表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

暁の空

 慶長13年、駿府城


 駿府に移り住み、将軍の座を息子である秀忠に譲ってからも、徳川家康は自らが起こした江戸幕府体制を盤石のものとするべく、大御所として今なお政治の中心に座っている。息子に託した家臣とは別に、自分の家臣を抱えながら政治に、軍事に、謀に、未だ邁進する家康であったが、その日はことのほか上機嫌であった。

 政務に追われる毎日の中で、この日は家康がことのほか楽しみにしていたある人物との面会があり、家臣も戸惑いを覚えるほど、朝から家康の顔には笑みが浮かぶほどに、機嫌がいいのだ。面会の時間が訪れ、家康は広間にはいって上座に座った。家臣たちも、下座に列席し、家康の客人を迎える準備を整える。やがて、広間に案内されて一人の老人が通されてきた。

 老人は法衣を来た僧であった。着物からもかなり位の高い高僧だと言う事がわかる。広間に通され、家康の正面に座った老僧は、畳の上で深々と頭を下げ、家臣によって名を家康に告げられる。

「こちらにおられまするが、南光坊天海様ににございます」

 自らの名を紹介された天海を頭を上げる。その時、家康と目が合い、何とも言えぬ不思議な表情を一瞬浮かべたが、それは家康以外、誰の間にも入らなかったであろう。いや、目にした所で、その意味を理解する者はいまい。

 天海の顔を見た家康は、にやりと口元を緩ませ、いつになく上機嫌な口調で喋り出す。

「天海殿、よく参られた。そなたからの書状、しかと目を通し、わしも思わず感服した。出来る事なら、もう数年早く会いたかったものじゃ。いやいや、よく参られた」

 余りに上機嫌で饒舌な家康の口調に、家臣たちは思わず目をみはる思いだった。普段の家康は、聞く耳は持っているが、あまり口数が多い方とは言えず、喋るよりは聞く、聞いたうえでようやく重い口を開く性質だからだ。天海の様に高名な人物と面会した時であっても、初対面であれば最初は押し黙り、相手の人と練り、話し方や癖を観察し、どのような人物かを推し量ってようやく口を開くのが常であった。それ故に、出会う人々が本心を読む事ができず、家康自身も明かさない性格をして「タヌキ親父」と言われる所以である。

 そのように、相手に自分の手の打ちや本心を簡単には出さない家康が、今日会ったばかりの展開に、こうまで親しげに話しかけることは、家臣にとっては驚くべきことであり、摩訶不思議と言っていい事であった。そして、天海もまた、時の事実上の最高権力者である、大御所の家康に全く臆する事も、へりくだる事もなく、見る人が見れば少々無礼に見える程、くだけた様子の口調で話している。

「いえいえ、こちらから、大御所様にお目通り願いたいとお頼みしたのです。願いを叶えていただきありがとうございます。ですが、大御所様、顔色はよろしい様ですが、少々肥えておられますな」

「そうかの。鷹狩りなどをして体を動かしてはおるのだが、やはり腹が出ているのはわかるか。家臣どもは、そういう事は言ってくれぬ」

「太り過ぎはよくありませぬ。それと、薬にも凝っておられるようですが、程々に。漢方は奥が深い故、薬の調合だけでは、生兵法になりかねませぬ」

「いやいや、これは恐れ入った」

 家康は、近年になって肥え出した腹を叩きながら、実に愉快だと言わんばかりに、口を開けて笑っている。普段であれば、余りにも自家製の薬に拘る家康に意思が意見を述べようとすると、烈火のごとく怒る家康が、僧である天海に戒めらると、こうも簡単に自分の行為の非を認めてしまう事に、家臣は目を丸くし、ざわざわと騒ぎ立てる程、驚愕している。それほど、彼らの目の前で起こっている事が、信じ難いものである事が、その反応でわかるというものだ。だが、家康は、その驚きにさらに拍車をかける様な事を口にした。

