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【2】 5章 開花

5章 開花



 朝からのオリエンテーションはなんと二時間に及んだ。


 ゴミ投棄などの注意事項の他に「班を分散させない」「単独行動をしない」をこれでもかと織り込まれ、昨晩の軽率な違反者(当然緒方のことだ)を厳重注意したことを副島が私を睨みながら繰り返し、昼食としてやたら豪華なお弁当が配られ(完食が義務ってそれもどうよ)、ようやく全員がロッジを出発したのは午前十一時のことだった。


 地図に目を落とす。


 コースはそれほど難しいものではない。


 ただ『魔女の爪』ことフィテウマ・オルビクラレを捜すのが難関だろうか。


 先に見つけてからお昼にしましょうね、と京香ちゃんの音頭で、私たちはゆっくりと出発した。


 昨日大泣きに泣いた氷見も一緒だ。


 寝込んでいたわりに、養護の佐々木先生からはあっさりお許しが出たと言う。


「ごめんね、華緒ちゃん……私、昨日は動転してて。知世君がいないことにも、華緒ちゃんを追いかけてったって知ったことにもどっちもショックで」


「いいのよ、気にしないで。ホントに、緒方とは何でもないからね。ね?」


 也子は泣きはらした目で、嬉しそうに頷いた。


 緒方は前日私に預けた、買ったばかりのi−podを取り返しに来たのだと苦しい嘘で、なんとか納得してもらったのだ。


「あいつ音楽バカだからさ」


「私は、そういう知世君が好きだから」


 臆面もなく、まっすぐにそう言える彼女が、少し羨ましかった。


 いい空気、と氷見が深呼吸する。


 なだらかな草原の斜面で、一斉に波打つ葉の動きから風がわかる。


「素敵。山に来たの、初めてだから。身体が喜んでるのがわかる」


 登山も出来なかったんだろうなあと、私は胸がいっぱいになる。


 微笑んで、氷見の歩調に合わせた。


「寒くない?」


 陽がさしているところはポカポカと暖かいが、日陰は少し肌寒さすら感じる。


 氷見は大丈夫だと頷いた。


「そういえば、華緒ちゃんのデイパックから、さっきからチリチリって音がしてるけど」


 ああ、と私は手を後ろに回して、それを取り出した。


「これでしょ?」


 わあ、と氷見が顔を輝かせた。


「すごく綺麗! なにこれ、簪?」


 うん、と私は頷いた。手の中の聖さんの簪。山の空気に触れ、シャラシャラと澄んだ音を立てる。


「きれーい。ねね、少しだけ、私、借りててもいい?」


 一瞬虚を突かれたが、頷いて髪に挿してやる。


 上部をまとめていた髪に、それは深々と刺さって、小さく揺れた。


「……ねえ、華緒ちゃん。実はもうひとつお願いがあって」


 何、と顔を向けると氷見は草原の奥を指さした。


「あっちって、斜面だよね? 町が見下ろせる絶景って書いてあったけど」


 氷見の指さした方向は、確かに絶景ポイントだと書いてあった。だが。


「ちょっと時間がかかっちゃうよ?」


 草原の縁に行くまでにかなりの距離がある。さらには斜面を登って、下らねば、そのポイントにはたどり着けない。


 こういう寄り道ポイントは、実はいくつか書いてあった。だが、余裕のない班は『魔女の爪』を写すだけで精いっぱいで、そのポイントへはなかなか寄れそうもない。


 この班に限っては、タイムトライアルの適応外にはなっているから、時間に余裕がないわけではないけれど。


 ―――和歌子ちゃんと緒方が絶対に心配するしな。


 氷見は俯いた。


「……ごめん、我が儘言って。山に来たら一度くらいは鳥瞰ちょうかんっていうか、上からの街を見て見たくって。あ、でもいいよ、全然大丈夫だから」


 諦めることに最初から慣れているのだろう、氷見は必死に手を振っている。


 胸を突かれた。


 ちょっと待ってて、と私は前方を歩く京香ちゃんたちの元へ走った。


「……氷見ちゃんが見たいって? じゃあ見せてあげようよ」


 ルイちゃんが一も二もなく頷く。京香ちゃんは渋い顔だ。


「確かに、この班は氷見ちゃんのためにマイクロバスも手配してもらってはいますけど…出来るだけみんなと帰った方がいいと思うんですわ」


 京香ちゃんと黒子ちゃんは同意見だ。少し考えて、京香ちゃんは妥協案を出した。


「班を分けましょう」


「でも、班を分散させるなって、副島が」


 いやですわ、と京香ちゃんがコロコロと笑う。


「華緒ちゃん、小学生じゃないんだから。先生のご忠告は守ったように見せるのが生徒の務めですわ」


 ―――怖いよ京香ちゃん。


「てことで、『魔女の爪』を捜しに行くのが三人。氷見さんと同行するのが一人。ちょっと不安ですけれど」


 『魔女の爪』撮影場所付近まではおそらく先生方がポイント毎に待機しているだろうから、人数はこれ以上減らせない、と班長が言う。


「三人なら、誤魔化せるから」


 黒子ちゃんがケータイを掲げる。


「美紗緒班からの情報。ここから道を逸れたところに怪しい場所があるって。生徒がこっそりそっちに流れてるらしい。『絶景ポイントの②の付近。『魔女の爪』可能性高し』」


 やりとりが電報のようだが、いつもこういうメールなのか。


「……ひょっとして」


 京香ちゃんが口元に手を当てる。


「寄り道ポイントは、ひょっとして『魔女の爪』生息地の付近なのかもしれませんわ」


「急がば回れ。有りうるな、あの先生方の企画だもんな」


 どの班も、クラスの足を引っ張りたくないから、出来るだけ寄り道せずに急ごうと気を逸らせている。


 だが寄り道と知りつつ、絶景ポイントに足を運んだ者だけが、誰より早く『魔女の爪』を撮ることが出来るようになっているなら。


「それこそトレッキングの意味を良く理解しているって、言いそうね。ウチの先生ら」


 ルイちゃんがにやりと笑う。


「でもあの先生方、一筋縄では行かないよ。いくつかダミーはあると思う」


 そうね、と私も頷いた。


「急がば回れで結構。華緒ちゃんと氷見ちゃんはそっちの①のポイントに向かってくださる? で、私たちは可能性の高いっていう②のポイントに行ってみますわ。あったかどうかはメールで」


