五十五年の夢
夜が明け、炎に包まれていた本能寺は、やがて日が鎮まり、くすぶった煙があちこちから立ち上がっている。明智軍は、信長を確実に仕留めたことは間違いないのだが、その場を離れなかったのは、信長の遺体、若しくは首をあげない限り、その死を確認できないためだ。そして、その死を確かめない限りは、信長への反旗と言う行為への恐怖から逃れることもできない。
光秀がいる本陣でも、矢継ぎ早に荷とが入れ替わり立ち替わり報告に現われ、慌ただしさと混乱ぶりを物語っている。そんな中でも光秀は、落ち着きを払い、物静かに的確な指示を与えている。
「お館様の首はまだ見つからぬのか」
「はっ。全力を挙げて探しておりまするが、炎が甚だ激しかった故に、難儀しております」
「本能寺にいる兵はいくら使っても構わん。何としても首をあげよ」
斎藤利光や明智秀光らは、本能寺の焼け跡に向かい、信長の遺体の捜索の指揮に当たる事となった。さらに別の兵が光秀の許に参じた。
「ご報告いたします。織田信忠殿は、二条城に移動。明智光忠、伊勢忠興殿等が追走。もうじき、ここも落とす勢いにございます」
「大義である。下がってよいぞ」
「はっ」
伝令の兵は去っていった。見渡すと、重心は光秀のいる本陣から出払い、二名の護衛の兵がいるだけになった。光秀は、疲れ切ったように溜息をつくと、その二人に、
「そちらはしばらく下がっておれ。わしは、いささか疲れ切ってしまった。しばし、一人で休みたい。席を外せ」
と、命じた。しかし、主であり、大将である光秀を一人にすることはできない相談なので、二人とも反論したいのだが、やはりあまりにも違う地位のため、言い出せずにいる。それを察した光秀は、ふっと笑いながら話しかける。
「何も、どこかに行ってしまえというのではない。しばしの間だけ、一人になって思案したい時もあるのじゃ。気を使う事も覚えよ。わしの方から声をかけるまで、少し休ませよ」
光秀にそこまで言われては、足軽に反論する余地はない。頭を下げると、後ろ髪ひかれる思いで、その場を去っていった。残された光秀は、無言でじっとその場に座っていた。やがて、視線も動かさずにゆっくりと口を開く。
「人払いは済んだ。入って参れ」
「はっ」
声ともに、陣を覆う幕をくぐって姿を現したのは、信長を討ちとった足軽・銀閣であった。銀閣は、光秀の前に座り、地に頭をこすりつける程平伏する。光秀は、銀閣に対し、まるで親しいものに話しかけるような口調で声をかけ始める。
「そこまでへり下らなくともよい。話しづらいではないか」
「いえ。明智様にはいくら頭を下げても足りませぬ」
「頭どころか、胴体もないではないかお主には。笑わせるでない。それで、どうだったのだ。お館様は討ちとれたのか」
「……、確かに」
銀閣と光秀は、互いに顔見知りの様に普通に話をしている。片や、この世のものではない異形の命、片や、織田家の有力家臣である武将。全く不可思議な組み合わせである。
「しかし、お主とは話しづらい。名などないでは、話にならぬ」
「その事でございましたら、先程、仮の名と言うことで、銀閣と言う事になりましたが」
「おお、それでよい。して、銀閣、お館様の最後はいかがであった。そして、お館様にとりついた物の怪は成敗できたのか」
「物の怪について間違いなくこの手、いや、この男の手を借りて仕留めました。炎に焼かれ、跡形もなく……。信長殿ですが、驚きました。魂はもう食われていたと思っていてのですが、あのお方は、やはり凄まじい御仁です。魂に食いつかれ、脳天を叩き割られながらも、己の心を取り戻し、織田信長として死んで行きました」
「何と……。お館様は、まだ生きていたと」
「はい。私は、人というものをまだわかっておらぬと、痛感いたしました」
「五十五年生きてきたわしでも、人間など良くわからぬ生き物だ。人を知って時を経ていないお主にすべてわかるわけがなかろう」
「ごもっともにございます」
彼らは、互いに顔見知りであるどころではない。銀閣が金閣を倒すこと。そして、その過程で信長を討ち果たすことを光秀が了承済みだったことを示している。果たして、彼らの間でいかなることがあったのだろうか。そして、何故、光秀は銀閣が信長も殺してしまう事を許したのか。やはり、光秀は信長に恨みを抱いていたのだろうか……。
「それにしても首尾よくいったのう。お主の助言通りだ。人を知らぬと言いながら、皆の心を読み切りおって」
「いえ、金閣の征服欲を考えれば、ここが天下を取る勝負どころと動くはず。そして、敵なしと思い、己の周りに兵を置かないという失態を気付かぬ内にしでかした。これが、織田信長公であれば、このようなことはあり得ぬこと。己の有利すら信用せず、周りを兵で固めましょう。信頼はすれども、信用はあり得ない。それがあのお方」