「お主達、ちと席を外せ。天海殿と二人きりで話がしたい」

 家臣たちは、もうざわつくどころではなく、うろたえてしまった。大御所と言う天下の最高権力者を、いましがた会ったばかりの人間と二人きりにするなどあり得ない事であった。いくら老体の高僧とは言え、前例のない家康の要求に、誰一人としてすぐに同意の返事を返す事が出来ずにいる。しかし、誰かが意見を言わねばならず、家康の懐刀と言える存在の本多正純が、波風立たぬように家康に伺いを立てる。

「大御所様。席を外せと言われまするは、この場にいる皆でございますか」

「そうじゃ。だから、お主達と言ったのじゃ。わしの命に不服か」

「いえ、そうではござりませぬが、客人とお二人きりと言うのはいささか……」

「茶の湯の席でも、二人きりにもなる。安心せい、互いに爺だ。何かあってもたかが知れている。何かあれば、わしが喚く。その時は、若いお主たちがここになだれ込めば良いだけの事。さあ、さっさと席を外せ。それとも、わしの命に従えぬか」

「いえ、そのようなことは……。では、我らは廊下に控えておりまする故……」

「くれぐれも言うが、盗み聞きは相ならん。わしに隠し事が通用するなどと思わぬ事じゃ。わしはタヌキじゃからな。人を化かすことはあっても騙されはせぬから、よく覚えておけ」

「ははっ」

 正純以下の家来たちは、一度決まった以上、反論はできないため、もの言わずに退室し、静かに広間の障子が閉められた。そして、人の気配が完全に消えるまで押し黙っていた二人だが、完全に人の気配が消えると、家康は満面の笑みを浮かべながら立ち上がり、自らしも座に降りて天海の隣にあぐらをかいて、どっかと座りこみ、ニヤニヤした口調で天海に話しかけた。先程までの敬意を持った節度ある姿勢とは、全く違う態度だ。

「いやはや、久しぶりでございます。しかし、書状を見た時は、さすがに肝を冷やしました」

 そう言った瞬間、家康の目が銀色の輝きを帯びた。その目の輝きを逃さず、じっと見据えていた天海もまた、くだけた口調で家康に話しかける。これもまた、時の最高権力者に話しかける様な態度ではない。

「わしとて、お主が大御所様と一緒にいると知った時は、歳ゆえに小便を漏らしそうになったわ、銀閣よ」

 天海は、げらげらと笑いながら、その名を口にした。そう、かつて明智光秀と共に本能寺の変を起こし、直接織田信長を討ちとったこの世の者にあらざる者、銀閣の名を。何と、銀閣は今、徳川家康と言う天下人の中に住み着いているのだった。大胆かつ、驚くべき事実でありながら、銀閣もまた笑いながら話を続け、さらに呆れるほど驚きの事実を口にする。

「書状の中にに、銀閣の文字を見つけた時は、驚きと共に嬉しさがありましたぞ、明智殿」

「ああ、その名はもう捨てた。いや、死んだのだ。ここにいるのは天海と言う、一人の坊主じゃ」

「私も、明智、いや天海殿は山崎の合戦で死んだものと疑いもしませんでした」

 銀閣は何と、天海に向かって「明智殿」と口にし、天海もそれを否定せず、談笑をしている。人払いをしたうえでなければ、このような会話など誰も信じないばかりか、老人が二人、気が触れたと受け取られかねない。銀閣が人払いをしたのはもっともなことでもあるし、かつて光秀が二人で話し合う際に見せた気配りである。今は立場を変えて、そして姿も名前を変えて逆の立場になった二人ではあるが、友としての関係は、全く変わっていない。

「お主が死んだと思うても無理はない、わしも逃走している時は、もはやこれまで。どこで腹を切るか、そればかり考えておった」

「確か、竹やぶで落ち武者狩りにあったとか……」

「うむ。半分当たっている。もう半分は嘘じゃ」

「詳しく教えて下さりませ。でないと、幽霊と話しているような気分でございます」

「お主に幽霊などと言われとうはないわ。坊主の幽霊など、始末が悪い。山崎の合戦で敗北が決し、数人の家臣と共にわしは逃げのびた。とは言っても、あてはあるわけではない。どこでどのように死ぬか、それが問題じゃった。夜の闇にまぎれて竹やぶの中を進んでいる時だ。茂みから音がし、すぐにわしは落ち武者狩りと気がついた。敗走する大将、それも織田信長を討った明智光秀と言うのは向こうも知っているのは明白だ。ああ、これまでかと覚悟したのだが、天はわしを生かしたのだ。彼らは落ち武者狩りではなかった。普通の百姓だった」

