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第三話

5.

 自宅に戻ると、晴臣は既に帰っていた。最近の彼は、平日のみならず休日も、朝からどこかへ出掛けてしまう。今日のように、深夜を超えない時間に家にいるのは珍しい。

 「早かったんだね」

 「うん」

 「ご飯は?」

 「食べた」

 ダイニングの椅子に座り、読んでいた新聞から目を離さず、晴臣はそっけなく答えた。

 同居人に冷たく、避けるような態度を取る彼。失望しているのかもしれないし、腹を立てているのかもしれない。

 ――期待していたのに、私が思ったような成果を出さないから。

 だが、ようやく今夜、彼が待ち望んでいたことを報告できる。


 私の演じる喜劇を、あなたが笑う。


 「今日ね、曽根くんに会ったよ」

 「……!」

 晴臣は打たれたようにハッと顔を上げ、正面の椅子に腰を下ろした奈津を見て、絶句した。

 「今はね、苗字も変わってるの。婿に入ったんだって。少し太ってた」

 せき止められていた水が一気に流れ出すように、奈津はとうとうと話し始めた。

 ――あなたの喜ぶ顔が見たい。そう思っていたのに。

 晴臣がどんな表情をしているかなど気にする余裕はなく、こみ上げてくる笑いを垂れ流しながら、奈津はただただ喋り続けた。





 いつの間にか晴臣は消えていた。

 我に返った奈津は、テーブルの木目をぼんやりと眺めた。彼女に取り憑いていた何かは、消え去っている。――先ほどの妙な高揚感は、一体何だったのだろう。

 傍らの時計を見ると、あれからもう一時間も経っていた。

 ――疲れた。

 奈津は立ち上がり、ダイニングから出て行こうとしたが、ふと思い出し、戸棚のほうへ戻ってきた。奥にしまってあるいつもの薬を飲んでから、改めて寝室へ向かった。

 ベッドには一人分の膨らみがあった。奈津は晴臣を起こさないようそっと布団をめくると、彼の横へ体を忍び込ませた。

 こんなに近くにいるのに、晴臣を遠く感じる。体温を愛しく感じながら、目を閉じた。





 ここに越してくる、一ヶ月ほど前のことだ。

 奈津が会社を辞める際、同期が送別会を開いてくれた。ただしもう一人、送られる側の人間がいた。晴臣だ。N市にある支社に、転勤が決まったのである。

 この送別会を、奈津は最初辞退するつもりだった。ここ半年休職しており、復職叶わず辞めることになってしまって、申し訳ない気持ちがあったし、社内に蔓延しているであろう、ある「噂」のこともあって、皆と顔を合わせづらかったのだ。だが、仲の良い同期が何人も強く誘ってくれたし、かねてから惹かれていた晴臣に会えるのも最後になるだろうからと、勇気を出して出席することに決めた。

 会自体は楽しかった。ただ、周りが気を使ってくれていることを、ひしひしと感じた。――同じ同期でありながら、半年前に退職した曽根のことを、誰も口に出さないのだ。その気遣いが、奈津にとってはかえって心苦しかった。

 それでも二次会まで出て、そのあとは帰りの方角が一緒だった晴臣が、送ってくれた。


 「俺の転勤先、N支社なんだよね」

 二人きりで話すのは、随分久しぶりの気がする。曽根と付き合い始めてからは、交流がすっかり耐えていた。

 「うん、知ってる。重要拠点だから、栄転だよね。すごいね!」

 人通りの耐えた歩道を、二人でぶらぶら歩く。夜が深まった空では、星が美しく瞬いていた。

 酒が入っていることもあって、晴臣も奈津も、だいぶ気持ちがほぐれている。以前の、仲の良かった当時のように、気安く話をすることができた。

 「でもさ、寮がいっぱいなんだってさ。アパート借りるしかないかなあ」

 「へえー」

 相槌を打ちながら、奈津は顔が引きつるのを何とか誤魔化した。

 A県N市。今一番、聞きたくない地名だ。

 その土地には何の恨みもないが、そこには――。

 「俺、一人暮らし初めてなんだよね。ずっと実家住まいだから。ちょっと不安だ」

 そう言って、晴臣は鼻の頭をかいた。

 「ふふっ。最初は大変かもしれないけど、あっという間に慣れるんじゃないかなあ。黒沢くん、適応力あるもん。どこででもやってけるよ」

 「…………」

 晴臣は奈津をちらりと横目で覗いてから、また前を向いた。

 「あのさ」

 ひとつ咳払いをしてから、続けた。

 「一緒に行かない?えっと、一緒に暮らさないかって、意味なんだけど……」

 奈津は、耳を疑った。

 ――なんで?どうして?

