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【1】 2章 鬼卵

2章鬼卵


 月曜日の放課後、私と和歌子ちゃんはそれぞれの担任と学年主任から呼び出しを受けた。


 どうも、あの交差点の事故現場に私たちを見知ってる人間がいたらしい。


 ……見てたんだったら助けろよ。


「いいですか。ああいう時は、きちんと警察の到着を待って事情聴取をしていただくのが」


 ――以下省略するが、年増の学年主任(副島(そえじま)という)にそれから三十分もお小言を食らった私たちの心境をお察しいただきたい。


 ――なんで無事だったのに、叱られにゃならんのじゃ。


 スルーしろと言い聞かせながらも、理不尽な状況にむかついていなかったわけではない。


 それでも私たちはよく我慢していたほうだと思う。


 副島がため息をついて、こう言いだすまでは。


「黒田さんは、先日から問題ありですわね。立て続けに何度も何度も」


 ちょっと待て。


 ――何度も?


 私は思わず神妙さを取り繕っていた顔を上げる。


「……彼女のせいなんですか?」


 だが口を開こうとした私に先んじたのは、隣の和歌子ちゃんだった。明らかに顔

が怒っている。


「事故に遭うのは彼女が悪かったからですか? 彼女は二回とも横断歩道にいたんですよ? 横断歩道でちゃんと信号待っていたのが問題ある行動なんですか?」


 副島が眉を釣り上げる。


「口応えですか、眞山(まやま)さん」


「質問です、た・だ・の」


 和歌子ちゃんは堂々と言い返す。おお、これが学年成績ヒトケタ台の実力か。


「黒田さんは私を(かば)ってくれました。怪我がなかったのを喜びこそすれ、事故まで私たちの責任のように言われるのはどうかと思いますけど」


苛立ったように副島が彼女を睨んだ。


「眞山さん、別にあなたのことを言ってるわけじゃないでしょう?」


「じゃあ私が、私自身のことを聞きますが」


 思わず一歩踏み出す。和歌子ちゃんがちらりとこちらを見たのがわかった。


 ――大丈夫。


 私も、もう小さな子どもじゃない。


「確かに、最初の漫画に関しては反省しています。でもその後の事故二回は、私が悪かったんですか? 私に問題があったんですか? あったのならどこがどう悪かったのか教えてもらいたいんですけど」


 ――そりゃあ運の悪さは私のせいかもしれないけど。


 それを他人に非難されるいわれはない。横断歩道に立つな、道路を渡るなとでも言うつもりか。


「……那須(なす)先生、梶村(かじむら)先生。指導中にこういう口の利き方をしろと教えてらっしゃるのは、B組とA組の教育方針ですか?」


 頬を紅潮させて副島が、こんどは担任に怒りを飛び火させる。


 だが頌栄館に長いらしい、二人の教諭は(ひる)みもしない。


「そうスね。ウチじゃ、わからないところはいつでも質問しろと教えてますんでね」


 ヒゲもじゃの我が担任、那須秀明がそう言うと、うっすら笑った黒ブチ眼鏡の梶村誠も口を開く。


「私も生徒の質問に答えるのは教員の義務だと思ってますから。質問が出た以上は先生、お答えになってはいかがです? 一連の事故は、黒田さんが悪いのかどうか」


「道交法の解釈でもしますかね? どのくらい曲解(きょっかい)できるかどうかやってみるのも面白いかもしれませんな」


 那須が唇の端をつり上げる。明らかにからかっている。


「不謹慎な……バカにしてらっしゃるの?」


「とんでもない。大真面目ですよ」


 にやにやしてる那須の言葉は、あからさまにふざけている。私が副島でも怒るな、と内心ハラハラしていると、そうですかと口から煙を出しそうなくらい、怒りを抑えた声で副島が私たちを睨んだ。


 天然ではありえない、大仏みたいなその(パーマ)が妙な迫力を生む。


「先生方の、ご指導ぶりはよーくわかりました。後はクラス担任にお任せしますが……教育方針という点では次回の一年部会で改めて意見させていただきますからねっ」


 副島は顔を真っ赤にして出て行く。


「……言いすぎなんですよ、那須先生」


 苦い口調で梶村が言う。いいんだよあのおばさんにはあのくらい言っても、と那須はオオヤジのクセに十代みたいにふてぶてしい。


「会議、また長いですよー」


「寝てりゃいいだろ。主任もな、他所で教務主任だか教務部長だったか知らねえが、頌栄には頌栄の遣り方ってもんがあることを飲み込んでもらわにゃ」


 その顔が、こちらを向いた。


「……ま、おまえらはとばっちりだ。とどのつまり」


「とばっちり?」


 ま、座れや、と那須は私たちに椅子を勧めてくれた。


 ここは進路指導室だ。しかも狭い。副島と那須が座り、若い梶村と私と和歌子ちゃんは三十分以上も立ちっぱなしだった。正直、足が辛かった。


 パイプ椅子を動かして私と和歌子ちゃんは座る。梶村は涼しい顔して立ったままだが、これは職業経験の差だろう。


「うちの生徒がここんとこ事故続きなのは知ってるだろ?」


 私は頷く。和歌子ちゃんが言っていた一連の事故のことだろう。


「それだけじゃない、土曜日の件だ」


 私たちの事故のことだろうか。那須は首を振る。


「土曜日はお前らの件と、もう二件だ。文化祭の後片付けの最中に立て看外してた生徒がその角で上腕を切った。切った場所がヤバイところでな。出血が酷かったから大変だったんだぞ。救急車も来てたしな」


