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【4】 1章 注水

1章 注水


 「遅いっ!」


 カウベルが鳴ると同時に放たれた和歌子ちゃんの渾身の一喝(いっかつ)に、ビクっと体を震わせたのは青山(あおやま)(たすく)だった。


 「怖っ……」


 小さく呟いて、そそくさと緒方の後ろに隠れる。


 一緒に入ってきた緒方は鼻白んだ様子さえ見せず、器用に片眉を上げただけだった。


 「……当たるな」


 「当たってないわよっ!」


 噛みつくように言う和歌子ちゃんに、緒方はこれ見よがしにため息をつくと、コートを脱いで私たちの正面に座った。外の冷気の名残が鼻先をかすめていく。


 大学図書館塔一階の喫茶店、『布袋(ほてい)』。


 カウンターの奥に飾られた一幅の水墨画が由来らしい。


 ――蹴鞠(けまり)布袋図(ほていず)


 丸い顔に丸い腹の、楽しげな布袋ほていさんが、丸い袋の上で、丸い鞠を蹴り上げているという、これでもかというほどまるっとした線の繰り返しが可愛い、ユーモラスな絵だ。


 光琳こうりんか、と前に緒方がつぶやいていたので、たぶんそうなんだろう(よく知らないけど)。もちろん、レプリカだろうけども。


 以前にも来たことのある、とにかく人気のない喫茶店だ。店主はいるが、たいていカウンター内でイヤホンをはめて、音の出ないギターをかき鳴らしている。


 ひょっとしたら店名の由来は絵からではなく、伝説のバンドからなのかもしれない。


 「何かつかめたわけ? それで」


 イライラした様子の和歌子ちゃんに構わず、緒方は私に視線を合わせる。


 なぜか緒方がぎょっとした風を見せた。首を傾げたが、何事もなかったかのように口を開く。


 「……で、お前の方はどうなんだ? あれから接触は? 」


 私は口を結んで首を振った。今喋ったら何が出るかわからない。


 ……ため息ならいいのだが。鳩尾(みぞおち)をさする。


 胃とか十二指腸をこの場でご披露したくない。


 仕方ないよ、と弼が肩をすくめる。


 「だって今や華緒は、学校一可哀想な女の子だもの」


 その頭を和歌子ちゃんがはたいた。


 「余計なこと言うんじゃないわよ!」


 「……和歌子、馬鹿を相手にするでない」


  黙って瞑目していた也子が、ようやく眼を開けた。


 「知世。あやつらの方の動向は?」


 「変わらない」


 緒方は運ばれてきた珈琲を飲んだ。外は雪が降りそうな空模様だ。鼻の頭が赤いのは湯気のせいだけではないだろう。


 「この一週間、校外ではどこに行くにも二人一緒だ。片方が一人になることはほとんどない。まれにあっても衆目があって近づけない」


 「それは向こうとて同じこと。おいそれと華緒には近づけまい。今は距離を測っておるのだろうが」


 也子はなにやら考え込む風情。


 「援軍が来る前にとっとと迎え撃っちゃった方がいいんじゃないの? 明日から冬休みだもん、学校閉まるから本格的に襲ってくるよ。今ならたった二匹でしょ。僕、待つのってきらーい」


 寒そうな手を、運ばれてきたココアで温めながら弼は唇をとがらせる。


 どうしてこう、こいつはこれほど人間臭い芝居が出来るのか。


 ……まるで。


 「お前が言うな」


 私がその先を想う前に、和歌子ちゃんがまた弼をはたく。


 「いたーい。和歌子先輩、暴力反対」


 「どの口がそれを言うか、ど・の・口・が!」


 和歌子ちゃんは弼のほっぺたをつねる。傍目(はため)にはまるで姉弟ゲンカのようだ。


 「黒田」


 呼ばれて視線を動かすと、緒方が心配そうに私を覗き込んでいた。


 「……大丈夫か?」


 気遣う声に、私は頷く。弼が涙目で頬を押さえながら、茶々を入れる。


 「緒方先輩~、今、華緒ねらい目なんじゃない? 弱ってるし」

 

「……狙っていいのか?」


 全員がぎょっとしたように眼を瞠る。弼がはっとしたように首を振った。


 「ダメ、あげない! 狙っちゃダメだよ! 華緒は僕のものなんだから!」


 慌てたその様子に緒方が、和歌子ちゃんが笑う。私も思わずつられて微笑んだ。


 緒方は顔を戻して、目元を和ませる。


 「……そうやって笑っとけ。最近、笑ってないぞ、お前」


 ――あの日から一週間。 


 あまりに変化しすぎた日常に、再び食欲を失くした私は自分で言うのもなんだが完全に憔悴しきっていた。


 心配そうな緒方の視線に頷くふりをして、強く唇をかみしめた。


 ホントにどうしてこんなことになっちゃったんだろう。




 あの日――あの璿璣(せんき)ではない鴆を見た日。


 それは、長い長い一日の始まりだった。


 

 まず学校に着く前に、也子が足を止めた。場所は学校前の横断歩道。


 ――私が事故に遭った場所だ。


 鬼卵石という、妖怪垂涎の石(卵)がこの右眼に飛び込んだあの日から、もう三か月が過ぎてしまった。


 その間、鬼卵石が孵化したり、先輩と同居を余儀なくされたり、妖怪に心臓を貫かれたり、聖さんが戻ってきたり、和歌子ちゃんと緒方が見鬼丸やらお札やらでパワーアップしていたり、妖怪に犯されそうになったり、先輩が大怪我したり、鬼雛が目覚めたり。


