プロローグ
この物語はすべてフィクションであり、いかなる現実の人物、事件、団体、製品等への類似は完全に偶然であり一切関係ありません。
「The Only Easy Day Was Yesterday(楽できたのは昨日まで)」
―――アメリカ海軍特殊戦コマンドNavy SEALsのモットー
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朝起きる直前の半分寝ているよう、な起きているようなともつかない微睡みが二階堂優香は大好きだった。特に薄いカーテン越しに差し込んだ朝日が顔に掛かって、うっすらと認識できる視界が温かい朱に染まる様ないい天気の日など、そのまま布団の一部になってしまいたいと思う位だ。だがそうも言っていられない。彼女は高校二年生、勉学や恋愛などで人生の内最も忙しいのではないと思える、所謂青春真っ盛りの乙女なのだ。枕元でアラームの電子音が鳴り響き、優香の至福のときはまたしばしお預けとなった。布団に入ったまま充電器につながれたスマートフォンのアラームを切ると、勢いを付けてベッドから飛び起きた。
「んー、今日もいい天気!」
背伸びをして、当日の天候に評価を下す。なんともどこかで見たような寝起きの風景である。優香は枕元に置いてあった黒いセルフレームの眼鏡を鼻に乗せると、いそいそと朝の身支度を始めた。
「おかーさん、おはよー」
階下のダイニングで朝食を摂っている母親に声を掛けて、自分も食卓に就いた。今日のメニューは昨夜の余りの筑前煮を中心とした和朝食だ。早速湯気を上げる大根の味噌汁を一口啜って、白米を口に放り込む。
「おお、おいしい!おかーさん、これ新米?」
「そうよ、お米屋さんで今年のが入ったっていうから買った来たのよ」
優香は米にはうるさいのだ。特にやや固めに炊きあげた甘みのある新米が好みのタイプだとか。母親と米の銘柄と炊き方の相性という女子高生にあるまじき話題で会話を交わしながら、素早く朝食を平らげた。
「じゃあ行ってくるね」
「帰りにコーヒー豆買ってきてくれる?いつものやつね」
「はいはーい」
少しばかり朝食に時間を割きすぎて時間があまりない。優香は生返事で学生鞄を引っ掴むと家を出た。
住宅街の中にあるかなり急勾配な坂を下らないと、優香の通う学校へは辿り着けない。急いでる時に慌てて走るとすぐに転倒してしまう。だが、今日はそこまでは急いでない。同じく通学途中の小学生達を横目に、早足だが焦らずに坂を下る。中学生の姿は無いが、それはこの辺りの中学が優香の家を挟んで反対方向にあるからだ。住宅街を抜けて車の往来のある通りに出たところで、背後から声を掛けられた。
「ユウカー、おっはよー」
「あ、おはよー」
振り返ると優香と同じ年頃の長身痩躯の少女がポニーテールを揺らせながら駆け寄ってくるところだった。
「ねーねー、塩山さんの新刊買った?」
「まだ買ってないなぁ。ハルナは買ったの?」
「もちろん、いよいよアクティウムの海戦だよー」
二人の間で共和制ローマをテーマにしたライトノベルの話に花が咲く。優香の友人の春菜は所謂オタクと言うやつで、ライトノベルや漫画が趣味だ。読書好きな優香は彼女から勧められて件の本を読んでみたのだが、現代風にアレンジされたキャラクターとは裏腹にしっかりとした時代考証や骨太なストーリーを気に入ったのだった。
そんな風に最近の新刊や映画の話をしている内に、いつの間にか学校に着いていた。都立新町高等学校。優香の住む23区内の比較的端っこのベッドタウンにある公立高校だ。全校生徒700人弱、学力は中の上、特筆するようなスポーツはなし。この平々凡々な高校に優香は通っていた。得意科目は現国、古典、世界史等で数学や科学は苦手でもないがあまり得意でもない。運動となると完全に苦手で、部活はもちろん帰宅部。代わりに図書委員として図書室に入り浸っている。優香達は校門を潜ると、校庭の端を横切って校舎の中ほどに位置する昇降口に向かった。朝練を終えた運動部員達が学校指定ジャージで校庭から戻ってくる。どこにでもある一般的な朝の高校の風景だ。今日もまた一日が始まる。