「サイレンなんて聞こえてこなかったですよ!」


 驚くと、練習場(ジム)のところだから聞こえねえよ、と那須が言う。頌栄の敷地は無駄に広い。


 練習場(ジム)と呼ばれる場所に移動するには、先生方はバイクや車を使うというところからもその広さが知れるだろう(もちろん生徒は鍛練のために走らされる)。


「もう一件は食中毒だ。最近流行ってるだろ」


 それは知っている。私も和歌子ちゃんも頷いた。今月に入って病原性大腸菌が、なぜか葦家(あしか)市―それもこの百武町(ひゃくたけまち)でのみ猛威を振るっている。ニュース沙汰にもなっていた。


「文化祭の残りを意地汚く食ったヤツがいてな。ふざけてたんだろうが、まんまと感染しやがって。今入院してる……一時は本当に深刻だったんだぞ」


 保健所も来て対応大変だったしな、と那須はゴキゴキと首を鳴らした。


「で、トドメがお前らの事故だろ?」


「未遂ですよ」


 梶村が訂正する。それそれ、と那須は面倒くさそうだ。


「副島先生も対応に追われててなあ。しかも事故全部が一年部と来ているからな。あの人はカリカリしてんだ。今年赴任してきたばっかりだから」


 何ごとにもいちいち真面目に対応するからストレスが溜まるんだ、と那須は教員らしからぬことを口にする。確かに、頌栄館に長い教師は鷹揚な人が多い。――まあ那須はのんびりし過ぎだが。


 梶村が苦笑した。


「まあ、そういうことで、副島先生がここのところ大変だったんで、ついイライラしてたってことは理解してさしあげなさい。それに副島先生の言うことは間違ってはいないよ。直接怪我がなかったからよかったけど、事故にあったらちゃんと警察が来るまでその場を動かないこと。その場では痛くなくても、後から実は骨折してました、なんて事例もあるんだからね。身体は、気遣いすぎるってことはないんだから」


 はい、と私たちは頭を下げる。副島もこういう風に言ってくれれば、すんなり納得できてたのに。話なんか五分で終わっただろうに。


「ま、いずれにしたって大事がなくて何よりだ。黒田も災難続きだろうが、事故に遭った自分に責任があるとか、的外れなこと思ってヘコむんじゃねえぞ」


 私は苦笑する。


「思ってないですよ」


 副島発言を真に受けるほど、私は自虐的じゃない。


 ――そりゃ運は悪いとは思ってるけど。


「ならいいんだ。時間取らせて悪かったな。……そうだ、おまえ眼の手術、今週だろ?」


 驚きが顔に出たのだろう、担任は軽く頷いた。


「若槻には病状を聞いてる。辛かったら休んでいいぞ。早く治して遅れた分取り戻せや」


「若槻先生を知ってるんですか?」


 あの眼科の、ラッキョウみたいな先生のことだ。那須は(たの)しそうに眼を細めた。


「昔から家が近所でな。よく遊んだもんだ。言っておくがあいつはオレより年下だからな」


 見えない、と思わずこぼすと、だろうな、と那須は豪快に大笑いしていた。


 余談だが、我が担任はこう見えてまだ三十三歳だ―それより年下で、あのアタマか気の毒に。


 若槻先生の顔を知っている和歌子ちゃんと私は顔を見合わせて、同時に吹き出した。


 気をつけて帰りなさいよ、と梶村が優しい言葉で送り出してくれた。


 ――学年主任は嫌いだが、これだから頌栄館は嫌いじゃない。


                 ※※※


 今日は部活だという和歌子ちゃんを見送ってから、私はバス停に向かった。


 別に歩いてもよかったのだが、朝からまるで真夏に戻ったような陽射しで、道路が乾燥している。眼に埃が入っても嫌だし、かといって、一度手放した眼帯を着ける気にはもうなれなかった。


 蒸すからだ、思いっきり。


 ここはクーラーの効いたバスの方が、と(らく)に走ったのが理由の第一だったのだが。


「あ」


 バス停に立っている人物がこちらを向いて、私はイヤス! とその場でガッツポーズをしたい衝動を必死で抑えた。


 ――なんって幸運!


「佐久間先輩!」


「……黒田さん、だったっけ?」


 信じられない。耳を疑った。どうして佐久間先輩が私の名前を知ってるの!


「眼、もういいんだ?」


 あの時、保健室まで私を運んでくれたのは、居合わせた佐久間先輩だったという。


 私の名前まで知ってるということは、少なからず、気にしてくれていたのだろうか。


 ――先輩に心配してもらえるなんて!