 ……って、イチイチ思い返すだけで息切れがするのはどうしてか。


 波瀾万丈過ぎませんかね、この数か月ってば。


 でもあっという間に今年ももう終わろうとしているわけで。


 このまま何事もなく新年を迎えられたらいいのだけれど。


 「華緒」


 感慨にふけっていた私を引き戻したのは、也子の声だった。


 「はい?」


 「おまえに用があるようだよ、あの男」


 え、と私は顔を戻す。


 車が眼の前を過ぎていく。いつのまにか、校門の前に一人の男性が立っていた。


 身長百八十センチはあるだろうか。痩せぎすではなく、がっしりとした体躯の男性である。年齢は二十代半ばくらいか。


 端正な顔には表情がなく、かといって氷のように冷たいわけでもない。


 ただそんな容姿を一瞬で消し去るほどのインパクトが別にあった。


 ――全身包帯だらけなのだ。


「……私に? だって」


 誰よ、あれ。


 フランケンシュタイン(しかもあんなイケメン)に知り合いはいない。


 信号が青になって、渡り切った横断歩道の先で、聖さんの言うとおり、その男は私に近寄ってきた。


 「あの」


 あんた誰、と私が言う前に。


 「華緒」


 いきなり初対面で名前で呼んで、その男は私の手を取った。包帯だらけのその手で。


 ――なんだこれは! 


 え、私、ついにモテ期到来ですか!? と自問自答する私に、だが脇に立つ也子はなぜか剣呑な気配を隠そうともしない。


 いつもなら真っ先に声をあげるだろう和歌子ちゃんも緒方も、也子に倣うように黙って、睨むように男を見据えている。


 尋常じゃないことが起こっていることだけは、ゆるゆると私にも伝わってくる。


 ……たぶん、これはモテ期なんかじゃなくて。


 男は片手で私の片手を持ったまま、無表情に口を開いた。


 「……あなたに、いえ、あなた方に伝言を申し上げる。本日ただいまを以て鬼雛抹消の下命あり。以降、その旨了知されたし、と」


 は、と私は間抜けな声をあげた。

  

 「なんの話ですか?」

 

 「承知した」


 私に構わず也子が言う。


 「……感謝すると伝えてくれ」


 かすれた声で後ろから緒方も付け加える。


 男は目礼し、私の手を放した。そのまま踵を返して歩き出す。



 「あ、あの……!」


 男はふと足を止めて、私を振り返った。


 「あなたを運ぶ、なくなるのは、少し残念だと、思います」


 急にたどたどしい日本語になった男は、少しだけ目元を和ませると、すぐに背を向けて今度こそ歩いていく。


 「あのっ!」


 「お待ち、華緒」


 とっさに追いかけようとした私の手を、也子が留めた。


 「もうおらぬ」


 顔を戻すと、さっき歩いていったはずの視界の中に男の姿はなかった。忽然(こつぜん)と消えてしまったかのような。


 「……あの人は」


 「鴆であろ。狗の手先のな」


 「鴆って、……え、まさか璿璣(せんき)?」


 思わずあたりを見回す。遠い上空に、微かに鮮やかな色が見えた気がしたが、すぐに厚い雲の中に消えてわからなくなってしまった。


 「……璿璣、だったの?」


 人型になれたのなら、そう言ってもらわないと。


 ……私、璿璣の前で恥ずかしい恰好とかしてなかったかな。


 一瞬であれこれ考えて、はっと我に返る。だとしたら、今の話は……?


 「ひーさん」


 和歌子ちゃんが心配そうに也子を見る。也子は頷いた。


 「やはり西王母の命が変わったのだね。これまで鬼雛をたらしこんで手中にしようともくろんでいたものが、あの狗が不甲斐ないばっかりに、さすがに王母が業も煮やしたのであろうよ」


 「そんな……!」


 ……私が先輩になびかなかったせいで?


 ははは、と也子は笑った。


 「戯言じゃ、華緒。そのように泣きそうな顔をするでない。それが原因ではなかろうよ。崑崙は警戒したのだよ。鬼雛が覚醒したからね」


 眼を瞠る。


 「鬼雛はその力を(あら)わした。檮杌(とうこつ)を倒すほどの力、遠からず今以上に警戒をすることは予測しておったが」


 也子は唇を舐める。


 「早々に抹殺命令とは恐れ入る。まあ無理もない話なのだろうね。それだけ鬼雛が脅威だということの証左」


 「あの、ちょっと待って!」


 頭がまだ追いついていかない。


 「今のは璿璣で、結局何が言いたかったんですか? 王母の命令が変わった? それって」


 「華緒。本当はちゃんと解っておるのだろ?」


 也子はきれいな指を私の頬に伸ばす。


 「狗は……いや、佐久間は西王母の命令でお前を守っていた。鬼雛がどうなるかを観察していた。あわよくばお前を陥落させ、手の内に引き込もうとさえしていたけれどな。……だが、鬼雛は目覚めた。王母はその怯懦(きょうだ)ゆえに佐久間にその抹消を命じた。今のは佐久間からの伝言だ。つまり」

 

