第一話
1.
居間のソファに座って、ぼんやりと、秋の虫の音を聞くともなく聞いていた。同居人の晴臣が帰ってきたのは、二十四時を少し過ぎた辺りだった。
「おかえりなさい。食事は?」
「いや、いいよ。風呂入って、寝る」
「そう」
出迎えた奈津と目も合わさず、晴臣は寝室へ引っ込んでしまう。脇を通り過ぎる恋人の体から、アルコールの匂いを嗅ぎ取り、奈津は小さくため息をついた。
晴臣の帰りは、いつも遅い。家で夕食を取るのは、週に一、二度あればいいほうだ。仕事が忙しいのもあるだろうが、今日のように酒を飲んで帰ってくることも多い。
こういった場合、怒ったり注意したりするべきなのだろうか。だがそれは、彼に扶養されている身としては、言いづらい。
いっそ付き合いも大切なものだと、鷹揚に構えておくべきか。――だがそれも、モヤモヤする。
どちらも選べない奈津は、結局今夜もトボトボと、ダイニングに撤収するしかなかった。
テーブルの上には、今日も食べてもらえなかった夕食のおかずが、恨めしそうに鎮座している。
――大丈夫、私が明日のお昼に食べればいいんだから。
心の中でそうつぶやいてみたものの、一体何が大丈夫なのだろう。食べ物を粗末にはしないということか。せっかく作った料理を食べてもらえなかった事実は、変わらないのに。
すっかり冷えた皿を取り、冷蔵庫にしまう。だがその瞬間、心の底に溜まっていた不満が、急にこみ上げてきた。
「もう!」
自分でも驚くほど、奈津は荒々しく冷蔵庫を閉めた。
「――何か言いたいことがあるの?」
不意に後ろから声をかけられて、奈津は身をすくめた。恐る恐る振り返ると、これからシャワーを浴びるのだろう、着替えを持った晴臣が、台所の入り口に立っていた。
「別に……」
奈津は引きつった笑みを彼に向けた。
――きっと卑屈な笑い方をしているだろう。我ながら嫌になった。消えてしまい。
晴臣はそんな彼女を鼻で笑うと、バスルームの方角へ消えた。やがてシャワーの水音が聞こえてくると、ようやく奈津の体から強張りが解けた。
肩を落として佇みながら、彼女は自問する。
――晴臣について来て、本当に良かったのかな。
帰りが待ち遠しかったのに、いざ帰って来られると、緊張に支配される。ギクシャクしたやり取りしかできない。
これでも、この部屋に引っ越してきた当初は、うまくやっていたのに。
晴臣は変わってしまった。――いや、私が変えてしまったんだろうか。
――「じゃあ、一緒に暮らさない?」。
唐突に誘われ、戸惑いながらも了承した。そんな風に始まった二人なのに、仲は悪くなかった。晴臣は今とは異なりとても優しかったし、なにより奈津への愛情が、ひとつひとつの態度や仕草に現れていた。それが今彼は、奈津を避けるような行動を取っている。
――どうして、こんな風になっちゃったんだろう。
涙が歪ませた視界から首を振って逃れると、奈津はいそいそと食器棚へ寄った。
――ダメだ、こんな風に悲観的になっちゃ。かえって鬱陶しく思われるだけ。
床にしゃがみ込むと、奈津は一番下の棚へ手を伸ばした。普段は使わないおもてなし用の器の更に奥、そこに小さな紙袋が隠してあった。近所の薬局の名前が印字されたその袋から、一粒薬を出すと、口に含む。丁寧に袋を元の位置に戻してから、シンクに駆け寄り、口の中身を水で飲んだ。そして、深くため息をつく。
――これで大丈夫。
最初は抵抗があったけれど、今ではこれを飲まないと落ち着かない。
そう。迷いがあるうちは、飲み続けなければ。
――晴臣の側にいるために。
薬が喉を通り、胃に届く頃になると、だいぶ気分も落ち着いてきた。
――晴臣ばかり責めてはダメだ。自分だって、やることをやってないんだから。
もうすぐ、もうじき。
奈津は歌うように、自分にそう言い聞かせた。
2.
