【4】 5章 剥殻
5章 剥殻
1
かかった、と麻姑はひとりごちた。
背中合わせになっていた佐久間が、眉を上げる。
「娘娘?」
「……もういいわ、金光仙。お疲れ様」
麻姑は満足そうに長い髪をかき上げた。
そして凛とした声を張り上げる。
「ここに社鼠が居るなら聞くが良い。鬼雛はもはや我が手にある。これ以上の戦いは意味を為さぬ。疾く退け!」
檮杌は動きを止めた。聖娘子もまたぎょっとしたように麻姑を見る。
襲いかかっていた(とう)犬たちも、一斉にその言葉に沈黙した。
「どういうことだえ?」
「どうもこうも、言葉通りよ」
麻姑は嬉しげに唇を舐めた。
「あのお嬢ちゃん、私がいただいたわ。我が結界は力では破れない。もちろん、あのお嬢ちゃんの鬼雛の力でも無理ね。もう二度と出られないわ」
うふふ、と彼女は笑う。
驚愕を隠しもせず、佐久間が繰り返す。
「……娘娘の結界、ですか」
「そうよ、あなたはよーく知ってるでしょ金光仙。入ったことがあるものね。あそこには空腹も老いもなく、昼夜も感じない。永遠に孤独と戦いながら、生き永らえていかなきゃならない、完璧な檻よ。あのお嬢ちゃんにはもったいないくらい。十年に一遍くらい、様子を見に行ってやってもいいわ……ま、どこかで気が触れるでしょうけど」
「俺が壊してやるよ、そんな檻」
檮杌は怒りを露わにして麻姑に近づいた。彼女は泰然と笑う。
「残念ながら私を殺しても檻は開かないわよ。あの術は完全に独立してるから。……試してみる?」
私は構わないのよ、と彼女は余裕を見せて手を広げた。
「雛の脅威をなくしたい、お嬢ちゃんの命を守りたい」
麻姑は微笑む。
「これはあなた方の望み通りの姿だと思うけど? 違う?」
私は優しいから、と彼女は佐久間に眼をむける。
だから最初からこうしてればよかったのよ、金光仙」
横を向いたきり、佐久間は返事をしない。
「いずれにせよ、これで私たちが戦う理由はなくなったでしょ。贏ったのは私。どうしてもっていうんなら、場所くらいは教えてあげてもいいけど」
そこに行ったところであの子は出れはしないけどね、と彼女は嘯く。
檮杌は無言で頭を掻きむしる。
鬼雛――華緒。
珍しく執着した玩具だった。
人の器に癒着し、不安定な存在のくせに己より強大な力を秘めていることにも興奮した。
――手にいれたい。
そのために、たあいもない人間ごっこまでして傍にいたというのに。
「……つまらんな」
こんな半端な幕切れを想像したわけではなかった。
――しかも横からかすめとられるなど。
華緒がいないというのなら、腹いせにこのあたり一帯を火の海にしてやろうか。
妖怪も仙女も、この周辺の人間をも。
行きがけの駄賃に、すべてを灰燼に帰してから、古巣に戻ろうか。
物騒なことを、半ば本気でを考えていた時だった。
「麻姑仙」
聖娘子が麻姑に近づいていく。
「おい? ちょっと大姑?」
「結界の場所を教えてくりゃれ」
麻姑は片眉を上げる。
「場所を知っても何も出来まい。加えて敵に塩を送れというかえ? 何のために?」
「望むなら眼でも腕でも肢でも構わぬ、好きなところを持っていくがいい」
聖娘子の表情は静かだ。聞いているほうがぎょっとする。
――いったい、何を言い出すのだ?