 オッケー、と私たちはそれぞれの踵を返す。


 気をつけてね! と背中に声を受け、手を挙げた。


                ※※※

 ゆっくり氷見の速度に合わせながら、時折手を引き、助け合いながら斜面を登りきると、脇に小さなけもの道があり、その下が大きな岩場になっていた。


「岩場か。也子ちゃん、大丈夫?」


 大丈夫、と頬を紅潮させて、氷見は私の手に縋る。


「ゆっくりいこう。少し前の方に行くと、絶景ポイントだって」


 足下はしっかりした、しかもかなり平面に近い岩が多く歩くのに支障はなさそうだった。


 問題は、下からの強風だ。


 今日は風が強い。昨日の大雨もあってか、肌寒い風が下から吹き上げてくる。


「『魔女の爪』はなさそうだね」


 草原地に咲く花だ。残念、とメールを送る。了解と、短く京香ちゃんから返事が返ってきた。


「也子ちゃん大丈夫?」


「大丈夫。ありがとう華緒ちゃん」


 にっこり笑って、氷見は私の手をつかんで岩に移る。


「さ、もう少し前に来て」


 氷見を私と同じ岩に移らせて、顔をあげる。


 眼下にはよしか果の市街地が一望出来た。遠くの海の水平線まで瞭然はっきりと見える。


「見て見て、也子ちゃん!!」


 興奮して声を上げる。色とりどりのあの海岸線は、若者に人気の高い愛白櫓めじろベイエリアだろうか。


「葦果市まで見えればいいけど。てか写メ撮れるかな」


 爪先立ちした時だった。


「華緒ちゃん」


 消え入りそうな氷見の声がした。


「どうした?」


「……噂、嘘だよね?」


 私は慌てて氷見に向き直った。


「嘘だよ。也子ちゃん、まだ心配してたんだ? 嘘だよ、あんなのは」


「ほんと?」


「ホントだよ」


 ほっとしたように笑って、氷見は口を開いた。


「……じゃあ、もうひとつ確認していい?」


 いいよ、と笑うと、氷見はふっと真顔になった。


「あなたは鬼雛、なんだよね?」


 浮かべた微笑みはそのまま凍りついた。



「也子、ちゃん?」


 氷見は目を細めた。


「聖娘子様は、華緒ちゃんみたいな小娘を庇ったばかりに、その力の大半を消失したと聞いた。……ほんと?」


 ものも言えず、後退する。


「じゃあこれは? 崑崙が華緒ちゃんを独占しようとしているって。よりによって金毛犼(きんもうこう)を出してきたって」


「きん……?」


 華緒ちゃんってホントに、と氷見はひとしきり笑ってから、私を睨む。


「愚鈍ね」


 氷見の両眼はいつのまにか真っ赤になっている。


「あの方が仰った通り……本当に愚鈍で浅慮でお人好し。こんな小娘に、鬼雛が宿るなんて。こんな莫迦を」


 聖娘子様がお庇いになるなんて。


 最後のセリフはギリギリという歯ぎしりで言葉にならなかった。


「なんで……あなた、也子ちゃんじゃないの?」


 ようやく出した声に、氷見は片眉をあげた。


「也子よ? ねえ華緒ちゃん。私が也子だとあなたが覚えていてくれたじゃない。この身体も、この記憶も、氷見也子のものよ。違う?」