「どういう事でございますか」

「お主の仇である金閣が織田信長の名を騙り、牙をむき出したのがあの比叡山の焼き打ちの時じゃったな。あの頃のわしは、お主や金閣のような者がいるなど知る由もなかった。信長公の命だと信じて疑わなかったから、肝を冷やしたものだ。あの時、あの場で命令を受けた者全員が同じ気持ちだったろうが、理屈で論破せぬ限り、あの方は聞く耳を持たぬ。ましてや、あの時すでに金閣に入れ替わっておる。観念して、皆焼き打ちに参加した。地獄行きを覚悟したわ。だが、わしらはそうでも、家臣の中には信長公の恐ろしさを知らぬ大胆な者がいてな。堕落し武装した僧兵を討つのはかろうじて理解しても、関わりのない百姓や女子供を殺すなど道理に合わぬ事は出来ぬと、目を盗んでは僧兵以外は逃がしていたらしいのだ。わしの家臣だけではない。織田家の家臣の部下にはそのような者がかなりいたらしいのだ。まあ、それでもごく一部の者しか救えなんだ。だがな、その事を一生の恩と思い、いつの日にか恩返しをしようと考える律儀な者がいたのだよ」

「つまり、こういう事ですか。天海殿の家臣がこの時とばかりに京に潜んでいたその者達に声をかけ、落ち武者狩りを装い、天海殿を救い出し、死んだと噂を流して世間をあざまういたと言う事ですな。確かあの時の首実験もろくなものではなかったはず」

 銀閣の言う通り、後日、光秀の首として秀吉の本陣に数個の首が運び込まれたのだが、折からの暑さで腐敗著しく、皮まで剥がされ、判別できない状況だったと言う。他にも首の行方には色々な噂が飛び交っていたが、不思議と秀吉はその後を追わずにうやむやになっていたのを銀閣は思い出した。もしかしたら、光秀が生きている事が公になれば、それを追う事より、仕留め損なった事をその時に明らかにするのは得策ではないというださんがあったのかもしれない。

「あの時も、首実験にしろ、首の行方に色々な噂が飛び交いましたが、どれが本当やら、さっぱりわかりませんでした」

「わしもあの時のことはよく思いだしとうはない。わしの身代わりになった者、振り回された家族。自分の一存で起こした事ながら、わし一人が生き残り、皆死んでしまった。やはり、腹を切ろうかとも思ったが、命懸けでわしを救ってくれた者の事を考えると、それも身勝手。それならば、頭を丸めて己のために死んだ者の冥福を祈るほかあるまい……。して、お主はわしと別れ、器となった男を無事に里へ返した後、どうしたのじゃ」

「はあ。男を里に送り届けたのはいいものの、行くあてもありませんでしたので、色々な人の体を飛び回っておりました。ですが、やはり人と言うものを深く学びたいと思いが強くなり、まずは、信長公も、あの金閣も心酔した茶の湯と言うものを学びたいと思いまして、一人、目星をつけました」

「お主、まさか……」

「はあ、千利休殿に」

「大胆な奴じゃ」

 信長が心という不確かなものに興味を寄せ、金閣を溺れさせた茶の湯の魅力を知りたいと、銀閣が願うのはある意味自然と言える。そして、信長が茶の湯の道で唯一心酔したのが千利休ではあるが、だからと言って、そのためにその道の大家、いや、茶の湯そのものと言っていい千利休に取りつくなど、天海の言う通り、あまりに大胆な発想と行為であり、物を知らぬ銀閣だからこその行動なのだろうが、不思議とそれは筋が通った判断でもあった。天海も、そこは認めざるを得ない。

「して、利休殿と目や口を共にして、何がわかったのだ」

「不思議でございました。茶の湯とは、茶を呑むためだけに、なぜあのような仰々しい真似をするのかと理解できませんでしたが、そのような単純な世界ではありませんでした。茶室と言う、表の世界から一切が切り離された空間に身を置き、己自身を無に近づける。その過程で己自身と向き合い、茶を呑むことですべての煩悩を腹の中に流し込み、真の己を見つめる。そのように解釈したしました」

