【2】 2章 新芽
2章 新芽
1
パリン、と耳に不快な鋭い音がした。
破片がキラキラと目の前に降ってくる。
慌ててその場を退いた私たちの前に降り立ったのは、昼間見た、あの赤い豹だった。
……てゆーか、あの窓からどうしてこのドデカイ妖怪が飛びこめるってのよ!
サイズおかしいだろう!
「……見つけたぞ」
低く唸り、豹はまっすぐに私を見据える。
――ロックオン。
「まずい」
目が合った。
思わず緒方と和歌子ちゃんを背に庇う。
豹と睨み合ったまま、私は口を開いた。
「二人とも、何も聞かずにこの部屋を出て」
「! どういうことよ? 何が起こってるの!?」
和歌子ちゃん、緒方にあの豹は見えていないのだと今更ながら思い知る。
私は唇を噛む。
――二人に何かあったら。
そう思うだけで、腕にびっしりと鳥肌がたつ。
二人を部屋の外に出すより、私が出た方が早いんじゃないかと、はたと思い当たった。
「和歌子ちゃん、今尋常でない事態が起こってるの。本棚の陰に入って。そっと」
「了解……」
つぶやくように言うと、和歌子ちゃんはそっと私から離れた。
目を合わせたまま、じりじりとドアへとにじり寄る。
「緒方悪い、ドアを開けて。あと玄関のドアも」
せっぱつまった私の声に、緒方は何も言わずに動いた。
ドアを開け、すぐに玄関に走る。
「どうしたの知世?」
「何でもない! 母さんはそこから出てこないで!」
緒方がおばさんを押しとどめる声が聞こえる。グッジョブ緒方!
「あなた……私が欲しいんでしょう?」
じりじりと私は豹を頭を低くして牙を剥く。いつでも襲える態勢だ。
「ここでは狭すぎるでしょ。つ、ついてきなさいよっ!」
私は一気にドアから廊下へ出た。猛ダッシュで玄関を抜ける。ざっと音がして豹が一瞬で追いついてくるのがわかる。
「華緒!」
「黒田!」
和歌子ちゃんと緒方の声が背中から聞こえる。
暗い夜の道。良く見知った近所の道を、私は一心に走った。
急いで離れなければ。声が届かないところへ。
――二人を絶対に巻き添えにしたくない。
「きゃああ!!」
しかしわずか数秒後、私は背中を押され、顔からアスファルトに叩きつけられていた。
「ようやくだ……」
豹が唸る。背後から生臭い息がかかる。背中に爪が食い込んでいるのがわかる。
「鬼雛さえ、なければ」
「ああっ!!」
制服を割いて、熱い物が背中に突き刺さる。激痛。温かい血が肌を伝う感触。
ヤバい、と私は息を飲む。やめて、と思うが声が出ない。
マジでやめて。そこ、心臓の上だから!!
豹が力を込めるのがわかった。
「滅せよ!」
もうだめだ、と目を閉じたとたん、どん、と背中に鈍い衝撃が当たった。
「あー!!」
衝撃で全身を貫く痛みが襲う。かと思ったら、次の瞬間、背中から重みが消えていた。
その場をのたうち回りたいのをこらえて私は上体を起こした。
背中が焼けるようだ。熱い。火傷したかのような痛み。歯を食いしばる。
「昼間は逃がしましたが」
はっと顔を上げた。目の前には佐久間先輩の背中があった。
「今度はそうはいきませんよ」
「狗めが!」
夜目にも、火を噴くように真っ赤に発光した豹の姿。
「先に滅ぶはお前からだ!」
低く滑空する。その額の鋭い角が光る。
対峙する距離、わずか数メートルに迫ったところで。
「天許。急急如律令」
掌で押さえた天。佐久間先輩は声を発した。
「――――雷」
瞬間。
真っ直ぐに、稲妻がその赤い獣を貫いた。
※※※
勝負は一瞬。
何が起こったか、見ていたはずなのに頭が考えることを拒否している。
肉の焦げる臭い。原型を留めない無残な姿。目の前に転がる、焼け焦げた黒い物体は、まぎれもなくあの赤い豹で。私を殺そうとしていたモノで。
確か。
「猙です」
そうだ。猙……猙ってなんだっけ。
「どうして僕を呼ばなかった?」
ようやく焦点が合う。気づけば柔らかな瞳で、佐久間先輩が私を覗きこんでいた。
そっと頬に触れる指の背の感触。
「……先輩。なんで?」
ふっと目の前が暗くなる。次の瞬間、私はその場に手をついていた。
「さすがに少し血を流し過ぎたようだね」
「華緒!」
「黒田!」
声に顔をあげると、駆け付けてきたらしい二人が立ち尽くしているのが見えた。
彼らにはどう映っているのだろう。血を流しうずくまっている私と、佐久間先輩と。
「……これ何……」
和歌子ちゃんが口を覆う。視線の先には猙の死骸があった。
「……え、和歌子ちゃん、見えてるの?」
「見えてるわよ、何よ、この黒いの」
「さすがにこうなっては隠せないか。……妖怪ですよ。僕が仕留めました」
ポストですよ、僕がペンキ塗りました、的な呑気さで、先輩が答えている。
「確かにこれでは目立ちますね。……滅」
優美な仕草で、先輩は指を唇の前に一本立てる。
次の瞬間、さらさらと豹の身体は細かい破片になり、風に乗って消えていった。
焦げた臭いだけがその場に残る。
「黒田!」
駆け寄ろうとした緒方を制するように、先輩が私に向き直る。不意にしゃがむと、すっと両手を私の身体の下へと潜り込ませた。
「っ! ちょっと先輩、何を!」
「黙って……華緒」
名前を呼び捨てにされて、驚きのあまり文字通り黙った私を、先輩はそのまま易々とその腕に抱えた。憧れのお姫様抱っこ。……でも背中はぐっしょりの血まみれなんですけど。
「黒田を離せ」
珍しく緒方が怒っている。
「離せ?」
鼻で笑って、先輩は緒方に向き直った。
「僕の彼女を、よくもこれほど傷物にしてくれたもんですね」
「彼女だって? ……この化け物が」
「化け物で結構。化け物でなければ守れもしない。大事な華緒をこれ以上、無防備な人間の場所には置いておけませんのでね。……失敬」
「華緒!」
心配そうな和歌子ちゃんが駆け出そうとするのを、緒方が止めるのが見えた。
「緒方!?」
「よせ眞山」
悔しそうな声が背中で聞こえる。私は首を捻って二人を視界に収めようとしたが、先輩の身体に遮られた。
「和歌子ちゃん……緒方ぁ……」
「だから人を牛買いにしないように」
苦笑しながら先輩は角を曲がると、私をその場にそっと下ろした。
「さて。もういいかな。背中は治ってるようだね」
嘘、と慌てて探る。確かに、綺麗に痛みが取れている。
触っても痛い箇所などどこにもない。手に付いた血は、服が吸ったものだろう。
新たに流れている感触はもうなかった。
「あ、ありがとうございました。じゃあ……あの、私これで」
「そんな恰好で帰るつもり?」
制服はボロボロで、背中には大きな穴が開いていた。背中一面血まみれなのだろう、濡れてベタベタしている。
「家に帰ったら大騒ぎだよ。それより帰りつく前に通報されるかな」
「そんな」
だったら緒方の家にするか。
先輩は微笑む。
「もっとも可能性が高いのは……また襲われるかもね。そんな旨そうな血の臭いを撒き散らして。今なら雑魚でも寄ってきそうだものね」
「ううう、旨そう?」
旨そうっつったか今!!
