【1】 1章 創傷
1章 創傷
1
――正直、私は運が悪い。
「まーた、そんなこと言ってる」
呆れ顔で私のトレイからポテトをかすめとったのは、和歌子ちゃんだ。
「だって、どう考えたってそうじゃんよ……」
クラス内みんなで廻し読みしてたちょっとだけエッチなレディコミ、私の番になったとたんに抜き打ち荷物検査だし、しかもそれを学校イチ煩瑣い年増の学年主任に見つかるし、めったに家にいない父親が学校からの呼び出し電話を取りやがるし、両親揃って校長に頭下げてるところを大好きな先輩には目撃されるし。
私は頭をかかえた。
「ついてなーい。せっかく遭えたのにもうだめだあ。先輩、絶対、私のこと軽蔑したあー」
「先輩ってあれでしょ、生徒会の。あの二年のナルシスト」
「ナルっていうな!」
名前からしてナルだよね、と和歌子ちゃんは鼻で笑う。
「佐久間麗だっけ。……あれ、それって昔の競走馬の名前じゃなかったっけ」
「やめてやめてやめて!!」
悲鳴で不遜な発言をかきけした。
……あんた、頌栄館全女子をマジで敵に回すようなことを声高に。
幸い、強烈な夕陽の差し込むマックの二階は、今日に限っては他校の制服が多かった。
もちろん和歌子ちゃんは私の心配など、スカートに落ちたポテトのカケラほども気にしていない。
「あれに比べたら緒方の方がナンボかマシ」
「それあんまりよ、和歌子ちゃん! 先輩はねえ……」
緒方とは私たち二人の幼なじみだ。というか腐れ縁だ。取り柄だけはヴァイオリンと派手だけど、小柄で地味。物識りだけど口達者。
どう頑張っても学校のアイドルの向こうを張れるタイプではない。
私の憤慨をものともせずに、和歌子ちゃんはポテトを飲み下す。
「あのナル男のどこかいいかは置いといて。まず心配しなくていいわよ、あんたなんか、そもそも眼中にないから」
「それもやだあ……あーなんでもっといい時に遭わなかったんだろう」
談笑しながら通りかかった先輩は、ちょっとだけ眼を瞠って私を見た(ここでそれは私の気のせいだと和歌子ちゃんは主張)。
その顔が相変らず端正で、オーラに溢れていて、状況全部すっ飛んで見惚れてしまい、さらにそれで叱られたのだ。
やっぱり運がないーと嘆く私に、彼女は心底嫌そうな顔を向けた。
「あんたみたいの、多いんだよね」
手についた油を舐めながら和歌子ちゃんが眼を細める。
「自分だけついてない、とか、自分だけ運がないとか。そういうのって全部自意識過剰だってわかってる?」
「自意識過剰って、自分がいつも見られてるとか自分は綺麗だとかってそういう」
違うよ、と氷の音を立てながら、彼女は豪快にコーラを呷る。蓋もストローも取り去ってるから、呷るという表現で間違ってはいない。
「自分だけが、って思うこと全部、自意識過剰ってことなのよ。自分を意識しすぎるってことね。私ブスよね、とか私だけ劣ってる、なんて思うことだって裏を返せばそれだけ自分を意識してるってことでしょ。自我だの自分探しだのって言葉って、私たちの年代にすごく多いんだよね。もー食傷気味」
なんでそこまで自分を際立たせるかなあ、と和歌子ちゃんはまた私のポテトを奪い取る。
食傷って言いました今? ……さっきバリューセットとプラスポテトのLとフルーリを平らげておいてまだ食うですか。
和歌子ちゃんの言ってることもわからないではない。だが、いっぺんにポテト三本も口に入れてほっぺた膨らましてるくせに、それがまたサマになってる姿を我が身と引き比べたときに、ちょっと拗ねるくらいは許して欲しい。
いいじゃん、どうせ愚痴言うだけしか出来ないんだしさ。
「和歌子ちゃんはいいよ。なに食っても太んないし、美人だしさ。放っておいたって、人より際立って目立つじゃない。でも世の中、そういう人ばっかりじゃないんだよ」
好きなキャラクター、好きな色、好きなブランド、好きな人。少しでいいから人と違うものを捜して、差別化を計りたい。そうじゃないと、今日びの高校生はあっという間に「その他大勢」のくくりにされてしまう。先輩に認識もしてもらえず、単なる後輩……それどころか、未だ固有名詞どころか存在すらも知られないままでいるなんて。
「そんなの我慢できないじゃない」
ウッザイ、と和歌子ちゃんは鼻に皺をよせる。
「それがウザイ。大人になれば嫌でも人とは違ってくるって。兄さん姉さんたち見てればわかるもん。学生時代、あれだけ人とは違う靴下の色だのキーホルダーだのデコ鞄だのにうつつ抜かしてたくせに、いまじゃみんなが持ってるブランドに目の色変えてさ。下の姉とか特にそう。隣の人とまったく同じメイクしてんだよ」
「沙耶子姉さんは美容部員じゃん。仕事だからそれ」
幼なじみの和歌子ちゃんは四人姉兄の末っ子だ。すぐお兄さんとは四つ、一番上のお姉さんとは九歳も年が離れている。