「よう、知っておるわ。では、この本能寺はいかにして読んだ」
「天下統一の仕上げの仕事の始まりとなる毛利攻め。そのような派手の舞台を好むのは羽柴殿。となれば、お館様に是が非でもその大役をとせがみましょうし、己が命じられるように立ち振る舞うのがあの方です。金閣にしてみれば、餌を与えておけば子飼いにしやすい、そのように考えたのでしょう」
「うむ。あの男、いや、羽柴殿の性格をよく見ておったものじゃ。そして、わしが一人、お館様の許に残る様に、お主はわしの『中』で仕組み、待っておったのじゃな」
「恐れ多い事でございます」
どうやら、彼らは顔見知りどころではなく、光秀の体内に住み着き、それを互いの意思で共生し、共に行動していた。そう見て間違いはないようだ。さらに、銀閣の会話を聞けば、銀閣の助言を光秀が聞き入れていた事になる。一体、彼らの関係はいかなるものだったと言うのか。彼らの奇妙な会話は、止めとどなく続く。
「しかし、この日がくるとはな。……、わしらが会って、どれほどになる」
「かれこれ、五年でしょうか。太陽と月が上る回数で時を測らない私にとっては、詳しいことはわかりかねます」
「真に、けったいな奴だ。そんなお主が夢枕に立った時は、さすがに驚いたわ」
「体に入るわけですから、ご挨拶をしないわけには……」
「律儀すぎるのう。御仏の後光のようなお主から、親方様の所行は、物の怪の類がとりついていると聞いた時は、心底、驚きはした。だが、納得もできたわ」
「それを聞いた時は、私の方が驚きました」
光秀は、銀閣が己の体に入り込むことを認識し、どこか許容していたらしい。神や仏を敬う当時の人であれば、形を持たずとも、神秘的な光を放ちながら語りかける銀閣のような、節度や道徳を備えた存在であれば、思わず手を合わせ、その話に聞き入るに違いない。科学の発展していない時代であれば、目には見えぬ存在、心の内なる声に信頼の念を持つのは、現代人にとっては実感するのが難しい概念なのかもしれない。もちろん、この場合は、光秀と銀閣の双方の人格によるものが大きいのであるが。
「私には、それが未だに理解しかねるところです。何ゆえに、お館様は変わった、そのようなお考えを持ったのですか。家中の方は、命令に戸惑いを持ちこそすれ、織田信長の存在には疑念を持っておりませんでした。なぜ、殿はそこに気がつかれたのでしょうか」
「人をどうも理解し切れておらぬお主に、どう伝えればよいのやら。まあ、わしが惚れた織田信長と言う人物が、いつの間にか姿を消していた、いや、死んでいたと、どこかで気がついていたからであろうな」
「惚れていた、と。それは、若衆道の様なものでございますか」
若衆道とは、現代は衆道と呼ばれているもので、いわゆる男色、同性愛の事である。現代では、タブー視され、その存在を認めるか認めないかで問題になるものであるが、明治以前の江戸時代中期ごろまでの日本では、決して後ろめたいことではなく、「ある」物として普通に認識されているものだった。
光秀が信長に対して男惚れするという言葉を発した事に、現代の人間であればその意味を察する事に障害はないが、戦国時代の価値観のもと、さらに人と言う者の道徳や文化を理解しきれていない銀閣にとって、光秀の言葉を額面通りに受け取ってしまうのは、いわゆるものをみる尺度が違う故の仕方ない事であった。そんな銀閣の自然な態度での誤解に、光秀は笑い声をあげながら、にこやかに話を続ける。とても、本能寺の変と言う大事件を起こした明智軍の大将には見えない姿がそこにあった。
「若衆道は良かったな。まあ、お主が理解できぬも無理はない。惚れると言うのは、その人物の度量、人となりに心酔し、その人物に己の命や命運を預けても構わないと思う事だ。忠義とはまた違う、一人の男の感情としてだ。わかるか」
「おぼろげながら」
「それでよい。それなら、わしがお館様を討つと心に決め、お主に体と命を預けた理由がわかろう」
「明智殿が惚れた織田信長は既に死に、目の前にいるのは織田信長の名を語る偽物。それ故に」
「そうじゃ。織田信長と言う人物は特異な人である。古く錆びついた物を壊す度胸がありながら、金の流れに敏感で、新しきものを自分の血肉とし、茶道と言う目に見えぬ何を見つめる物をたしなむ風流人でもある。様々な顔を持つ、型にはまらぬ異端の男。わしがそれまでに仕えたどんな人物より、複雑で、魅力的で、理解しがたい人物であった」
「理解できない人物に、命と命運を預けられるのですか」
「銀閣、わしはお館様に使える前にも、何人かの主に仕えていた。だがな、どうもすぐに底が知れてしまい、つまらぬのじゃ。次にすべき事、何を考えているか、おおよその見当がつくのだ。だが、お館様は、わしの思惑を超えた事をしてのける。言葉にする。自分の思惑を超える者に面白さを感じる。それが人という者の面白き、そして不可思議な性よ」