「はい。あの、この間はありがとうございました。お礼も言わないままで……」


 気にしないで、と微笑むお顔がまるで六時間目(さっき)習ったばかりの観音(かんのん)菩薩像(ぼさつぞう)のようで!! 


 足が地面から十センチは浮いたと思う。その瞬間。


「どっちの眼だったの?」


 先輩が一歩私に近づく。我に返った。え、嘘。ウソ、マジで?


「み、右、です……」


 覗き込もうとするお顔が、さらに近づく。ああ、今、汗臭くないよね私。必要もないのに息まで止めて、瞬きまで止めた。心臓が口から飛び出してしまいそう。


 先輩が形のいい指をそっと持ち上げる。


 いやん、頬にあと数センチ……。


「お待たせしました、百武大通り経由愛白櫓(めじろ)ベイエリア行きです」


「あ、バスだ」


 先輩はあっさりと私から離れた。先輩が背を向けたとたんに慌てて鼻と口がら息を吸う。バカだ私。死ぬかと思った。


「……乗らないの?」


「乗りますっ!」


 怪訝そうな運転手の声に、慌てて乗り込む。先輩は二人掛けの椅子の奥に座って手招きなんかしてくれてる。ドキドキしながら隣に座る。夢にまで見た、うっすらと先輩の体温が感じられる距離。この僥倖が未だに信じられない。


 座った瞬間に通路を挟んだ席の男子がこちらを見たような気がしたが、気のせいだろう。


 ――特等席だ、まさにこれは!


「黒田さん、どこまで?」


 ……ああ、車内で聞くお声も玲瓏としていらっしゃる。うっとりして夢心地で答えた。


「あ、百武三丁目の若槻医院までです。……あの、先輩は?」


「僕はその先の大通りまで」


 大通りには大規模な商店街と私鉄の駅がある。先輩は私鉄電車通学なのだろうか。そう言えばJRでは一度もお姿を拝見したことはないが。


 思い切って聞いてみた。


「お家はどちらなんですか?」


 佐久間先輩は微笑んで髪をかきあげた。


善果(よしか)。僕は遠距離通学なんだ」


 そうなんだー、と顔を見上げる。


 隣の市、善果は県内一の繁華街を擁する町で、つまり都会だ。それだけで意味もなく洗練されたように聞こえてしまうあたりが田舎者の哀しさだが、相手が先輩なら相応しいと思えてしまうのは和歌子ちゃん以外の頌栄館全女子共通の想いだろう。断言してもいい。


 そもそも佐久間先輩は地元出身ではない。去年、頌栄館高等部に編入してきた人だ。


 なんでもお父様が外交員だとか外国駐在のお役人だとかで、海外を回っていたらしい。

 

 帰国する直前は中国にいたという。


 中国でもかなりハイクラスな教育を受けてきたらしく、編入生につきもののお約束(だが現実にはほとんどない)全教科ほぼ満点という偉業を、本当に成し遂げた伝説の人なのだ。中でも語学は群を抜き、英語はパーフェクト、中国語も堪能だという。


 その中国帰りという特色も活かしてか、非常に達筆でもいらっしゃるらしい。なので、さすがに会長職は無理だったが、前代未聞の転入生にしてその年の生徒会入会を果たし、書紀となった話題の人だ。


 ……もっとも書紀は現在パソコン使用のうえ、先輩は書道部にも入ってらっしゃらないので、その達筆を見ることは叶わないのだけど。


 人気に拍車をかけたのは帰国子女というだけではない。


 筆頭はそのルックスだ。日本のアイドル、あるいは韓流スターもかくやというほど、甘く、優しい容貌。長めの前髪をかきあげる仕草の色っぽさ。


 加えてお名前が「(うらら)」という美しいものだから、言われなき中傷「ナルシスト」という誤解が一人歩きしているが、それは単なるやっかみだろう。


 第一、これだけの要素が加わって有名にならないはずもなく、頌栄館高等部で先輩を知らない人間はいない。


 あの和歌子ちゃんですら、先輩のフルネームを知ってるのだから。


「しかし、あれは災難だったね」


 気遣う言葉に我に返る。


「びっくりしたでしょ、あの事故」


 はい、と声がかすれる。ほとんど知らない後輩にまで、自然にかけてくれるその優しさに涙が出そうだ。


「まさか眼に当たるなんてね。不便だったでしょう」


「いえ、そんな」


 胸がいっぱいでマトモな返答が出来ない自分を呪いながら、私は柄にもなく、はにかむのが精一杯だった。


 ――この幸せは何? この運の良さは、ここ数年あり得ないんじゃないの?


「僕は偶然居合わせただけだけど。あれから大丈夫だったかなって気になってたんだ」


 ギャー、と叫びたいのを我慢する。


 すごいじゃん、私! あの佐久間先輩に心配させるなんて!


 ――たとえ、それがこの場だけの社交辞令だったとしても!!