両親だけでなく、姉兄からも過剰に愛情を注がれすぎたせいか、目立つことを嫌い、集団に紛れてできるだけひっそりと棲息することを希望している変わりモノだ。
実際はこの上なく目立つ容姿のために、希望は叶わないのだけど。
「とにかく自分だけがついてないなんて思わないことだよ。だいたい運がないっていうけどさ、あんただって商店街のくじ引きで一等の温泉旅行当てたことだってあったじゃない」
「……十年も前の話をしないでくれる?」
五歳の時だから、幼稚園の頃だったろうか。和歌子ちゃんと、彼女のお母さんとウチの母親と私の四人で、福引に行った。引かせてもらったくじで、私が一等を出した。
彼女は何かというと未だにその話をする。
「でもさ、一緒にパフェを食べに行った時にガラスが入ってたのは私のだけだし、信号待ちで鳩に糞を落とされるのも私だし、あの後のくじ引きで三等以上出すのはいっつも和歌子ちゃんじゃない。私、あれからずっと残念賞のトイレットペーパーなんだよ!」
「花柄のね。可愛いじゃん、あれ」
ひどい、と私は顔を覆った。
「中学校の時に、友成君に告白しに行った時だって、逆に和歌子ちゃんが告白されちゃうし、二年の時、出光先生をプールに突き落とそうってみんなで決めた時も、逆に私が落ちちゃうし、それで先生に眼ェつけられていつも当てられてたし、フカヒレ食べるの初めてだったのに私のにだけ虫が飛び込んで食べられないし!」
「あの中華料理、良かったよねえ。歌江子姉さんの結婚でよかったのはアレだけだったね」
離婚まで早かったしねえ、と呑気に言う和歌子ちゃんに、そうじゃなくて! とテーブルを叩いた。
その拍子に、氷だらけのコーラがこぼれる。止めようとして伸ばした手がさらにトレイの端を引っ掛けて、結局、全部をゆかにぶちまけてしまった。
「もう……最悪」
あーあ、と立ち上がりかけた和歌子ちゃんが顔をあげる。釣られて私も眼をあげた。視線の先には、他校の制服の男子がいた。
――うわ、めっちゃ、イケメン。
「あの……すみません。突然で、その、……お話が」
少しはにかんだように声をかけてきた男の視線の先にはもちろん和歌子ちゃん。
私はまたかと肩を落とした。
今月に入って、これで二度目。前回、彼女が告白される場に居合わせるとき、私は靴の中に飛び込んだ石を取ろうとして片足立ち、軸の踵がバランスを崩して、派手に転倒したところだった。
――電車の中で。パンツ丸見せで。
びしょびしょのカップを拾いながら、私は内臓まで戻しそうな深いため息をついた。
――この美人と友達なのが、一番の運のなさなのかもしれない。
※※※
運が悪いとか、運がないとか、確かにそんなことを言ったって始まらないのはよくわかっている。
だが、どう考えても、運があるようには思えない人間もいるのだ。
相対的に、ではなく、絶対的に。
――私みたいに。
※※※
文化祭準備日になっている翌日の火曜日、美術部は全員早朝の招集を受けていたらしい。
和歌子ちゃんは先に行くね、というメールを昨晩のうちに寄越していたようだ。というか、そもそもそう言う話をマックでもしていたようだ。
自分の愚痴に必死で、覚えていない私が悪いのだけど。
寝坊して遅刻ギリギリで、それでも遠回りだけど和歌子ちゃん家まで行かなくちゃとダッシュしたのに、「和歌子なら先に言ったけど」というおばさんの不思議そうな顔で初めてケータイを開いた私も悪い。だが。
「早く言えキサマ!」
ケータイに無茶な言いがかりをつけながら、私は慌てて電車に飛び乗った。
ホームと電車の隙間に靴を落としたのは一週間前の話だ。自分で気をつけられることは気をつけようと誓ったばかり。
急ぎながらもなんとか無事に高校のある葦家学園都市駅で降り、これまでにない猛ダッシュで学校前の横断歩道まで辿り着いた。
駅から学校までは歩いて十二分。バスなら停留所三つ分だけど、朝のバスは通勤ラッシュであてにならないから足で頑張るしかないのだ。
しかし案の定、赤信号。だが、人目を憚らぬ息切れダッシュが功を奏したのか、まだチャイムは聞こえていない。校門に立っているのが今年入ったばかりの若い音楽の先生だってことも悪くない。
――うん、今日は悪くないぞ。
じりじりしながら信号が変わるのを待つ。向かいでは校門のそばに集団がやってきていた。我が頌栄館高等部文化祭「頌栄白秋祭」の看板。
美術部だ。そして看板の先っぽを持っているのは。
「和歌子ちゃん!」
車の往来の激しい道の向こうに、それでも声は通ったらしい。
彼女が顔をあげるのがわかった。
和歌子ちゃん、と手を振った私は、そのとき、彼女の姿を隠すように入って来たトラックを邪魔だと思った。
シルバーの車体。大きな文字が眼の前をよぎる。
同時に霧のように砂埃が立ち昇る。
私は眼を細めた。
もう、和歌子ちゃんが見えないじゃないの……。
それはほんの僅かな時間だった。何気ない、朝のヒトコマであるはずの。……しかし。
――――衝撃!!
