたものの、和歌子ちゃんと緒方が大怪我をし、居合わせた梶村先生に病院に連れて行ってもらった。


――そういえばふたりは大丈夫だったのだろうか。


 不安が首をもたげるが、ひとまず頭を振る。


 二人を傷つけてしまったことに激怒した私は、校舎内で第三の妖怪を捜した。


 たくさんの妖怪を駒として使いながら、なにひとつ自分の手を汚すことなく、高みの見物を決め込んで。


その卑怯さに眼の前が真っ赤になるほどの怒りを覚えていた。


だがそこで誰かの張った罠――誰かの結界に自ら飛び込んでしまったのだ。


真っ白に発光する空間。(はて)のない、だだっ広い空間の中で、私は直前に麻姑に言われた言葉に衝撃を受けていた。


『本当はね、妖怪が鬼雛を()らうんじゃないの。鬼雛が妖怪を啖らうのよ』


――鬼雛は自分を()った妖怪(もの)の自我を啖らう。


 鬼雛の出現は(まれ)中の稀、奇跡の割合に近いという。


『二千年以上前の鬼雛は、名もない無害な妖が偶然手に入れたとされているわね。()らった直後、ヤツは残虐の限りを尽くし南大西洋にあった大陸をひとつ、いとも簡単に沈めた。事態を鎮圧するのに数百万の神仙と妖が投入され、犠牲者の数は当時の人間だけでも万単位。完全な収束までおよそ百年。……これがどういうことだかわかるわね?』


双眸(そうぼう)は完全に(みどり)に変わった。これは鬼雛が私自身を啖らい始めている証拠ではないのか。


 ものすごく怖かった。その怯えを鬼雛は感じ取ったのだろう。ずっと()いていた。哀しみは直に私の中に流れ込む。だけど、私にはどうしてやることもできなかった。


鬼雛の哀しみを無視して、私は私で怯えて泣いて――泣き疲れて、そのまま結界の中で寝てしまった。


 眼が覚め時、私は誰かに抱えられていた。


――大きな手で目隠しをされて。


それが佐久間先輩であることはすぐにわかった。


 ――どれほど、この手に焦がれただろう。


『僕はあなたの敵になる』


『僕はあなたを殺しに行きます』


二度と触れることなどないと思っていた、手だ。


その瞬間――すべての感情が(せき)を切ってあふれだした。


 ――先輩が好き。


単純な解答だった。それが鬼雛の感情だとか、相手が妖怪だとか、そういう迷いが一瞬にして消えた。


 だから。


『殺してください』


 そう懇願していた。


もう嘘や迷いはなかった。偽ることも出来ない。


鬼雛も先輩も。嫌いになれるわけがないのだ。


 だから、私の自我を鬼雛が啖らってしまうまえに、大好きな先輩の手ですべてを終わりにするつもりだった。……のに。


『死なせない』


 抱きしめられた胸の中で、その強い声だけが耳に残る。


 ――殺すと言っていたのに、なぜそんなことを言ったのだろう。


 疑問は解消されていない。先輩は姿を見せずに、そのまま消えてしまったからだ。


 校舎の屋上で、弼と聖さんと()()を排除したことまでは覚えている。


ちらりと見かけた麻姑の厳しい表情と、美しい朝陽がなぜか不吉に思えたこと。


 私の記憶はそこまでだ。


「んで、ここはどこなのよ……」


 ひどい喉の渇きを覚えて私は部屋を見回す。


 ホテルなんかじゃなさそうだった。見知らぬ部屋。和洋室、というのだろうか。障子や格子なんかがあるのに、床はフローリングでベッドが置いてある。


 ふらつく頭をどうにか起こして、ベッドから降りる。素足にひんやりとした感触が伝わってくる。


 そこでようやく気づいた。自分がパジャマを着ていることに。


「しかもこれ、私のだ……」


 私の――先輩が私のために用意してくれたパジャマだ。オーガニックコットンで、とても柔らかいサーモンピンク。


 あのマンションの、三か月にも満たない生活の中で、すっかり定着していたパジャマ。


だけど、家に戻ってからは一度も見ていない。璿璣(せんき)なのか先輩なのかは知らないけど、マンションを出た日に、部屋に大きなスポーツバッグが届けられていた。開けてもいないその中に、つまりこれが入っていたのだろうか。


私がピンクで、先輩が薄いグリーン。お揃いだった。


見慣れているのはあの広いリビングで、パジャマ姿でよくだらだらしたからだ。


湯冷めするよと言いながら、先輩はマグカップを持ってくる。私には紅茶だったりミルクだったりしたが、いつも決まって暖かい飲み物だった。


先輩は判で押したように毎回珈琲。たまに飲ませてもらったけど、苦くていつも全部飲めなかった。そんな私の飲み残しを、彼は笑いながら飲み干した。よほどの珈琲好きなんだと感心したことを覚えている。