 「先輩が……敵になるって、ことですか?」


 也子は頷く。そして緒方を見遣る。


 「知世は本当に聡い子だ。おまえの機転がなければ、華緒は易々と狗の手中に堕ちていただろうよ」


 緒方は厳しい顔で頷く。


 「俺はこれを懸念していたんだ、ずっと。……佐久間が寝返る時が来ることを」


 衝撃が、ゆっくりと足元から這い上がってくる。


 ――先輩が、敵になる……。


 「だがあいつは約束を守ってくれた。おかげでこちらも対策が立てられる」


 「こうなると、あのクソ檮杌がこっちに居るのは不幸中の幸いになるのかしらね。(しゃく)だけ」


 「――呼んだ?」


 言いさした和歌子ちゃんの腰の後ろからにゅっと顔を出したのは青山弼だった。


 「い、いきなり首突っ込んでくるんじゃないわよ!」


 「だって、僕の話が出ていたみたいだから?」


 しれっとした顔で、弼はちゃっかり輪に入る。


 「なになに、金毛犼(きんもうこう)が鬼雛を抹消するって? あいつにそんなことできるわけねーじゃん」


 僕だっているんだよ、と檮杌はにっこり笑う。


 「あんたがいるせいで、華緒が命狙われてるんじゃないの?」


 厳しい和歌子ちゃんの糾弾に、弼は大人びたしぐさで(って事実この中の誰より年長なのだが)肩をすくめてみせる。


 「崑崙は、鬼雛が覚醒しただけで大慌てだよ。僕のことまで認識できているとは思えないけど?」


 「和歌子、そやつの言うとおりであろうよ。鴆の飛来した時期を(かんが)みても、鬼雛の覚醒だけで即断したのであろう。もっともこの先、檮杌が災いの種となることも間違いないだろうがの」


 ほら、と勝ち誇った和歌子ちゃんに、悔しそうに弼が頬を膨らませる。


 「だって……華緒がやられるのを黙ってみていられるわけないじゃないか」


 「大きなお世話よ!」


 「よさぬか」


 言い合いを始めそうな二人に、也子は割って入る。


「檮杌がこちらについたことは、遠からず崑崙も認識する。狗が了解しているからね。鬼雛の力は不安定なようだし、こうなってはもはや、そやつは戦力から外せぬ」


 ふふん、と今度は弼が勝ち誇ったように笑う。


 「華緒」


 呼ばれて顔をあげる。


 「良いか。これからおまえは絶対に一人で行動してはならぬ。知世と和歌子の両方、あるいは私か檮杌のどちらかがいないところで動いてはならぬぞえ。……もっとも」


 也子の眸に強い光が宿る。


 「華緒、自分を過小評価するでないぞ。襲われた時は、ためらわずに鬼雛を呼び出すことだ。本来ならおまえに勝てる者など居らぬ。決して崑崙の手に落ちてはならぬ」


 「聖さん……」


 「崑崙だけではない。華緒を狙っている妖怪はまだ他にも居るのだ。(はっ)狐子(こし)(そそのか)した妖も特定できておらぬ。おそらくそやつが華緒に刺客を差し向けていた黒幕だろうがの。崑崙に黒幕の妖怪、どちらに身を預けても、決しておまえは救われぬ」


 辛そうに也子は口を歪める。


 「おまえだけはもう不幸になってはならぬ……」


 小さなその呟きを問おうとした時だった。


 「ねえ、さっきから臭うんだけど。中入った方がよくない?」


 暴れていいなら暴れるけど、と弼が薄く笑う。


 「臭い?」


 弼は空を嗅ぐ。


 「そこらじゅうにね。どうせ雑魚(ざこ)だろうけど。どうしたの華緒。来る途中で血でも()き散らしてきた?」


 「そんなわけあるかい!」


 ひと舐めさせてもらえたら、僕がんばれるかも、と甘えたようにすり寄ってくる弼の首根っこを和歌子ちゃんがつかむ。


 「はいはいお仕事お仕事! 華緒の傍にいると決めたんなら、自分の居場所くらい自力で確保なさい! それと華緒が学校に居る間、あんたが結界を張るのよ! 学校関係者や生徒たちに被害が及んだら、あんたはクビだからね!」


 「えー、和歌子先輩、人使い荒くない?」


 「人じゃないでしょ四凶(しきょう)様? とっとと雑魚を追い払ってくるのよ!」


 ぶつぶつ言う弼を放り出して、私たちの背中を押すようにして校門をくぐる。


 「華緒ちん!」


 教室を入る手前で血相変えて走り寄ってきたのは、ルイちゃんだ。


 「どうしたの?」


 「華緒ちん、お、おつちいてね!」


 「落ち着いてないのはおまえだ佐賀。なんだよ一体」


 なぜか教室までついてきた緒方が眉をひそめる。


 ルイちゃんはほっとしたように緒方を見る。


 「緒方、そっか、華緒ちんにはまだ緒方がいたか…」


 「ルイちゃん、どうしたの。何があったの?」


 どうもこうも、とルイちゃんは大きく息を吐いた。


 「佐久間先輩のクラスに転入生がきたのよ」


 「先輩のクラスに?」


 それがどうした、と言わんばかりの緒方に、ルイちゃんはいったん息を吸い込んだ。


 「それがすごい美人で本人いわく」


 「婚約者。……人ってこういう設定の方が萌える(・・・)んでしょ?」


 聞き覚えのない声にルイちゃんがすごい勢いで振り返る。


 彼女の背後にいたのは――モデルだった。


 えーと読モレベルじゃなくて。東京ガールズコレクションでもなくて。


 ――どこのパリコレだよ。


 百七十を超える長身、長い手足。そのウエストの細さってば何事でしょうか。


 え、ウチの制服ってそんなに素敵でしたっけ、と首をかしげそうなほど、同じものとは思えない着こなしに、背の半ばまでありそうな栗色の波打つ髪。てかもう窓からの光でむしろ金色にすら見えるんですけど。