全力で後退する私に、佐久間先輩は目を細めた。
「鬼雛の臭い、なのかな。今のあなたからは抗い難いほど芳醇な香りがする。言うなればそう、上質なワイン」
……だからあんた例えが。
「具体的に言えばそうだな、フランソワ・ラマルシュのラ・グランドリュ、アンヌ・グロのリッシュブール」
――具体的過ぎてドン引きですからもう!
先輩はそんな私の顔を見て肩を揺らしている。
――ネタなのか今の!?
「とりあえず、今日は僕の家に来るといい。今後の対策も考えねばならないし」
「でも……」
私は自分の姿をもう一度見下ろす。
確かにこんな恰好で電車には乗れないだろう。まして先輩の家は善果市だ。
直線距離にするまでもなく、ここから自宅よりはるかに遠い。
「とんでもない。電車になんか乗せませんよ、僕まで通報されてしまう」
先輩は肩をすくめて手を伸ばした。
「璿璣」
その声に反応して鴆が現れる。しかしそのサイズはいつもの鴆の大きさではなかった。
「でかっ!」
思わず声を上げたのは、いつもの十倍サイズにまで巨大化した鳥が来たからだ。
「急ぐ時や、人目を避けるときはこれが一番だからね」
乗って、と手を取られる。だが。
「待って! 鴆って毒があるんでしょう!?」
思わず鼻と口を押える。先輩はため息をついた。
「あのね……鬼雛持ちのくせに今更何を。今のあなたなら璿璣とキスしたところで死にはしないだろうね。試してみる?」
「冗談!」
「冗談です。璿璣も嫌がってます」
どっちの気持ちを優先したのか、それを問いただす間もなく、佐久間先輩は無造作に私の首根っこをつかむと、ぽいと荷物でも放るように鴆の背に乗せた。
「いたっ! ちょっと乱暴な!」
「いつまでも乗らないからだよ。さ、璿璣行きましょう」
軽く鴆の頭を撫でると、鴆はその翼をゆっくりと一度だけ大きく振った。
「……た、かい」
揺れや風を感じることもなく、まるでエレベーターのようにその場を昇っていく。
しかしあまりの高度に思わず先輩の腕にしがみついた。
「すぐに着きますよ。僕の部屋はマンションの最上階なので人目にもつきません」
いつもこうやって帰っているらしい風情が、ちらりと透けて見えた。
※※※
煌めく街の明かり。眩い何かを砕いて撒き散らしたかのような、小さな瞬きが美しい。
「香港のにも負けますけどね。三ケタくらい安いかな」
佐久間先輩は、うっとりと夜景を眺めていた私に遠慮なく水を注す。
「……先輩って」
「なんです?」
「S、ですよね」
「おや、先日は優しいって言われた気がしたけど」
そりゃ言った。言いましたけど。
「でもその後、自分でも否定してましたよね」
『我が儘だし頑固だし』と言っていたのは、嘘じゃないのだと、今になって判る。
……このヒト、性根はドSだ絶対!
「おや、そうだったかな」
先輩は楽しそうに笑うと、緩やかに失速する鴆を撫でる。
「お疲れ、璿璣」
その気遣いを、少しは私に向けてくれたって罰は当たらないと思うけど。
「さ、降りてください」
一応(一応だ!)手を貸してくれた先輩は、降り立った私に眩しいほど美しい笑顔を向けて、おどけたようにお辞儀をする。
「ようこそ、僕の茅屋へ」
私は間抜けにも開いた口がふさがらなかった。緒方の家も凄いけれども。
「どこのホテルのスイートだよ」
ベランダから眺めたそこは、遮るものもないパノラマビューウィンドウのリビングダイニング。ご丁寧に電動シェードスクリーン完備。折り上げ天井に、ソファ替わりに浅く設けられた床の段差。そこに数多くのクッションが敷かれている。
色鮮やかなグリーンや蘭の柄。そして対になる位置に大型のテレビ。その脇に大きな観葉植物の(たぶんパキラ)鉢。
たくさんのクッションの下には柔らかなベージュのラグが敷かれ、まるでアジアンテイスト。
どちらかと言えば中国より東南アジア。しかも……リゾート地だこれは。
目を転じれば段差の向こうにリビングのイメージを一新する、白と黒を基調にしたメタリックでシンプルなキッチン。
さらにその奥にブラックの螺旋階段。
……おい、ちょっと待て。二階もあるのかここは!