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「えーと、B-14、B-14っと・・・・・・」
いつも通り授業を終えた放課後、優香は図書室で返却された本の整理をしていた。大分日の短い季節になってきたので、西側の窓から差す日はもう紅い。インターネットや携帯でほとんどの調べ事が済んでしまう今日び、やはりわざわざ図書室に来るような学生は少ない。ましてや貸し出しは日に10冊も無い程度だ。お陰で図書委員の仕事も暇なものだった。優香自身も電子書籍やネット検索は利用するが、やはり本は紙で読みたいタイプの人間だ。だからこうして図書室で本に囲まれているのは楽しい。ページをめくるという行為そのものがストーリーを進める様で、優香にはとてもわくわくして感じられたのだ。
「二階堂さん、それ終わったら帰っていいよ」
「はーい」
正面の机でカードを整理していた委員長からお許しが出たので、早めに帰らせてもらうことにする。今日の帰りは少し寄り道するつもりだった。
「じゃあ、お先失礼しまーす」
「ういうーい」
優香は委員長がカードの束から顔を上げずにした返事を背中に、図書室を後にした。
学校の裏門を出ると、丁度学校に隣接する大きな中央図書館の裏手の小道に出る。小学生の頃はよくここに寄って帰ったものだった。用水路沿いの小道を辿って朝通った表の通りに出る。普段なら途中で左に折れて住宅街に入るのだが、今日の優香は直進した。そのまま道なりに歩いて行くと大きな商店街がある。私鉄の地下鉄駅を中心に広がるこの商店街に用があったのだ。
「この辺も結構変わったなぁ」
夕方の商店街を歩きながら優香は独りごちた。優香が小さな頃はチェーン店など珍しく殆どが個人経営の商店だったのだが、今では多くの有名チェーン店が軒を連ねる。それでも逞しく生き残っている商店も残ってはいるのだが、幾つもの店が閉店したのも確かだった。特に優香にとって残念だったのが、行きつけの書店が閉店してしまったことだ。子供の頃よく母に連れられて訪れたその書店は、小説を中心に非常に充実した品ぞろえを誇っていた。優香が本好きになった要因の一つでもあり、よく入り浸っていたせいで店主とも馴染みだった。小学生の頃5時間も立ち読みして、親に電話が行った事もあった位だ。しかしいつ頃か大手書店チェーンが駅前に出店して、暫く後にその書店は店をたたんでしまった。
牛丼屋、ドーナツショップ、ATMコーナー・・・、都内ならどこにでもある画一化された大手チェーンに挟まれて、古びた小さな洋食屋がある。優香はその隣のレンタルビデオ店を併設した件の書店に入った。お目当ては朝の通学中に春菜と話題にしていたライトノベル。それから何か映画のDVDも借りようと思っていた。ついでに文庫本のコーナーに一瞥を投げるものの、特に興味を引く本は無い。殆どが映像化された有名小説や、自己啓発本が平積みにされているだけだった。
(あ、新しいの出てる!でも新作じゃなぁ・・・)
映画コーナーでは優香の贔屓にしているイギリス人の監督と役者のコンビが作った新作のブラックコメディが出ていたが、いかんせん新作なので高校生の財布には優しくない値段設定で諦めた。しかたがないので目的の本を見つけてレジで会計を済ませると、そそくさと書店から退散することにした。
ここから見ると、優香の家は商店街の通りを挟んで反対側にある。大きなT字路に掛かる横断歩道を渡って、神社に差し掛かかった辺りでふと何か忘れている事に気がついた。
「あ、いけない!コーヒー忘れてた!」
そう思いだした優香は慌てて元来た道を商店街の方へ戻り始めた。もうそろそろ日が暮れそうな時間帯なので、今の商店街は夕飯の支度前の買い出しに来た主婦層で溢れかえってる。それを避けるために優香は裏道を通って近道することにした。
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商店街を挟んだこちら側の裏道は元々あった古い住宅街で、人が住んでるのか分からない様な寂れた長屋やバブル崩壊で建設途中のまま放置された工事現場などが目立つ。賑わう商店街や小奇麗な宅地の目立つ反対側と比べると、少し異様な雰囲気がする。