 とどめはその小さな、美しい顔だった。


 少しだけ垂れ眼の、コケティッシュな美人。ぷっくりとした唇は、ヌーディなのに艶やかで。


 ごくり、と無意識に自分の喉が音を立てる。


 和歌子ちゃんも美人だ。アーモンド形の大きな瞳で華やかな。


 聖さんも美人だ。つり眼の凄味のある瞳で艶やかな。


 だがこの眼前の美少女の、可愛らしさとセクシーさの絶妙な混ざり具合ときたらどうだ。今まで見たことも、想像したことすらない造形の完璧さ。


 モデルか女優。もちろんオーラもある。それ以外の形容を思いつけない、自分も情けないけれど。


 「放心している場合かえ、華緒!」


 也子が私の前をかばうように立ちふさがる。


 「え、聖さん、なんで」


 「なんでもヘチマもあるかえ! 見てわからぬか! あの女が人間なわけがないだろう?」


 え、と私は也子の肩越しに、彼女を見つめる。


 「それが鬼雛の子?」


 少し驚いた様子で、彼女がこちらへ近づいてくる。


 すごいな、光が移動しているみたい…。


 警戒する也子に構わず近くまで来ると、也子越しに、彼女はしげしげと私を見下ろした。


 「わあ、噂には聞いてたけど。ほんとに人に癒着してんだ? なんて珍しい……」


 伸ばそうとするその手を、也子が叩く。


 「気安く手を出すでない」


 「……そう、おまえが聖娘子なのだね。お目付け役気取り、ご苦労だこと。いずれ対峙することになろうが、今は見逃してやろうよ。……私の気分が良いゆえな」


 彼女はいっそ優しいとも錯覚しそうな笑みを浮かべた。


 「そちらが緒方知世、で、こちらが眞山和歌子だね。まあ、話に聞いてた通りだわえ。愛らしいこと。いずれそなたらの心配事はなくなる故、それまで健勝に過ごすがよい。人の身に過ぎぬのだから、くれぐれも波風立てようなどと、滅多なことは思わぬことだよ」


 私は人が嫌いではないからね、と彼女は優しい声で言う。


 「そしておまえが黒田華緒。鬼雛を宿した娘。ああ、ほんと、こちらも噂通り」


 彼女は眼を細める。そして快活に言い放った。


 「乳臭い、貧弱な小娘だこと」


 ……えーっと、今、なんて言いました?


                   ※※※


 「()()!」


 遠巻きにしていた人垣の後ろから、突如男の声がした。


 ――その声。


 見ずともわかる。現れたのは想像通り、佐久間先輩だった。


 「さ…」


 呼びかけようとした私にかぶせるように大きな声で彼女を呼んだ。


 「麻姑!」


 「……麗!」


 嬉しそうに彼女は先輩に駆け寄った。


 そしてそのまま彼女は先輩の首に長い腕を巻きつけ。


 「!!」


 衆人環視の前で、堂々とその唇に口接ける。


 当然ながら周囲からどよめきが起こった。


 しかも濃厚なキスシーン。


 華緒、と和歌子ちゃんが私を支える。知らないうちに、よろけていたようだった。


 「ごめ……」


 先輩から眼を逸らして、和歌子ちゃんに頷くと、心配そうなその視線は再び前方へとあがり、チ、と舌打ちの音が聞こえた。


 「……ラブシーンなら他所でやれよ」


 クソ妖怪、と悪態をつく。だがその声はいつもより弱弱しかった。


 たっぷりの時間をかけてつながっていた唇は、ようやく名残惜しそうに離れる。


 「どうしたんです、こんなに急に。おかげで休むはずが出てくる羽目になってしまったではありませんか」


 「あら、この私が予告して玄関からお邪魔しますと言うとでも?」


 「……はいはい」


 苦笑して先輩はその顔をふとこちらに向ける。視線が合う。


 「黒田さん」


 先輩は彼女を置いて、ゆっくりと私の前に近づいた。


 いつもの端正なその顔に、だが笑みは一片もない。


 縋れるような温もりはどこにもなかった。


 「伝言は聞きましたか」


 何と言っていいかわからずうつむいた。先輩は頷いたようだった。


 「結構。こんなことなら、僕が直接言うのでした。……すべてお聞きになった通りです」


 弾かれたように顔を上げる。先輩は厳しい顔を崩さない。


 「黒田さん。あなたの荷物はすでに璿璣に運ばせてありますので、今日からご自宅に戻るといい。ご両親、周囲の暗示も解いてあります。僕のマンションには二度と来ないでください」


 自分の聞いた言葉が信じられなかった。


 ――二度と。


 「そしてこれは宣戦です。この場から、僕はあなたの敵になる。校内での殺戮(さつりく)は他を巻き込むことがありますのでお互い控えましょう。ただし校門を一歩でも出たら僕はあなたを殺しに行きます。そのつもりで」


 淡々と語られる恐ろしい言葉。そして冷たい眼は私を見下ろす。


 「あなたが何を言おうともう構いません。すべてあなたの気の済むようにするといい。ただし、それがあなたの命を縮めることになることもよくよく考えることだ。まあどのみち長くは生きられないのでしょうが」