 氷見也子――なのだ。四月に一度会っただけの、クラスメイト。


 人の顔を覚えるのは、決して苦手じゃない。だけど!


「だったら……どうして!」


「氷見也子は……こないだ死んだのだもの」


 私は目を瞠った。


                 ※※※

 風が吹く。


 私は岩を飛び移る。也子は今までのか弱い動きが嘘のように、機敏に私を追ってくる。


「あら、逃げないで? 華緒ちゃん。私を置いていくつもり?」


 来ないで、と私は夢中になって岩場を走る。


 シャラン、と強風で簪が鳴く。也子はそっと愛おしげにそれに触った。


「聖娘子様の簪……これはね、お前みたいな小娘が持っていていいものじゃないのだよ。下賤な人間風情が、口惜しい」


 氷見は軽やかに岩場を飛ぶ。


「聖娘子様の復活は我らが悲願。鬼雛さえあれば、すぐにでもご回復が叶うだろう」


「ひ、聖さん……せ、聖娘子は生きているの?」


「口の利き方に気をつけよ、小娘!」


「きゃ!」


 足先の岩が弾ける。氷見が石を投げたのだ。


「易々と御名を呼んで良い方ではない。解っておらんな。蜚蠊(ゴキブリ)が触ったモノを、おまえ消毒もせずに我が君に差し出せると思うかえ?」


 ――――ゴ、ゴキブリ!?


 違う意味でのショックを受けながら、私は腹を括って向き直った。


「あああ、あなた、あなた誰よ!? 誰なのよ! 也子ちゃんが死んだって、どういうことよ!」


 目の前にいるのは、では也子になりすましている他人なのか?


「虫相手に、名乗る安い名など、持ち合わせてはおらんのだよ、華緒ちゃん」


 嫌らしい言い方で、氷見は微笑む。私はちらり、と上を見た。


 ――――ピンチになったら、たぶん、助けてくれる……はず!


「わ、私を狙っても、無駄だから」


「大層な自信ね。それはどこから来るのかしら? 仲の良いお友達からかな」


 ケータイが鳴りだした。ぎょっとする。今、和歌子ちゃんたちが来たら。


 ――――彼女はきっと私を守るため、私の盾になってしまう。


 ダメだ、と頭を振る。緒方も、和歌子ちゃんも、当たり前のように私を守ると言ってくれた。情報を得るための条件だとは、いえ。


 ――――そんなもののために、彼女たちを犠牲になんかできない。


 私は思い切ってケータイの電源を切った。おや、と氷見が眉をあげる。


「逃げるのをやめたの?」


「……緒方を好きだと言った。それは嘘だったの?」


 氷見は笑った。


「本当よ。本当の事。それが也子との契約だもの」


「契約?」


 そうよ、と彼女は赤い眼をしたまま、嫣然えんぜんと微笑んだ。


「信念も縛りもなく、平気で(たばか)り、嘘を吐き、欺く。それはね、むしろ人間の得意とするところなのよ、華緒ちゃん。妖怪はね、闇雲に嘘を吐くわけではないの。特に契約のある時は命に代えてもそれを守る。也子の身体を戴く代わりの、契約が、緒方知世に告白することだった。私はそれを守っただけ」