「どこからこんなお金が!!」
庶民の悲しさでそこがまず気になる。なんだ、この潤沢な金持ちライフは!
「まさかお金は木の葉とかじゃないでしょうね」
「どこまでも野狐と同列の扱いですか、あなたは」
リビングの中央で突っ立っている私に、先輩は大きなマグを二つ持って近寄ってきた。
「だって、どう考えたって……おかしいわよ。妖怪がこんな立派なマンションなんて」
「僕の地位は、低くはないですから」
さらりとそんなことを吐いて、先輩は私にマグを押し付ける。
「ホットミルクですよ。落ち着きますから」
先輩のマグからは珈琲のいい香りが漂ってくる。
「……珈琲とか、飲むんですね」
「人型の時は、人と同じものを。そういうふうに出来てますから」
それでも嗜好はありますけどね、と先輩は微笑む。
本当にどうしてこの人が妖怪なんだろうかとすべてがどうでも良くなるほどのとっておきの微笑で。
ため息をついてホットミルクを飲んだ。かすかに蜂蜜とアルコールの香付け。
確かに気持ちの角が丸くなる。
……どこまでそつのない男なんだ、佐久間麗。
「着替えを出しておきますから、シャワーを浴びてきたらどう? そのなりではあなたが嫌でしょう?」
要は臭いのが気になるのだろう。
だが自分の恰好を見下ろしてから、それももっともだと思う。そしてその拍子に思い出した。
「忘れてた! 家に連絡しなくちゃ!」
時計を見るともう八時を過ぎている。マグを置き、慌てる私に先輩は首を振った。
「ご心配なく。僕がやっておきます」
「やっておくって……どうやって?」
妖怪に襲われるかもしれないので、とりあえず別の妖怪のところに身を隠します、なんて、絶対に言えるわけがない。
かといって学校の先輩の家に……なんて濁そうもんなら、高校での男女交際絶対反対の父親が状況確認にすっ飛んでくるだろう。
父は緒方以外の異性を一切認めていないのだ。
先輩は肩をすくめる。
「僕を誰だと思ってるんです。電話越しの暗示くらいお手の物ですよ。ああそれから、しばらくはここから一緒に学校に通いますからそのつもりで」
「ええええ!」
私は心底驚いた。てっきりお風呂に入ったら帰れるものだと思っていたのだ。
「冗談でしょ! なんで私が……」
「夜中、妖怪に襲われて一家全滅なんて嫌でしょう?」
冷たい声で言われ、私は反駁しようとしていた声を飲み込んだ。
……一家、全滅……?
「さっきの襲撃、あれが一過性のものだとでも?」
「で、でも、猙はもうあれで死んだって……」
「猙はね。だけど他の妖怪はどうでしょうね。それでなくてもあなたはもう友人を巻き込んでいる。今回、たまたま僕がいたから良かったものの、そうでなければご友人、そのご家族だって無事で済んだかどうか」
そう言われると、今更ながら足から震えが登ってくる。
豹は外まで私を追いかけてきた。だけど、そうではなく、あの場で、和歌子ちゃんたちを巻き添えにしながら襲い掛かる可能性も、もちろんあったわけで……。
「鬼雛のあなたはいいですよ。傷だってよほどの重傷でない限り、すぐに治癒するんですから。でも他の人間はそうはいかない。それを一番よくわかっているのはあなただと思いましたが?」
緒方の背中に流れた血の条。倒れていく生徒たちの姿が甦る。
――絶対にふたりを巻き込まない。
そう思っていたのは、ほかならぬこの私で。
先輩はため息をつく。
「いっそもう結婚でもしますかね。そうすれば一緒にいるのがもっと自然になる」
「け、結婚!?」
冗談じゃない。この年齢で結婚!? しかも妖怪と!?
「そうだな。抵抗あるなら契約期間を設けてみるとか?」
「ケータイ小説じゃないんだから! 契約結婚とか出来るわけないでしょう!」
「……なかなかにキケンな発言ですがねそれは」
おかしそうに先輩はわけのわからない内容で笑う。
「まあそれは冗談だとしても。鬼雛を身に宿せど、あなたには敵に対抗できる術を一切持たない。そのあなたを、ひいてはあなたの周囲の人間をも守らざるを得ない僕の努力を、少しは評価してもらいたいものですが。喜んで、と返しこそすれ、嫌だと言える根拠も理由も、あなたにあるとは思えませんけどね」
「わかって……わかってますよ!!」
畳み掛けるように言われ、私は吐き捨てるように叫ぶと、そのまま踵を返した。
ぐうの音も出ない。言われたことはすべて正論だ。
――私には誰かを、いや自分さえ守れる術すらないのだから。
選択肢など、最初からない。
ただ感謝して、その言葉に諾々と従うことしかできることはないのだ。
――今の私には。
「風呂は階段を右ですよー」
どこまでもそつのない佐久間先輩の声が、追いかけてくる。
優しくて、よく通るその声が。
……今は、たまらなく不愉快だった。
※※※
「なんです璿璣。揶揄が過ぎるとのお小言ですか?」
いつもの大きさに戻り、声をあげた鴆の喉もとを撫でて、彼は小さく笑った。
「なんでしょうねえ、こう、嗜虐的な本能をくすぐる子ですよねえ。なんだか知らない自分が出てきそうですよ。ああ、大丈夫、壊したりしませんて。あんなのでも、今は大事な預かりものです」
彼は微笑みながら、マグを片付ける。
「しかし面白い人間だ」
鬼雛という途方もなく恐ろしい力をその身に宿しながら、こんなに平然と生活できるなど。
「よほどの大禹か、あるいは目を掩って雀を捕える類の痴者か」
しばらくは楽しめそうですねえ、と漏らした声は水音に紛れ、誰にも届いていない。
2
「で、改まって話とは?」
湯上りに着替えのパジャマを貸してもらって(パジャマはともかくどうして新品の女性物の下着までが出てくるのかは恐ろしくて聞けなかったけど)、なぜか少しだけ雰囲気が優しくなったような先輩が、今度は紅茶をマグに淹れてくれた。
オレンジペコ。
掌から伝わる温もりは、広いリビングの効きすぎた空調から救ってくれる。
「……聖さんのことを、教えて欲しいんです」
あからさまにうんざりした顔が現れた。……ちょっと珍しい。
絶対に微笑を崩さない人なのに。
「君もいい加減、執着するねアレに」
「そうじゃなくて」
私は考え考え、言葉を押し出す。
「ほ、ほら、敵を知らないことには対策も立てられませんし! 敵を知り己を知ればなんとやら?」
先輩は片眉をあげた。
「百戦殆うからず?」
それです、と頷く。
「まあわからないでもないけど……ということは聖娘子を敵と見做すということでいいんだね?」
訝しんでいるのか、先輩はそんな訊き方をする。聖さんごめん、と胸の中で謝ってから、私は嘯いた。
「私だって、殺されたくはないですもん」
「……この話はとてもリスクが高い話だ。君が絶対に喋らないという証が欲しいな」
「証?」
私は首を傾げる。それって何かにサインとかするようなものですか?