視界が唐突にブラックアウトする。
首ががくん、と後ろに仰向き、膝が崩れた。その反動で上体がバネのように前に戻る。
反射的に手をついたのだろう……気づいたらアスファルトが鼻先まで迫っていた。
熱されたアスファルトから立ち昇る臭い。頬に当たる輻射熱。
――なにこれ。
地面? 顔の前に?
――なんで?
遠くで誰かが叫んでいる。
傍に誰かが来て、何かを言っているようでもある。
だけど聞こえない。
今、なにが起こった?
――私に。
「……お、華緒っ!!」
唐突に音が戻ってきた。
……和歌子ちゃん?
「わかる? 華緒判る? 大丈夫? だいじょうぶ? 先生、先生っ早くっ!!」
間近で聞こえるのは、切羽詰った和歌子ちゃんの声。がやがやと聞こえる人のざわめき。
だけど私には何も見えない。見えていない。
―なにが起きてるの?
「どうしたの、黒田さん。眼? 眼なの? 眼をどうしたの?」
これは先生の声だ。声の方向を向いて、私の口が勝手に動いた。
「……眼が」
手が熱い。どうやら、私は両手で自分の右眼を押さえているらしい。らしいというのは、両方の眼からぼろぼろとものすごい量の涙が出ていたからだ。
もちろん悲しいのではない。
半分が見えない。手で押さえているのだから、当たり前だ。
――だが、どうして私の手は、右眼を押さえているのだろう?
「動ける? 黒田さん、保健室まで歩ける? 誰かっ! 手を貸して!!」
先生が私の手をそっとのけようとした。だが縫い付けられたように私の両手は、右眼から動かない。
外したくても、外れないのだ。
「眼なのね? そうなのね?」
呼吸が激しい。返事もできない。喘ぐように息を吸う私の肩を抱くようにして、誰かが立ち上がらせてくれた。
「大丈夫? 歩ける? ほら、つかまって」
保健室に運ばれるまでの間の意識は、それ以降、ない。
かろうじて、涙の奥で左眼が、間近で力強く肩を貸してくれる男の人を捕らえていたが、輪郭だけしかわからなかった。
ぼろぼろと涙を流していた私は、それが憧れの佐久間先輩だってことを、後々、教えられるまで知らずにいた。
――どこまで運が悪いんだ、私。
2
「すごいな、まさにジャストミートですね」
福澤かよ、というツッコミもでないほど能天気に言い放ったのは妙に広い額の、ラッキョウみたいな頭の眼科医だった。薄いピンクの眼鏡なんかしてる。
「瞳孔にまだカケラが残ってますよ。すごいなあ……こんなことがあるんですねえ。石が眼球を直撃だなんて」
おもしろそうに、私の眼の前の大きな双眼鏡もどきを覗いては、感心したような声をあげている。
――砂利を積んだトラックの荷台から石が飛んで、眼球のド真ん中に当たりました。
端的に言えば、そういうことだ。
「横断歩道に立ってたんでしょ? 滅多にないですよねえ。狙ったように眼、しかも瞳孔を、ですもんねえ。これ、大きさと場所によっては死んでましたよね。よかったですねえ、この程度で」
よかっただと? 私は左眼で医者を睨んだ。
「涙がだいぶ石を流したようですが……さすがに全部とはいきませんね。いや、しかし凄いなあ。これは本当に運だよなあ」
感心したようになんども繰り返すこの医者がひどく憎らしくなってきた。
「どのくらいで治るんですか」
「そうだなあ……全治二週間ってところですかねえ」
そんなもんなのか、こんな痛さが。後ろに立っている母親が、心配そうな声を出した。
「先生、失明とか入院とか手術とか……角膜移植とかは」
大袈裟な、と医者がおもしろそうに笑う。笑うとこか、ここ。
「あ、でも手術はしますよ」
私と母親は息を呑んだ。
「ああそんな顔しないでいいですって。手術っつっても、眼球に残った石をピンセットで取り除くだけですから……そうだな、三十分くらいかな。点眼麻酔……っと、目薬の麻酔ね。だからすぐに終わるよ。あっという間」
「え、じゃあ……入院は」