夕食後、風呂に入ってからそれぞれの部屋に入るまでの時間。


リビングにしかテレビがないということも理由のひとつだったが、いつの間にかテレビがついてなくても、なぜかいつもそこに足を向けるようになっていた。


くだらない番組で一緒に笑ったり、鬼雛や妖怪の真面目な話をしたり、オセロやチェスでちょっとした勝負をしたり、うっかりそのまま寝入ったり。


 ――たぶん、そのころから好きだったんだろう。 


私は胸を押さえる。 


そうでなきゃ、パジャマひとつでこんなに鮮明に思い出したりしない。


 こんなに――会いたいなんて、思わない。


 その時、ドアの向こうでカタン、と音がした。


 はっと顔をあげる。まさか、という思いが脳裏をよぎる。


 ――ひょっとして。


「せん……」


「華―緒―、起きてる?」


 開いたドアからひょいと顔を(のぞ)かせたのは、小さな影。


 ――青山弼だった。


                ※※※

 がっかりしちゃいけないとわかっているのに、ものすごくがっかりする。弾んだ心が足元まで落ちていく。


「華緒ってば正直すぎ」


 入ってきた弼が頬をふくらます。


「なにがよ」


「僕でがっかりしたんでしょ、今」


 ち。見透かされたことに思わず舌打ちする。


「華緒は嘘つけないもんね」


 そこがいいんだけど、と弼は肩を竦めて、サイドテーブルにペットボトルとコップを置いた。ミネラルウォーターだった。


「起きてたら喉が渇いてるかもって思ってさ」


「ありがと」


「起きるんなら何かを掛けないと風邪ひくよ。ってもう遅いけど」


「……やっぱそうなの?」


 弼は頷く。ベッドに腰掛けて水を飲む私に、そつなくストールを掛けてくれた。


 喉を滑り落ちていく水が冷たすぎて痛い。手に持った時は常温だと思ったのに。それだけ熱があるということなのだろう。喉は痛いのに、身体は貪欲に水を欲している。あっという間にペットボトルのほとんどを飲み干してしまった。


「結構高い熱出てたんだよ。聖娘子が(せん)じ薬を飲ませてからは落ち着いたけど。でもまだ熱を出しきってはいないと思うから寝てたら? 今のところ、第三の妖怪も佐久間たちにも動きはない。てゆーか、そもそも僕の結界内だけどね、ここは」


 そうそう破られることはないよ、と弼は胸を張る。


「そうなの?」


 ここは弼の家だという。つまり和歌子ちゃん家の二軒隣、我が黒田家にとっても近所というわけだ。


「私、どうしてここにいるの?」


「屋上でぶっ倒れたから」


 弼の言葉は簡潔だ。でもなんかよくわかる気がする。


 以前、こいつを倒した時(というのも変な気がするが)、私は一週間寝込んだという。鬼雛の力を使うと、その反動か、身体がひどく消耗するようだった。


「和歌子ちゃんと、緒方は?」


「無事だよ。聖娘子が確認した。起きたらまず華緒がそこを気にするだろうからってね」


 さすがだ聖さん。


「でも和歌子先輩はまだ入院してるよ。緒方先輩は退院したけど」


「和歌子ちゃん、そんなに重傷なの!?」


 弼は苦笑した。


「大丈夫だって。ちょっと肋骨を二本折っただけだよ」


「あんたね! それはちょっとってレベルじゃないでしょ!」


 慌てて立ち上がろうとする私を、弼は押しとどめる。


「華緒。ダメだって。僕ら和歌子先輩から厳命されてんだよ。『華緒を単身で寄越したら殺す』ってね」


 そんな、と私は愕然(がくぜん)と眼を瞠る。


「華緒がそうやって泡食って駆けつけるだろうことを見越してんだよ。でもってそういう華緒がどうせ隙だらけで、見舞いに来る途中で第三の妖怪なんかにうっかり襲われたり、さらわれたりするだろうこともね」


「……そんな」


 そんなに間抜けじゃない、と反論したかったが、残念なことに根拠がない。弼は笑った。


「厳命できるくらい、和歌子先輩は元気だよ。電話でコルセットが(かゆ)いって嘆いてたし」


 そう、と私はベッドに再び座り込む。無意識に手は左の耳を押さえる。


 ――和歌子ちゃん、他人の心配をしてる場合じゃないのに。


 優しい気遣いが伝わってくる。


「緒方先輩はたぶん今日も様子見にくるよ。あの人は肋骨の(ひび)だけだったから」


 申し訳ない気持ちでいっぱいだった。私はコップを(つか)んだままうなだれる。


「聖さんは?」


「今日も来るよ。てか華緒が今日あたり眼が覚めないようなら、また違う薬を煎じるって言ってたから」


 あれ臭いよね、と弼が顔をしかめる。記憶がないから頷きようもないが。


「私、倒れた日からずっとここにいるの?」


 うん、と弼は苦笑する。


「心配しなくていいよ。華緒の両親は、華緒がまだ例の伯母さん家にいるって思ってるし、どのみち今日本にいないし」


「いない? どういうこと?」


 まさか妖怪が両親にまで手を伸ばしたとか? 蒼白になった私に、弼は微笑んだ。


「そんなぎょっとしないでよ。華緒の両親に海外旅行のチケットを当ててあげたんだよ。だから、年末年始併せて一週間くらいいないんだよ。ちょうどよかったね」


 行先はハワイだよ、と弼はあっさり言う。私は思わずその顔を睨んでいた。


 ――暗示とかチケット当てるとか、そういう細かい芸当ができるんならもっと早く言え。


 口には出さなかったが、弼はそんな気持ちを正確に読み取れるようだ。


「佐久間に出来て僕に出来ないことがあると思う?」


 苦笑するしかない。


 弼の話によると、屋上でぶっ倒れた私は、昏々と眠り続けていたらしい。その間、巴蛇が開けたグラウンドの整備などは弼と聖さんがやってくれたらしく(意外にアフターサービスがいい)、私は素直にそれをありがたいと思った。僕らも人に馴染んできたんだよ、と弼は笑う。