 「本性を現したな下郎(げろう)。王母の命ひとつでこうも見事な変わり身を披露されるとは少々想定外じゃわえ? あれだけ毎日華緒に迫っておったものがのう?」


 也子は油断なく先輩と私の間に立つ。


 その視線をいったん受け止めて、先輩はそれを自分から逸らした。


 「……なんとでも」


 そのまま踵を返す。麻姑と呼ばれたあの美少女が、嬉しそうにその腕に巻きついて身を寄せた。


 「和歌子、知世。華緒を頼むぞ」


 也子はその後ろ姿を睨むと、そのまま厳しい顔で反対方向へと歩き出した。


 「大丈夫、華緒?」


 取り残された私を不安そうに覗き込む和歌子ちゃんに、私は笑い返そうとして、それができないことを自覚した。

 

 「……大丈夫、じゃないかも」


 無理もないか、と和歌子ちゃんは緒方に目配せしたようで、二人で私を荷物のように抱える。物も言えずそのまま運ばれるだけとなった。



 「か、華緒ちゃん、どこに行くの?」


 「保健室!」


 和歌子ちゃんがそう叫ぶ。了解、とルイちゃんの声が背中に聞こえた。



 ――その日の午前中の内に。


 黒田・佐久間破局説は学校中を席巻した。




 保健室の先生は運よく出張だった。


 「ごめん、和歌子ちゃんたちはもう教室に戻って」


 ベッドに腰掛けて、私は二人にそう懇願する。


 「華緒~」


 和歌子ちゃんの方が泣きそうな顔で、私の両頬を押さえる。


 「無理もない。眼の前で殺人予告受けたんだ」


 緒方は気遣わしげに頭を撫でてくれる。


 「もう! 甘やかひふぎだから、二人ほも」


 ほっぺた押さえられたまましゃべるのは難しい。和歌子ちゃんは笑って、ようやく手を外してくれる。


 「校内では襲ってこないと言っていたな。それだけが救いだ」


 「それ信じていいのかしら?」


 「いいと思う。悔しいが、あいつは敵でも信用できる」


 私は眼を見開く。


 あれだけ佐久間先輩を嫌いぬいていた緒方の言葉だとは思えなかった。とはいえ、和歌子ちゃんも重ねてそれに異を唱えることはしなかった。


 それがこれまで先輩と私たちの間に培っていた絆なのだとしたら、皮肉なものだ。


 少し寝てろ、と緒方は言い残して、和歌子ちゃんと保健室を出て行く。


 ひとりになって、思わず大きなため息を落とした。


 暖房の効いた室内。私はまだ巻きつけていたマフラーを首から外す。


 ひやりとした空気に、汗ばんだ肌が息を吹き返すようだった。


 ふと、気づいて、私はポケットから手鏡を取り出した。


 丸い鏡に映る、死人のような土気色の顔。


 「いつも以上にひどいな」


 そして、鏡をずらす。


 首筋には今朝咲いたばかりの赤い花が、ぽつり。


 そっとそれに手を触れた。


 『華緒』 


 今朝まで優しく呼んでくれていたあの唇は、もはや「黒田さん」という無機質な声しか紡がない。


 『校門を一歩でも出たら僕はあなたを殺しに行きます』


 冷たい声。


 『僕のマンションには二度と来ないでください』


 厳とした拒絶。


 まるで夢をみているようだ。


 脳裏で何度も再生される、先輩の声。


 『お帰り、華緒』


 いつも出迎えてくれた、あの優しい笑顔にはもう会えない。


 部屋を出るときには想像もしていなかった。


 ――二度と、あの部屋に戻れなくなることなど。


 手から鏡が落ちる。


 「……わかっていたこと、じゃないか」


 こみあげてくるものを押し殺すように、食いしばった歯の間からわざと声を絞り出す。


 そうだ、わかっていたことだった。


 ――命令が変更になれば、すぐにも自分を殺すヒトなのだと。


 最初は、はっきりと私を殺そうとしていたのだから。


 わかっていたことだ。


 「さいしょから……」


 強く首筋に爪を立てる。


 何度も、何度も。――そこをひっかくように。


 そもそもが計画ずくだった。


 鬼雛の経過観察のためだけに、私の近くでそれを見張るだけのヒトだった。


 西王母の裁可(さいか)が下るまで一緒にいる、という条件下での『お付き合い』だった。


 決して、それ以上でも以下でもない。


 そんなことは、最初から十分わかっていたことじゃないか……!


 ――『君を殺したくない』


 ――『一生守るよ』


 優しい囁きもすべて、演技派妖怪の、その場限りのリップサービス。


 ――『言いましたよね、自分のモノにちょっかい出されるのは不愉快だと』


 「嘘つき…」


 あっさりと手放したくせに。


 ――うかうかと、彼の何を信じようとしていたのか私は。


 「あの大嘘つ」


 『すまない……華緒』


 罵ろうとしていた私は、記憶の声に思わず顔をあげる。


 檮杌(とうこつ)に嬲りものにされていた私を助けに来てくれた時の。


 恐怖から救い出してくれた、かすれた声。


 血まみれの腕で、その胸に強く抱きしめた。


 あの時の震えた声だけは――嘘じゃなかった。


 きっと嘘じゃないはずで……。


 こらえきれずに両手で顔を覆った。


 「……先輩」


 あのヒトは敵なのに。


 私を殺すモノなのに。


 ――こんなにも胸が痛い。


 傷をつけた首筋より、はるかに胸の方が痛い。


 『麻姑』


 驚いた声に、絡みつく美しい光の塊。


 あの視線が、あの笑顔が、自分以外の誰かに向いた瞬間が忘れられない。


 あの時、考えたことは自分が殺されることへの恐怖なんかじゃない。


 敵になったという驚きでもない。

 