「……喋ったら君は死ぬ。その覚悟はある?」
なんですかそれは!?
しかしここで挫折すると、チャーリー緒方・和歌子からのミッションはコンプリートしないわけで。
でも命と引き換えのリスクなんて……そんな覚悟は最初からない。
佐久間先輩は腕を組み、しばらく目を閉じて熟考の構え。
私の中でも逡巡が始まる。どうする、聞くのか、聞かないのか。
そこに落ちた沈黙の時間は、意外と長いものとなった。
ややあって先輩がその形の良い目を開く。
「……わかったよ。話してあげよう」
ため息をついて、先輩は軽く笑う。
ひきつっているという自覚のある笑顔で、私は汗をぬぐった。
――喋ったら死ぬって、冗談だよね?
さて、と先輩が顔をあげた。
「黒田さんは『平妖伝』を知ってるのかな?」
呼称が『華緒』から『黒田さん』に戻っていた。
私はどこかでほっとして、どこかで少し残念に感じる。
――残念?
首を振る。そんな恐ろしいことを考えてる場合じゃないから今は!
そうか、知らないのか、と誤解した先輩が、どこから話し始めるか、と首を傾げたので、慌ててもう一度首を振った。
「えっと、知ってます! と言っても、詳しくは知らないんですけど」
「聖姑姑はわかる?」
えーと。
「白雲洞ってところで封印されている狐のお婆さんで、胡媚児……あれ、胡永児? のお母さん、で良かったですか?」
「完美! Parfaite!」
先輩が口笛を吹く。
「十分だ。手間が省ける」
先輩は珈琲を飲むと髪をかきあげた。
「まどろっこしいのは好きじゃないからね。結論から言おう。聖娘子は聖姑姑の末裔ではない」
「え?」
聖姑姑の末裔じゃない?
先輩は物憂げに続けた。
「末裔などではない。あれは聖姑姑……あの妖狐の転生した姿です」
「はぁ?」
「『聖姑姑の再来』など。冗談じゃないんだ。聖姑姑そのものなんですよ、聖娘子は」
脳みそが沸騰しそうだ。ついていけない。
「どういうことなんですか? 聖さんは、自分でも聖姑姑の末裔だって言ってたのに」
あの忌々しい枳首蛇の爺さんだって、そう言ってたじゃないか。
「じゃあ……聖姑姑は死んだんですか」
「妖怪とて、不死ではないからね」
先輩はため息を吐く。
「聖姑姑が死んだことを知る者はほとんどいないんだ。今も白雲洞に封印されているものと皆、思っているだろう。少なくとも天界はそのように情報を操作した。このことを知っているのは天界の関係者だけです。それは当の聖娘子とて同じ」
「聖さん本人も……?」
――聖姑姑が死んだことを知らない?
「薄々は何かに気づいているかもしれません。でもあれに肝心の聖姑姑の記憶はない。だから……どうしても末裔だと名乗るしかない」
「記憶がない?」
先輩は頷く。
「あれの記憶を奪ったのは天界の仕儀です。過去、聖娘子には玄女娘娘が接触している。ですが、娘娘が直接手を下したのか、それともそのなの前か……。一体、誰がしたのかが実は定かでない。勿論、どこにそれを『封印』したのかも」
「『封印』……」
「聖娘子も記憶を奪われたことは判っているはずだよ。だからこそ、それを捜して放浪していたのだろうから」
私は思い出した。最初に会った時、彼女は「捜し物をしている」と言ったことを。
言うと佐久間先輩は眉を寄せる。
「『鬼雛』を探していたんだね。……やはりそうだったか」
「でも! それは記憶を捜しているって意味に聞こえませんか?」
鬼雛に興味はないと聖さんはハッキリ言っていたのだ。自分には別に目的があるのだからと。それはおそらく失くした記憶を取り戻すこと。あるいはその手がかりを得る事、のはずだ。
私は思わず安堵の息を吐きだしていた。
やっぱり聖さんは鬼雛を狙ってはいないと言った。その言葉にウソはなかったんだ!