 私はその言葉が終わらないうちに、岩と岩の隙間に足をとられていた。


「うわあ!」


 尻もちをつく。


 流れるように視界に入った赤い色。それは足首を取られた岩の隙間に咲く、真っ赤な――――『魔女の爪』。


 だが氷見はその機会を逃さず、一気に間合いを詰めてきた。


「聖娘子様に、その身を差し出せ」


「わあああ! せん、璿璣(せんき)! 助けて!」


 キイーと甲高い声を放ち、強風が氷見を動かす。


「鴆か……狗の手先だな」


 その場にとどまるのが精いっぱいの私と違い、氷見はわずかに動いただけで、鴆の風を受け止める。


「小手先の風よ。どれ」


 大きな岩のひとつを片手で(!)持ち上げると、それを近くまで下りて風を起こしていた鴆に投げつけた。もちろん、鴆はそれを交わす。しかし、その直後続けざまに放たれた小石に、鴆は身動きを取られ――。


「ギイイイイ!」


 内の幾石かが命中したのだろう、大きな悲鳴を上げると、その体が真っ逆さまに岩場の下へと落ちていく。


「璿璣―!!」


 あの鴆が。愕然とする私の前に氷見は立ち、上から見下ろしてくる。


「……華緒!」


「黒田!」


 顔を横に向けると、今にも降りてこようとする緒方と和歌子ちゃんが見えた。


「こ、来ないで……」


 氷見は静かに口を開く。


「……鬼雛、獲ったり」


 髪の毛から簪を抜いて、それをかざした。


「いやあー!!」


「華緒!」


 次の瞬間。


 ――――目を瞠った私の身体の中に、焼けるような熱さが走った。


 まるで抱きつくかのように、氷見は私の顔の下からにっこりと笑う。


 氷見が離れて、私は自分の胸を見下ろした。 


 にじむ赤。


 魔女の爪――――?


 ――――体の中から、まるで生えて来たかのような。


 深紅を従えた、簪が見えた。

 


「華緒!!」


 横倒しになった華緒を認識したとたん、和歌子の頭は真っ白になった。


 駆け寄ろうとして、その腕を緒方がつかむ。


「放して緒方」


「待て…眞山」


 緒方は一定の距離を保って、その女を見ていた。


「……今日は参加しないはずじゃなかったのか」


「情報が遅いわよ、知世君」


 氷見は笑ってから、ふと真顔になった。


「……私のこと、なぜ知ってるのかなそこの二人」


「也子に聴いた……おまえに尋ねることは何もない」


 え、と氷見が眉を寄せる。


「どういうことだ?」


「黒田から離れろ」


 氷見は仰向けに倒れた華緒の身体、足元に立っている。


「い・や・よ。せっかく鬼雛を手に入れたのに、何故獲物を渡さなくてはならないの?