「必要ないですよ。通院で充分。薬で傷の回復をさせてからね。残った石はそれが落ち着くまでは取れませんから……そうだな、十日後を目安に手術の日取りを決めましょう。あ、でも視力が落ちるだろうから、回復訓練の方が大変かな。しばらくは眼帯はしててね」
看護婦さんにあてられた眼帯に手をやる。薄いプラスチックの感触。
カチカチと表面に爪が当たる音がする。その下はコットンだ。薬を眼の端にたっぷりと塗られてコットンで押さえている。
当然何も見えない。左眼の視界だけだと、自分の右肩――右上半身は首を捻らないと見えないから、椅子を降りるときに少しまごついた。
遠近感がうまく取れない。
「顔に傷がつかなくて幸いでしたね」
看護士さんの気遣うような声に母親が苦笑している。眼は顔じゃないのか。深刻じゃないのか。
私は少し緊張して医者に近づいた。
「……また見えるようになりますか?」
もちろんだよ、と医者は軽々しく答える。
「瞳孔ど真ん中を直撃してはいないしね。わずかにズレてる。そこまでジャストミートだったらすごかったんだけどね」
――だから残念そうに言うなって。
確かに痛みで瞼は痙攣していたが、痛みの波が少し引いた時には、右眼も物を捉えていたから、失明という最悪の事態はないだろうとは思う。
だが、やはり不安は不安だ。見えなくなったらどうしようというのは、不安というより恐怖に近い。
「えーと、華緒ちゃんの視力は右が一.五だったんだね。一時的に視力は低下するけど、また同じ程度に回復することは可能だよ。毎日の点眼と、薬を飲むことを忘れないように。あ、何かあったらすぐに来てね。僕、たいがい院内に居るから」
何が楽しいのか、ひたすら笑顔を崩さないその医者は、どうもここの跡取りらしい。軽々しい雰囲気はそのピンクの色つき眼鏡と、白衣から覗くピンクのシャツのせいだろう。
若先生、という呼びかけにいそいそと動いている。
――若いのだろうか? あの広い額はもはや頭皮にしか見えないが。
母が精算している間、私は物珍しげにあちらこちらを見ていた。眼科にくるのは初めてだ。
いろんなポスターや、子供向けのぬいぐるみや絵本の中、ひとつだけ妙なオブジェが眼を引いた。
眼球を象ったような球体を、爪の長い絡み合う指が弄んでいるような、不気味なブロンズ像。
その手の中の眼が光ったような気がして、私は慌てて眼を逸らした。
3
水曜日から始まった文化祭では、割り当てられたクラス喫茶のウエイトレスから外されて、私は裏方にまわされてしまった。
できるもん、と頬を膨らませて抗議したが、危ないから休んでなよという一言で却下された。
気を遣ってくれるのは嬉しいが、要はメイド服に眼帯がそぐわなかっただけだろう。
メイドの恰好するの、実はずっと楽しみだったのに。
大丈夫―? と気遣わしげに寄ってきてくれたのは初日、それもほんの数人で、しかもあっという間に絶えた。仲のいいクラスメイトたちでさえ、文化祭の雰囲気に誘われるように消えていった。
なんだか取り残されたような気分で、眼の痛みよりはるかにそちらの方でヘコんだ。
例外的に、髪の毛もう少しショートボブにして、包帯巻いてコスプレしなよー、と三日間とも執拗に言い寄ってきたのは漫画研究会の面々だが、彼らが萌えてるのは私ではなく眼帯だけだというのが判明して、それっきり無視することにした。
無事な方の左眼は二.〇だ。
赤いカラーコンタクトなんか誰が入れるか。
楽しみにしていた文化祭の魅力が半減したのは、メイド服への未練だけではないだろう。
片眼のせいだろうか。死んだように毎晩眠ることが多くなって、ひどく疲れやすいことに気がついた。
左だけに負荷がかかっているから疲れるんだよ、とお気楽な眼科医はいう。
『眼っていうのは、唯一、表出している脳の一部だからね。意識せずとも、眼をあけてるだけで驚くほどの情報を得ることが出来る。それを右が見えない分だけ、左でカバーするとなると、どうしたって意識も緊張するし、疲れも出る。歩く時も、スピードが緩んでいるでしょ?』