先輩は厳しい顔のまま、私を見つめる。
「……あれが復活する方法は、確かに記憶を取り戻すことではあるけれど、それよりもっと手っ取り早い方法があるんだよ」
「手っ取り早い方法?」
「『鬼雛』を得ることだ」
先輩は強いまなざしを向け、目を逸らすことを許さない。
「君を、あれに奪われることを、僕たちは何より危惧している」
その言葉には、真剣な響きがあった。私は息を飲む。
「今は記憶がないから白雲洞の秘術も当然使えない。力とて、まだすべてを解放しきれていない。現段階であれはただの妖狐でしかない」
こちらとしては、それが好都合でもあるんですが。
言外にそういうと、先輩はやっと視線を下げ、ため息を吐いた。
「先日の枳首蛇との戦いで、聖娘子はかなりの深手を負った。ですけど、本来、あの妖狐の持つ能力は、その程度で小揺るぎするようなものじゃない。記憶がなく、力の解放が出来てないから、あれしきの攻撃ですらダメージになってしまう。……あのまま消滅してくれれば、僕たちの憂いはなくなったのだけど」
姿を晦ませたのは生きている証拠ですからね、と苦々しげに先輩は口を歪めた。
「鬼雛を手に入れたら、聖娘子は聖姑姑としてよみがえるだろう。失くした記憶を呼び戻すまでもなく……最悪の大妖狐が復活してしまう。愉悦と快楽からの殺戮が始まる。僕らがそれを抑えられるとは残念ながら思えない」
それだけじゃなく、と彼はゆらりと昏い目をあげる。
「あれが妖怪や天界に喧嘩をふっかけている間はまだいい。が、いずれ人にも目をつける。政治、内乱、紛争、戦争。すべてにあれが介入してくる。そういう生き物なんだ。防ぐ手立てがない以上、人は簡単に聖姑姑の玩具となる」
この世界は危うい均衡を保っている。そのバランスを崩すと、何が起こるかわからないと先輩は厳しい顔で言う。
「鬼雛を渡してはいけない最大の敵のひとりが聖娘子なのだということを、君は肝に銘じてほしい」
「先輩……」
「この話がリスキーだというのはこの点だよ。君がこの話を聖娘子にしたら、聖娘子は自分が聖姑姑なのだと確信するだろう。天界の関係者である僕の情報源ということだけでも、あれにお墨付きを与えることになりかねない。鬼雛を獲るのに躊躇いは一切なくなるだろう。聖娘子にもし、この話を喋った場合、僕は君を殺さねばならなくなる」
先輩は苦しそうな表情をしている。
私は絶句した。
――喋ったら、死ぬ。殺される……?
「もちろん、僕もただでは済まない。即座に断罪されるでしょう。あの猙のように、天の雷が一瞬で僕を消し炭にする」
私は口を押さえた。黒焦げの、肉が焼ける臭い……。思い出して、吐き気がする。
「僕個人の処遇はともかく、世界を混乱と破滅から救う道はただひとつ、君が聖娘子に取り込まれないことだ。聖娘子が聖姑姑であると気づかせないことだ。気づかせたとたん、僕が君を殺すより早く、あれは君を殺して取り込み、自分の力とするだろう。
そうなればその先にあるのは、破壊と破滅。もう誰にも止められない」
愕然とする内容に、声も出せない。
話したら、聖さんが私を殺す。あるいは、先輩が私を殺す。そして先輩もタダでは済まない……?
先輩は眉を寄せ、なぜか辛そうな表情で私を見つめる。
そっと綺麗な手を、私の頬に添えた。
その感触に、いきなり心臓が音を立てる。
「僕は君を殺したくない」
憂いをたたえる瞳が、私を捕えて離さない。
事そこに至って、遅まきながら気づく。
……あの、顔が、顔がめっちゃ近いんですけど!
真っ赤になっているだろう私に構わず、彼は至近距離で囁く。
「このことは決して喋らないと、誓ってくれる?」
「……………………はい」
ものすごく間を開けて、結局は頷いた。
これだけ命がかかっていると脅されて、それをあっさりゲロってしまえる度胸はさすがに私にはない。私だって命は惜しい。
……だが。
「もうひとつ。聖娘子の元へは行かないと、誓ってくれる?」
その答えには詰まってしまった。
もともと、聖さんの正体を知りたいと言ったのも、彼女を信じたいための材料とするはずのもので。
こんな話を聞かされたからといって、私が聖さんに抱く感情は、微塵も変わりがないのだけど。
「誓ってくれないの……華緒?」
「……、そ、それは……あ」
先輩はもう一方の手も、私の頬にあてた。
両手で頬を優しく包まれ、軽く仰向かされ、私の心臓は口から音が出てしまいそうなほど高鳴りしている。
目の前には、切なげな表情を浮かべた佐久間先輩が。
「聖娘子には近づかないで。……頼むから」
先輩、と呟いた言葉をかすめて、先輩は優美に私の頬に軽く口接ける。
チュ、という小さな音。背筋を電気のような痺れが伝う。
そのまま、強く抱きしめられた。ふわりと柔らかな髪からほのかなグリーン系の香が立ち上る。
「華緒。どうしたら、うんと言ってもらえるのかな」
……み、耳元で! 耳元で名前を囁かないで!!
くしゃり、と私の髪の中に、先輩の指が入ってくる。
「僕なら、君を一生守れるよ。君を傷つけるものは許さない。必ず、守りぬく。……信じてはもらえない?」
そっと身体を離し、熱を帯びた瞳がゆっくりと近づいてくる。
身体は硬直して、まったく動けない。
ただその眼を見つめることしかできない。
吐息がかかる。
……あと、何センチ?
だが直後、いきなり鳴りだしたのは、先輩のケータイだった。
「チ」
……舌うちしましたか、今?
あっさり立ち上がり、先輩は自分のスマホを取りに行く。
バクバクする胸を押さえて、私は酸欠の金魚のように息を吸い込んだ。
今のはなんなんだ、なんなんだ今のは!
「……黒田さん、電話」
へ、と顔をあげると、先輩がスマホを私に差し出していた。
「眞山さんからだよ」
早く代わりなさいよ! と喚く声がここまで聞こえている。
「和歌子ちゃん?」
『華緒! 無事?』
……えーと無事じゃない、無事じゃなかったです、ついさっきまで!