 チャンスだこれは。頭がものすごい勢いで回転を始める。この会話を続けさせるにはどうしたらいいものか。


 いろいろ考えてから、やっと口を開いた。


「……私、運が良くないんです」


 佐久間先輩が、うん? と聞き返した。


 ……真顔だから、これはたぶん相槌(あいづち)じゃない、だろう。


「ええ、運。めぐり合わせというか」


 今はいいんですよ、今現在この瞬間は! と心でいいわけして、(しゅ)(しょう)な顔をする。


「ついこの間も、実は三丁目の手前のスクランブル交差点で危うく轢かれかけて」


「このあたり?」


 言われて頷く。バスはちょうどその交差点にさしかかっていた。この次が三丁目のバス停だ。


「そうです。横断歩道で待ってたら」


 車が突っ込んできて、と話し始めた時だった。


 いきなり、バスが急停車した。どん、とマトモに顔を鼻から前のシートにぶつける。やめてよね、先輩がいるときに、と鼻を押さえると、乗客のざわめきが聞こえた。


「何が……」


 先輩と顔を見合わせる。直後。


「キャアアッ!!」


 悲鳴と同時にまた身体が傾ぐ。バス右後方に何かがぶつかったのだ。


 反動で思わず通路に転がり出る。とっさにバランスを崩して転がる寸前、誰かの腕が私の身体を支えてくれた。


「大丈夫かよ」


 聞き覚えのある声に顔をあげる。


「……緒方(おがた)?」


 衝撃でずれたのか、黒ブチ眼鏡を肩で直している小柄な少年が顔をしかめた。


「今気づいたみたいな顔をするな」


 今気づいたんだもん、と小声で弁解した。


 バスの通路を挟んで隣に座っていたのは音楽科の緒方(おがた)知世(ちせ)だった。和歌子ちゃんと私の、幼稚園からの腐れ縁の男子とはこいつのことである。


「うるさい女が隣に居るなと思ってたら、やっぱりおまえか」


「うるさい言うな」


 顔をしかめて睨みつける。こいつはホントに一言多い。


「大丈夫かい、黒田さん」


 はっと気が付いて、私は緒方の手を離れ、身体を起こした。


「大丈夫です」


 緒方と先輩が眼を合わせたようだったが、緒方はすぐに顔を背けた。


 ――人見知りなのはわかってるけど、あんた、なんて失礼な。


 だがさすがに有名人・佐久間麗の顔くらいは知っていたと見える。生徒会か、と小さく呟くのが聞こえたからだ。


「そういえばおまえ……」


 緒方が何かを言いかけたときだった。


 再びまた遠くで音がして、うわあ、という人の声が聞こえた。バスの車体が揺れる。


「また事故かよっ!?」


 思わず先輩がいるのも忘れて怒鳴った。


「玉突きだね。今度は真後ろから衝撃がきたから」


 かぶさるようにしてヒステリックな女性の声が車内に響いた。


「ちょっと、ここどうなってるのよ!!」


 落ち着いてください、という運転手の慌てたアナウンスが聞こえる。


「……嘘」


 私は止まったままのバスの中を、思わず、数歩歩いた。


 後方の大きな窓ガラスには数条の亀裂が入っている。だがその向こうに見える光景に眼を疑った。


 スクランブル交差点、そのすべてで車が止まっていた。激しいクラクションの音。一台が走ってきたと思う間もなく、それが磁石のように傍の車に引きつけられてぶつかる。


 煙。よろめきながら出てくる人たち。倒れて叫んでいる人々。炎上している車も数台。


 遠くでサイレンの音が聞こえている。


 だが果たして、こんなに車が散乱しているところに入って来れるのだろうか。


 どうやらバスが止まる前から同時多発で事故が起こっていたようだ。どこからか聞こえるクラクションがうるさい。壊れているのだろうか。


「開けてちょうだい!!」


 ふと顔をあげると、車内前方に客が集まっていた。


「間に合わないのよ、もうここで降ろして!」


「ドアを開けろよ!」


 すみません、と運転手が謝っているのが聞こえる。


「どうしたんだろ」


「……ドアが開かないみたいだね」


 佐久間先輩が苦い顔をしている。


「故障ですか?」


「うん、たぶん、ぶつかったときじゃないかな。最近のバスの窓は嵌め殺しが増えてるから」


「後ろから出られるんじゃ……」


 バスの後方には緊急脱出用の窓があるはずだ。先輩は首を振る。


「その窓の真下にぶつかっているんだよ、車。最初の衝撃の時の。たぶん、そのまま降りたら怪我をするかもしれない」


「……じゃあ、閉じ込められたんですか」


 そうだね、と先輩は汗を拭う。そういえば空調も止まっている。暑い。


「窓を割って出るからな!」


 誰かがそう言った。


「黒田さん、こっちにきていた方がいい」


 先輩がふと、私の腕を取った。その顔は真剣だ。


「破片が飛ぶと危ないから」


 はい、と慌てて指示に従う。だが、その時、バス中央の乗降部の外に、私は信じられないものを見てしまった。


「……なにあれ」


 乗降部のドアの外に子どもがいる。それもたくさん。遠足だろうか?