麻姑の結界にとらわれた時点で、聖娘子らは負けたのだ。
――力がすべて。
それは瞭然としているはずなのに。
麻姑は少し考えた風を見せて、ふとおもいついたように悪戯っぽく笑った。
「四肢を捥いだとしても、お前は表情を変えまい? ならば面白味もない。だけどここは日本だから、この国風に土下座でもしてもらおうかしら。……矜持高いおまえにそれが出来ようかえ?」
聖娘子は無言で麻姑の前に両膝をついた。その場にいたもの全員に動揺が走る。
麻姑は眼を瞠った。
「嘘」
麻姑の足先に両手を突く。
誰もが己の眼を疑った。
他者のために必死になる妖怪など存在しない。
しかもそれが――鬼雛を宿したとはいえ、人間の小娘ひとりのために。
大きな綿雪が降り始めていた。
白い影の落ちる中、聖娘子は顔を上げる。
「鬼雛を、ここで失うわけにはいかぬのだ」
「……一体、どうしてそこまで」
「後生じゃ」
驚愕の中、聖娘子は額づくように地に頭を垂れる。
全員が衝撃を受ける光景の中で、檮杌はふと、そこに佐久間の姿が見えないことに気が付いた。
※※※
――そこは白く発光する空間だった。
私はぼんやりと自分の周りを取り囲むその壁をみていた。
壁といっても、手に感じる質量があるわけではない。
歩けどもあるけども壁はなく、ただ、今立っている場所が平らであるということだけしかわからなかった。
なのに遠くまで見通せない。
広いとも思えないのに、歩くと涯がない。
歩き疲れて、私は座り込んだ。
叩いても殴っても意味がない。
さっき使った地面を割った技(?)を使おうとしたが、全く効果がなかった。
かなりの跳躍もしてみたけれど、天井があるわけではないようだった。
単に跳躍が足りないのかもしれないが。
なんだろう。
ドアが閉まった瞬間に空間が変化した。そこに閉じ込められたのはわかった。
……なんといってもこれが初めてではないのだ。
「私っていっつもどこかに閉じ込められるもんな」
最初は百武神社の社、次は先輩の結界の中で、檮杌に追い回された。
「ここも結界なのかもしれないな」
ひとりごとだが、敢えてちゃんと声を出した。
不安だからかもしれない。
空間は耳が痛いほど静かで、雪の中のようだった。音が吸い込まれていくようだ。
「聖さん……弼、緒方、和歌子ちゃん」
名前を叫んでも届くことはないのだろう。
案の定どこからも応答はなかった。
あの時は、枳首蛇の雀としゃべってたから、少しは気を紛らわせることもできたが。
妖怪はすぐ私を馬鹿にするからな、とこんな時なのに思い出して立腹する。
そんな自分が少しだけおかしかった。
「それでも助けにきてくれたんだよね、聖さん。先輩も……」
その場に座り込んで、私は膝を抱えた。
「ねえ……今、居る?」
誰かに聞かれていれば完全に変なつぶやきだったが、どうせここには誰もいない。
自分の中に尋ねてみたが、返事はなかった。
「……仕方ないか」
苦笑した。鬼雛の気配を感じない。
彼女は臍を曲げたのかもしれないと思った。
無理もない。
――私は怯えたのだ。麻姑の話に。
『本当はね、妖怪が鬼雛を啖らうんじゃないの。鬼雛が妖怪を啖らうのよ』
――鬼雛は自分を啖った妖怪の自我を喰らう。
眸の色は翠に変化した。妖の色だと弼は言う。
これは単に変色したのではなく――鬼雛に黒色が喰われたからではないのか?