「華緒、そろそろ寝たら? またほっぺた赤くなってきてるよ」


 弼が小さな手で私の頬を軽くたたく。頷いて、私は大人しくベッドに入った。


「……弼」


「なに?」


 少年らしいあどけない笑顔で、弼は私の枕辺に座る。


 ――あの後、あのヒトはいったいどこに……。


 私は少し逡巡して、首を振った。


「いい。なんでもない」


 聞きたいことはわかるけどねー、と弼は面白そうにほくそ笑む。


 やっぱりこいつは性格悪い。


「なんか、あいつが華緒を溺愛してた理由がわかる気がするよ」


「でっ! 溺愛ってあんたそんな!」


 とんでもない単語に私は眼を瞠る。


「あれ、違った?」


「違う! 絶対違う!」


 そんなわけないじゃん! と大きな声で否定すると、咳が出た。


「ほらほら、無理するから。……なんかね、華緒ってこっちに面倒見なきゃって気を起こさせるんだよ」


 ……なんだそりゃ。


「お荷物ってこと?」


「そうじゃなくて」


 んー、と弼は首を傾げて、それからいきなり顔を近づけた。


「ひゃあ!」


 おでこでチュッと小さな音が鳴る。


「な、何すんのよ!?」


 あはは、と楽しそうに弼が立ち上がる。


「こっちの庇護欲をかきたてるんだよ華緒は。じゃもう少し寝てなよ。なんかあったら声かけて」


 だいじょーぶ病人は襲わないって、ととんでもない発言を残して弼はドアを閉めた。


「何すんのよ、もう……」


 額に手を当てて、私は膨れる。でもなぜか笑いがこみあげた。


 ほんの半月前は敵だった。しかも危うく犯されかけた相手だというのに。


 ――もう信頼してる。


 そんな自分が不思議だった。


 聖さんも緒方も、たぶん和歌子ちゃんも同じだろう。


 そうでなければ、弼に私を任せたりはしないはずだ。


 ねじまがった性格、四凶の一角という強大な力を持つ妖――檮杌(とうこつ)


 たとえ、それが一時の気まぐれなのだとしても。


 おそらくずっと看病してくれていたんだろう。昼夜問わず、様子を見に来てもくれていたのだろう。


 まったく疲れも見せず、何考えてるかわからない存在であることは間違いないけど。


 思わず感謝が漏れた。


「ありがと」


 ――仲間になってくれて。


 私は瞼を閉じた。


 動き回るためにはよけいなことは考えず、一刻も早く体力を回復させなければならない。 


 ――行方の知れない、そのヒトのことは今は敢えて考えないようにして。

 


「華―緒―」


 差し込む陽の光に眼を開けると、弼が窓際から近寄ってくるところだった。カーテンを開けたのだろう。外は晴天のようだった。


「おはよ。気分はどう?」


「……だいじょーぶ」


 あくびをしながら上体を起こした。大丈夫、は嘘じゃない。身体を起こしてもふらつかない。気怠さや頭痛は取れていた。


 時計を見る。九時。あれからぐっすり寝ていたのだろう。夢も見なかった。頭の中の(もや)が晴れたかのようにすっきりしている。水分を摂って、汗をかいたせいだろうか。


「朝ご飯食べる? それとも着替える?」


「着替える」


 弼はベッドの下に置かれていたスポーツバックを持ってきてくれた。やはりこの中にパジャマがあったということなのだろう。ということは、私の私物は一式、この中に入っているはずだ。


「シャワー借りてもいい?」


 汗を流したかった。


「えーここで着替えないの?」


 馬鹿言わないで、と私は苦笑してバッグから着替えを出しながら、はじめてそこでケータイがないことに気が付いた。


「あれ、私のケータイは?」


 知らないよ、と弼は瞬きをする。本当に知らなさそうだった。


 私はシャワーを浴びている最中も、着替えながらもうんうんうなりながら記憶を手繰った。


 百武神社に行く時には持っていなかった。かといって学校にも持って行った記憶はない。ということは。


「あ、部屋に置きっぱかな」


 やっと思いだした。


 厚手のタイツにハーフパンツ、リボンタイのチェックのシャツにV字ネックの薄いセーターを合わせた。動きやすさを重視したが、寝ていたせいか、ただでさえ貧相な上半身が

さらに痩せている。


 お世辞にも女性らしい体つきとはいえず、まるで少年のようだった。これじゃ弼と似たり寄ったりだ。


 がっかりしながら戻ると、キッチンでは思ったよりかいがいしくその弼が動いていた。


「さ、召し上がれ」


 さすがにダイニングテーブルに小豆(あずき)(がゆ)が出てくるとは思わなかったが。


 ――(かゆ)て。


 どうして私の周囲の男子はこれほどに料理の才があるのだろうか。もはや悔しさを通り越して呆れる。自分が食べる必要もない癖に。謎だ、こいつら。


「ケータイを取りにいく?」


「ダメかな」


 やたら美味しい熱々の粥を(すす)りながら上目使いに見ると、弼は愛らしく首を傾げる。


「僕がとってこようか?」


 いいよ、と私は苦笑した。


「近所だもん」


 そうだねえと何故か窓の外を気にする風を見せてから、弼はテーブルに身を乗り出した。


「ねえ華緒。話は変わって悪いけど、聖娘子や緒方先輩が来る前に教えてよ。どうやってあの結界から出られたのさ?」


 今ここでその質問か、と私はため息をついた。


「いいけど……あんた、緒方と聖さんに内緒に出来る?」


「内緒に?」


 殺してくれと懇願したなど、二人に(ましてや和歌子ちゃんに)言えるはずもない。


 だが弼だけなら、隠さずに話ができそうだった。


 弼はにっと笑う。


「華緒が内緒にしろというなら内緒にしてあげるよ」


 頷いて私は説明を始めた。


 ――結界の中でいつの間にか、佐久間先輩が現れたこと。


 ――麻姑の話に恐怖し、先輩に鬼雛もろとも私を殺してほしいと頼んだこと。


 だが先輩は。


「ふーん、死なせない、ねえ」


 道理でね、と弼はひとりで頷いている。


「何?」


「なんでもない」


 にんまりと大人びた笑みを作る。そういえば、こいつは誰より長い時を生きていることを思いだした。


「ねえ弼。私を『死なせない』っていうのは、かなりの理由があってのことだよね。例えば……あんたみたいに、死んだらその場で疫病(えきびょう)流行(はや)るとか(たた)るとか爆発するとかさ」