 これはこれから聖娘子様に献上するのよ。我が君は、必ずここにお出でになる。他ならぬ私がお()びしているのだから」


 氷見は得意げに笑った。


「心臓を止めれば、鬼雛とて終わりだろう。血抜きをし……新鮮なままで召し上がっていただかなくては」


「華緒!」


 和歌子の喉から悲鳴があがる。


「放して緒方。今手当すればまだ」


 緒方の手はびくともしない。


「ダメだ……ダメだ眞山」


 どうしていいかわからないのは、緒方も同じだと直感する。


「でもっ!」


 出そうと思っていない涙がいきなりあふれた。


 ――――冗談じゃない。


 華緒は倒れたままぴくりとも動かない。


「華緒、起きなさい華緒!! 鬼雛なんでしょ、あんた、傷だって治るんでしょ!!」


 涙が喉を塞ぐ。


「起きてよ華緒……私、あんたを守るって言ったじゃない……」


「黒田……」


 ふと緒方が手を離した。そのまま進もうとする。氷見は当然のように立ちふさがった。


「知世君、私あなたが好きなのよ?」


「そんなこと、おまえから聞かなくても、知ってた」


 氷見が顔を歪める。


「なんだと?」


 緒方は氷見から五歩の距離で止まる。


「黒田、起きろ」


 華緒はぴくりともしない。緒方が唇を噛む。


「眞山、こいつは俺が倒す。その間に、黒田を」


「緒方!?」


 緒方は尻ポケットから折り畳みナイフを取り出した。氷見の哄笑が響く。


「そんな柔らかい刃物で、私に敵うとでも?」


「……毒を塗っていてもか?」


 氷見が笑いを止めた。


「お前たちを始末する方法は調べた。力で始末出来ない場合は、呪いと毒。呪いは使えないからな」


 小賢しい、と彼女が唇を歪める。


「眞山、急げ!」


 うん、と和歌子は頷いて、華緒の傍から氷見を追いだした緒方に続いた。


               ※※※


「ねえ、華緒、冗談じゃないわよ、何よこれ」


 じわじわと滲む血が止まらない。


「こんなの、こんなのないわよ……どうして!?」


 呼気はない。脈がかろうじてゆっくりと動いている気がしたが、いつ止まってもおかしくないほどだ。簪は、心臓の真上。抜けば失血死しかねない。


「華緒……」


 和歌子はそのまま華緒の鼻をつまみ、大きく息を吐くと唇を合わせた。


 息を送り込む。華緒の胸が上がる。人工呼吸。これをすることに意味があるかどうか、判らないけど。 


 ――――戻ってきて、華緒。


 蒼白な頬に、落ちた雫が自分のものであるという自覚はない。


「華緒!」


 和歌子は夢中で、息を送り込み続けた。




 だから――――背後に立っていたその影に気づかなかったのだ。

              