「……、まあ、それがお主の答えなら、それでよかろう。他には、何を経験したのじゃ」

「人と言うものはわかり安く、複雑怪奇。そうとしか言えませぬ。あの武人の誉れ高い、福島正則殿が利休殿の茶室に現われた時、最初は威勢のよかったあの方が次第に小さくなり、気押されていくのを見て、人と言うものは見た目とは違う一面を持っているものだと、ようやく実感しました。これは、威張っている人間は、己の弱さを隠さんがために周りを威嚇する、わかりやすい物です。ですが、太閤殿下は恐ろしいお方でした。まるで、金閣が化けて出てきたのかと思うほど、よく似ていた」

「なるほど、殿下が金閣に似ている。面白い事を言うのう」

 天海は自然と笑みがこぼれてしまう。秀吉のと付き合いもそれなりにあり、最も注目していた織田家家臣であっただけに、銀閣が己の宿敵である金閣に似ていると言った事に、なるほどど思わずにはいられないからだ。両者とも野心が強く、強欲と言える性格が共通している。さらに、その強い欲望を内に秘める事も実現のために押し出す事の両方ができる。そして、いざ行動すれば、神がかりとも魔物とも言えない思考と行動を見せるなど、言われてみれば本当によくに居るものだと、天会話は思わずにいられない。

「うーむ、考えれば考える程良く似ている。お主、仇を取り逃したのではないか」

「それゆえ、化けて出てきたのだと思ったのです。ですが、人と言うものを超えていなければ、あれだけの出世を遂げ、天下を完全に掌握するなど、不可能にございましょう。僅かな時間でございましたが、太閤殿下のそばで暮らすことで、恐ろしき人となりを体感する事が出来ました」

「聞いてみたいのう、お主の目利きを」

「あのお方は、自分自身の至らぬところをよくわきまえ、あっさり認めてしまう。これは普通の人間になかなかできぬ事。それを、人を囲う事で補っていく。ただ、人を囲う言葉の使い方が、魔物としか言えない魅力があります。声の質、大きさ、言いまわし、言葉の選び方。あれをやられると、もう言い逃れができない所まで引き込まれてしまう。今も豊臣のために命を賭けるお方は、あの術にかかり腹をくくった人々のなれの果てでございましょう。豊臣の夢から覚めぬと言うより、覚ます事を拒絶しておられる」

「よくそこまで理解したものだ。今の豊臣は、お主の申す通り、栄華の夢から覚める事を拒んでおるに違いない」

「それもこれも、太閤殿下の恐ろしき器量の賜物。それを為すために、殿下は人一倍の努力を惜しまず、非常になる事も厭わなかった。額も家柄も無のあの方が唯一持っていた物は、人を見抜く力。その目を使い有能で忠疑心のある物を選んでいったおかげ。ですが、晩年に道を踏み誤ったのは、恐れが出てきたからでしょう」

「殿下は何を恐れたと」

「自分自身です。己が脅威の立身出世を思い返す度に、己のような存在が現われる事を恐れたのでしょう。その恐怖は、駆けのぼる間は内に潜んだままです。しかし、目指すべき物が亡くなった時、恐れを押さえこむものがなくなってしまう。あの方は武家の出ではない。盛者必衰と言う心を受け入れ難い物があったが故に、いずれ衰退していく己と豊臣家の姿を恐れたのです」

「恐れた故に、親族を殺し、朝鮮や明国への出兵に走っていたというわけか。殺されたものは哀れじゃが、恐れによって己を死なせて言った殿下も憐れなお方じゃ。そうでもしなければ、正気でいられないと思ったのだろうが、すでに狂気に取りつかれていた。信長公と同じかもしれぬな」

