第二話
「おはよう、奈津さん!」
人懐こい笑みを浮かべた女性が、ベビーカーを引きながら、こちらに向かって歩いてくる。
「由子さん、久しぶり~!」
奈津も笑顔で応える。由子は奈津にとって、この土地で初めてできた友人だった。
出会いは偶然。往来の、アスファルトがひび割れてできた溝にベビーカーの車輪が嵌り、四苦八苦していた由子を、通りかかった奈津が助けたのである。
由子は奈津の親切がとても嬉しかったらしく、お茶をご馳走すると言い出した。奈津からすれば、ちょっと手を貸しただけだし、あまり大げさにお礼されるほどのことでもない。だから、「じゃあ、缶コーヒーで」と提案し、それなら――と案内されたのが、実はこの公園だ。
あのときも、今奈津が腰掛けているこのベンチに二人で座って、コーヒーを飲んだのだった。
「まだまだ暑いねえ」
奈津の隣に腰掛けた由子は、ふうと億劫そうにため息を吐いた。子供連れの彼女には、この残暑は余計つらいのだろう。
「本当にね。ねー、拓くんも、お外あちちでつらいよねー」
ベビーカーを覗き込み、奈津は猫撫で声を出した。そこにちょこんと腰掛けている由子の息子は、いつもどおりの可愛らしい笑顔を返してくれた。もうじき一歳になる拓は、いつもニコニコと機嫌の良い子供で、奈津は彼が泣いているところを見たことがない。
奈津と由子は共に二十代半ばと年齢が近いこともあって、あっという間に打ち解け、色々なことを話す仲になった。
由子は、夫と息子の三人で、この近くのマンションに暮らしているそうだ。夫は婿養子で、由子の実家が経営している不動産屋を継ぐべく、今は修行中とのことである。
「あれ。奈津さん、お仕事するの?」
奈津の膝には、道すがら貰ってきた、求人情報のフリーペーパーが置かれていた。由子はそれを見て、尋ねた。
「うん、まあね。暇だし」
「……あのさ、聞いてもいい?こういうこと聞くのも、何だけど……。子供作る気はないの?」
「うーん、子供は欲しいんだけど……」
「……体の問題とか?」
由子は欲しくても授からない、不妊のことを言っているのだろう。
「いや多分、その辺は大丈夫じゃないかなあ。試してみないと、分からないけど」
「だったら、作ってみたら!」
由子は力いっぱい言い切り、奈津は思わず体を引いた。
「い、いや、ほら、うちはまだちゃんと結婚してないし……」
「えー!?今は、子供ができてから籍を入れるのが、普通じゃない?」
「いや、うーん」
確かに一部そういう向きもあるが。
しかし。
実際に子供を作ってしまって、相手に拒否されたらどうするのか。
「デキ婚」。奈津は、首尾良く子供も夫も手に入れることのできた幸せな花嫁に、ずっと聞いてみたかった。
――あなたのその向こう見ずな勇気は、どこから湧いてきたの?、と。
そのあとはしばらく、子作り成功の秘訣や、男女産み分けの方法などを聞かされる羽目になった。奈津自身が子供を持つかどうかという点は、お茶を濁す形で逃げたが、由子は追及してこなかった。もしかしたら彼女は、自分のことを喋っているうちに、忘れてしまったのかもしれない。
「あ、そうだ!明日うちに来ない?」
「え、明日?」
「うん。うちの旦那、明日休みなの。子供みててくれるから、ゆっくりお話できるし」
「ええー。旦那さんのお休みの日に、お邪魔じゃない?」
「いーのいーの、気にしないで。うちの旦那、普段全っ然、拓の面倒みてくれないのよ。休みの日くらい、集中的にやってもらわないと」
「そ、そう?」
その後も強く誘われ、押し切られた奈津は、由子の家に遊びに行く約束をした。
その夜、晴臣が帰ってきたのは、またもや深夜になってからだった。
ダイニングで待っていた奈津に対し、晴臣は聞こえないくらい小さく「ただいま」と声をかけると、さっさと寝室へ引っ込んでしまった。彼の背中には、どんよりとした疲労感が漂っていた。
「お仕事、大変だね……」
晴臣からの返事はない。
――でも明日はきっと、そんな疲れも吹っ飛ぶくらいの、楽しい話を聞かせてあげられると思う。
奈津はそっと微笑んだ。
――自分がここにいるのは、晴臣に少しでも心地良く過ごして貰うため、彼を楽しませるため、だ。
奈津が黒沢 晴臣と出会ったのは、入社した会社の新人研修のときだ。二人は同期だった。
研修内容の習得が遅れ気味だった奈津を、晴臣は根気強くサポートしてくれた。面倒見の良い彼を、奈津はこのときから好きだったのだと思う。