「どこの国のリーサルウエポンだよ」


 呆れたように弼が言う。


「だって」


『殺さない』ではなく、『死なせない』なのだ。そういう後始末を懸念しているようにも聞こえるではないか。


「にぶちん」


「……は?」


 弼は苦笑する。


「華緒って、ほんといろいろ鈍くて疎いんだね。なるほど、これは手こずるはずだ」


「何の話よ」


「しーらない。言った人に直接聞くのが一番じゃない? あと言わずもがなだけど、聖娘子や緒方先輩の前でこの話、しない方がいいよ。八つ当たりが僕に来そうだから」


「やつ……? わかってるわよ。だから内緒って言ったでしょ?」


 叱られることくらい百も承知だ。弼は肩をすくめた。


「華緒、ケータイ取っておいで」


「いいの?」


「いいよ。身体も良くなったみたいだし。行っておいで。滅多なこともないだろう。滅多なことがあったにせよ……まあ、プライドに掛けてでも華緒の身は無事だろうし。僕が叱られることはないだろうしね」


「……何の話よ」


 こっちの話―と弼は楽しそうに笑う。


「でも出来るだけ鬼雛は使わない方向でね、華緒」


「どうしてよ」


「――また寝込みたい?」


 私は唸った。


 鬼雛の力を使った後、確かに私は何日も眠り続けている。


「今回もだし、前回もでしょ? 昏睡(こんすい)状態。大事な場面で急に倒れられると困るんだよ。わかるよね?」


 頷く。確かに一週間近くも眠るなんて、尋常ではない。


 それが鬼雛の力を使ったがためのことだというのは、説明がなくてもわかる気がした。


「鬼雛の強大な力を使うには、華緒の身体が華奢すぎるんだろうね。華緒はただの人の身だから、そもそも妖怪と癒着するだけでもかなりの消耗を強いられてるんだと思うよ」


「そうなの?」


「そうだよ。だからあの狗だってやたら華緒にモノを喰わせてきたんじゃない? 放っておけば、生気なんて全部鬼雛が持って行っちゃうだろうし」


「でも、前は痩せもせずふらつきもしなかったよ。食欲もなくても平気だったのに」


 それが間違い、と弼はため息をつく。


「鬼雛の力で正気を保っていたんだよ。その鬼雛は華緒の生気を()う。いずれ、鬼雛の力を使った時と同じように、いきなりぶっ倒れて昏睡に陥る。その後は最後の自我まで鬼雛が啖らって、結果、殺戮(さつりく)マシーンになる……って、ああ、泣かないでよ華緒」