 信長は、この国に生まれたが故に異端児となり、誰にも理解されずひたすら恐れられ、激しい気性に潜む孤独感をいやすために茶の湯に拠り所を求めた。そして、その心の隙を金閣に付け込まれ、生きたまま死んでいる不思議な生涯を送る事になる。秀吉は、貧しさから逃れるためにひたすら走り続け、上へ上へと駆けていった。しかし、頂に辿り着いた時、もはや昇る場所がなくなったことで、貧しさに追い付かれる恐怖を抱き、あらぬ方向へ走り始め、人の心を欠き、無意味な殺戮に走っていったのだ。弱い心を持った人間でありながら、異端の才能を持っているが故に抱いた孤独が、彼らを一層孤立させ、人であることから逃れねば安らぎを得られなかった点では、二人は一緒だったのだろう。

 天海は愁いを帯びた目でため息をつきながら、思い口調で再び話し始める。

「天賦の才能を持つと言うのは、幸福と言うより、重荷なのじゃな。己如きが天下をとれるものではなかった事が、お主の話を聞いてよくわかる。だが、銀閣。お主は利休殿に憑いて、様々な事を学んでいたのだろう。利休殿は、太閤殿下より切腹を命じられたはず。その時、どうしたのだ。そして、何があった」

「まあ、あの時はここで死ぬのも運命と受け入れるか、もう少し、夜を流れて人を学ぶか迷いましたが、利休殿を通してみた世の中と言うものが、少しだけ美しいと思うようになりました。それまでは、美しいと言う事自体がわからなかったのですが、ただの花一輪の美しさをどうすれば際立たせるか、そのような考え方をなさる利休殿に憑いたのは、幸運でした。ただ、あのお方は自分の死すら茶の湯の美として取り入れられた。そうなると、私にも理解できませぬ。天海殿が、己の最期の晴れ舞台を汚されたくはないという言葉にもつながるものかと思ったのですが」

「わしの場合はただの意地じゃ。だが、利休殿の場合は、人が美しさを見いだせず、権力闘争の果てに消えていく自分の命を、その散り際をもって、人の持つ美しさとして輝かせたのだろう。そして、己の茶の湯のなんたるかを、世の中に、いや、太閤殿下に叫んだのではないか」

「私にはわかりませぬ。その事を利休様に告げました。何故に、美しさのために命をかけるのかと」

「何と、お主に応えられた」

「これはわたくしだけの答え。銀閣はんも自分で学びなはれ。そうすれば、この世が面白くなります。このような事を申されました。正直、千利休頭いう方と一緒に時を過ぎても、茶碗を土塊としか思えぬ私がおります。学んでも、己の答えを出していなことの証でございましょう」

「なるほどな。他人の答えはその人物だけの答え。だから、己だけの答えを出さねばならぬ。わしも同意する。どんな理屈を講釈されても、それを己のものとして答えを導き出さねば、まことの答えなど出ぬな。しかし、何故利休殿の次は大御所様を器に選んだのだ」

「よくわからぬお方だからです。正室や嫡男を信長公によって死に追い込まれても、領地替えによって、先祖代々の土地を失っても、不満を顔に出さず、元々目下であった太閤殿下にあっさりと頭を下げる事も辞さず。互角に戦える実力も器量もありながらです。このようなお方と一緒につけば、人の心という摩訶不思議な物の一端をもっと学べるのではないかと思いましたが、いささか難しい事がございまして……」

「なんじゃ、それは」

「あの関ヶ原での戦の前に、大御所様は病を得ておりました。腹に小さな腫物が」

「なんと……」

 家康が、自身の健康のために様々な工夫をしている事は、天海が明智光秀であった頃から耳にしていた事である。武芸を戦のためだけではなく心身を鍛える者としても己に貸し、周りにも奨励したり、体を動かし、領内を見回る一石二鳥を図った鷹狩り、医師の話を聞かない短所はある物の、自身で様々な薬を調合する研究熱心な点は、家康自身が、信長や秀吉にあって己にないものをはっきりと認識していたが故に、自分自身より徳川が生き残るには、彼らより先に死んではならないと言う信念があったからであろう。事実、秀吉よりも長明を実現させた家康は、時代の流れを読み取り、豊臣の臣下から、征夷大将軍となって徳川と豊臣の地位を逆転させてしまった。それだけに、家康がそれほど早くに病を得ていた事が、天海には信じられなかったのだ。