確かにそうだった。歩く速度は極端に遅くなった。軽く放られる鍵を受け取り損ねるのはしょっちゅうだし、ドアや机にぶつかることも多い。まっすぐに歩けないのも悩みの種だ。歩いているつもりでも、どうしても斜めになってしまう。
まして走ることなんてとんでもない。まさかと疑うなら、片眼を瞑って走ってみるといい。……転ぶから。
バランスが取れないんだよなあ、と私は顔を顰めた。
「華緒」
ぽんと叩かれた感触にびっくりして振り向くと、そこには和歌子ちゃんが立っていた。
土曜日にしては、持っている荷物がいつもの倍だ。
「今帰り?」
「和歌子ちゃん、部活は?」
「打ち上げやってたけどフケてきた。もう片付けは終わったもん。今週は連日部活に付き合ってたんだから、せめて今日くらいは早めに帰りたいじゃない?」
文化祭は三日だけだ。水木金のお祭り騒ぎの後片付けは全員強制参加で土曜日の仕事だった。
土曜に学校? と首を傾げる人は、自分が恵まれていることを自覚した方がいい。
葦家市教育学園都市の中でも名門と謳われる私立頌栄館は、伊達に創立百二十周年を誇っているわけじゃない。
ここには過去にも未来にも、週休二日という当たり前かつ素晴らしい制度はないのだ(隔週で中等部にはあるようだが)。
土曜日は半日とはいえ模試か学校行事、あるいはこういったお祭騒ぎの後始末の曜日として配置されている。休みは基本的に日曜だけ、月曜からはまた当たり前のように授業だ。
「それより、手術、決まったんだって?」
心配そうな顔に頷いた。
「うん。来週の木曜日。ちょうど十日目だからって」
「大丈夫?」
「痛みはだいぶひいてきたから」
嘘ではない。毎日の点眼と飲み薬が効いているのか、それとも、通院の効果なのか、痛み自体はほとんどなかった。
事故当初は、夜中にしくしく思い出したような痛みもあったが、三日ほどでそれも消えた。
問題は、眼帯。右眼は見えないわけじゃないが、歩くのですらどうしてもおそるおそるになる、その速度がもどかしい。
「そうだね。……その眼帯、まだ外しちゃダメなの?」
蒸れそう、といわれて私は頷いた。それが一番の問題なのだ。それでなくても今年の九月は真夏日どころか猛暑日まであるほど暑い。夏がズレたとしか思えない。
だからずっと顔半分が蒸れている状態なのだ。正直暑いうえ、疲労感がいや増す。これは経験しないとわからない辛さだろう。
「先生は家の中なら外してもいいって言うんだけど……でもまだちょっと怖くてさ」
「この暑さの中で、それも厳しいわね」
彼女は顔をあげる。日陰の余地も捜せないほど、真っ青な空を独り占めにする太陽。歩いていても、汗が滴り落ちる。
ぐるる、と大きな腹の音がした。私だ。
「お昼まだなの?」
うん、と頷いて時計に眼を落とす。全校総出で後片付け兼大掃除の今日は、いつもの土曜よりちょっと遅めに終わったのだ。現在、二時過ぎ。
「こんなに時間がかかるとは思わなかったからね。病院行ってから何か食べようかなーとか」
「病院今から? 何時?」
「二時半」
「じゃ、それ付き合うよ」
ほんと? と言うと、和歌子ちゃんはうなずいた。
「文化祭続きで最近お茶もしてなかったでしょ」
やった! と私は小躍りする。病院までは学校からバスで五分ちょっとだが、そのバスがこの時間帯はなかなか来ない。かといって歩けば軽く二十分くらいかかってしまう。
実はさっきまでそれで躊躇していた足を、現金にもそそくさとバス停から歩きへと方向転換させた。
人と一緒だと、二十分なんかあっという間だから嬉しい。
最近この辺でも食中毒が流行っててさ、という物騒な話をしながら歩くと、大きな通りに出た。
スクランブル交差点。最近は葦家にもこの手の交差信号が増えた。待ってる時間は長いくせに、渡る時間は短いと来てる。私は元々好きじゃなかった。