                ※※※


「告白した女に、刃物を向けるなんて」


「おまえは也子じゃないだろう。……そう、(はっ)狐子(こし)というのか」


 氷見が大きく目を瞠る。


「おまえ…どうしてそれを」


「そうか、猫、か。目の赤い、白い猫。死ぬ間際の也子と契約をしたんだな」


 氷見が動きを止めた。


「ただの人間かと思ったら……おまえ、何者だ?」


「ただの人間だよ。残念ながらな」


 緒方は氷見を見据える。


「聖娘子に仕えていたモノか」


「その名を気易く呼ぶでない!」


 也子の爪が変化する。猫のように鋭いそれになると一気に踊りかかる。


 緒方は間一髪で躱すと、再び刃を構えた。


「悪いが、華緒を傷つけたことを許す気はない」


「大口を!」


 氷見が真っ赤な口を開ける。その顔に向けて緒方は片手に握っていたものをぶちける。はっとして氷見が顔を押さえるが、その細かい粒子が目に入った。


 その隙に、肩を入れて緒方が体当たりする。あっけなく氷見は倒れ、緒方はその小柄な身体全体を使って動きを封じた。


「也子、悪い」


 目を逸らし、すぐに氷見を見る。


 今にもその刃を振り下ろそうとした時だった。


「――――お待ち」


 気配もなく、刃を持つ手を軽く押さえられた。


 驚いて顔を上げようとした刹那、氷見が下からかすれた声でその名をつぶやいた。


「聖娘子、様……!」


              ※※※


 形勢逆転だ、と緒方は唇を噛んだ。


 自分の手を押さえているのは、見たこともない美女。


「……私が見えているはずだよ、人間。今は見えるようにしているからね」


「せ、聖娘子様!」


 感動したように、緒方の下から氷見が叫ぶ。


 美女はその声に目を遣ることもなく、ひたと緒方にだけ視線を結ぶ。


「ここは退()いてくれぬか? 悪いようにはせぬ」


 落ち着いた声に、緒方はふと何かを考え込むような顔になると、やがて頷いた。


「いい子だ」


 聖娘子は微笑むと、緒方をそっと誘い、氷見から遠ざける。


 緒方は、はっとしたように後ろを振り返ると、いきなり走り出した。


「黒田!」


 ――――そこには、和歌子に手を取られて、起き上がった華緒がいた。



 残念、と母親が眉を下げて戻ってきた。


「ごめんね、やっぱりそうだったんだって。でも退院が今日だったみたい。ああ、もっと早くに確認出来ていればねえ」


 病床の少女は首を振った。


「どうせ会えなかったよ。病棟だって全然違うし。どっちみち、私のほうが面会謝絶だったりするから」


「……でも残念だったわ。お母さんがもっと早くに気づいていたら」


 大丈夫よ、と気丈に笑ってみせる。


「どうせ、向こうも憶えてないよ。だってもう十年くらい昔の話だし、子どもの頃だし」


 そうかなあ、と首を傾げて、母は額に手を当てる。


「今日はずいぶん顔色がいいわね」


「呼吸も楽。吐き気もないし。今日はちゃんと眠れそう」


 よかったわ、と目を細めて、じゃあ今日は帰るわね、と母親が出ていく。


「お母さん」


 ふと呼び止めて、振り向いた母親に、少女は小さく手を振った。


「ありがと。またね」


 またね、と母親は笑んでドアを閉める。


 ――――白い、綺麗な病室だ。


 入れ替わりの激しい部屋だと言われている裏の真意は、余命いくばくもない患者を入れるため。


 日ごと増やされていた藥が減り、鎮痛剤だけが増えた。


 死期が近いことを、彼女は漠然と理解していた。


 ――――末期。そんなことは誰に言われなくても解かっていた。


 灰色の毎日の中、見間違いかもしれないけど、と母親が不意に告げた、懐かしい名前が、思わぬ恋心を呼び覚ました。


「知世、君」


 一緒に教室に通っていたのは六歳の頃か七歳の頃か。寡黙だったが、綺麗な顔立ちをしていた、男の子。初恋、だった。


 予期せぬ涙がこみ上げる。


「ひと目でも、ううん」


 腕を目に押し当てて、声を殺す。


「……好きだって、言いたかったなあ」


 個室でよかったと、思った瞬間、スイッチが入ったかのように、呼気に喘鳴が混じる。


「意気地なし、だから、私」


 ヒューヒューと肺からの息が、限界を訴えて暴れ回る。


 ナースコールに手を伸ばしかけて、思わず息を止めた。


 ――――猫? 


 母親が閉めたドアの前に座り込んでいるのは、真っ白な猫だった。


「どう……して」


 胸をかきむしりながら、涙を流しながら、その猫から目が離せない。


『代わってやろうか?』


 猫の赤い目が光る。


「かわ、る……?」


『代わってやろう。お前の代わりに、告白してあげる。お前の代わりに、生きてあげる。

 だから』


 ナースコールが指から落ちる。


 手を伸ばしながら、その誘惑が忍び寄ってきた。


『その体を、私にちょうだい』


 ……好きだったと、伝えてくれるの?


 猫が頷いたように見えた。


                ※※※


 ダメだよ、と私は思う。


 どうして? と誰が訊ねる。


 ――――好きって言葉は自分で伝えなくちゃ!


 何かを考え込む気配がした。


 そして――私はまた、混沌の暗闇に引きずり込まれる。


 ――――華緒。


 闇の中、溶けだした意識が誰かに引っ張られる。


 光だ。誰かが光の手を繋いでいる。


 ―――もう大事ない。


 聞き覚えのある声に、不意に意識が浮上する。

 