鬼雛の侵食ではないのか。
人にない回復力、自在に伸びる爪、あり得ない跳躍力、地を割る力。
『このお嬢ちゃんはもう鬼雛の力を使い始めている。鬼雛が目覚めているなら、今後、彼女が鬼雛に取り込まれるのも時間の問題ではなくて?』
――やはり取り込まれてしまうのだろうか、私は。
こんなことを心配したわけじゃなかった。
ただ先輩を、自分を、周りを助けたかっただけなのに。
ふと顔をあげた。
――鬼雛が哭いている。
疎ましい、恐ろしいと思った私の感情に哭いているのがわかる。
だけど、慰めてやることはできない。
――事実、疎ましく思ったのだから。
鬼雛を覚醒させるときは何も考えていなかった。
この子と一緒に生きていくのも悪くないと思ってた。
ともにに死のうとさえ思ったのだ。
――でも。
先輩を好きだと思うこの気持ちさえ、どちらのものだかわからないなんて。
ため息をつく。
もし鬼雛の気持ちが、私に先輩を好きだと錯覚させたのだとしたら。
「なんとなく、辻褄も合うんだよな」
普通、好きじゃないとハッキリ言われたら、いくらおバカな私でも諦めるものじゃないのか。
だってフラれたも同然なんだから。
そもそも最初はミ-ハーな憧れだけだったんだし。
なし崩しに一緒に暮らすことになって、色仕掛けなんかされてしまったものだから。
――鬼雛の気持ちに影響されただけじゃないのか。
確かに顔が好きだった。あの見惚れるほどに端正な顔が。
だけど。
「あのヒトは妖怪だよ。きっと本当はすげー怖い顔してる。黒眚とか、(とう)犬みたいにさ」
醜怪でなかった妖怪などいない。
瘟鬼だって、猩猩だって、猙だって、枳首蛇だって。
どいつもこいつも、恐ろしい顔をしてた。
「きっとそうだよ。本当の姿とか見たら、いくら私でも醒めるんじゃない? だいたいさ、あの顔以外で好きになる要素なんてあったっけ?」
おどけて自分に問うてから、不意に胸を押さえた。
『華緒』
脳裏に甦る声音。悲痛な色を宿して。
『すまない……華緒』
――どうしてあの時の、あの声を何度も思い出してしまうのか。
そのたびに、どうして胸が痛むのか。
だからそれも違うって、と首を振る。
何度も頭を振った。好意はきっと鬼雛の気持ちだ。
――自分のじゃない。
すまないというのは、彼が役目を全うできなかったからだ。
――私への想いじゃない。
そう思う端から、胸が痛む。
――役目とはいえ。
自分の腕を犠牲にしてまで、助けに来てくれるものだろうか。
犯されなかったことに、安堵してくれるものだろうか。
檮杌に先輩が殺されるのは時間の問題だった。
間違いなく――死は目前にあった、あの場面で。
『……逃げて、華緒』
自分の命を顧みず、私を逃がそうとするものだろうか。
「それは……私が鬼雛と癒着してるから」
鬼雛を守るだけなら、私の身体が蹂躙されようと問題はないはず。
むしろ私が檮杌に殺されていれば、それで彼もまた役目を解放されたはず。
なのに、なぜあれほどに必死になってくれたのか。
考えるほどに、わからなくなる。
「違うって、絶対……」
涙がこぼれる。どうして涙をこらえ切れないんだろう。
だいたい、なぜ緒方じゃダメなの。
あんなに解ってくれる人はいない。
ダメなところも、いいところもすべて、ちゃんとわかってくれて、受け入れてくれるのに。
私が他の人間を想っていることすら、理解してくれるのに。
『華緒』
――どうして今、思い出す声が、緒方のものじゃないんだろう。
『おかえり、華緒』
違う、とつぶやく。
「違う」
――なぜ夕食後のくつろいだリビングを。
「違う」
――湯気の立つマグカップを。
「違う」
――夢中になったボードゲームを。
「違う」
――午睡から目覚めて落ちたブランケットを。
「違うったら!」
――泣き叫んだ夜の暖かな胸を。
どうして今、あんな優しい記憶ばかりを思い出すの!