 慌てたように弼が私の傍に駆け寄る。私は力任せに瞼を拭った。泣くなんて自分でもびっくりだ。


 驚きすぎるとこうなるのか、と頭の端っこで冷静にそんなことを考えた。


「大丈夫。じゃあ、先輩が無理にでも食べさせてくれてなければ、ひょっとしたら今頃」


「……それはあくまで僕の想像。見解。正解とは限らないよ」


 弼にまで気を遣わせてしまっている。私はため息をついた。


「全部いただきます」


 小豆粥を掻き込んだ。食欲がなくてもちゃんと食べなければ。見ていた弼が苦笑した。


「それと華緒。お出かけは昼までだよ。わかってるね? 昼過ぎたら聖娘子も緒方先輩も来る。僕だけで誤魔化せるふたりじゃないからね」


「昼って……ちょっとそこの自宅まで行くだけよ。そんな時間かからないと思うけど」


 弼は意味ありげに、にんまりと笑った。


「だといいけどね」


                     ※※※


 弼の家から和歌子ちゃんの家の前を通って自宅へと向かう。コートは着ていたが、冬とは思われぬほど暖かい陽射しが降り注いでいた。気持ちのよい散歩だったろう。


 ――その間、ずっと誰かの視線を感じていなければ。


 私だってバカじゃない(よくバカにはされるけど)。これだけ何度も命を狙われていれば、狙われることにも耐性がつく。


 鬼雛の力に頼るまでもない。明らかに複数の視線を感じていた。ただし、すぐに襲ってくる気配はなさそうなことだけが救いだが。


「……感じ悪いな」


 自宅に入り、部屋に向かう。案の定、机の上に鞄と一緒にケータイが放置されていた。


 膨大な量のメールが届いている。ほとんどがクラスメイトからの他愛もないものばかりだが。


 チェックの最中、一件のメールに指が止まった。


『俺たちは無事だ。心配するな』


 履歴は二十四日夕方。時間的に、たぶん、梶村先生の車の中からなのだろう。緒方の短いメールに思わず瞑目(めいもく)する。


 肋骨の(ひび)。どれほど痛かっただろう。どんなに苦しかっただろう。なのにその痛みを我慢して、どうしてメールなんかするのか。


 ――優しい人が、多すぎる。


 ケータイを抱きしめた。


 迷惑をかけ続けたのに、見捨てることはなかった。それどころか手を貸してくれた。応援してくれた。身体を張って守ってくれた。心配してくれた。庇ってくれた。


 ――好きになってくれた。


 私は、彼に――彼らに、何を返せるだろう。


 何が出来るだろう。


 自我を啖われる前に、死ぬことが最上だと思っていたけど。


『死なせない』


 あの言葉が引っかかる。


 先輩は一体、どういうつもりで――。


 はっとして顔をあげる。急に暗くなったような気がしたのは錯覚じゃなかった。窓を見る。


「いやああー!」


 窓にはびっしりといろんな妖怪たちが(ひし)めいていた。


                    ※※※


 いつからホラーになったんだ、と私はケータイだけをポケットに入れて慌てて玄関を飛び出した。


 あの時のように、また背後からものすごい数の妖怪たちがついてくるのがわかる。


 必死に、弼の家まで全速力で走る。が。


「いっ……!」


 足元を何かに払われた。こらえきれずにその場に転がる。直後、キシャア、と背後で何かが襲い掛かる気配がした。


 振り返る間もないほど近く。思わず手を構える。だけど。


『出来るだけ鬼雛は使わない方向でね、華緒』


 その躊躇が(あだ)となった。飛びかかる気配と吹き付ける風。一瞬で臭い息と唾が首に掛かる。もう避けようがなかった。


「うわあああー!」


 首元に何かが噛みつく気配。生暖かい血しぶきがかかる。だが。


「え……」


 おそるおそる眼を開けた。――痛くない。首元には何も噛みついていない。


 今、何かが首にかかったのに。


 腕でぬぐうと、まぎれもなくそれは血だった。だが、自分のではない。


 ドサリ、と背後で何かが倒れる音がした。


 急いで振り向くと、おそらく私を襲おうとしていた豹に似た妖怪――たしか(ばく)(ひょう)―――が、横倒しになるところだった。


 ――首のない胴体だけが。


「あ……」


 そしてその脇にこちらに背を向けて立っている人がいる。その人は自分の腕に噛みついた貘豹の頭部を力任せに外して捨てるところだった。


 ――血の流れた腕。


 私を背にして、迫りくる妖怪に対峙するその後ろ姿――。


「せ」


 呟きが口から出る前に。


 ――彼は妖怪の集団の中へと跳躍した。


                      ※※※


 妖の集団は、前衛の数匹を犠牲にした時点で、勝ち目のないことを悟ったのか、大半がすぐに姿を(くら)ませた。


 一斉にいなくなる。まるで今の騒動が嘘のように。


 はっとしてさっきの人影を捜した。


「先輩っ!!」


 叫んでみるが、そこにはもはや誰の気配もなかった。


 ……気のせいじゃない。あれは絶対に、見間違いなんかでもない。


「なぜ……」


 なぜ会えないのか。どうして姿を見せてくれないのか。


 心が波打つ。ドキドキが過ぎて、今度はなんだかムカムカしだした。


「――もう話もしたくないってこと?」


 鬼雛が私を乗っ取れば、災厄(さいやく)が降り注ぐ。それを回避するために命を絶つことが、最善だと思えた。だからせめて殺してほしいと願い出たのに。


 彼は『死なせない』と言ったのだ。


 もはや私に関わることを忌避(きひ)して「殺さない」と拒否するのなら解る。


 しかし「死なせない」というのは、一体どういう意味なのか。


「私が死ぬことを、許さないってことなの?」


 そんな権利が、あると言うのか。


 だんだん腹が立ってくる。殺してもくれない、でも死ぬことも許さない、なんて。


 キッと私は上空を見上げた。やはり、と思った。そこに見慣れた影が見える。


璿璣(せんき)!」


 大声で呼んだ。


 璿璣は上空を二回旋回してから、急速に降下してきた。


 紫や緑の混じった青い体毛、真っ赤な(くちばし)に澄んだ黒い瞳。美しい鳥は、すぐ近くのブロック塀に優雅に止まる。


「……お願いがあるの」


 拒否させない意思を固めて、私はその目を見つめて、話しだした。


                   ※※※


 エントランスの前で、私は大きく深呼吸をした。


 部屋番号を押しても、先輩が出てくる気配はまったくなかった。


 居留守なのか、本当にいないのかはわからない。


 でも私はここまで来て帰るつもりは毛頭なかった。


 本来なら部屋番号を押して、開錠してもらうか、鍵を使うかしかない、そのロックキーの前で、堂々と私は鍵を取り出した。


 さきほど璿璣に持ち出してきてもらった、合鍵である。


『僕のマンションには二度と来ないでください』


 ――誰が従ってやるものか。


 勝手知ったるなんとやらだ。エントランスからの距離も、一基だけ早くくる右端のエレベーターの癖も。すべてをまるで昨日のことのように覚えている。


 誰にも咎められることなく最上階にたどり着き、最奥のドアに向かう。


チャイムも鳴らさず、私は鍵を使ってドアを開けた。


 犯罪である――見つかれば。


「先輩! 居るんでしょう!?」


 わざと物音を立てて上り込む。でもそこには当然ながら誰の姿もなかった。


 どかどかと室内に入り込み――リビングで一瞬、立ち止まった。


 広い室内。美しいパノラマビュー。最初に見たときの感動と、このリビングでくつろいでいた、あの優しい雰囲気が甦り、思わず胸を打った。


 ――ここに入ることはもうないと思っていたのに。


「先輩! お話があります! 出てきてください!」


 どこからの返答もない。窓の外で璿璣が一声、大きく鳴いた。


「出てきてよ! いくじなし!」


 私は走り回って、片っ端からドアというドアを開けて回った。ウォークインクローゼットも、トイレも、脱衣所も。螺旋階段の二階の奥の部屋も、書斎も、納戸も。


 だが当然ながらそこには誰の気配もなかった。


「……出てこないつもりね」


 だが留守じゃないという確信があった。腹が立った。


 どこかで私を見ているくせに。あのストーカー男。


 ――そうでなければ、死なせないという傲慢なセリフが出てくるわけがない。


 ――あんな絶妙なタイミングで、私を守れるわけがない。


「わかりました」


 私は呼吸を整えてから、静かにそういった。本当に誰もいないのならただの間抜けだが、きっと聞いているだろう、その確信に賭けることにした。


「先輩が殺してくれないなら、私は自分で死ぬことにします」


 私は迷いなく、リビングを突っ切った。


 窓を開ける。強風が吹きすさぶ中、璿璣は飛ばされもせずに、そこにたたずんでいる。


「璿璣、中に入って」


 言われるがまま、璿璣はリビングの中に飛び込んだ。私は外からその窓を閉める。


「絶対に助けたりしないでよ」


 璿璣は了解したように鳴く。


 広すぎるベランダの端まで行って手すりを(また)いだ。下からの風もすごい。自分で落下しなくても、あっという間に足を取られそうだ。


 下を向く。誰も通っていないアスファルトが遠い。


 十五階。どう考えても助かる高さじゃない。


 もしかしたらうっかり助かるないかもしれないが、鬼雛だって回復にかなりの時間がかかる重傷となるだろう。


 一瞬、振り返って窓を見つめる。暗い室内は、璿璣の姿をとらえるのも難しいほどだが、そこに動くものは何もなかった。


 顔を戻す。風が髪を(なぶ)る。ふっといつかの諦めが心の中に甦った。


 ――本当にこのまま死んだとしても問題はないんじゃないか。


 私は眼を伏せた。


 問題はなにひとつ片付いていない。いつ鬼雛が私の自我を啖らうとも限らないのだ。


 殺戮(さつりく)機械(マシーン)になって、この町を、この国を滅ぼすような存在になりたくはない。


 一度は殺されることを受け入れた命だ。先輩の声も聞けた。思い残すことは何もないはずだろう?