「たしか、ロイヤルブレンドの11番だっけ、挽き方・・・」
足早にコーヒーショップを目指しながら母親に頼まれたコーヒーの銘柄を思い出して確認していると、突然大きな物音がした。
「え、何?!」
驚いた優香は音の発生源であろう放置された工事現場の一つのタープを捲って中を覗いた。すると10歳前後だろうか幼い少女が音の原因だと思われる崩れた鉄骨資材の下敷きになって、足を挟まれていた。
「うわ!だ、大丈夫?!」
「来ちゃダメっ!」
助けようと優香が声を掛けたら、驚くほど強い語気で答えられた。
「そんな事言ったって・・・・・・」
いくらなんでも目の前で動けない女の子を放置しておく訳にも行かずに、優香は鉄骨の一つに手を掛けた。
「来ちゃダメだって、お姉ちゃん!逃げて、早く!」そういって少女は優香を突き飛ばした。
「まったく、なんなのよ!」
これには流石の優香もムッと来て言い返した。だが、少女が返答する前に優香が異変に気がついた。背後からハァハァという息遣いに混じって、唸り声が聞こえた。それも人間のものではない。振り返った優香は目を疑った。
犬だ。真っ黒い犬がいた。いや、それだけならそこまで驚かなかっただろう。だがその犬は優香の胸程もの高さがあり、真っ赤な目を輝かせていたのだ。
「ちょ、ちょっと、なによあれは?!」
その黒犬は牙を剥き出しにし、涎をボタボタと地面に垂らしながら二人に迫ってきた。
(どうしよう、今逃げたらこの子が・・・・・・)
一瞬判断に迷ったが、優香は鉄骨に手を掛けた。腰を落として、思いっきり膝に力を入れる。
「お姉ちゃん、早く逃げて!」
「そういう・・・・・・わけにも・・・行かないのよ!!」
一歩一歩、黒犬が近づいてくる。獣の臭いと熱気が強まって、優香の本能が闘争・逃走反応を示す。渾身の力を込めて鉄骨を引っ張ったその時、僅かに隙間ができた。
「今よ、逃げて!」
少女は頷くと挟まっていた足を手で引っ張り出し、なんとか工事現場の隅まで後ずさった。
「よかった・・・・・・」
安堵の息を漏らしたその時、優香はむき出しの土の地面に叩きつけられた。黒犬が優香に飛びかかって押し倒したのだ。次の瞬間、黒犬は優香の喉笛に食らいついた。肉が裂ける音がして、優香の気管や血管が引き千切られた。露出した気管がヒューヒューと最後の息を鳴らし、動脈から溢れでた血液がゴボゴボと気泡を上げながら優香の肺を満たしていく。
(ああ、私死ぬんだな・・・)
優香は段々と虚ろになっていく視界に、自分の相手を終えた黒犬が次の標的として少女に迫ってゆく光景を見た。骨折り損のくたびれ儲けね、と最後まで思い終える暇も無く優香の意識は掻き消えた。
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ところが次の瞬間、優香は目を覚ました。いや、覚ましたのかどうかは実のところよく分からなかった。ひたすらに真っ暗で、いくら目を凝らしても何も見えない。でも、意識を持って考えることはできた。
(これが死後の世界、ってものなのかな?三途の川はどこかなー、っと)
死んでしまったというのに、意外と動じない優香であった。
―――おい、娘―――
「え?」
どこからとも無く、低い男の声が反響するように聞こえて来た。
―――娘よ、お前だ―――
「わ、私?」
―――そう、お前だ―――
「な、何?ていうか誰?」
―――まだ、生きていたいか?―――
「え、えー、そりゃあまあ・・・・・・・・・」
―――生きてゆく為戦う『覚悟』はあるか?―――
「戦いー?うーん・・・・・・いやどうかなぁ・・・・・・」
―――・・・・・・兎に角、死にたくはないのだろう?―――
「そういうことになります」
―――ならば、我と契約するのだ―――
そう声が告げると、目の前に書類の束とボールペンが現れた。それと同時に、優香は自分の体を感じることができるようになった。目をやると、はっきりと肉体が見える。しかし書類と体以外にはやはり何も見えない。