「違う……私が好きなんじゃないのに…」
膝に両眼を押し付けて。
両手で耳を覆って。
どこからか聞こえる鬼雛の哭き声を聴かないふりをして。
――ずっと泣き続けた。
2
それは聖娘子が麻姑の足元に額づいた直後だった。
「地震……?」
不吉な揺れが続く。
直後、足元に影が落ちた。麻姑は上を見上げ、悲鳴をあげた。
「嘘、嘘でしょ!?」
「巴蛇! もう一匹いたのか!」
弼が叫んだ。
その蛇は轟音とともに出現した。
夜を凝縮したような、沈んだ光沢。
角度を変えて動く巨大な眼。わずかに動くだけで、木々が大きく揺さぶられる。
巴蛇は校庭からその鎌首を擡げた。
地中を這ったのだろうか、校庭には巨大な穴が開いている。
「……大きい」
その場の全員が飛び退る。
「檮杌」
「無理だよおばさん、こんなところで力は出せない」
「校舎さえを守れれば良い」
麻姑が教えた結界の場所は、校舎内だ。どんな衝撃を受けても結界内部は無事だ。
だが、結界のある外枠を壊すと、術者の麻姑すら接触ができなくなるらしい。
永遠に時のはざまに浮遊するものになってしまうという。それは避けたい。
「良いな、校舎を壊すでないぞ」
「注文が多いんだよ、いつもいつも!」
もう、と膨れてから、弼は巴蛇の足元へと跳躍する。
「麻姑仙」
「……なによ」
振り返って聖娘子は眼を細めた。
「鬼雛は我が手に取り戻す。……記憶こそなくとも、この聖娘子、真贋を見極める眼は腐ってはおらぬ。みすみすと鬼雛を崑崙には渡さぬ。 ――帰って玄女にそう申し伝えよ」
意味ありげに微笑むと、聖娘子もそのまま檮杌の方へと駆け去る。
「……なによそれ。……あれ、金光仙? どこ行ったの……ちっ、また!」
先ほどまで沈黙していた(とう)犬らが、再び麻姑めがけて襲いかかってきた。
膨大な数をいなしながら、彼女もまた戦いの中に没頭していく――。
※※※
『華緒、こんなところで寝たら風邪をひくよ』
優しい声。
いつもそうやって私を甘やかす。
微睡の中で、そっと掛けられるブランケット。
あるいは抱いてベッドまで運んでくれる、その逞しい腕。
私は夢うつつの、その時間が大好きだった。
意識の奥で、鬼雛の無邪気な歓びも感じていたように思う。
その嬉しさの波動も好きだった。
……自分と同じ感情だったから。
ホントはずっと前から、鬼雛が息づいていることを知ってたんだと思う。
私の中で孵った命に、気づかないわけがない。
知らないふりをしていただけだ。
……胸に灯った、彼女と同じ気持ちのことも。
『相手が妖怪でも、好きだと言い切れるだけの覚悟。それは例えば自分の命さえ擲てるほどの強い意志じゃないのか?』
若槻先生の言葉が回る。
『緒方君に好きだって伝えたかったなあ』
これは也子だ。
――好きって言葉は自分で伝えなくちゃ!
彼女に言った、私の言葉。
※※※
遠くで誰かの声が聞こえる。
いつまで逃げるの?
――全部を鬼雛のせいにして。
いつまで我慢できるの?
あふれてこぼれそうになっている、
――この想いを。
※※※
びくっとした自分の身じろぎで眼が覚めた。
わずかに瞼を開けると、視界は暗かった。
もう夜になったのか。いつの間にか寝ていたようだ。
寝て……夜?
――あの白い結界の中にいたのに?