 不思議なことに、冷静なまま心が決まった。


「……さよなら」


 手すりをつかんで震えていた後ろ手が、乗り出した重心であっけなく外れた。


 風の抵抗を裂くようにして、身体が落ちる――その一瞬!


 がつん、という重みで腕に激しい痛みが走った。


「馬鹿か君はっ!!」


 肩が脱臼しているかもしれない。ひどい痛みだ。


 だが腕一本で支えられているのだと気づいて、私はおそるおそる顔を上げた。


「早く上がって! 璿璣せんき! 何をしている!」


 ――蒼白な顔で怒鳴っているそのヒトが。


「――華緒!」


 呼んでくれた名前に、視界が(ゆが)んだ。


             ※※※


 信じられませんよ、と彼は激昂していた。


「璿璣も璿璣です。こんなバカの言うことを真に受けて合鍵は渡す、助けもしないなんて。君はいつから僕の相棒を降りたんです?」


 すぐに治りますと言ったのに、先輩は全く聞く耳を持たず、勝手に私の上着をはぎ取るとキャミソール一枚にし、その肩にぺたぺたと湿布を貼っている。


「あの」


「黙りなさい」


 ぴしゃりと撥ねつけられる。


「口答えなんか出来る立場ですか。自分の仕出かした非常識さを猛省してもらいたいもんです。人の家で自殺未遂だなんて、迷惑にもほどがあります」


 まあそうだろうなあ、とは思うのでとりあえずは黙ってされるがままになっていた。


 激怒している先輩に恐れをなしたのか、それとも辟易したのかはわからないが、璿璣はとっとと姿を晦ませている。裏切り者め。


 リビングには怒り心頭の先輩と、私だけが残されていた。


 最初の叱咤はどこへやら、その後は一言も発さず黙って手当を終えると、先輩は無言で上着を私に押し付け、そのまま立ち上がってどこかへ行ってしまった。


 私は――実はもう肩治っていますとも言えず――小さくため息をつくと、こそこそと上着を着込んだ。


 押しかけて、勝手なことを喚いて、あげくが自殺未遂。


 冷静に考えれば、確かに完全にイタい女の見本である。


『本気だとでも思ったのですか? この僕が、あなたなんかに本気で惚れたとでも?』


 そう言っていた言葉が甦る。


 馬鹿なことをしたな、とさすがに後悔が押し寄せてきた。


 迷惑千万な話だ。先輩が怒るのも無理はないだろう。


 帰ろう、と立ち上がろうとした時だった。


 ゴトン、と何かが床に当たる音がした。


 ――湯気の立つ、マグカップ。


 先輩は何も言わず、私の前にそれを置いて、少し離れて座った。そこからは珈琲の香りが漂ってきた。


 顔を戻してそれを凝視する。


 マグカップ――これは私のだ。


 ここにいる間ずっと使ってた、白地にオレンジとピンクの水玉の。


 持ち上げると、甘い匂いがした。ホットミルクだ。


 飲まなくてもわかる。きっと、はちみつとブランデーが入っている。


 ミルクの湯気に、こらえきれず涙腺が決壊した。


 いきなり泣き出した私に、さすがに先輩もぎょっとしたようだった。


「……華緒?」


 小さな声がかかる。私はもう嗚咽すら我慢できなかった。


「どうしたんですか。どこかまだ痛いですか?」


 おろおろした風の先輩が隣に寄ってきた。私は夢中でその腕に(すが)りついた。


「……ごめんなさい! ごめんなさい」


「華緒?」


 ごめんなさいとバカみたいに繰り返した。


「私のこと、嫌いだって知ってるのに……ごめんなさい。でも」


 息継ぎが上手くできない。


「でも、あ、会いたかったんです」


 殺してくれと言ってみたり、あてつけのような自殺未遂をしてみせたり。


 ――どれほど迷惑だったろう。


 だけどどうしても我慢できなかった。


 ――会いたくてたまらなかったのだ。


 わあああ、とその場に泣き伏した私を、先輩の手がそっと起こした。


「華緒。涙を拭いて」


 子どものように手のひらで涙を拭う私に、先輩は困ったように苦笑する。


 そして――。


 次の瞬間、びっくりして私は一瞬にして涙を引っ込めた。


 先輩は私の眼尻に口接()けていた。流れる涙を、その唇が吸い取っていく。


 両頬を手で挟んで、至近距離で私の眼を覗き込む。


「……泣き止んだ?」


 先輩は手を離してから、立ち上がり、置き去りにされた珈琲を持ってきた。


 人ひとり分のスペースを置いて私の前に座ると、ため息をつく。


「本当に手のかかる子なんだね、君は」


 ごめんなさい、と反射的に頭を下げた。涙を止める方法にこんな恐ろしい手段があったなんて。


 心臓がまだバクバク言っている。


「……話、あの、お話、できますか?」


「ここまで来て今更のおうかがいですか? 君にはほんと意表を()かれてばっかりだよ」


 ごめんなさい、とまた頭を下げる。先輩は心なしか冷たい。その表情には、一片の笑みも、柔らかさもなかった。


 本当に、自分のしたことが恥ずかしくて仕方なくなってきた。


「とりあえず、それ飲んだら?」


 まだ湯気の立つマグカップを捕まえて、私は言われるままに口をつける。


 やっぱり懐かしい。はちみつと少しのブランデー。


 あの頃のように、こうしてこのリビングに居ることは奇跡なのだろう。


 ――もう二度とないのだ。