                  ※※※


 瞼を開けた先で、覗きこんでいる和歌子ちゃんが見えた。


「……かこ…」


 押し出した声に、血の味が混じる。咳き込む私を、和歌子ちゃんがそっと起こしてくれて、背中をさすってくれた。はっとして胸を押さえる。


 そこに痛みはなかった。


「和歌子……ちゃん」


「華緒」


 よかった、と涙混じりに和歌子ちゃんが頷いている。


「どうして……」


 心臓に刺さったはずの簪はない。


「彼女が……華緒を助けてくれて」


「彼女?」


「黒田!」


 声に振り向くと、走ってくる緒方が見える。


「おが……」


 言葉が止まる。


 緒方の背後に見える、あの長身は。


 ――――あの後ろ姿は。


「華緒、無理しないで」


 いきなり立ち上がろうとして、よろめいた私を和歌子ちゃんと、慌てたような黒田が走って支えてくれた。


「……連れてって」


 ままならない身体がもどかしい。


 私は叫ぶ。


「お願い、あそこに連れて行って!」


                  ※※※


八狐子はっこしかえ」


「お久しゅうございます、我が君」


 (ひざまず)いて、氷見が頭を垂れている。


 声は、近づくほどに明瞭に聞こえてきた。


 氷見は憧れに満ちた目で、その顔を眩しげに見上げ、また頭を下げた。


「鬼雛を捕えておりまする。どうぞ、それでご記憶の埋め合わせを……」


「……誰にそそのかされたかえ、八狐子」


 声は冷ややかだった。その色を感じたのだろう、氷見が怪訝けげんそうに顔をあげた。


「聖娘子、様?」


「八狐子。その方に鬼雛を教えたは誰かと聞いておるのだ」


 ぞっとするほど冷たい声に、氷見が顔色を無くす。


「華緒を、傷つけるなど……!」


「聖娘子様!?」


 彼女は不意に氷見の首を押さえた。


「な、何を……」


 無言で彼女はそのままその細い首を片手でつかむと、そのまま持ち上げた。


 小柄な氷見の足が、地面から離れる。


「せ、せい……」


「出ておいで、八狐子」


 苦しさからぽっかりと開いたその口から、白いものが出てくるのが見えた。


 彼女はすぐさま別の手で、その白い物をつかみ直した。どさり、と音を立てて氷見の身体が落ちる。


「……何してるの、あれは」


 怪訝そうな和歌子ちゃんの声に、あの白い物が妖怪であることを知る。


 彼女はそのまま、その白いものの首元を絞め続ける。


「私は……聖娘子、様の御為に……ああっ!」


 苦しそうに白いものがもがいていた。 


「お、やめくだ、い、せい、じょう、様」


「聖さん!」


 たまらず声をあげる。


 彼女は、ようやく振り向いた。


 ――――変わらない。


 あの美しい顔に、今は憂いを浮かべて。


「華緒。我が眷属(けんぞく)がおまえを手にかけようとは。申し開きの出来ぬことをした」


「……聖さん、もういいの。止めてあげて」


 白い物は必死にもがいている。だが聖さんは首を振った。


「眷属の不始末は、我が不始末。……私は華緒を守ると言った。なのにこのままではその証が立たないのだよ」


「聖さん!」


 華緒、と優しい声が響く。


「華緒を傷つけるものは私が許さぬ。どうか信じておくれ」


 目を閉じておいで、と彼女は言う。


「聖さん、でも!」


 人間、と彼女の声が飛ぶ。


「華緒に見せるでない」


 黒田、と緒方が和歌子ちゃんと私をその胸に庇う。


 かすかに聞こえたのは、慈愛に満ちた聖さんの声だった。


「八狐子。……不出来な主によく仕えてくれた。おまえの行いがすべて私のためだということは充分わかっているのだよ」


「我が……き」


冥府めいふで待っていておくれ。いずれ私がおまえの前にひざまずき、ゆるしを乞いに赴くゆえ」


 聞くな、と緒方が二人分の頭を抱く。

 