 眼を()らした。そのとたん、一瞬にして全身に鳥肌が立った。


 子どもじゃない―子どもくらいの背丈の、それは夥しい数の化け物だった。


 泥色や鼠色の肌を剥き出しにして、その化け物たちはこちらを見上げていた。節ばった関節と、鋭く伸びた手の先の爪。顔の中央には目玉がひとつ。潰れた鼻と、顔の下半分まで横に裂けた口。髪はなく、つるりとした坊主頭だ。その頭の色も澱んでいる。


 彼らは手や足で外からドアを押していた。これじゃいくら作動させても開くはずがない。


「佐久間……先輩」


 私はドアの外から眼を離せずに先輩を呼んだ。


「どうしたの? ドアが何?」


 怪訝そうな先輩に視線をあげ、またドアを見る。化け物たちはまだそこに群がっている。その眼が一斉に私に焦点を合わせてくる。


 ――なんで私を見てんのこいつら!


「先輩は……」


 きょとんとしている。先輩には見えていないのだろうか。


「……緒方!」


「どうした?」


 怪訝そうな緒方の顔。それで理解した。


 ――私だけが見ているのだ、この光景は。


 愕然としてそう悟った時、せーの、と声がした。


 何人かの男の人が、荷物で運転手側のドアを叩き割ろうとしている。


 ――割ったら、あいつらが入って来るんじゃないの!?


「大丈夫、黒田さん。顔真っ青だよ」


「大丈夫じゃありませんっ」


 ああいう何か小さいのがいっぱいいるのは生理的にダメなのだ。気持ち悪いし、

第一。


「怖いっ!」


 スプラッタとホラー映画がなにより嫌いだが、もしこれが特撮映画の撮影だと誰

かが言ってくれたら、その監督を一生尊敬する。映画も必ず見ると約束してもい

い。


 フィクションだと言ってください頼むから!


「現実なわけないよ……」


 泣きそうになりながら、私は先輩の手を振り切って、バスの最後部に逃げた。当然だがそこに出口はない。


 大きな後部窓から見える景色に唖然(あぜん)とした。


 先ほどの化け物が、事故の車の間を駆け回っている。中には、そいつらを少し大きくしたようなものもいた。


 大人くらいの大きさだ。そいつらには髪があった。ぼさぼさの黒い髪と、腰に巻いた汚い布。目が落ち窪んで真っ黒で、身体の色もやはり肌色ではない。


「なんなの、あいつら!」


 悲鳴はしかし前方のドアを叩き割った音にかき消された。乗客は砕いたドアから続々と降りていく。ガタガタとシートに座り込んで震えていたが、化け物はバスの中に入っては来ないようだった。


「……黒田さん?」


「黒田?」


 佐久間先輩と不審そうな緒方が近づいてきた。救急車のサイレンが不意に大きくなった。


「大丈夫? もう、出られるよ」


 差し伸べられた手に縋って立ち上がる。おそるおそる覗いた車窓の外には、しかし一掃されたかのように、あの化け物たちの姿は掻き消えていた。



「怖かった?」


 佐久間先輩がハンカチを出してくれた。我に返って、自分がぼろぼろと泣いていることに気がついた。



「ありがとう……ございます」


 いいよ、と優しく言ってくれた先輩の顔を見ることもできず、遠巻きにしてるらしい緒方も見えず、私はただ泣き続けた。


 ―頭がおかしくなったのかもしれない、私。


 恐怖はその瞬間、幼なじみの存在も、憧れの先輩の存在をも(りょう)()していた。


 結局眼科には行かず、私はそのまま家に帰った。部屋にもる。


 このままじゃ和歌子ちゃんにも相談できない。相談できるわけもない。

『聞いて和歌子ちゃん。私ね、化け物が見えるようになったんだよ!』


『すごいね華緒! 一芸で自己(AO)推薦(入試)いけるんじゃない?』


 ――いけるわけねーだろ。


 妄想の和歌子ちゃんにツッコんでから、私はベッドに沈没した。


 あの化け物たち。テレビなんかでみる化け物とは作りのリアルさが違ってた。ぎろりとこちらを見るひとつ目。よだれを引いた、裂けた口元のおぞましさ。


 ――本物?