「……怖い?」
無意識に表情が強張っていたのに気づいたのか、和歌子ちゃんが訊いた。
ちょっとね、と私は苦笑する。学校前の横断歩道ほどではないが。あれから、少しだけ身構えるようになってしまったのは、事故のトラウマなのかもしれない。
「私も実は怖いんだよね」
横に並ぶ和歌子ちゃんが、珍しくそんなことを言った。
「ほんとに、ここ数日なんだけどさ。うちの学校の生徒が立て続けに三人も事故に遭ったじゃない?」
「え、いつの話?」
耳が遅いな、と和歌子ちゃんはため息をついた。
事故は文化祭中日と最終日に起こったのだという。
「一人は自転車通学してるD組の子。ブラス入っててさ。練習の帰りに車の左折に巻き込まれて骨折で入院。あとの二人も一年。商業科だったかな。最終日に交差点でこうやって待ってたら車が突っ込んできたんだって」
「危ないなあ」
和歌子ちゃんも眉を顰める。
「ドライバーが言うには、どの事故も人が見えていなかったんだって。頌栄館の制服は、別に普通の学校のものと変わらないじゃない? 老舗だし、デザインは五十年も前から変わってないありふれたもの。でもスクールカラーのホワイトラインは夜目に発光するように蛍光繊維を使ってるんだるから、けっこう夜でも目立つっていうのがウリじゃない? なのにそれも功を奏さない」
「自転車の子は夜だったんだ」
和歌子ちゃんは頷く。
「まして、最終日の二人はまさにこの交差点で、こうやって並んでたんだよ。真昼間。文化祭の買出しに行く途中だったんだって。なのに、無理に信号を突っ切ろうとしたドライバーには二人の姿が見えてなかったんだって。しかもさ、二人は歩いてないんだよ。こうやってここに立ってただけなのに」
「見えないって……」
不思議な話だ。私みたいに眼帯をしてるというのならともかく。
「何か他に理由が?」
ドライバーのわき見だとか居眠りだとか。和歌子ちゃんは首を振る。
「飲酒でもなかったみたいよ。薬物もやってない。華緒を入れたら、この数日で頌栄館だけ四人だよ、事故」
「私のは事故といっていいのかね……」
これはもう運というか、災害に近いのではないかと思ってもいる。
私の眼を直撃したあの砂利を積んだトラックが法定速度だったかとか、法令遵守の積み方をしていたかとか、そういう追及どころの問題ではない。
あのトラックがどこの会社のものだったのかすらつきとめられてはいないのだ。そもそも当の私が―覚えてないし。
何が起こったのか、当事者ですらほとんど把握できていなかったのだ。あとから目撃者を探そうにも、手掛かりのひとつもない。難しいところだった。
「何言ってるの。あれは事故よ。轢き逃げされたみたいなもんじゃないの」
和歌子ちゃんは怒っている。
「砂利を積むんなら飛ばないような万全を期すのが義務でしょ。それがスピードに乗ってどのくらいの速度で人に当たったらどうなるかなんて、そういうところまで考えないとダメなのよ。実際、女の子の眼に怪我させてるんだから。……今、情報集めてる最中なのよ」
絶対つきとめてやるわ、と彼女の鼻息は荒い。つきとめるのは不可能かもしれないが、その気持ちが嬉しい。私は感謝のまなざしを和歌子ちゃんにむけた。
「ありが」
とう、と言おうとしたときだった。
和歌子ちゃんの眼が、みるみる大きく瞠られる。
ゆっくりと、まるでスローモーションみたいに私の首が視線の方向へと向く。
動いている対向車の一台が、まっすぐにこちらを向いていた。黒い乗用車。並走しているように見えている白い車がある。
それを抜かそうとしているのだろう。大きくたわんで――なのにそれがこちらに近い気がする。明らかに変だと思えるほど。
キュルキュルとアスファルトが悲鳴を上げた。かなりのスピードが出ているのだろう。
――でもどうして、それがこっちに突っ込んでくるの!!