「なんだろう、これ・・・・・・」
その書類を手に取ってみた。コピー紙にプリンターで印字したらしく、数十ページにも渡って英語が書かれているが、難しくて優香には良くわからない。最後のページには署名線が引かれていた。
―――娘よ、そこに己が名を書くのだ―――
「は、はぁ」
優香は取り敢えず言われた通りペンを取り、署名欄に『二階堂 優香』と自分の名前を記した。
―――それから、各ページの最後に己の頭文字を記すのだ―――
「分かりました」
―――それが終わったら身分証明書を見せるのだ―――
「学生証でいいですか?」
―――住所は書いてあるか?―――
「手書きですけど、書いてあります」
―――印字でなければならぬ―――
「ええー・・・じゃあ保険証は?」
―――なら構わぬ。両方見せるのだ―――
「じゃあ、どうぞ」
制服のブレザーに入っていた財布から保険証と学生証を差し出してみると、フッと宙に消えた。
なんだかTS○T○Y○の登録みたいね、と思いながら待っていると程なく保険証と学生証が現れ声も戻ってきた。
―――確認した。ニカイドウ・ユウカ、契約成立だ―――
「え、あ、どうも」
―――では向こうで会おう、娘よ―――
声がそう告げると、優香の視界は再び真っ暗になって意識も途切れた。
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「ブハッ!」
優香は勢い良く息を吹き返した。どうやら、本当に生き返ったらしい。しかも、今まさに例の黒犬が恐怖のあまり気絶してしまったらしい少女に襲いかかろうとしている所だ。
「娘よ、聞こえるか?」
先ほどと同じ低い声が頭に響く。だが、今はさっきと違って直接話しかけられているようにクリアに聞こえる。
「は、はい!」
「娘よ、お主はあの魔獣を倒さねばならぬ。その手にある物を使うのだ」
手にある物・・・・・・?と見下ろすと、いつの間にやら折りたたみスコップを握っていた。
(これを使うって・・・・・・)
一体スコップでどうしろというのかと考えたが、以前読んだ話を思い出した。第一次世界大戦では塹壕で咄嗟の遭遇戦になることが度々有り、そこではスコップの重さと鋭さ、リーチを併せ持ったその形状が猛威を振るったらしい。そういえば『西部戦線異状なし』でも使っていた気がする。
「ええい、ままよ!」
優香は意を決して大きく踏み込んだ。上段にスコップを振りかぶって、黒犬の脳天に向かって後ろから振り下ろした。
ガン!と鈍い音がしてスコップから優香の手に衝撃が伝わった。
(やった?!)
だが、その一撃は黒犬の動きを一瞬止めたに過ぎなかった。黒犬はゆっくりと振り返ると、優香を再び標的として認識したのか体の向きをこちらに変えた。
「ダメだぁ!」
「娘よ・・・・・・そうではない。それを掲げてこう叫ぶのだ。マジカル・タクティカル・キットアップ!」
「え、なんですかそれは?」
いきなり何を言い出すんだコイツは、という声色で優香が問い詰めた。
「いいからそう唱えるのだ、時間がない」
「は、はぁ」
もう黒犬がすぐ近くまで迫っている。一日に二度も死ぬなどさすがにゴメンなので、優香は声に従ってみる事にした。
優香はスコップを高々と頭上に掲げ、声の限り叫んだ。
「えーい、もう知ったことか!マジカル・タクティカル・キットアップ!!」
すると、折りたたまれていたスコップの頭部分がひとりでに展開した。
『Request Approved. Weapons Free』
スコップから英語のアナウンスが流れると、付け根から光の奔流が螺旋状に優香の体に降り注いであっという間に何も見えなくなった。
「な、何よこれー?!」
光が晴れて視界が戻ると、優香は仰天した。今まで来ていた制服のブレザーはどこへやら、パフスリーブやら胸元のリボンやらひらひらスカートのやたらキュートな服装になっていたのだ。所謂「魔法少女」と言われる週末の朝に番組表の右端の方のTV局で放送されるアニメに出てくる様なコスチュームだ。ただし何故か色は良く軍服で見る様なくすんだ緑色、オリーブドラブという奴である。