「あれほど、体に気を使っておられたお方が、何と皮肉な」

「私も、大御所と共に暮らして間もないころでしたが、驚きました。このお方は少し変わっておられましてまして、夢の中でご挨拶した折に、自分の体でものを学ぶのは一向に構わんが、わしにもものを教えろと言うのです。人間、ものを知らぬより知っておいた方が宝を見つけやすい。人でないお前に物を教わるなど、天下のどこを探してもそんな人間はおらぬ、と」

「大御所様も変わったお方じゃ。そんなお方に目星をつけるお主の眼力は恐ろしい」

「いえいえ。そうして、私がこの人の世に流れ着いてからの出来事、金閣との戦い、明智殿とのやり取り、利休殿の目から見る人の世、豊臣家の様子など、私の目から通し菅あげた事をお話ししました。とりとめのない事にも、実に面白そうに聞いて下さるので、眠るのを忘れてしまうほどでした。ただ、ある日、とり憑いている大御所の体に妙な気配を覚えまして、色々探ってみたところ、胃の腑に小さなできものができていたのです」

「大御所様には、すぐに伝えたのか」

「迷いましたが、体の中でお世話になっている身ゆえ、お知らせしました。とても気落ちしておられた様子でしたが、突然妙な事を言いだされたのです。私がとり憑いてからと言うものの、大御所様は自分の目や耳が若い頃のようによく利くようになり、馬に乗ってもさほど疲れなくなったと。どうも、私のとり憑いた人間は、体に精力を蘇らせるらしいのです」

「なんと……。いや、それでか」

 最初は驚いていた天海であったが、何か思い当たる節があるらしく、手をぽんと叩き、心当たりを口にする。

「わしも妙じゃと思っていた。七十などとっくに越しているにも関わらず、目はよく見え、耳ははっきり聞こえ、挙句の果てには小便も糞も毎日きっちり出る。不思議なものだと思っていたが、お主と一緒に過ごしたことで、わしの体にも精をもたらされたのかもしれぬな」

「そのような事など、夢に思いませんでした。ですが、大御所様はそれを見抜いたようでございました。そして、私にこう申されました。『徳川家はいまだ安泰とは言えぬ。わしの家は、代々大国の間で翻弄され、わしの大になっても織田家や豊臣家によって刃を喉元に突きつけられておる。わしは、その刃を取り去りたい。その好機も巡ってきた。だからこそ、死ぬわけにはいかん。だから、わしに時をよこせ。徳川の世を安泰とするために、お主の力で、わしの病が大きくなるのを押さえこむのじゃ』と。世話になっている身ゆえ、断る事も出来ず、今日まで至っている次第であります」

「大役を任されたのう。考えてみれば、江戸幕府はお主でもっている様なものではないか」

「ですが、もう時がございません。大御所様の寿命も、病のため風前の灯でございます。こればかりは、自然の理です、私にはどうする事も出来ません」

 事実、家康は慶長二十年にこの世を去る。銀閣の言う様に、それほど時は残されていない。しかし、黎明期の幕府は、未だ豊臣家は健在し、諸大名の力も強く、未だ武力の時代の残り火がくすぶっている。家康の後継者である秀忠は、政治という大局的な流れの中で決断を下すのには向いているが、瞬時に状況が変わっていく戦と言うものにおいては、百戦錬磨の家康とは雲泥の差がある。それは凡庸という問題ではなく、生きてきた時代と持って生まれた才能の質の違いである。

 そして、そのようなまだ不安定な時代であるからこそ、優れた政治家になるであろう秀忠に、武人である家康が戦国の世を完全に終わらせて、天下を譲り渡したいというのは、情と言うより実に理にかなった冷静な判断と言える。その最後の事業を成し遂げるには、家康に残された事業はあまりにも短いのだ。

「なるほど。老い先短いにも関わらず、大御所様に残された務めは余りにも大きいということか。もしかして、お主はわしを呼び寄せたのはそれが理由か」

「はい。大御所様の命を永らえさせると言う私の務めは、もうすぐ終わります。ですが、大御所様は、自分が去った後の幕府、徳川家の事も心配しておられます。武人である年寄りの時代ではない。かといって、若い者は苦労を知らない。それ故に、年齢と経験を重ねた知恵袋が必要だと、大御所様は申されております。それは私も同意いたします。織田家や徳川家の盛衰を見てきた人ではない私は、言いづらい事をはっきり言える立場です。人が生きていくには、若き力と年寄りの知恵と経験が必須でございます」