我に返る。
「っ!!」
瞼を塞がれていた。
背後からの、誰かの手。
もう一つの腕は胸の下に回して、私の体を抱きしめている。
足の間に、私を入れて。
私の背中を、自分の胸に凭れかかれるようにして。
……幻の、桃の香りが甦る。
泣きつくしたはずの涙がこみあげた。
――私は、この手を知っている。
『……泣いたんだね。眼が腫れてる』
そう言って瞼の上に置いてくれた、冷たい手を憶えてる。
顎をあげて、喘ぐように息をする。
「先輩……」
押し殺した気配。
背中に感じる暖かな胸。
夢じゃない。確かに今、後ろにいる。
いつでも傍にいてくれるわけじゃない。いつも会えるわけじゃない。この先、生きて見えるとは限らない。
――この瞬間しかない。
「好きです」
もう逃げない。
――鬼雛だけの気持ちじゃない。
こんなに胸が震えてるのに。
こんなに想いが溢れてるのに。
これが私の気持ちじゃないはずがない。
「好きです。……私、先輩が好きなんです」
なんと言われてもいい。嫌いだと、迷惑だと罵られてもいい。
押さえられた手の間から、涙が伝った。
……ようやく分かった。
也子の気持ちも、若槻先生の気持ちも。
――伝えないままじゃ、終われない。
お願いがあります、と私は嗚咽の合間から声を押し出す。
「どうかここで、殺してください」
ぴくり、と腕が動いた。
最初に殺してほしいと願った時は、私的な感情からだった。
――好きな人が、敵になった。
そのことがショックで、自棄になっていたのだと思う。
無自覚の失恋に、きっと何も考えたくなくなったのだろう。
せめて殺した自分のことを覚えておいてほしいなんていうのは、気持ちの悪いストーカーの感情だ。
――でも今は違う。
「……本当は死にたくない。だけど」
鬼雛が自我を啖らうなら。
――それで、何万という人が死ぬのだとしたら。
もう止められないのなら。
「鬼雛のこと、私、嫌いじゃないんです」
胸の奥で、哭き声が止む。
「嫌えるわけがない……だって、この子は私の中で孵ったんだもの」
不思議だった。私の自我を啖らい、殺戮を本性とする災厄の化身。
一時的にせよ、瞭然と疎ましい、恐ろしいと思っていたのに。
眼が覚めたら、そんな感情はきれいに吹き飛んでいた。
「どうせ嘘をついても彼女にはすぐにバレる。だから本音を言います。……私、鬼雛のことも好きです。だからこそ、この子に私を飲まれたくないんです」
この子を暴走させたくない。妖怪も、ましてや人も。
――この手で殺したくない。
ならば、私がいなくなるしかない。
自棄で言ってるわけじゃない。
これは――私の意志だ。
「殺してください」
――他の人には頼めない。
「先輩の手で」
背後は沈黙している。
ちゃんと聞いているのかとふと不安になったが、その胸の鼓動の速さを聞いて安心した。
――彼はきっと応えてくれる。
私を殺すと、明言していたのだから。
あ、と私は声をあげた。
そうだ、死ぬ前に、伝えなくてはならないことがある。
「若槻先生の伝言を忘れてた。先輩、聖さんに会ったら、若槻先生に会いに行くように言ってくださいますか。……それでわかりますから」
今なら迷いなく聖さんにも先生の伝言を伝えられるだろうに。
それがちょっとだけ悔しかった。
「あとは……緒方と和歌子ちゃんに。……ごめんなさいと」
彼らはきっと激怒するだろう。
私の判断を貶しながら、けちょんけちょんに罵りながら。
リアルにその様子が想像できるのがおかしいけど。
……だけどきっと泣いてくれる。
惜しんでくれるだろう。
それを思うだけで、幸せだ。
「特に、緒方には申し訳ないって。……応えられなくて、ごめんなさいって」
傷つける。きっと。
好きだと言ってくれた、あの優しい瞳を二度と見れないのはつらいけど。
「でもきっと、解ってくれると思うから」
解ってくれる日が、いつかくると思うから。
胸の下に回された腕にぎゅっと力が籠った。
「ついでに弼にも。それから……こんな私を大事にしてくれた、聖さんにも」
何度も助けてもらった。弼は予想外の飛び入りだったけど、それでも。