そう言いたいが、そんなことはしかし言えるはずもなく(言ったとたんに殴りこんでくるだろう和歌子ちゃんなら)。
「……大丈夫だよ」
苦笑すると、ほっとしたような声で彼女はようやく落ち着きを見せた。
『よかった……心配してたんだよ。あんなひどいケガだったし』
そうか、と私はうなだれる。大怪我してるところまでしか、見てないもんね。
違う意味で私が危険にさらされていた今を知る由もないわけで。
「ごめんね和歌子ちゃん心配かけて。でもどうして」
先輩のケータイ番号がわかったのだろう?
『……黒田か?』
「緒方?」
『おまえのケータイを触らせてもらったのは俺だ。悪いな』
私物の全部を緒方の家に置いてきた。なるほど、と私は頷く。これは私のケータイからの着電なのだろう。
「大丈夫だよ。……てか助かった」
ホント、呪縛が解けたかのよう。汗が噴き出していた。
『……なんかされたのか?』
緒方の声が一瞬で険をはらむ。違う違う、と私は慌てて打ち消した。
「な、なんでもない。ホントに何にもされてない」
ほっぺにチュウはされましたけど、と思った後で赤面する。
――絶対言えない、そんなこと!
『ならいいが』
怪訝そうな緒方の声が、ふと真剣さを帯びた。
『聖娘子のことについて、何か聞けたか?』
私は逡巡した。
喋らない、と誓ったばかりだ。喋らない相手は聖さんだけなのか、それとも。
「華緒」
迷った私を見透かしたように先輩が現れた。
「そろそろ寝る時間だよ」
余計なことを喋る前に切れという催促だろう。私はため息をついた。
「ごめん緒方。とりあえずまだ何も有益な情報はないわ。それよりそっちは? おばさんにも心配させたんじゃない?」
『大丈夫だ。母さんには黒田が帰ったと伝えた。その後、お前の家に電話とかはしてないから、おまえん家ではウチに泊まっていると思っているままだと思うが』
「……あー、それは大丈夫みたい」
先輩がウチの両親に暗示をかけました、なんて言えるわけがないけれど。
「明日、私のカバンを学校に持ってきてくれる? 悪いんだけど」
『わかった。……おまえこそ、今日はそこに泊まるのか?』
心配そうな緒方の声に、私は力なく笑った。
「仕方ないよ。……妖怪がいつ襲ってくるかわからないんだもん」
――もう誰も巻き添えにしたくない。
言外の想いを、緒方は察してくれただろうか。
『……なんとかするから』
悔しげな緒方の声は、消え入りそうなほど小さかった。
『……華緒?』
和歌子ちゃんだ。
『いい? あいつだって、襲ってくる妖怪と大差ないわよ! 変なことされそうになったら大声出すのよ? 事と次第では私もそっちに泊まりに行くから! とにかく、今日だけは頑張って凌ぐのよ。いいわね!』
和歌子ちゃんらしい言い方に、私は泣き笑いになる。
「じゃあね」
電話を切って、私は顔を覆って目を閉じた。
「黒田さん? 大丈夫?」
笑いがこみあげる。
心配してくれる人がいる。私には。
まだ。
――しっかりしろ、自分!
「大丈夫、大丈夫です」
目が覚めたように笑う私に、先輩は怪訝そうな顔をする。
「……さっきの続きをする雰囲気じゃなくなりましたね」
こんな邪魔が入るとは、と先輩は苦笑しながらスマホを放りなげる。
「とりあえず、寝てください。もう深夜を過ぎた。ゲストルームは好きに使って構いませんから」
先輩は踵を返しかけ、ふと振り向いた。
「さっきの誓い、忘れないように」
しっかり釘だけさして、自室に引き上げていく。
私は頬を二回叩いて、立ち上がった。
今の電話で、少しだけ、すっきりした気がする。
……友人の力は偉大だ。
3
朝から先輩と一緒に登校してきたことは、一瞬のうちに全校生徒の耳に入ったらしい。
CIAも真っ青な情報網だ。誰が流してんだ。
しかもマンション出るところから見られてたなんて、どこの芸能記者だよ。張ってんのか!