「何故、わしを推挙したのだ。わしはただ、友であるお主に会いたかっただけなのだがな」

「そのようなお人柄であるからです。礼節を重んじながら、一対一の人と人との関わりを大事にして下さる。知略に長け、風流も知っている。そして何より、人の世の裏表、勝者と敗者、人の心の有様を知っておられる方は明智光秀を置いて他にはおりませぬ。そう大御所様に申し上げた所、あの明智光秀であれば間違いないであろう」

「謀反者のわしがか」

「『謀反であれば、もっとうまくやる。あれは気がふれたか、信長公の狂気を止める事が真の目的だったのだろう。でなければ、あの人物がああもあっさり負けるはずがない』、大御所様はそう申されました。そして、大御所様宛を装い私に宛てた書状を見て、明智光秀が生きている事を知り、天海殿の正体を大御所様にお伝えした上で推挙し、このような場を設けさせていただきました」

「お主もやるのう。大御所様に似てきたようじゃ」

 天海は、家康と銀閣の思惑に、苦笑いを浮かべながら、自分の身の振り方をどうするべきか考えていた。一度は、あえて世の流れに逆らって己の思いのままに行動し、流れから弾き出された身。己の決断で命を落とした物の事を思い、残りの人生を弔いのために使おうかと考えていた所、彼が巡り合ったのは、天下のために力を貸せと言う思いがけない言葉。重い過去と、為すべき事がある未来の間で、彼の心は揺れ動いた。長い沈黙の後、天海はゆっくりと口を開く。

「よろしい。引き受けよう。わしの行いを天下を取るためと思い、死んでいった家族や家臣のために弔ってきたが、近頃は天下に口出しすることで彼らの思いを遂げる事もできるのではないかと、思い始めていた所。それを、天下の大御所様のお墨付きとあらば、堂々とする事ができる。世を渡ってきたわしの経験、知恵、すべてを使って子の天下をの為に尽くそう。この天海、大御所様のためにすべてを捧げまする」

 天海は家康に向かって深々と頭を下げた。家康の眼の色はいまだ銀色に輝いているが、家康の心もまた天海の返事を聞き満足したのか、その頬がわずかに緩んだ。恐らくそれは、銀閣の意思とは関係のない反応に違いなかった。

 銀閣もまた、天海の返事に安心したのか、ホッと息を突き、安堵の表情を浮かべている。

「いやあ、これで私も大御所様への御恩も返せます。後は、その日が来るまで大御所様の体と共に生きるのみでございます。何とか、豊臣家への処遇が決まるまではと考えておられるようです」

「わしからも、存続か廃絶か、それが天下のために何がいいのかを考えながら、助言する事になるであろう」

「ありがとうございます。ですが、天海殿。何故に、私が大御所様と一緒に気がつかれたのですか」

「ん、それか」

 天海は、銀閣の問いにしばらく無言で考えた後、こう答えた。

「お主がもっと人を学べば、わかるかもしれぬな」

 そう言うと、天海は銀閣を煙に巻いてしまった。それ以後も、その答えを彼自ら銀閣に教えた事は、一度足りもない。



 天正十五年、徳川家康は七十五歳でこの世を去った。しかし、その際に、彼の体から不思議な水が流れ出たという話は聞かれない。水の体を持つもののけ・銀閣は、それっきり行方をくらませてしまったが、風の噂と言うべきか、歴史の中に小さな影は残したらしい。ある時は、日本を回りながらその美しさを歌う風流人に、ある時はこの国の歴史を記すことに生涯かけた人物に、ある時は正体不明でありながら歴史に名を残す画家に、彼の影を見た者がいると言うが、歴史の中にその噂は埋もれてしまい、その真意を確かめることはもはやできない。

 銀閣がいつまで生きたのか、いや、今も生きているのかは誰も知らない。世界の誰かと共に生き、人の世と心を学んでいるのかもしれない。どこかで銀色の目を輝かせる人がいるとしたら、それは誰なのか。これを読むあなたかもしれない。それとも、これを書いている私なのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