私はとっさに和歌子ちゃんを突き飛ばした。眼帯をしているせいか、右半分がよくみえないために、恐怖が和歌子ちゃんよりも半減していたのだろうか。
だがその反動で、自分がその場に転ぶ。足を立てようとするが、今度は足が動かない。
転んだ瞬間に、耳にかけていた眼帯のゴムが外れて落ちた。
顔を向ける。
そのせいで、真っ黒につっこんでくる車が、もうすぐそこまで迫っているのが――いきなり現実化した。
「いやあああーっ!!」
叫びながら、だが眼を離すことができなかった。
――あれは。
次の瞬間、車は私の手前で、急に曲がって歩行者信号に突っ込んだ。
ドン、ガシャン、という腹に響く音がして、車は左のライトから信号機にぶつかるようにして崩れていた。
「カオっ!!」
和歌子ちゃんが悲鳴をあげて駆け寄ってくる。
砂煙で、咳き込みながら、私は頷いた。
「大丈夫!?」
泣きそうな顔で、和歌子ちゃんは私の身体を検分して大きな怪我のない事を確認すると、いきなり抱きついてわんわんと泣き出した。
「……大丈夫だから」
私は和歌子ちゃんの背中を叩きながら、素早く車の方へ眼を走らせた。
動きを止めている通行人。わざわざ車から降りてかけつけてくる人。砕け散ったフロントガラスはここからは見えない。だけど。
そっと車の下を覗く。ガラスが落ちてる。
だけどそれ以外は、何かが落ちているようには見えなかった。
「大丈夫か?」
野次馬だろう、ごついおじさんが尋ねてきて、私は頷く。
「無茶な運転だよなあ……」
あの、と言いかけると、おじさんはどうした、と腰を落としてくれた。
「フロントガラスのところ……ボンネットの。何か、今、落ちませんでした?」
「外側の? 何か乗ってたのか? 待ってな」
おじさんはわざわざ回って戻ってくれた。
「何もないぞ。ガラスしかなかったよ」
その時、事故車の運転手が頭を抱えながら出てきた。無事のようだった。おじさんは慌ててその運転手の方に向かっていった。ケーサツを呼べよ、と言っている声が聞こえた。
気がつけば、周囲に野次馬が集まってきたのが恥ずかしい。本当は警察が来るのを待たなくちゃいけないんだろうけど。
慌てて立ち上がる。
「あらあら、あなた大丈夫なの?」
近寄ってきたおばあさんに聞かれたが、怪我はありませんから、と早口で告げて、泣きじゃくっている和歌子ちゃんを連れて、私はその場を逃げ出した。
――別に、私が悪いわけではないんだけども。
※※※
「また事故ですかあ。いや、華緒ちゃんすごいなあ」
能天気な医者の、この声は何度聞いても憎らしい。それでも私は黙って診察を受けた。
「痛っ!」
「ちょっと染みるけど我慢して」
看護婦さんが笑いながら膝にオキシドールを振り掛けてくれた。
怪我がない、というのは嘘だった。転んだ瞬間に膝を両方、擦りむいていた。
「今度は本当に車の事故ねえ。しかし運がいい。結局、両膝だけで済んだんでしょう?」
運なんかいいはずないだろ。
「……感心してないで、眼も見てくださいよ」
思わず睨んで口を挟むと、そうでしたねえと思い出したように医者は私の右眼を覗きこんだ。
「たぶん、さっきの事故ででしょうね。また埃が入ってます。洗浄して、また薬つけときましょうね」
何が嬉しいのか、医者はにこにこと眼を覗く。
「……眼帯、外しても見えたでしょ?」
私は頷いた。確かに今までちょっと怖くて外せなかった眼帯だが、結局、あの交差点で外れてからは、ここに来るまでつけずに歩いてきたのだ。医者はそれが嬉しいのだろう。
「回復してるんですよ。今日は埃も入ったから一応眼帯しておいてもいいですけど、もういつ外しても大丈夫ですからね」
「わかりました」
「見え方はどうでした。おかしくなかったですか?」
思わず先生の顔を見上げた。額を光らせている様が、やはりラッキョウに酷似している。
「大丈夫でした? 見え辛くはなかった?」
――聞こうかな。
一瞬迷ってから、私は首を振った。
「大丈夫でした」
よかったです、と医者はにこにこしながら器具を片付けている。
「何かあったら、予約してなくても来ていいですからね。手術もあるし、不安もわかりますから、いくらでも説明してあげます……眼はどうしてもねえ」
ねえ、と看護婦さんも困った顔で微笑む。
「眼は、直接の痛みがなくても生理的に心配になるものだものねえ」
お義理で笑いながら、胸の中でそっと訊ねてみた。
――変なものが見えたのは、眼のせいじゃないですよね?