「黒田さん、放課後に進路指導室に」
案の定、さっそくの呼び出し。担任に代わって朝のSHRを担当した副島がものすごい目で睨んで私にそう告げた。
佐久間先輩は副島のお気に入りだ。絶対にタダじゃすまないだろう(私がな)。
今日は昼で終わりだから、空腹のまま副島の説教かと思うと、一時間目から疲れも出ようというものだ。
「で、収穫は?」
「……ものすごいマンションだった」
ぐったりして机に寝そべったまま、私はそう答えた。
二時間目の休み時間。
この時間を利用して早弁してるコもいる。部活生だ。昼もだけど、ここでも腹に入れとかないと保たないという。
もっとも今朝、完璧なイングリッシュブレックファーストを腹に詰め込まれてきたおかげで、私は眠くて仕方がないのだったが。
本当は土曜日の学校は好きなのだ。短縮授業のうえ午前中で終わりだから、どこかみんな浮き足立つし、休み前で空気が華やかだ(何度も言うが頌栄館は週休二日ではない)。
しかしこれが終わったら指導室、さらに佐久間先輩のマンションに帰るのかと思ったら、今日ばかりは夕方までみっちりと授業のある平日が恋しかった。
和歌子ちゃんがため息をつく。
「誰がそんなこと聞いてるのよ。聖娘子の情報は聞き出せたわけ?」
私はかなり挙動不審に目を泳がせてから、大きなため息をついた。
元々私に対しては驚異的な洞察力を装備している和歌子ちゃんには、それだけで伝わったようだった。
「要するに、口止めされてるってわけね。あんのクソ佐久間」
和歌子ちゃん、悪態が堂に入ってますわ……。
「私には何でも話す華緒が、ここまで貝の口となると、かなりの脅され方をしたようね。……やっぱり私も泊まろうかな」
かなりの脅され方、であることは間違いない。色仕掛け(!)でくるとは、私も予測していなかったもの。
「どうしたの、顔が赤いわよ」
なんでもない、と首を振る。
「それより、もう妖怪は襲ってきていない?」
「……私たちよりあんたの方が心配よ。あんなモノが……本当に」
和歌子ちゃんの顔色は悪い。昨日の猙の死骸を思い出しているのだろう。
「ごめんね、こんなことに巻き込んじゃって。……あいて!」
思いっきり強いデコピン。和歌子ちゃんは怖い顔で言う。
「あのね、勘違いも甚だしいわよ、華緒。あんたは被害者なの。その被害者が加害者面しちゃいけないわ」
「でも私がいるせいで、みんなに迷惑が」
「ちょっと」
和歌子ちゃんが凶悪な顔になる。
「まさか太宰治気取るつもり? 生まれてすみません? 冗談じゃないわよ。みんな多かれ少なかれ周囲に迷惑かけてるの。鬼雛とかになったのはあんたの責任? 違うでしょ。無理にこじつけて悲劇のヒロインになって佐久間先輩にちやほやされるのが目的ってんじゃないんなら、二度と私たちの前で迷惑かけたとかって言わないように」
ぴしゃりと恐ろしいことを言い放つと、和歌子ちゃんは時計を見て舌打ちした。
「副島の説教の後でいいから、一緒にご飯食べようか」
「あ、でも先輩が迎えにくるって」
和歌子ちゃんは凶悪な目をする。
「私が! 華緒と! お昼を食・べ・た・い・の。そう決めてるの。百歩譲って佐久間が同席するのは許すけど、それが叶えられないんなら私にも考えがあるとヤツに伝えなさい」
指をつきつけて、和歌子ちゃんはそう宣言すると足音も高らかに出て行った。すぐにチャイムが鳴る。
「……何があったか知らないけど華緒ちゃん?」
おでこをさすっていると、おずおずと席の後ろから、京香ちゃんが声を掛けてきた。
「和歌子ちゃんだけは、怒らせない方がよくてよ?」
「ありがと……大丈夫よ」
私はため息をついた。
――それはもう、言われなくてもよく知ってるから。
※※※
「ということで。文化祭が終わったばかりではあるが、一年はもう来週がトレッキング教室だ。先々週から数回に亘り、特別講師を招いての講習もしてきたし、おまえらの下準備も万全だと思う。楽しみだろ。だがなんと! 宿泊班を決めにゃならんことを忘れてました!」
まるっきり悪びれず、堂々と告白したのは我が担任、那須秀明だ。
「記憶ってのは怖えな。ウチのクラスはとっくに決めたもんだと思ってた。悪かったな」
「那須っち、ひでーよ!」
「文化祭が悪いんだよ。あれが忙しかったからな」
それが大人のいいわけかよ! とブーイングの最中に、笑いが起こる。
なんだかんだ、那須は正直だ。だからクラスに好かれている。
「お前ら、そこそこ仲いいんだから、この時間中にまとまれんだろ。男女別、五人一組な。決めたら黒板に書いていけ」
那須秀明が眠そうな顔で言う。……寝坊でSHR遅刻したんじゃないだろうな。
朝の呼び出しの件で逆恨みしてると、那須は机間巡視の合間にニヤリと笑った。
「黒田、朝からゴシップだったって? かなりの人気者だな」
「……そんなんじゃないんです」
「だろうな。でもこうなったら隠しようもねえ。副島先生に付き合ってやれよ。俺も後で行くからさ」
「絶対来てくださいよ!?」
副島にまた長い時間拘束されるのだけは避けたい。
「……忘れてなければな」
心もとない返事だけ残し、那須は楽しそうに班分けしている子たちの間に鼻面を突っ込んでいく。
「先生?」
呼ばれて那須が振り向く。手を挙げたのは、京香ちゃんだ。
「氷見さんは外してよろしいんですか?」
言われてはじめて、多分全員がその存在を思い出した。
氷見也子。
四月から、一度しか顔を見ていないクラスメイトである。
詳細は聞かされていないが、重い病気で入院中とのこと。もちろん面会謝絶だ。
入学式以降、急速に悪化したのだという。
一度、みんなでお見舞いの色紙と花束を届けたら、氷見の母親が恐縮してお礼とお菓子を持ってきてくれたっけ。
まだ在籍があるらしい。出席日数をどうごまかしているのかが気になるところだ。
那須のことだから、休学扱いにしてるのかもしれないが。
「あ、そっちも忘れてたな。氷見は出てくる」
クラスが一瞬水を打ったように静まった。
……出てくる?