『華緒』
みんながそう呼んでくれた。時にはバカにされたりもしたけど。
本当に大切にしてくれた。惜しみなく愛された。
一緒に助けあって、傷つけあって。
――素晴らしい仲間だった。
「ありがとうって。……華緒は幸せだったって」
どうか先輩の口から、と最後は声が震えてしまった。
――ダメだな……お願いの途中で泣くなんて。
あまり悲しまないように伝えてくれというのは、さすがにハードルの高すぎるお願いだろうか。
何度か呼吸をして、乱れた息を整えた。
「先輩。心臓は、たぶん無理です。甦っちゃう可能性があるもの」
トレッキングで八狐子に貫かれた心臓は、聖さんの手でもとに戻った。
「悔しいけど、第三の妖怪ってのが、試してたんだと思うんです、それ」
思えば猙も八狐子も私の心臓を狙っていた。
執拗に。
その後、妖怪が心臓を狙ってはこないのは、それでは死なないとわかったからではないのかと思う。
「だとしたら、一番確実なのは、首を飛ばしてもらうのがいいと思うんです。……前も言ったけど、出来るだけ素早くしてくださいますか。その、痛いのはやっぱり嫌だから」
傷の治りが早いとはいえ、痛みまでなくなるわけではないのだ。
瀕死の重傷のまま苦しむのは嫌だ。治っちゃうかもしれないし。
私は瞼を覆った大きな手を、上からそっと自分の両手で押さえた。
「もう手を離してもいいですよ。見るなというなら絶対に見ませんから」
私の手の間から、ゆっくりと瞼に置かれた手が引き抜かれていく。
すっと私の背後から温もりが消えた。
きっと首を落とすために一旦離れてくれたのだろう。ほっとした拍子に、最後の願いを思いついてしまった。
「あの! すみません、本当に、本当に最後にあとひとつだけ!」
お願いがいっぱいでごめんなさい、と私は慌てる。
先輩は何もしゃべらない。
……往生際が悪いとでも思われただろうか。
促すような空気が流れた。
待っててくれているのだろう。
――だがいざとなるとなかなか口に出せないものだ。
好きだというより、はるかにこちらのほうが言いづらいのはどうしてか。
かなり逡巡してから、ようやく私は思い切って、口を開いた。
「……先輩の声が、聞きたい」
静まった空間――私には真っ暗な闇の中で、私の声だけが響く。
「華緒、って」
もう一度だけいいから、名前を呼ばれたい。
今だけ限定の、偽りの、まるっきりの嘘でいいから。
――懐かしい、あの優しい声で。
「ダメですか……?」
背後の気配は何も答えない。
私はため息をついた。さすがに厚かましいお願いだったかもしれない。
そりゃそうだ、私のことが嫌いなんだとしたら、かなりの迷惑だろう。
自嘲が漏れた。
――まあ無理なら仕方がない。
そう思った時だった。
「!」
正面から強く抱きしめられていた。
「先輩?」
『華、緒……』
耳に届くその声はかすれていた。
囁きだけで、まったく音になっていない。
だけど。
たまらずその胸にしがみついた。
「ありが、とう……っ!」
黙って願いを聞いてくれた。
強く抱きしめてくれた。
名前を呼んでくれた。
――もう充分だ。
幸せなまま、逝くことができる。
なのにどうして涙が止まらないんだろう。
――離れたくない。
胸に小さな想いの火が灯る。
だけど今から死ぬ私には口にするのも許されない望みだ。
これ以上、先輩の手を煩わせるわけにはいかない。
「……ごめんなさい。もう、大丈夫です」
ひとしきり泣いて、私は先輩の胸から離れようとした。
だが、その腕はびくとも動かない。
「……先輩?」
苦しいほどに抱きしめられた背中。
頭に押し付けられるようにした、柔らかな髪。
そこから思いがけないほど、強い声がした。
「……死なせない」
その瞬間。
パリン、とガラスの割れる音が周囲にあふれた。
※※※
「そう」
(とう)犬をその爪で薙いで、麻姑は顔を上げる。
強風に翻弄される髪を押さえもせず、昏いその眼が、校舎を見上げた。
耳が拾ったきらびやかなそれは――硬質な破砕音。
「それがあなたの答えなのね、金光仙」