質問は、結局飲み込んだままだった。
4
マックで涼みながら、あんな命懸けの場面で人を助けてる場合かと和歌子ちゃんに逆ギレされながら、けれどありがとうとマジ泣きされて弱りながら、家に帰る道で一人になったのはそれからたっぷり三時間後だった。
時刻は十八時になろうとしている。
すっかり陽も落ちた。日中は真夏のように暑くとも、さすがに暗くなるのは早い。
涼しい夜風に吹かれながら、私はゆっくりと歩きながら考えていた。
――あの車。
交差点を突っ込んできた車のフロント。目前に迫っておきながら、いきなり横に突っ込んだ車。その不自然さ。不可解さ。
そして――。
私は思い返しながら、まさかねえ、とひとり口に出してみた。
本当に、まさかだよ。ボンネットに何かが乗ってるように見えたなんて。
子どもくらいの大きさにみえた。背中をこちらに向けて、膝立ちしてるような恰好で運転席を覗き込んでた。
「……ありえないし」
あの車は白い車を追い越そうとしていた。スピードだって出ていた。もしも本当にそれが乗っていたとしても、あの恰好じゃ、運転手は視界が遮られて追い越すどころじゃないだろう。
しかもボンネット―外だ。仮に子どもが乗っていたとして、どこに掴まるというのだ。
すぐに振り落とされてしまうだろうに。
気のせいだ、と私は頭を振った。
ずっと右眼を使ってなかったんだし。暗いところからいきなり明るいところを見たせいで、視界が安定しなくても不思議はない。
ハレーションを起こしたとも考えられる。真面目に考えるようなことじゃないのだろう。
チュンチュンと雀が眼の前を通り過ぎる。
鳥目って、雀には当て嵌まらないのだろうか。もう陽も落ちてるのに最近の雀は元気だ。
真新しい眼帯に髪が挟まっているのに気がついた。風は涼しいとはいえ、顔は汗でべたついている。家までもうすぐだし。いいかげん、蒸れているのが気持ち悪い。
そっと眼帯を外した。瞼に受ける、ひんやりとした風が最高に心地良い。蒸れた肌が、息を吹き返すようだった。
「……いい夜だこと」
ぎょっとして眼を開けた。
右側の電信柱の下に誰がいた。点き始めた常夜灯の下、まだ空が薄明るいから、却って見難い。
その人は少し動いたようだった。それで全身が見える。
紺色の浴衣のようなものを着ている女性だった。知らない人だった。もっというならこの近所でもないだろう。ちょっと見ないような――美人だ。
年齢は二十代後半くらいだろうか。髪はまとめていて、後れ毛が色っぽい。
「……こんばんは」
挨拶すると彼女は驚いたように濃いラインに縁取られた眼を瞠った。シャラン、と髪に挿した銀色の簪が、風もないのに澄んだ音を立て、彼女ははっとしたようにその簪を押さえる。
そんな自分を笑うかのように、まるでテレビで見る玄人さんのような(といってもよく知らないけど)所作で美しく笑う。色香が足元から匂い立つようだ。
実際、えもいわれぬ芳香が漂っている。
「……こんばんは。礼儀正しいお嬢さんだこと。お名前はなんと仰るの?」
「黒田華緒といいます」
「そう、華緒さん。綺麗なお名前ね」
彼女は微笑んだまま、頷いている。が、名乗るつもりはないらしい。綺麗な人だが、なんだか妙に居心地が悪い。
「……この辺りの方ですか?」
この近所に親戚でもいるのだろうか。いいえ、と彼女は綺麗な顔を軽く振った。
「この辺に来たのは初めてなの。でもいいところね。緑が多くて」
田舎なだけだ。学園都市というのは、要は学校の敷地に不自由しない田舎ということで、ご多聞にもれず住宅街も潤沢な土地をフル活用してあまりある。
元は峠だの山だの丘だのというところだから高台が多く、都会である善果市とは違って夏もわりと涼しいし、緑も多い。その分、虫も多いけど。
「観光、ですか?」
「こんなところに何をしに、って?」
声に不審感が出てしまったのだろうか、女性は悪戯っぽい声で言う。
「いえ、そんな」
いいのよ、と彼女は頷いた。
「ちょっとした捜し物をね。……この辺りにいると聞いていたものだから」
捜し物? この辺り? ペットか何かだろうか。
首を傾げた私に、彼女はゆっくりと近づいてきた。
「……眼を怪我してらしたのね?」
なんでわかったんだろう、と思って自分で納得する。そうか、手に眼帯を持ったままじゃないか。
「はい。でもだいぶよくなりましたから」
そう、と彼女はびっくりするくらい綺麗で長い指を私の頬に近づけた。
――すごい……指先からだけでもいい匂いがする。
「よかったこと。でも眼帯はして置いた方がいいと思うわ。妙な虫がついても困るでしょうからね」
指が触れる瞬間、ふと顔を上げてから、笑みを残して彼女はそのまま立ち去っていく。その後を追うように、乗用車が通りすぎた。
「妙な虫?」
――ボーイフレンドってことかな。
だったらむしろついてもらったほうが、と呟いて、腕に飛んできた蚊を叩いた。
羽音のような車の音が遠ざかって行った。