「奇跡的な回復、ってやつらしい。もちろん無理は出来ないが、トレッキング教室は二泊三日だから、通常の授業よりは参加しやすいだろうってことでな。泊まりの方が親睦も深まるし」
「ちょっと、那須っち! 病み上がりを歩かせる気?」
クラスイチ派手なルイちゃん(通称アネゴ。いつの時代のあだ名だ)が噛みつく。
派手な外見の割に、とても面倒見のいい子だった。
トレッキングとは山歩きのことだ。登山ほどではないが、確かに病み上がりの体力で楽しめるようなものではない。
那須は苦笑した。
「もちろん氷見はロッジで留守番させる。だが食事や自由時間はおまえらと一緒だ。いろいろと教えてやってくれ」
「……普通の授業からの方がナンボか体力気力使わないんじゃないの?」
ぼそっと正論をつぶやいたのは、黒子ちゃんだ。(別にほくろでもないし、あだ名でもなければ、漫画のパクリでもない。れっきとした苗字だ)。
「それも一理ある。というか、俺はそっちを提案したんだがな。なんといってっも山だから、不慮の病状悪化に対応できかねるってな。だが氷見自身からの強い希望だ。まあ何かあった時はとりあえず救急車が来れる場所ではあるし、養護の先生も同行するからってことで希望が通った形だ。……というかこれは余談だが」
氷見は小学生の頃から病弱で、学校行事はもちろんのこと、宿泊を伴う行事の一切を体験ぜずにここまで来たらしい。
「氷見にとっては初めての宿泊研修なんだ。容態が少しでも悪化すればすぐに帰らせるし、絶対に無理はしないと約束した。途中リタイヤを承知の上で氷見は参加する。お母さんの喜ぶ顔を、お前たちにも見せてやりたかったよ」
しんみりとした空気に、いいんじゃないの? と気怠い声が飛んだ。
「いいじゃん那須ちゃん。あたしたちもフォローするしさ。てか子どもじゃないんだから、それなりの対応くらいできるわよ。ねえ?」
天然パーマに迫力のロングヘア。垂れ目の美人。メスライオンってあだ名(ウチのクラスのあだ名のセンスはどうしてこう)の美紗緒ちゃんが微笑む。
おう、と彼女に心酔する男子の何人かが声をあげた。
「了解。おまえらいいやつらだな。……じゃあ氷見はどこの班にするんだ?」
既に班分けは出来上がりつつあった。
「俺らのとこでも全然いいぜ!」
「ダメに決まってんだろう」
那須が笑う。ルイちゃんが手を挙げた。
「ウチでいいわよ。那須っち。その代り、なんかあったら、那須っちが一番に対応するんだよ? いいね?」
どっちが先生だか、と那須が苦笑した。
「了解だ。じゃあ、ルイ、お前が班長な」
「ダメ。班長はあたしじゃないわよ。京香でしょ」
「え?」
京香ちゃんが目を丸くする。京香ちゃんはクラス委員だ。あぶれ班に数合わせで入ることが多い。
了解了解、と那須は笑った。
「悪いな北原。いいか?」
かしこまりました、と京香ちゃんが真面目に受ける。
なんだかんだ、世話焼きが二人以上揃っているから、この班なら那須も安心だろう。
「じゃ、北原班に氷見を入れることにするな。北原京香、氷見也子、佐賀ルイ、黒子怜子に黒田華緒な。よろしくな」
リョーカーイ、とみんなは那須の真似をして叫ぶ。
私も笑いながら、ふっと笑いが固まった。
――山の中。一年生だけの研修。
大丈夫かな、と不安がよぎった。
※※※
『もしもし華緒?』
午前中最後の四時間目が終わって、ケータイが鳴った。
「ママ?」
昨日は電話の一本もかけられなかった。メールすら。佐久間先輩が暗示をかけたというが、具体的な話は何も聞いていない。思わず叱責を覚悟する。
だが母の声は明るかった。
『昨日は急に悪かったわね。伯母さんは元気?』
――伯母さん?
『まったく、真央姉さんの我がままにも困ったもんだわ。急に住み込みのアシスタントなんて。まあでも華緒ちゃん、この機会に花嫁修業だと思ったらいいわよ。パパが心配してたけど、車なら二十分もあれば着くんだしいつでも行きなさいよって言ったら不貞腐れてたわ。真央姉さんのこと、苦手だからねえ』
……話が読めてきた。
母の一番上の姉は独身だが、料理研究家として名を知られている。
彼女のアシスタントが急に辞めたので、私が代替になったのだと、そういう暗示をかけたのだろう。
真央伯母はちょっと気難しい人で、父親とはそりがあわない。
実際過去にアシスタントに私を寄越せと言ってきたこともあったから、決して無理な設定ではない。
伯母が住んでいる場所を(実際は関東だ)、先輩の住むマンションにさえ置き換えれば話はちゃんと通じるわけで。
『姉さんが華緒の着替えを取りにきたから渡しておいたわよ。足りないものがあったら帰りにでも自分で取りにいらっしゃい。あと、学校にも一報入れといたからね』
外堀が埋められていく。完璧に。
「あ、ありがとうママ」
軽い絶望感。
先輩がほくそ笑んでいるのが見えるようだ。
『パパもまた出張がちだし、ママも旅行あるし。華緒をひとりで留守番させないだけでもありがたいわ。……そりゃ、ちょっとは寂しいけど?』
わーん、と私は早くも涙ぐむ。
――私も家に帰りたいよ!
『ま、でもパパと新婚の頃に戻るのも、悪くないしね』
ママの楽しそうな声に、がっくりと肩を落とした。……呑気すぎる!
たあいもないことを喋って、電話を切ると目の前に人がいた。
「げ」
副島!
「……進路指導室には」
「すみません、今から行こうかと!」
「来なくてよろしい。朝の件は、先ほどお母様からお電話をいただいて、解決しました。あのマンションには、伯母さんがいらっしゃるのね」
はあまあ、と言葉を濁す。副島はため息をついた。
「そういうことはもっと早く教えていただかないと。しばらくそちらから通うということですし、そうなると越境通学に……ま、いいでしょう。その件は了承済ですから」
ぶつぶつと呟いて、副島はこめかみを押さえた。
……初めて、副島に同情する。
私もおんなじ気持ちになってました、さっき。
「あとこの学校は男女交際を禁止してはいないようですが、不純異性交遊となれば話は別ですからね」
副島は不純を強調する。やっぱ嫌いだ、この先生。
「過ぎた行為、目に余る言動には注意してください。以上です」
不愉快を顔にデカデカと書いたまま、副島は去っていく。
「……誰が不純なのよ、誰が」
不純なのは佐久間麗だけだ。
「華緒―!」
「黒田さん!」
右から和歌子ちゃん、左から佐久間先輩に同時に呼ばれた。
右左右、と顔を動かしてから、天を仰ぐ。
「……身体が二つ欲しい」
私は今日一番盛大なため息を吐き出した。