 頼んでもいないのに、何度も脳裏に甦る、美しすぎるカップルのキスシーン。


 ――あれが本当は一番ショックだった、なんて。


 胸が大きく痙攣(けいれん)する。


 おかしくなって笑おうとしたのに、そこから漏れたのは嗚咽(おえつ)だった。


 よりによってこんな時に、自覚しなくてもいいんじゃないの?


 ――自分が、誰を好きかなんて。 


 どれだけおバカな子なんだ、黒田華緒。


 おまえなんか、手の中にあふれた涙で溺れ死ねばいい。


 誰も来ない保健室。


 私は声を殺して泣き続けた。



                ※※※


 泣いて状況が変わるなら、世界はとっくに水没している。


 とかくこの世はままならなくて、しかも意地が悪いときてる。


                ※※※


 息が止まるとはまさにこのことだろう。


 泣き腫らした顔で教室に戻ろうと保健室のドアを開けた瞬間に、どうして先輩が他の子の肩を抱いて眼の前に立っているのか。


 たっぷり二十秒は息をするのも忘れ、その場に固まっていた三人の中で、最初に息を吹き返したのは先輩に寄り添っていた女子生徒だった。


 「ささ、佐久間君、ありがとう。あ、あとは私ひとりで大丈夫なんで」


 ものすごくバツの悪い顔をして、同じクラスなのだろう、彼女はそそくさと保健室に消える。修羅場はごめんだとばかり、ピシャリと音を立ててドアが閉まった。


 「……」


 無言で先輩が踵を返す。


 「……待って!」


 とっさに叫ぶと、先輩は足を止めた。


 「何か?」


 肩越しに振り返りもせずにそう訊かれ、あわあわと狼狽した。


 「あの……」


 何と言えばいいのだろう。言葉の接ぎ穂に困っていると、先輩がため息をついて、ようやく振り返った。冷たい眼は私を見ずに、ただ視線を先方へ送る。


 「……その先で」


 保健室の彼女はドアの向こうで絶対に聞き耳を立てているに違いない。誰もいないところで話そうということだと察して、私は頷いて先輩の後を歩く。


 保健室のある塔は校舎とは別棟の建物だ。地下もしくは地上の渡り廊下から接続できるようになっているが、基本は理事長室の真上なので、普段から人は極端に少ない。


 ましてや今は二時間目の授業中だ。この五階建ての建物の中には、さきほどの彼女も含め、片手で足りるほどしかいないだろう。


 先輩は二ブロック先の第三会議室と書かれた部屋の前で足を止める。こんなところ、在学中一度も入らずに卒業する生徒ばかりだろう。躊躇なく入る彼の後に続いた。


 「で?」


 先輩は入るなりそう一言、発した。


 『で』って……。


 簡略化にもほどがないか。これまでにないほどそっけない態度に、がっかりしながらも、私は顔をあげる。


 「……先輩。本当に、私を、鬼雛をこ、殺すんですか?」


 先輩はにこりともせず、冷ややかに私を見下ろしている。


 笑みのない顔はこれまでだって何度も見てきた。だが、ここまで冷たい表情を見るのは初めてだった。


 「言ったでしょう。僕は、あなたを、殺します。今は校舎内だから手は出しませんが、今後はこういう接触は避けてください。いいですね」


 「でも!」


 私はもう溜まってくる涙をこらえて反駁する。


 「言ってくれたじゃないですか、先輩。私を殺したくはないって。ま、守ってくれるって……」


 最後は聞こえないくらい小さな声になってしまった。


 先輩はため息をついて苛立ったように前髪をかきあげる。


 その壮絶に綺麗な顔を不快に歪ませて。


 「そう言ったのは、鬼雛の覚醒を遅らせ、僕の、ひいては崑崙の支配下におくためです。あなたを誘惑し、僕の手駒にしたほうが、事が穏やかに運ぶと思われたので」


 「手駒……」


 牛ではなく、馬だったのか、とこんな時にバカなことを考えている場合ではない。


 「あなたを誘惑したのは、すべて鬼雛の覚醒を阻むためです」


 明瞭に先輩はそういい切る。


 「本気だとでも思ったのですか? この僕が、あなたなんかに本気で惚れたとでも?」


 馬鹿にするように眼を細める。


 「さきほどの麻姑と僕を見ても、そう思えますか?」


 ――甦る衝撃のキスシーン。


 ああ、と知らずに声が漏れた。溜まった涙が急速に乾いていく。


 ――そうだよね。


 その通りだよ。


 「最初から言っていたはずですよね。僕は鬼雛を抹消するか、連れて帰るかの命のためにここにいるのだと」


 先輩は(たた)み掛けるようにそう言い足す。


 ――わかったから。


 私は強く唇を噛む。すぐに鉄の味が舌に広がった。


 「命は下りました。僕は本来の仕事を全うするだけですから」


 ――もう十分だから。


 ダメ押しに、その綺麗な唇が嫌な形に歪む。


 「……まさか僕を好きだとでも言いだすんじゃないで」


 「あんたなんか大っ嫌い!」


 叫んで、私はその場から走って逃げた。


 眼の端で、傷ついたような表情が見えた気がしたが、絶対に気のせいだ。


 ……なんで傷つけた方が、被害者みたいな顔をしなくちゃならない?