 ため息をついて、マグカップを下ろす。胸にちりちりとした痛みがあった。


 ――そうだよ、この人には既に婚約者がいるんだから。


 今更ながらにそのことを思いだした。もっと早くに思い出していたら、このマンションに麻姑が居る可能性にだってぶち当たっただろうに。


 そうしたら、こんなバカなことを実行することもなかったのに。


 ほんとにバカだ、私。


「話って?」


 その前に、と私は居住まいを正す。きちんと正座をして頭を下げた。


「すみませんでした。考えなしの行動で、ご迷惑をかけました。申し訳ありません。もう二度と、ここには来ませんから」


 胸が痛い。本当なら、私が来れるはずもない場所だったのに。


 先輩は何も言わない。そして、その顔を見る度胸が私にはない。


 膝に添えた手を見つめて、私は口を開いた。


「麻姑さんにも、謝っていてください。……先輩はちゃんと私を振ってくれたのに、今更ストーカーみたいに押しかけたりして」


 先輩のことをストーカー呼ばわりする権利はない。私の方こそ紛れもなくストーカーだ。


 自分のことながら、すごく気持ちが悪い。


「本当に、もう二度とこんな迷惑なことしません。もう二度と、先輩にも会いませんから」


 顔をあげる。その瞬間、先輩が私から眼を逸らした。ああ、と私はうなだれる。


 やっぱり――気持ち悪いよね。


「本当にすみませんでした。あとさっきはありがとうございました」


 全部をまとめるようにそう早口で言ってから急いで立ち上がる。もう先輩の顔を見る勇気などカケラも残ってはいなかった。


「待ちなさい」


 慌てたように先輩が立ち上がる気配がした。


「いえ、もう本当にすみません。帰りますから」


「話はどうしたんです?」


「もういいんです。本当にすみませんでした」


 一刻も早くここから逃げ出したい。どれほど自分が自己中心的な人間かを思い知らされた。


 好きな人に嫌われるのは辛いけど(とはいえ最初からそうだけど)、軽蔑されるのはもっと辛い。


「お邪魔しました!」


 玄関に向かおうと走り出した私の腕をつかまれ、その勢いで反転し――。


 一瞬後、自分の体勢がどうなっているのかを把握しそこねた。


 ――これは何かにぶつかっているん、だよね。


「勝手に押しかけて、勝手に帰るなんて非常識を教えてきたつもりはないのですがね」


 頭の上から、そんな声が降ってくる。


 身じろぎしようとして……それが出来ないことにようやく気が付いた。


 ――抱きしめられている。


 というか、動かないよう身柄を拘束されていると言った方が正確だが。


「君に話がなくても、僕にはあります。しばらく付き合ってもらおうかな」


 冷ややかな声に、背筋がぞくりとした。


 治ったばかりの風邪じゃない、と思う。


 せっかく大好きな人に抱きしめられているのにそこに恐怖しかないなんて。


 ……なんて勿体ないんだ私。


「逃げないって約束するなら、解放してあげますが。……逃げないよね?」


 頷くしかなかった。


              ※※※


「あの……」


 ダイニングテーブルの、いつもの定位置に座らされて、私は上目遣いに先輩を見る。


 厳しい顔の先輩は、隣に座っているくせに無言で珈琲を飲んでいる。居心地の悪いことこの上ない。


「あの!」


「なに」


 勇気を振り絞って発した声に冷ややかな返事。勇気があっというまに(しぼ)む。自分で蒔いた種とはいえ。このギスギス感。先輩に少しだけ腹が立つ。


 ――大人げなくはないか。


「……話があるって言ったくせに」


「聞こえてます」


 考えをまとめているんです、と冷たく言われ、私は首を竦めた。


 時計の音がやたら耳につく。私はため息をついた。だがすぐに顔をあげた。


「あー!」


「今度は何です、騒々しい」


 眉をしかめて先輩が言う。


「も、もうこんな時間!」


 とっくに十一時半を回っている。弼には昼までに帰ると言ったのに。


「十二時までに帰らないと」


「どこのシンデレラですか。変身もしてないようだけど」


 呆れたように先輩が言う。聞えよがしのため息をついた。


「璿璣に送らせますから、すこし落ち着きなさい。そんなに落ち着きのない子だったとは思えないけどな」


 その声に、さらに惨めな気持ちになる。


「……ごめんなさい」


 うなだれて謝った。


「なんで謝るんです?」


「反省してるんです。……本当のことを聞きたいために、こんなことまでして」


「本当のこと?」


 私は頷く。


「……死なせないって言ってくれた、あの言葉の意味です。……鬼雛って」


 意を決して顔をあげる。


「鬼雛を、私を殺す以外ないと麻姑さんは言ってました。それしか方法がないと。でも先輩は私を死なせないと言った。それはつまり、私が死んだら何かが起こるからですか?」


「……へ?」


 先輩の端正な顔から、そんな気の抜けた言葉が返ってくるとは思わなかった。


「へ、って……だってそうでしょう? 殺さないじゃなく、死なせないってことは。うっかり私が死んじゃうと、例えば檮杌(とうこつ)みたいに疫病(えきびょう)が流行ったりとか、その場にいるものが