 なわけないだろう。たぶん、いや、絶対に幻覚だ。だがあんなものを見るほど、私は知らない間に病んでいたのだろうか。


「悩みなんかないのに!」


 十五歳、高校一年。夢も希望もある。恋愛だって青春だってしたい。その手のことで悩むならともかく、どうしてこんなワケのわかんないことで考え込まなくちゃならないんだ。


 しかし和歌子ちゃんや親に話して、理解してもらえるとは思えない。和歌子ちゃんは大事な幼なじみだが筋金入りのリアリストだということも長い付き合いで充分に知っている。


 話を聞いた後で一笑に付されるだけならば良し、また「自意識過剰」だといわれるのはさすがに嬉しくない。それ以前に、まず信じてはもらえないだろうけど。


 本当に私の頭がおかしくなったのだろうか。それとも、眼に何か異常があるのだろうか。


 ――眼に。


「そうだよ、眼だよ!」


 勢いをつけて起き上がった。


 眼帯を外しているとはいえ、私の眼の中にはまだ石のカケラが残っているという。


 それが、たぶん異常なものを見せている原因なのかもしれない。


 というか、それしか考えられないし、そうであって欲しいし、そうじゃないと困る。頭がおかしくなったというより、眼の怪我のせいだと言う方がナンボか気が楽だ。


「華緒! 部屋に居るんならお遣い行って来て!」


 ちょうど下から母親の声がする。


「わかった!」


 ついでに病院に行って来よう。私は顔を拭うと、部屋を飛び出した。


                 ※※※


 外に出るともう太陽が半分以上沈んでいた。足早に若槻医院を目指す。


 豆腐と長ネギは大通りのスーパーで遅い時間まで買えるから問題はないとして。


 何よりの問題は病院がまだ開いてるかどうかだったので、手っ取り早く自転車を使った。


 夕陽の方角へ走らせる。前方に何かの死骸らしきものが見えた。速度を落とす。


 この辺は野良猫や野良犬のみならず、鼬やモグラもたまに轢かれてることがある。


 嫌だなと思いながら近づく。けっこう大きいから、野良犬だろうか。


 死骸かと思っていたものは、ピクリと動いたようだった。私はそれに数メートル近づいたところで、思わず自転車を止めた。


「……うそでしょ」


 それがゆっくりと起き上がる。


 野良犬かと思えたものは、あの例の子どもくらいの大きさの化け物だった。


 夕闇に沈んだ黒褐色の肌。それがゆっくりと起き上がって、私に眼を合わせる。


 にやり、と唇が裂けた。


「冗談!!」


 慌てて自転車をUターンさせる。


 幻覚だ、気のせいだと思ってはいても、実際、あれを眼の前にして平常心を保てる人がいたら、心得を教えて欲しい。


 ――凡人には絶対無理だって!!


 だいぶ走ったところで、振り返る。追っては来てないようだ。


 肩で息をしながら気がつくと、大通りとは真逆の山の方へ入り込んでいた。妙に鳥の声がうるさいと思ったら、神社だ。大きな木々に文字通り鈴なりに鳥が止まっている。辺りはもう薄闇が広がっていたから、影でしかわからないが。


 汗を掻いて、神社の中へと入る。ここは小さい頃によく遊んだ百武神社だ。あの頃は大きく見えた境内も、今やちゃちだと思えるくらい小さい。


 ここは通り抜けができる。社務所の後ろから出て坂を下れば、大通りへと繋がる道に戻れるのだ。涼しい風に汗を飛ばしながら進むと、ふと眼前を何かが横切った。さっきのこともある。ぎょっとして立ちすくんだ。


 ――虫?


 違う。雀だった。一羽だけが、私の前後を飛びまわっている。


「驚かさないでよ」


 思わず声を出してから、ふと首を傾げた。


 何の変哲もない、普通の雀だ。だが、他の鳥が陽が落ちてから木の上で喧しく鳴いているのに、この一羽だけどうして夜目が利くのだろう。


 無意識に私はその雀を眼で追った。首を後ろに捻って、再びぎょっとする。


 背後に黒い影。何かがいる。


 ――まさか。

 