 ――バーカ、バーカ、バーカ。


 呆れた自分の声がする。


 本当に私はバカだ。


 朝、あれだけきっぱり引導(いんどう)を渡されておいて、なんでもう一度未練たらしく確認なんかしたんだろう?


 傷つきたいのか? マゾなのか?


 ――何に期待をしたのか、私は。


 言い訳をして欲しかったの? 


 会議室で片膝ついて、手でも取られて、『本当は違うんだよ華緒、僕を信じて』とか、お綺麗で耳障りのいい、都合のいい言葉を吐いて欲しかったの?


 『麻姑なんか本当はどうでもいいんだ。僕に必要なのは華緒だけだよ』とか? 


 白馬の王子様よろしく、礼儀正しく、でもいつものように華緒は自分のものだと熱っぽく迫って欲しかったの?


 ――どこのご都合主義なケータイ小説だそれは!!


 息を切らして、私は走りきり、気が付いたら屋上に出ていた。


 雪の降りしきる屋上の真ん中で立ち止まる。


 「あーっ!!」


 いきなり大声で叫んだ。


 「大嘘つき! ド変態! 最低男! ひとでなし!」


 人でないのは間違っていないけれど。


 「キザ男! 女たらし! KY! バカヤロー!」


 何もかもが腹立たしかった。


 「バカは、私だ……」


 その場に膝をついて、(あえ)ぐように天を仰ぐ。


 白い空から黒い雪片が落ちてくる。視界に入って、それがふっと白に反転する。


 先輩も同じだ。最初から変わってなんかいなかったはず。


 だから責めるべきは彼ではない。


 「好きになった、私が悪い」


 息が苦しい。


 ――……えん。


 私の中から声が聴こえる。


 ――玄焰、は?


 「うん……」


 私はこぼれそうになっている涙をこらえて声を出す。


 「もう、一緒にはいられないんだって」


 私の中の彼女が沈黙する。


 眼尻から、涙が流れていく。


 「もう、私たちとは……」


 こらえきれずに声をあげて泣いた。


 あそこまで言われて。自分でも大嫌いと返したくせに。


 信じられない。


 ――どうしてこの期に及んでまだ嫌いになれないのか。


「和歌子ちゃん、緒方、聖さん……ごめん。ごめんなさい」


 聞くものもいない空に向かって、もう一度謝った。


 責めるように顔の上に雪が降り続く。


 「好きになって、ごめんなさい……」


 このことは誰にも言わないから。


 ――和歌子ちゃんにも、誰にも。


 「ちゃんと、戦う、から」


 この先、佐久間先輩は、緒方を、和歌子ちゃんを、聖さんを傷つけるかもしれない。


 ――敵になるとはそういうことだ。


 私を守るために戦ってくれる人々を傷つけるなら、私だって彼らを守るために先輩と戦う。


 訣別(けつべつ)という言葉が浮かんで消えた。私はそれを受け入れなくてはならない。


 あの優しい時間との別れを今度こそ。


 ――だけど。


 『華緒』


 二度と呼んでくれない声音の記憶を未練がましく大事にしながら、美女といちゃつくあの男と本気で戦えるだろうか。


 「……最大の試練じゃないか、私?」


 どんなに恐ろしい敵よりも相対したくない。


 ――最悪の敵になった最愛のヒト。


 それでも、戦うしかないのだ。思い切るしかないのだ。


 パン、と思い切り両頬を手のひらで叩いてから、私は積もり始めた屋上から立ち上がる。


 「しっかりしろ華緒!」


 手足はたぶんひどく冷えていたが、冷たさなんか感じなかった。前を見据えて校舎に入る。



 ――その姿を、ずっと見られていたことにも気づかずに。





 三限目から授業に出はしたが、まるで私は腫物(はれもの)扱いだった。


 ルイちゃんや美紗緒ちゃんが睨みを利かせてくれたせいか、休み時間の教室内ですら一切の揶揄はない。そりゃあもういっそ不自然なくらい。私語はもちろん咳払いすらない。異様な静まり方。


 おまけに先生方まで私を指名することもなく(私以外を二巡もしたのにだ!)、あの副島でさえ、私と眼を合わせなかった。


 ……視線だけでは何も伝染(うつ)りませんから!! 


 能面みたいに無表情を作っているクラスメイトに申し訳なくて(頼んでないけど)、私はお昼のチャイムと同時に教室を出る。どうせ今日は短縮で四限目までしか授業がない。鞄を持って勢いよくドアを開けた。


 「おっと、黒田さん」


 すぐに誰かにぶつかりそうになった私は、しかしその人にやわからく受けとめられた。


 「あ、梶村先生」


 和歌子ちゃんのクラス担任の梶村誠だ。相変わらず端正な顔に黒ブチ眼鏡の、ザ・先生といった風貌。女子生徒からの人気も高い。ウチの(ひげ)もじゃ那須とは大違いだ。


 「大丈夫? よく見ないと危ないよ」


 甘い声で心配そうに。どうしてこの手の美形はこういう誤解されるような気遣いがさらっとできるのだろうか。いや、誤解しないけど。


 「すみません、急いでて」


 「……気にしない方がいいよ。どうせみんなすぐ忘れる」


 全部を承知しているかのような口ぶりで梶村は微笑む。


 「それよりこないだのテスト、よく頑張ったね。古文の首位は同一で君と緒方君だけだよ」


 「マジすか……」


 思いがけない報告に眼を丸くする。


 よくよく思い起こせば、あの遊園地の一件で学校を休んでいて、今日は久しぶりの登校だったのだ。一週間も寝ていたせいか、記憶が遠い。なんかもう年まで明けた気がするが、クリスマスまではまだあと一週間もあるのだそういえば。