だが、その想いはあまりに淡く、はっきりと好意だと意識する前に、違う男がアプローチしてきた。同じく同期の新人で、名を曽根 隆といった。
就職したばかりで環境が変わり、寂しかったのもあるし、なにより曽根は積極的だった。流されるように、奈津は彼と付き合い始めた。
曽根は優しかった。――少なくとも、表面上は。
だが曽根と交際を始めた途端、晴臣が急によそよそしくなった。
自分が何かやらかしたかと心配になった奈津は、配属された先の先輩だった、琴美に相談してみた。お喋り好きで社交的な琴美は、情報通で知られていたのだ。
「まあ、なんとなく分かるよ。黒沢くんって、曽根くんと仲悪いじゃん」
「え、そうなんですか!?あの二人、配属先同じなのに……」
「うん、そう。それで配属先でね、曽根くんのミスのせいで、大口の取引が流れそうになったことがあったんだって」
「え!?」
「曽根くん、無責任っていうか……。愛想はいいんだけど、仕事がテキトーなんだよね。新人って、やっぱりまずは正確にやらないと。てか、そこが一番大事じゃない?」
「うん、そうですね……」
そう言われてみると、確かに研修時代から、曽根にはそういう傾向があった気がする。口がうまく、人当たりは良いが、自分勝手で、その場さえ良ければいいという考え方が、曽根の言動や挙措からはちらほらと見え隠れしていた。
「黒沢くんは真面目で、曽根くんみたいなタイプが許せないんじゃない?同期だから遠慮もないし、二人で相当激しくバトったらしいよ」
「そんなことがあったなんて、全然知りませんでした……」
「だからさ、黒沢くん、仲のいい奈津ちゃんが、自分の嫌いな曽根くんとくっついちゃって、複雑なんじゃなかなあ」
「…………」
琴美は、曽根に良い印象を持っていないようだ。目の前の奈津が、その彼と付き合っているのを知っているくせに、フォローなしである。もしかしたら交際をやめるよう、暗に諭しているのかもしれない。
確かに奈津も、曽根の性格の一端を知って、失望した。彼と付き合うことで、晴臣に避けられてしまうことも悲しい。
しかし結局別れを切り出すほど決定的な出来事もなく、奈津と曽根は、その後もずるずると交際を続けた。
昔のことを思い出すと、決まって頭が痛くなる。
「くすり……」
奈津はダイニングの椅子から立ち上がると、食器棚へふらふらと近付いた。床にしゃがみ込み、一番下の戸棚を見詰める。薬はあそこだ。そう確かめてから、力が抜けたようにがくりと俯いた。
大丈夫、大丈夫。今日はもう飲んだ。
飲み過ぎてはいけない。
毎日、同じ時間に、一粒だけ飲めばいいの……。
4.
翌日も快晴だった。差した日傘の白い布地を、日差しがジリジリと焼いていく。
お招きに預かった由子宅へのお土産は、チーズケーキにした。好物だったことを思い出したのだ。
この日が来るのを、待っていたような。
この日が来るのが、怖かったような。
由子と出会った公園のほんの先の、幾分かくたびれたマンションの六階が、由子一家の住まいだった。中古だからお手頃価格だったと、由子はあけすけに語っていた。
教えられた部屋の前に立ち、チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いた。
「いらっしゃい!上がって上がって!」
笑顔の由子に促されて部屋に入ると、よその家の匂いがした。奥から、キャッキャッと甲高い子供の笑い声が聞こえる。
玄関から台所を通り、声のするほうへ向かう。仕切られたガラス戸に向かって、由子は一声かけて、そこを開けた。
「パパ~。お客さま、お見えになったよ~!ご挨拶して!」
ガラス戸の向こうは、居間になっていた。はしゃぐ拓を抱いているのが、由子の夫だろう。少しぽっちゃりした、優しそうな男性だった。
「あ、どうも、こんにちはー」
朗らかに笑ったその男の顔は、だがすぐに凍りついた。
「はじめまして」
奈津はぺこりと頭を下げてから、持ってきた土産袋を差し出した。
「チーズケーキ、好きだったよね?」
男は――曽根は、目を見開き、突っ立ったままだ。数年の時間と共にたるんだ体が、わなわなと震えている。彼の腕に抱かれた拓は、今まで見たことがない父親の表情を前に、不思議そうな顔をしていた。
奈津は。
――自分はちゃんと笑えているだろうか。
それだけが心配だった。
つづく