 だが、そこにいたのは野良犬だった。


「ああびっくりした! もう」


 自分だけがビクビクしているのは判ってる。敢えて口に出すと、犬はこちらへ向かってきた。


 犬は嫌いじゃない。この辺の野良にはよく触ったりもしている。


「おまえどこの子かな? 野良くんかな?」


 自転車を止めて、いつものように手を出そうとして、私は息を飲んだ。


 遠くにいる時はわからなかったが、近づいてくるとその身体が意外に大きい。黒っぽい体毛にところどころ白銀の毛が混じっていて、とても綺麗だ。


 だが頭が―額が異様に盛り上がっている。目つきも鋭い。しかも足も早い。あっという間に二メートルまで近づくと、犬はそこで足を止めた。


「何犬なんだろうね?」


 綺麗な毛並みに見蕩れていると犬が私を見上げ不意に顎を引いた。歯を剥き出しにする。


「……ちょっとなによ。怒ってるの?」


 思わず後退さりながら、そっと自転車を動かす。


 犬は明らかに私に敵意を示していた。


 困ったな、と私は今頃になって自分の迂闊さを呪う。


 もともと人気のない神社だ。通常、ここの社務所は閉鎖されていて人は来ない。


 助けを呼んで、自転車で逃げて、逃げ切れるものだろうか。


「何もしないんだから、怒らないでよ!」


 抗議が伝わっていないのか、犬は一歩足を踏み出した。


 その足を見て、私は眼を瞠る。


 ――水かき。


 犬は口先から(よだれ)を引いた。


「……あんた、まさか」


犬は身を屈めると、次の瞬間、一気に私に踊りかかった。


「いやああ!!」


 その場に蹲る。手を放したせいで、ガシャン、と自転車が倒れる音がした。


 だが、身体に痛みはない。


 恐る恐る顔を上げると、犬が牙を剥いているところだった―私にではなく。その隣へ。


 顔を向ける。


「あ、あなたは」


 浴衣姿の美女だ―あの時の。彼女は私に軽く目配せすると、犬に向き直った。


「どこの使役(しえき)かは知らぬが、退いた方が身のためだえ」


 時代がかった物言いをすると、唸っていた犬はややあってそのままその場を後にして消えた。


「怪我はない? ……華緒さんが無事でよかった」


 大丈夫です、と立ち上がる。足が少し震えていた。犬を怖いと思ったのは初めてだった。


「まさか野良犬が襲い掛かるなんて……」


 呟きに、彼女がまじまじと私を見た。


「あれを野良犬と思うてか……」


 改めて、私は彼女を見つめた。


 長い髪をまとめて、麻のようなワンピースを纏った彼女は、やはり常人離れした

美貌だった。胸元に挿した銀色の簪らしきものが、風でシャランと涼やかな音を立てている。


彼女はため息をついてから腰に手を当てた。


「陽が落ちてから人気のないところには行かぬことだ。さきほどのような(あやかし)うて良いなら別だがの」


「あ、妖?」


 彼女は逃げた先を睨んで言う。


「あれは黒眚(しい)という。軽軽しく手なぞ出すものではない。触った瞬間、その喉笛を切り裂かれるぞ」


「……あれって、犬なんじゃ」


 ――ない。確かに私はそれを知っている。普通の犬に、水かきなど付いてるはずが

ない。


「じゃあ、あの化け物もやっぱり、実際に居るっての……?」


「化け物?」


 私は昼間の事故で見た化け物の形状を説明した。女性は眉をひそめた。


瘟鬼(おんき)たちだの。雑魚(ざこ)め、()ぎつけてもう集まってきたか」


「おん……何?」


 聞き返しても、彼女はもう答えてくれなかった。


「……華緒さん」


 不意に彼女は私に近寄る。反射的に後退した。改めて我に返る。


 ――この人は。


 急に彼女は、言葉遣いを改めた。


「本当にお願い。満月を過ぎるまではもう外には出ないで欲しいの」


 満月といえば、今週の木曜だ。それまで外に出るなというのか?


「どうしてですか?」


「あなたの命に関わるからよ」


 彼女は私のすぐ前にまで立つと、顔を覗き込んできた。正確には――右の眼を。


「あなたが見ているのは、あなたにしか見えないものなの。でも、幻ではない。今みたいに襲われれば、タダでは済まない」


「そんな」


 私にしか見えないのに、襲われたら命に関わる?


「他の人は襲わないんですか、やつらは」


「退屈した瘟鬼らが、本能で人に疫病や事故を起こさせることもないではない」


 やっぱり、と私は納得する。スクランブル交差点でのあの事故。


 ――あの化け物の仕業しわざだったのだ。


「疫病ってことは……まさか食中毒なんかも」


 そうかもしれんな、と女性は興味なさげに答えた。


「それって、なんとかならないんですか?」


「なんとか?」 


 彼女は眉を上げる。


「見えないのに襲われたら怪我したり、事故にあったりするのは理不尽じゃないですか!」


 本当は化け物の仕業なのに。


「なんとか退治する方法はないんですか? 他の人だってきっとそう思うはずです!」


 私にしか見えないと言われたって、私が叫んでも信じてもらえるとは思えない。みんなが見えるなら別だが、そうでないなら何か、予防策か、撃退法などはないのだろうか。


 女性はいきなり笑いだした。こういう笑い方をたぶん、哄笑(こうしょう)っていうんだろう。


 勘に触る声だ。


「ほんに……ほんにバカがつくほどのお人好しよ。他の身を心配できる立場かえ?」


 むっとする。なんだ、この人。


 彼女は笑いを納めると、綺麗な指を私に突きつけた。


「良いか? あれらが狙っておるのは華緒、そなたなのだよ」


 へ? と聞き返した声は自分でも驚くほど―間が抜けたものだった。


               ※※※


「あれらが集まってきたのはここ最近じゃな。事故が起こり始めたのもおそらくそうであろ? しかもそなたの周りに集中して」


 不承不承、私は頷く。

 

 確かに、市内で食中毒が流行りだしたのは今月に入ってからだし、文化祭での私の眼の事故を皮切りに、事故が多発している。


 事故にあったのは全員頌栄館の生徒――しかも同じ一年生ばかり。


 女性は腕を組む。


「そもそもこの年のこの辺りに鬼卵石が出る、というのは数百年前から判っておった話での。さらに鬼卵石(きらんせき)を求めて、有象無象(うぞうむぞう)が集まってくることは容易に予測のできた話。ただつまびらかな時刻や場所まではさすがに予測も及ばなかった。それで、名のある連中はあらかじめ形を変えてこの辺りに潜んでおったのだろうよ。誰よりも先んじて、満月までに手に入れるために」


 キランセキ? 予測? 