毎日を夢の中で過ごしているようだ。ふわふわと宙をさまよい、自分が立つべき位置が定まらない。
点けっ放しのテレビでは、観客がゲラゲラ笑っている。だが、奈津には何が楽しいのか、さっぱり分からなかった。置いてけぼりである。
それとも集中して観れば、面白く思えるのだろうか。奈津はテレビに向き直った。
どうせ暇なのだ。大人二人きりの家は、どんなに丁寧に掃除をしても洗濯をしても、朝の十時頃には全て終わってしまう。
「ひどいわ!あたし、あんたのために何でもしたじゃない!」
「俺は頼んでない!お前が勝手にやったんだろ!」
「言ったわね!一生つきまとってやる!ブスは執念深いんだから!」
お笑い芸人の、一応はコントらしいが、内容はかなり辛辣だった。普段からブサイクを売りにしている女芸人の顔は、汗と涙と鼻水にまみれ、ますます迫力を増している。アップで映し出されるそれを、奈津は特に表情もなく眺めた。
女芸人に執拗にツッコミを入れる男は、こちらもコメディアンだったが、誰かに似ている。
――ああ、なんとなく笑い方が、曽根くんみたい。
嫌な男のことを思い出し、ソファの上で、奈津は膝を抱えた。
「やったほうは忘れてるかもしれないけど、やられたほうは忘れない。倍返しだ!
復讐するなら、今でしょ!」
「なんかもうその言い方が、既に今じゃない感じだけどね!ブスは執念深いね!」
「………………」
奈津はテレビを消すと、膝頭に顔をつけて、目を瞑った。
一緒に暮らしてはいるが、黒沢 晴臣と小林 奈津は、夫婦ではない。同棲を始めてからようやく半年を迎えるカップルだ。
しかし――同棲、カップル。その甘やかな単語に、奈津は違和感を覚える。自分たちの生活ぶりや関係に、そぐわないような気がするのだ。
その晴臣は、二時間前に出勤していった。
「じゃあ、行ってくるから」
「うん、行ってらっしゃい。お仕事がんばって」
「――あ、今日も晩御飯いらないから」
晴臣は靴ベラを使いながら、さりげなく言った。彼なりに、昨日の一件を気にしていたのだろうか。
「……うん、分かった」
奈津は微笑んだ。たったこれだけでも、彼の気遣いが嬉しい。
そうして晴臣を見送ってから、家事をし終えて、それでもまだ昼にもならない。
仕事もしないで家にこもっていると、一日を長く感じる。
ふと傍らに置いた携帯に目をやると、メールが届いていた。差出人は、以前勤めていた会社の同僚である琴美で、内容は他愛のない近況報告だった。琴美はおしゃべり好きだから、話したいことそのままをメールに綴ったのだろう。
奈津と琴美は仲が良く、休日も一緒に出掛けたりしたものだ。だが、会社を辞めた今となっては、彼女との付き合いは正直億劫だ。琴美は決して悪い人ではないのだが――。遠く離れたこともあり、これを機会に、少しずつ疎遠にさせて貰うつもりだ。ということで、返信はしないことに決めた。
「さて……」
昼食にするには、まだ早い時間だし……。
奈津は窓際に立ち、外を覗いた。カラリと晴れて、良い天気だ。
少し早いが、買い物に行こうと決めた。家の中にいるよりも、気分が晴れるだろう。
3.
奈津たちが現在居を構えているのは、A県N市の中心部である。晴臣の転勤に奈津がついて来る形で、二人は一緒に暮らし始めた。
二人とも東京生まれで東京育ちだから、思えば遠くに来たものだ。
知り合いもいないし、どこに何があるかも分からず、引っ越してきた当初は戸惑ったが、今はもうだいぶ慣れた。安くて品物が良いスーパーと、時々冷やかしに行けるショッピングモールが見付かれば、暮らしていくのに十分なのだ。
「まだちょっと暑いな……」
季節は秋である。
この土地に暮らしてから、春が過ぎ、そして夏を経験した。N市の夏は聞きしに勝る猛暑で、土地が違うとこんなにも変わるのかと、ひどく驚かされた。
あまりの暑さに身も心も疲れ果てた季節も変わりゆき、ようやく外へ出るのが苦ではなくなってきた。それでも日差しは、まだ強い。奈津は喉の乾きを覚えた。
そういえば、朝から何も飲んでいない。休憩しようと、奈津は近くの公園に立ち寄った。
自動販売機からよく冷えたお茶を買い、ベンチに腰掛けると、その目の前を、よちよちと危なっかしい足取りの、だが元気のいい少年たちが走り抜けていった。追いかけっこでもしているのだろうか、幼い歓声を張り上げながらじゃれあい、とても楽しそうだ。少し離れた場所では、母親と思しき女性たちが、談笑していた。
平和で暖かい風景に、心が安らぐ。
うーんと手足を伸ばしているところで、名前を呼ばれた。
つづく