 晴臣は、奈津に何があったか、休職の理由を知らないのだろうか。――あの「噂」を、知らないのだろうか。

 いや、それは考えにくい。だとしたら、同情だろうか。

 ――あんな話を聞いて、それでも奈津と一緒にいたいなんて言ってくれる男が、いるとは思えない。

 奈津の目に、涙が浮かんだ。

 惨めだ。――だけど。

 奈津は、晴臣の手に縋ることに決めた。

 ――でも、ただ一方的に助けてもらうんじゃ、申し訳ない。

 そうだ、N市へ行くんだった。だったらこれは、チャンスだ。


 一生懸命頑張るから、だから楽しんでね。それがせめてもの、あなたへの恩返し。


 私の演じる喜劇を、あなたが笑う。

 それこそが私の喜び。









 肩を軽く揺すられ、奈津は目を覚ました。朝かと思ったが、辺りはまだ暗い。目を凝らすと、自分の上に誰かが覆いかぶさっている。――晴臣だ。

 「どうしたの……?」

 「してもいい?」

 意外な申し出だった。一緒に暮らし始めた当初はそれなりにあったセックスの回数も、今では全くなかったからだ。

 「うん、いいよ……」

 まだ少し寝呆けながら、奈津は晴臣の首に腕を回し、抱きついた。晴臣は奈津の耳元に唇を寄せた。

 「ゴム、つけないよ」

 「……?」

 「奈津の中に出すから、妊娠してくれる?」

 ――何を言っているのか。

 奈津は晴臣から腕を解くと、まじまじと見上げた。暗闇の中で見詰めた彼の目は、一層黒く、得体が知れなかった。晴臣もしばらく奈津を見下ろしていたが、ふっと顔を歪ませた。

 「言っておくけど、あの薬は効果ないからな。中身を変えておいたから」

 「くすり……!?」

 心臓が鳴った。台所の棚に隠しておいたあの薬のことを、晴臣は知っていたのか。

 「ピルっていうんでしょ?妊娠しないようにする薬」

 経口避妊薬。その薬効を得るには、毎日欠かさず決まった時間に服用する必要がある。

 「なんで……?」

 「お前の様子が変だったから、注意して見てて……。そしたら、こそこそ隠れて、何かの薬を飲んでるのに気付いたんだ。だから、薬の型番?――それを控えて、ネットで検索してみたら……」

 「…………」

 「不思議だった。俺はちゃんと避妊してるのに、どうしてって。――前に、あんな噂を立てられたから、慎重になってるのかって思ったけど」

そのとおりだ。ある事件がきっかけで、奈津は避妊に神経質になっていた。だから、ピルを飲むようになったのだ。

 「でも、違った。お前、浮気してたんだろ!?

 俺は避妊してるから、俺とのセックスに、あの薬は必要ない。

 ――相手の男は避妊してくれないのか?それとも、心置きなく楽しむため――」

 「違うよ!そんなんじゃない!」

 あまりに侮辱的な疑いに耐え切れず、奈津は晴臣の尋問を遮った。だが、彼の言葉を否定する一方で、納得もしていた。晴臣が自分に冷たかったのは、そんな誤解があったからか。

 「何が違うんだ!曽根と、まだ続いてるんだろ?」

 「え?」

 「今日会ったと、さっき堂々と言ってたじゃないか!――お前、頭おかしいんじゃないのか!?

 ていうか、曽根がこの町の、あんな近所にいたなんて……。そういえば引っ越してくるとき、この部屋にしよ うって決めたのは、お前だったな……。

 ――そもそも疑うべきだったんだ。N市に一緒に行こうなんていう、俺の無茶な誘いをあっさり承諾したのも、曽根の側にいたかったからだろう!?」

 「違う!違うよ!」

 あんな男に未練があるなんて、そんなことあるわけがない。

 ――だって、私は。


 「全部、あなたのために、やったんじゃない!!」


 曽根を懲らしめてやるために、偶然を装って、彼の妻に近付いたこと。

 妻に気に入られ、遂に曽根の住まいへ入り込んだこと。

 そして、おそらくは曽根にとって最悪な形で、彼と再会したこと――。

 「お子さん可愛いですねって笑ってやったら、あの男、震え上がってた。私があいつの息子に、何かするとでも思ってるのよ。バカみたい……」

 くすくすと笑いながら、奈津は晴臣の下から這い出て、ベッドの上に座り直した。

 「ねえ、いい気味でしょう?晴臣、曽根くんのこと、嫌いだもんね。仕事のことで対立してたって聞いたよ」

 「…………」

 暗がりの中でも分かるくらい、奈津の瞳はギラギラと輝いている。

 「ね、次はどうする?言って。晴臣の好きなようにしてあげるから」

 「……奈津」

 「奥さんに全部ぶちまけるのは、もっと後がいいよね。――あの噂を、聞かせるのはね」

 晴臣から、既に怒りは消えている。嬉々として笑う奈津を、彼は悲しそうに見詰めた。

 「――俺は、そんなことして欲しいなんて、思ったことはないよ。

 確かに曽根のことは大嫌いだったけど、もう会社を辞めた奴のことだ。どうでもいい」

 「何言ってるの!いっぱい迷惑かけられたんでしょう!?簡単に許しちゃダメだよ!」

 激高する奈津に、晴臣は首を振った。

 「それ、奈津の復讐だよね」

 「――え?」

 奈津の足の下から、シーツの感触が、消えていった。





つづく


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