「意味、わかんないんですけど?」


「察しの悪い娘よの」


 言葉遣いを変えた(戻したのだろう)この女性は、とたんに毒を吐き出す。


 私は思わず睨みつけた。


「そのキラキラセキとかいうのが私になんの関係があるんですか」


 言い返した私に、本当にバカにしたような表情で女性は顎をあげた。


「鬼卵石、だ。言葉くらい正確に覚えておくものだよ華緒。鬼の卵の石、と言う風に言ってやれば、そのめぐりの悪い頭にも察しがつくか?」


 嫌味に反応する前に、頭が漢字変換していた。


 鬼卵石。鬼の卵の石。


 ――(いし)


「……まさか」


 顔から血の気が引くのがわかる。


「そのまさかだ。鬼卵石はよりにもよって人の眼に落ちた。どちらにも不慮の事故よ。私も容易には信じられなかった。このような、間の悪い事故があろうとはな」


 心底呆れたように言われて、私は呆然とその綺麗な顔を見つめてしまった。


 眼に落ちた……事故。って、私のこと? しかも。


「……鬼?」


「鬼ではないな。鬼の卵だ。それも百年二百年のものではない。化石になろうかとするくらい長い年月を卵の形で過ごした珍品だ。それが眼に宿れば、異形くらい容易に見えよう。即席の見鬼眼(けんきがん)というわけだな」


 乾麺か、というツッコミが出来る余裕なんかない。


 ――見鬼眼? 鬼卵石? なんだそれ。


 凄みのあるその顔よりも、身体の震えが止まらない。


「……なんで、そんなもんが私の眼に」


「そればかりは私にもわからぬ。なんの因果か、誰の裁量かもな」


 彼女は肩をすくめた。はっとして、私は彼女に縋りついた。


「私はどうしたらいいんですか!? どうしたら私の眼は元に戻るんですか!?」


 さあてと女性は首を傾げる。意地悪をしているのではなく本当にわからないようだった。


「満月の日に鬼卵石を食せば妖力が増すというのは昔から伝わっておるからの。瘟鬼や黒眚までがそなたを狙うのは、その右眼に入った鬼卵石を(くら)うためなのだよ」


 要するに、私は――私の右眼は、妖怪や鬼に狙われているということなのか?


「嫌よ! 冗談じゃない!!」


「ゆえに、外には出るなと言うておるだろう。満月までの辛抱だ」


 女性は急にやさしく眼を細める。


「できうる限り、私が守ってやろうほどに」


「……あなたは」


 今さらながら、私は彼女の顔を見つめた。綺麗な女性。だが、これほど化け物に詳しいとなると、ただの人間ではないのかもしれない。


 察したように彼女は頷く。


「そう、私は人ではない。……ああ、そんなに怯えるでない。私があれらと同じような恐ろしい妖に見えるかえ?」


 彼女は綺麗な白い手で、私の手を取った。冷たいが、不快さはない。


 仮にこの人が化け物だとしても――さっきの黒眚(しい)という獣から助けてくれたのは事実だ。


「小さな手……このようにまだそなたは幼い。なのに、化け物に襲われるなど、不幸すぎはしまいか? そなたには何のとがもないというのに」


 思わず(まぶた)が震えた。


 ――何の罪もないのに。


 ただ――運が悪いだけで、どうして命を狙われなくてはならない。


「ああ泣くのはお止め。可愛い顔が台無しだよ。狙われるのはおそらく満月までだろうから、なんとかそれまで、私がそなたを守ってやろう。いいかい、だから私抜きで、一人で行動してはいけないよ?」


「……あなたは一体」


(あやかし)かもしれないね。でも妖では信じられないか? 見鬼(けんき)ならともかく、ただの人間なら、お前の役には立たないよ」


「けん、き?」


 そう、と彼女は私の顔を――眼を見つめる。


視鬼(しき)見鬼(けんき)浄眼(じょうがん)。どれも(あやかし)を見る力を指した言葉だよ。よしんば仮に見鬼であっても見るだけしか出来まい。力がなければそなたを守ってやることなどできはしないのだ」


「……どうしてあなたは私を守ってくれるんですか?」


 苦笑して、彼女は私の頬を爪でつつく。


「そなたは私に挨拶をしてくれたね。妖同士で挨拶などしやしない。人に私は見えはしない。単純に私は嬉しかったのだよ。それだけさ」


 そんなことで、と私はその凄絶な美貌を見つめる。


 この人は、本当に人ではないのだろうか。


「……あなたは私の眼には興味がないのですか?」


 ないな、と彼女は肩をすくめた。


「捜し物をしているのだ。そのためにこの町に寄っただけのこと」


 彼女は踵を返す。さばさばしているその動きからは、確かになんの興味もなさそうに見えた。


 本当に、妖なのだろうか。


 ――私の眼に、本当に興味がないのだろうか。


 それでも私のことを守ってくれるのだろうか。


「信じて……いいんですか?」


 もちろんだよ、と彼女は振り返らずに手をあげる。


 はっと気づいて、私は声を張りあげた。


「名前を、名前を教えてください!」


 彼女は立ち止まり、肩越しに小さく呟いた。


「困ったら呼ぶといい。……ではね華緒」


(ひじり)、さん」


 もうその場に彼女はいない。


 立ち去った彼女の残像に向かって、私は小さく呟いた。


 チュンチュン、と一羽の雀だけが辺りを飛びまわっている。


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