 だが古文か。私は複雑な気分でため息を吐く。


 他の教科はともかく、古文だけは……あのヒトに教えられたから。


 「私、順位とかまだ見てないんですけど」


 おや、と梶村は眼を見開く。


 「そう? 今ここで僕が教えてもいいけど、それじゃ那須先生の立場がなくなるものね。急いで職員室に行ってらっしゃい。呼ばれてるんでしょ」


 私は頷く。急いでいたのはそのためでもあるのだ。


 「黒田さん」


 お辞儀をして駈け出そうとした私を、梶村が呼び止める。


 「はい?」

 

 「……気をつけて」

 

 笑みを消して、真摯な顔で梶村が言う。


 何にですか、と聞くべきだったのかもしれない。


「ありがとうございます」


 なんとなく聞きそびれた。梶村も強いて繰り返さなかった。


 無自覚に先生方にまで感じ取らせる危うさを、今の私は持っているのかもしれなかった。



                 ※※※


 職員室で那須はちょっと複雑な顔をする。


 「お前なあ……極端すぎるぞ」


 私は首をかしげる。ため息をつかれる成績ではないと思うが。


 「……せめて前回この半分でもいい成績を取ってくれてたら」


 「え?」


 なんでもない、と那須は苦笑する。


 「いずれにせよ、前回の落ち込み方から素晴らしい挽回だ。副島先生も驚いておられたぞ。 『佐久間君と付き合っていたからこその成績ね』ってな」


 調子の良いことを、と私も苦笑する。


 今回、なんとトップ十に食い込んでいたのだ。とはいえ、トップを取れたのは古文のみ、やはり苦手意識の強かった数学・化学が足を引っ張りはしたものの(と言っても過去最高にいい点数だったが!)学年成績十位という破格の好成績である。


 和歌子ちゃんはなんと三位、緒方はとうとう首位(とはいえ一位が二人いるのだが)だった(これは事前に聞かされていた)。


 ちなみに首位と三位の差は二点。あと一問の差が悔しいと和歌子ちゃんが登校途中にかなり歯噛みしていたっけ。さもありなん…。


 「で、黒田。今日の大ニュースの件だけど」


 思い出し笑いをしていた私は、一瞬反応が遅れる。


 「はい?」

 

 「あれは本当か? 別れたのか?」


 クラスメイトでさえ遠慮してくれたものを! まさか担任に直接問われるとは!!


 「…………本当です」


 あーと言ったっきり、那須は頭をかきむしる。


 「ちくしょ、梶村はどこいった、梶村は!」


 なんで梶村なんだろうと那須を見つめると、担任はため息をつく。


 「……今回も梶村の勝ちか」


 「またなんか賭けたですか!!」


 教え子の恋路まで賭けの対象か! 呆れると、那須はてへへ、と笑う。高校生か。


 「梶村先生はさあ、おまえらが遠からず別れるって踏んでたんだよな」


 そりゃそうでしょうとも、と私は苦笑する。


 「どうせ不釣り合いだったっていうんでしょう?」 


 「いや、期間限定だろうって、最初から。大体、別れた時期も当ててんだよな、これが」


 え、と私は眼を瞠る。


 「あいつやたら勘が鋭いからなー。俺は二年の授業も持ってるから、佐久間が意外と真面目なことも知ってるしさ。あいつもお前にベタ惚れっぽかったし、こりゃ間違いないと踏んでたんだがな」


 残念すぎる! と那須は(うな)る。


 「で、別れた原因はなんだ? あの婚約者っていう転入生だろ? 二股か? いつ気づいた? 緒方はどうなった?」


 ち、と私は担任の前だということも忘れて舌打ちする。このおっさんは…。


 「黙秘します。プライベートですから」


 「うん、それでいい。お前のその結構ちゃんと芯の通ったとこ、俺はいいと思うぞ」


 まあ、次は緒方でもいいじゃねえか、と無責任すぎる発言をして那須は笑う。


 「学年が違うからな。そんなに接触もねえだろ。失恋は次の恋で癒すのが一番だぞ」


 なんだそれ、と私は呆れながらも笑う。


 傷口に遠慮なく塗りこまれた塩だったが、意外と嫌な気分にはならなかった。


 気をつけて帰れと言われて、校門に向かう。


 門のところにはすでに緒方、和歌子ちゃん、也子、弼がスタンバっていた。


 だがその顔は一様に厳しい。和歌子ちゃんなんか白い顔がさらに蒼白になってないか?


 「華緒!」


 にっこり笑って弼が駆け寄る。


 「待ってたんだよ、華緒」


 「……どうした」


 の、と最後まで言えなかった。


「……なにあれ」


 弼の肩越し――校門の外の空は真っ黒で。


「なによあれー!!」


 ――空を埋め尽くすのは、醜怪しゅうかいな妖怪たち。


 

 卒倒しないのが、自分でも不思議だった。


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