「それがお主の戦闘服だ」
確かに声が言うとおり、どうやらこれは戦闘服の様なものらしい。可愛らしいデザインとは裏腹に、生地はゴワゴワして硬そうだし各所にポケットやポーチが付いている。腰にも無骨で大きなベルトが巻かれており、足元も編み上げたブーツだ。
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余りの奇想天外な展開に優香が混乱していると、すっかり存在を失念しかけていた黒犬が飛びかかってきた。やられる―――そう思った瞬間、優香は喉を両手で庇って横に飛び出した。黒犬は間一髪優香を外してその後ろの仮設トイレに突っ込んだ。
「ど、どうすればいいの?!」
辛くも本日二度目の昇天を回避した優香が声に問いかけた。
「奴を仕留めるには武器が必要だ。今お主が持っている武器は拳銃だけだ」
「ああ、拳銃・・・・・・ってけんじゅうぅ?!」
「腰のホルスターに入っている、抜いてみろ」
確かに太いベルトに釣られる形で大きな革製のホルスターが腰に付いていた。フラップ状の蓋を開けて、優香は中の拳銃を抜いた。
「意外に重いのね・・・」
優香の右手に金属の冷たさと重さが感じられた。
「よし、では拳銃の上の部分を手前に引くのだ、娘よ」
「ここを、こう?」
遊底の滑り止め担っている部分を持って手前に引くと、独特な金属の作動音をさせて初弾が薬室に装填された。
「これでいいの?」
「それでよい。これでその拳銃は撃てるようになった。後は魔獣に向かって引鉄を引くのだ」
そうこうしている内に、黒犬が仮設トイレの残骸から這い出てきた。
「ちょ、ちょっと待ってよー!」
優香の情けない陳情も虚しく、黒犬は身を屈めて跳躍の体勢を取った。咄嗟に優香は右手の拳銃を突き出した。それと同時に黒犬が咆哮して跳びかかる。恐怖の余り優香は目を固く閉じて拳銃の引鉄を引いた。
ドンドンドンドンドンドンドンカチッ。7発の銃声が響いて、弾切れを示す乾いた金属音が続く。優香は再び死を覚悟して待った。だが、今度は肉が剥ぎ取られる感覚も肺が自らの血で満たされて溺れる感覚も無かった。恐る恐る目を開くと、そこにはあの黒犬の地獄の底ような目は無かった。
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「やったようだな、娘よ」
後ろから声がして優香は振り返った。
「きゃぁぁぁぁ!!」
すぐそばに黒犬がいてこちらを見ていたのだ。優香はパニックになって弾の切れた拳銃の引鉄を黒犬に向かって引き続けながら後ずさった。
「待つのだ、娘よ。我は敵では―――痛っ!」
優香が最後の抵抗に投げつけた拳銃が黒犬の鼻先にクリーンヒットした。
「あ、あれ・・・・・・?」
確かにその黒犬は襲ってくる素振りを見せない。それどころか前足で鼻を抱えてくんくんと情けない声を出している。よくよく見ればさっきより縮んでいる気もする。そしてその声は先程から頭の中に語りかけてきたそれだった。
「もしかして?」
「何をするのだ、娘よ。痛いではないか。犬の鼻というのは人間の向う脛よりも痛いのだぞ」
「ス、スミマセン」
とりあえず謝っておく優香。
「まぁ確かになんの警告もしなかった我も悪いが・・・。兎に角敵を倒したようだな、よくやったぞ」
会話の糸口がつかめたようなので、優香は疑問をぶつけて見ることにした。
「あのー、聞きたいことは沢山あるんですけど、まずあなた誰ですか?ていうか犬なんですか?」
「これは失敬、すっかり自己紹介を忘れていた」
そう言うとその犬は立ち上がって所謂「おすわり」の体勢に直った。確かに良く見ると先ほどの犬より一回りほど小さいし、牙を剥いているわけでもない。が、それでもかなり巨大な真っ黒な犬であることには変わりなく、眼もやはり赤い光を放っているせいで相当に威圧的な見かけをしている。
「我が名はジャック。ランカシャーが黒妖犬の第八代目である」
「黒妖犬・・・、ってあれですか?バスカヴィル家の犬とかに出てくる?」