 断末魔の声は……わずかに、微かに。


               ※※※


 悪かった、と戻ってきた聖さんは私に頭を下げた。


「八狐子という、あれは我が眷属のひとりだ。私の復活を望むあまり、華緒を刺すなどという非道に走った。本当に謝っても足りぬことをした。この通りだ」


 聖さんは深々と頭を下げる。


「……殺してしまうこと、なかったのに」


「優しいのだね、相変わらず」


 聖さんは苦笑する。


「だが、ここで八狐子を助命すれば、私はおまえの隣に立つ資格を失うだろう。資格を失わぬためには、証を立てねばならぬ。私は華緒を傷つけたくないと誓ったのだからね。

 ……とはいえ、随分傍を離れてしまった。危険な目にも遭ったであろう?」


 そっと頬を撫でられる。優しい目に、泣きそうになる。


「大変でした。聖さん、呼んでも来てくれないし」


「悪かった。もうこのようなことはないよ」


 目元を和ませて、どれよく顔を見せてごらん、と頬を両手でつかまれる。


「忌々しい狗の臭いが鼻につくね。だが可愛い華緒はそのままだ。痛かっただろう?」


「そうだ、私、心臓刺されたのに」


 和歌子ちゃんを見ると、彼女は肩をすくめた。


「彼女……聖さん? 彼女が簪を抜いてくれて、何か呪文を唱えてね。そしたらあんたが息を吹き返したの」


「この簪は私の一部ゆえ。華緒を傷つけたくない気持ちがなんとか伝わったのかもしれぬの」


「……お取込み中悪いんだけど」


 ごほん、と咳払いが聞こえて、女の子同士で輪になっていた面々は、一斉にそちらを向いた。


 緒方がその視線を受けて、怖気(おじけ)たように後退(あとず)さる。


「也子の事は……どうするんだ?」


「也子ちゃん!? 倒れたままじゃない! 早く起こしにいかないと」


「死体だよ……あれはもう」


 えー、と私は腰を抜かすほど驚いた。


『氷見也子は……こないだ死んだのよ』


 確かに、八狐子はそう言っていた。でもまさかって思うじゃないの!!


「気を、気を失っているだけかと思ったのに」


 私が驚愕しているというのに、なぜか私以外、驚いている様子がない。


「どうしよう……ねえ、どうするの?」


「死んだって言うしか……ないのかな」


「そのままにしておけば良いのではないかえ? あとは人間どもが片付けるだろうよ」


 なんだこの冷静な会話。気が遠くなりそうだった。


「也子ちゃんは、ホントに亡くなってるの? い、今から救急隊とか、お医者さんとか呼んだら…」


「残念ながら、もう死んでるんだ。それは間違いない」


 なぜか緒方がきっぱりとそう言い切った。聖さんも頷く。


「あまり害のない(びょう)()として知られているが……特にうちの八狐子は(むくろ)に憑くモノだ。生前に契約を結べば、死後その身体を借用することが可能となる。氷見也子は間違いなく病気で死に、その後、八狐子がその身体に入ったのだよ。だからあれはその抜け殻。死体なのだよ」


 私は思わずその姿を見つめる。


 思い出したのだ……さきほどの暗闇の中を。


 あの時、病床にいた少女は、おそらく氷見也子だったのだろう。


 好きという言葉を伝えたくて。でも伝えられなくて八狐子の手を取ってしまったのだ。


 ――涙が伝う。


 騒ぎになるだろう。氷見の両親は、どれほど悲しむことだろう。


 だが死んだことは、伝えられなければならない。也子のためにも。


 悔しいけれど、ちゃんと埋葬してあげなければ。


 口を開こうとした時だった。


「……聖娘子、といったな」


 緒方が聖さんに向き直っていた。


「あんたは、八狐子と同じことが出来るそうだな」


 聖さんは眉を上げる。


「……何が言いたい?」


「也子の身体に入ってくれないか。その方が、あんたも黒田を守り易くなるだろう?」


「緒方!」


 私は強く首を振った。


 わけもわからず、泣けてくる。


「だめだよ緒方。辛いけど、ちゃんと亡くなったことをご両親に伝えて、その上でちゃんとお弔いを」


「いいんだ、黒田」


「何がいいのよ、そんなことをして也子ちゃんが喜ぶとでも……」


「その也子からの頼みなんだ!」


 は、と私は間抜けな声を出した。


「『いずれ知れることだとしても…少しでも両親の悲しむ顔を見るのは先伸ばしにしたい。少しでも長く、也子を生かして欲しい』」


 緒方の言葉に、ぽかんと口を開けたのは私だけだった。


 聖さんが唇の端を吊り上げる。


「なるほどなるほど……つまり()()なのだね、おまえは」


 覚悟を決めたように、緒方が頷いた。


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