呪いにかかったりとか、半径一キロにわたって爆発したりとか」


 弼に言った言葉を、もう少し具体的に推測したつもりだったが。


 先輩はぽかんと口を開けてから、不自然にふいと横を向いた。


「先輩?」


 口に手を当てている。その肩が揺れている。と思ったら。


 いきなりげらげらと笑いだした。


「せ、先輩?」


「失敬。……でもどうして、そんな発想になるのかなあ」


 おかしそうにくつくつ笑いながら、先輩はようやく目元を和ませた。


 ――笑いすぎて涙たまってますけど。


「私、そんな変なこと言ったですか?」


「……柔軟すぎる発想ですね。これは……厄介だな」


 先輩はおかしそうに笑いながら(でもようやく笑ってくれた!)、私を見つめた。


「華緒」


 はい、と首を傾げる。先輩は静かに口を開いた。


「君は、何も解っていない」


 先輩は私に向き直る。改めて言う言葉がそれですか。


「……解ってますけど?」


「いいや、解ってない」


 決めつけるような言い方にむっとした。


「解ってますよ! 私は……そりゃ先輩が好きだけど」



 どうしても語尾が小さくなる。意気地なしと笑わば笑え。


 きっと眼をあげて先輩を睨んだ。


「でも先輩には麻姑さんっていう婚約者がいるんだし、邪魔はできないってこともちゃんと解ってます! でもって、なんか理由があって先輩は私を死なせないと思っていて、で、相変わらず先輩はまだ私の敵なんでしょう? 私がいつ、自我を啖われて虐殺マシーンとか化すかわからない危険性のある化け物だっていうのも自分でちゃんと解ってますって!」


「……解ってないよ」


 先輩は切なそうな表情で私に手を伸ばす。


「華緒」


 胸が(うず)く。その呼び方は(ずる)い。そんなに甘く、囁くように。


「まだ、解らない?」


 先輩の指がそっと私の唇に触れる。そのまま、その形を確かめるようにゆっくりと唇の上を動き出す。


「僕が……死なせないと言った、その意味を」


 びりびりと唇がしびれる。綺麗な指が私の唇を一周する。


 感じたことのない甘い(うず)きが、唇の上を襲う。


 何を、と言いかけた言葉を封じるように、その手はそのまま私の頬に沿わせ、軽く上を向かせた。


 先輩の顔が近づいてくる。だがそれは至近距離で止まった。


「華緒。約束して」 


 声が少し震えている……?


「もう二度と言わないと」


 頬に添えられたその手が冷たい。


「何を……」


「約束してください。自ら死を選ぶことは決してしないと」


「……先輩?」


「君の声を聞けないこと、眼の前で他の男に言い寄られること」


 言われている意味がわからない。


 眉を寄せて見つめる私に、先輩は小さく苦笑する。


「血にまみれた君に近づけないこと、その血を流させたのが自分であること」


 ひどく辛そうな顔だった。私も思い返す。


 ――先輩と戦った、最初に殺してくれと願った日のことを。


 先輩は一瞬眼を伏せてから、もう片方の手を私の片頬に添え、両手で私の頬を挟んだ。


「……君に殺してくれと、言われること」


 今にも泣き出しそうな顔に見えた。


「どれだけ僕が苦しんでいたか、君はまったく解っていない」


「……いったい何を」


「約束すると、誓ってください」


 先輩は悲痛な顔で私に近づく。


「絶対に、死なないと」


「先輩」


「言って?」


 私はよくわからないまま、復唱する。


「絶対に死なない……」


「……呼んで、華緒。僕の名を」


 お互いの鼻が当たる。吐息が熱い。この状況が何を意味するか、わからないわけじゃないのに。


 頭に言葉が入ってこない。


「華緒」


(げん)(えん)……」


 近づきすぎる距離。耐え切れなくなって、私は眼を閉じた。


「約束を忘れないで。……僕の、華緒」


 唇の先が唇に触れ――。


「はーい、そこまで!!」


 ぴりりー、とサッカーのホイッスルのようなものが鳴り響く。


 びくっとして声の方へ顔を向けた。


 いつのまに現れたのか、弼がニヤニヤしながらそこに立っていた。


                  ※※※


「はーい、お邪魔虫でごめんねー。華緒、十二時だよー」


 はっと時計をみると、確かにちょうど正午だった。


「華緒ってばいいねえー。面白すぎる。鈍いのは国宝級だね。本気でここまで何も理解していないとは思わなかったよ」


「……解ってるなら邪魔しないでくださいよ」


 ここから納得させるはずだったのにと何故か悔しそうな先輩に、べーと弼が舌を出した。


「解ってるから邪魔したんだよばーか。ストーカーのお前なんか苦しめばいいんだ。思いっきりね」


 先輩の片眉があがる。


「……知っていて華緒を外に出したわけですか」


 あったり前だろ、と弼が勝ち誇ったように笑う。


「おまえ程度で僕を煙に巻けるとでも思ってんの? 最初からわかってたよ。まあ今日になって華緒から話を聞くまでは、単なる見張りだと思ってたけどね」


「……ふたりともなんの話してんの?」


 華緒――と弼が私に駆け寄り、先輩からもぎとるように椅子ごと引き離す。


「華緒は何も知らなくていいんだよー。あんな狗のことなんか無視してなよ」


「ちょっと弼?」


 べったりと甘えるように私に抱きついた弼は、先輩に向かってもう一度舌を出した。


「だいたい、なんで弼がここにいるのよ?」


「ごめんね。いくら僕でも怒り狂った緒方先輩と聖娘子を敵に回したくないじゃない?」


 ――妖怪の中でも圧倒的な力を持つ檮杌のセリフではないと思うが。


「華緒は十二時までに戻ってきそうになかったからね。僕がこっちに来る方がマシだと思ったんだ。もうすぐ二人もくるよ。二人にも待ち合わせ場所変更を伝えてるから」


 げ、と顔から血の気が引く。


「だめじゃない弼! 敵のところにいるなんて知られたら、あの二人がどれだけ怒るか」


「わあ華緒ってやっぱりバカなんだ」



 口とは裏腹に、なぜかうっとりした顔で弼は私のほっぺにキスをする。ぴくっと先輩がそれに反応したのが弼の向こうに見えた。


「華緒。そのへんのことをハッキリさせようね。そのうえで」


 ピンポーン、とチャイムが鳴る。


 弼は薄く笑った。


「――このいぬの公開裁判といこうじゃない?」



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