「よく知っておるな。アレはデヴォンの黒妖犬の家だが同じようなものだ」
黒妖犬、別名ブラックドッグあるいはヘルハウンドとも呼ばれるこの妖精は、主にブリテン島とその周辺で死の先触れとして忌み嫌われている。この犬を見た人間に死をもたらすとも、地獄の使者であるとも言われている。また、古来より魔女ともしばしば関連付けられて考えられている。地方ごとに様々なバリエーションのある伝説であるが、一貫して死を司る赤い目の黒い犬という点は変わらない。
「はぁ、どうもありがとうございます。・・・・・・ところで、さっき私死にませんでした?」
「うむ、如何にもその通り」
自分の生死を尋ねるというのもまず普通の生活をしている限り一生無いだろうが、それに「ハイ、死んでます」と答えられるのはますます無いだろう。
「・・・・・・取り敢えず最初から何があったか説明してもらえませんか?」
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「・・・・・・つまり、さっきの犬も黒妖犬で魔法の国からこちらに来てしまって、それで死んだ私は魔法の国と契約を結ぶことで生き返らせてもらった代わりに魔法少女になった、という事ですか?」
「大雑把に言えばそういう事になる」
「それでもって、ジャックさんは魔法の国と私を取り次ぐ仲介役という事なんですね」
頭が痛い。まるでどこかのニチアサアニメとか大きなお友達が好きそうな漫画の設定だ。
「じゃあ、私はこの先どうなるんです?」
「一応契約を結んだとはいえ現在は仮の状況だ。後々本格的に契約を結んでもらうことになる。それまでは基本的に自由だが、一応我が同行するということになる」
「いや、それだめですよ。街の中でジャックさん歩いてたら大パニックですよ」
外れとはいえ一応23区内のこの近所でこんな犬がうろついていたら良くて保健所、ヘタすれば警察沙汰だろう。だが、ジャックは心配ないと胸を張って答えた。
「我は魔力を持った人間以外から不可視になることができる。その点は問題ない」
「へー、そうなんですか」
「それに我は精霊なので食事や睡眠も必要ない。基本的に我の事は気にかけなくて構わんぞ」
意外と普段の生活には問題無さそうなので優香は安心した。
「それはいいんですけど、そろそろこの変身解除できません?」
誰かに見られる可能性は低いとはいえ、いい加減こんな格好でいるのも恥ずかしいので何とかしたいものだ。
「そうだ、解除の仕方を教えていなかったな。解除するには首から下げたドッグタグを引っ張って取ればいい」
「ほうほう」
言われた通りに首から下げている金属の板二枚がボールチェーンでつながれたペンダント状の認識票を引っ張ってみた。すると今度は全身から光が奔り出して頭上に集まり始めた。直ぐに変身した時と同じように周りが見えなくなったと思いきや、元通り制服姿で立っていた。
「おおー、戻った・・・・・・」
「また変身する時はこのマジカルEツールを使うがいい。邪魔なので普段は我が預かっておこう」
そう言ってジャックは先程の折りたたみスコップを咥えてみせた。
「そうですか、ありがとうございます」
「あ、そうだ!あの女の子は?!」
そもそも助けに入った少女の事をすっかり忘れていた。
「少女なら無事だ。少し気を失ったようだが外傷はない。しばらくすれば意識も戻るだろう」
「そっかぁ、なら良かった・・・・・・」
「今日はもう疲れただろう、早く帰るといい」
どうやらこの黒妖犬、見かけや口調によらず気を遣うタイプらしい。
「じゃあ、帰りましょうか」
いろいろ納得の行かないことや疑問は沢山あるが、今は疲れているし脳がパンク状態だ。今日はジャックの言うとおり一旦帰って休むことにした。
こうして、二階堂優香の魔法少女としての生活が始まった。その先に待ち受けるのは硝煙と鋼鉄の日々だが、今の彼女には知る由もなかった。
連載開始です。
今回は抑えめというかほぼ皆無ですが、次回からディープなミリタリーネタやタクティカルトークが満載される予定です。
感想、指摘、提案等歓迎。
なにかあればぜひメッセージをお送り下さい。