「どうもわかりません。私は、相手の事をきっちりと調べ上げ、知り尽くしてからでないと怖くて仕方ありません」
「お主は有能だ。だが、有能故に遊びが足りぬ。枠から外れることに不安、罪を感じる。だから知らぬものに触れることを恐れるのだ。わしにもそういう性分があるから、なおさらよくわかる」
「それ故に、この謀反を我々の間で話し合い、明智殿が兵を動かし、私が知恵を授ける。このような行きの合う行動を可能にし、話が宿敵を討つ事ができました。では、明智様は何を叶えたのでございましょう」
銀閣の問いに対し、光秀は竹筒に入っている水をごくりと飲み込み、喉の渇きをいやすと、銀閣にも飲めと勧めた。銀閣は、特に水を必要とはしないのだが、考えてみれば、足軽に乗り移ってから、激しい斬り合いとを行い、炎の中を走り抜けるなど、だいぶこの男に負担をかけている事を思い出し、乗り移っている男のために水を呑んだ。水の冷たさが、男の感覚を通して銀閣に伝わり、足軽の体が、よほど水分を欲していたのだと、この後に及んで気がつく始末に、これでは自分も金閣と変わりはないではないかと、己を戒める。銀閣が、水を飲み干すのを見届けると、光秀は、話の続きを語り始める。
「わしが叶えたものと言ったな。それは、織田信長を語るものをお主が討つことで、お館様を織田信長として死なせて差し上げる事じゃ」
「良く意味がわかりませぬが……」
「お前は、お館様がどこかで、他の誰かに変わってしまった事に気がついた。わしも、おぼろげながらそれを感じ取り、お主と出会って確信を抱いたのだ。自分が新そっこ惚れて、命をかけて仕えようとした方はもういない。そこにいるのは、織田信長を騙り、その皮をかぶって非道を重ねる外道である何者。許せなかった。あれほどのお方の名を騙って残虐非道の限りを尽くし、茶器に狂って国の乱れを招く。真のお館様であれば、あれほど馬鹿げたことはせぬ。だから、紛いものの織田信長を討つことで、真のおあだ信長の魂をお助けしたかったのじゃ」
「では、私が信長公を討ったのは、本意ではござりませんでしたか」
「いや、あれで良いのじゃ。お館様は、恥辱にまみれたまま、残りの人生を歩むほど、生きる事に未練を覚える方ではない。人間五十年。その半ばでもののけに取りつかれてしまったものの、それも人生と割り切られたであろう。今さら助かった所で、己のものではなくなった人生を享受するとは思えぬ。だからの、わしは思うのじゃ。お主のおかげで、織田信長として最期を迎えた事に、お館様もお主を褒めて下さるであろう。『銀閣、あっぱれな奴じゃ』とな。わしも、感謝するぞ。わしが憧れ、惚れぬき、敬い続けた織田信長公を救ってくれた事を」
「……、あ、ありがたきお言葉でございます」
銀閣は、目のない自分の眼がしらが熱くなり、涙が出るの感じた。驚くべきことだった。顔も体もない自分が、涙を流す感情と感覚を得るなど、あり得ないからだ。だが、器としている男の目を通し、銀閣の感情が伝わり、男の目に涙を流させた。それは、銀閣が人が涙する心を、己の感覚で理解した瞬間である。
銀閣は、金閣を討った時の光景が、いつまでも心に焼き付いていた。金閣を討ち果たした事はいい。だが、信長の頭を切りつけた感触、傷口から流れる血、そして、死の間際の信長との会話と炎に消えていくその体。それを思うと、自分は大義名分とはいえ、金閣と同様、人間を言い様に利用し、命まで奪ったのではないかという罪悪感を拭えぬずにいた。だが、信長の声を代弁してくれた光秀の言葉に、僅かながらではあるが、銀閣の心は救われたのだ。そして、人と言うものがどのような心を持っているのかを、『読む』のではなく、心で『感じる』事が出来た瞬間であった。
むせび泣き、頭を地面にこすりつけながら平伏する銀閣に、光秀は穏やかに語りかけててくる。
「大の男が泣くでない。お主に体を貸している男の恥になる」
「そ、そうでございました。殿、私からお願いがございます」
「何じゃ、申してみよ」
「殿の目と耳を通して得た織田家かしいの皆さまの気象や考え方を見ますに、これを好機ととらえ、織田家で力を増そうと考える者は多数おりまする。ですが、織田家どころか、信長公の成し遂げた事を足掛かりにして、天下を己の手におさめようと考える、果てなき野望を持つ者がおります」
「天下を己の手に、か。わしなどには到底及びもつかぬ大きな野望じゃな。その者は誰じゃ」
「羽柴筑前守秀吉殿。あの方は、信長殿に忠義を尽くしておりまするが、それは出世を叶えて下さる織田信長だからこそ仕えている。あの方の目は、殿とは違い、常にギラギラしております。私など、秀吉殿が金閣ではないかと思ったほどでございます」
「なるほど。確かに、お主の仇である金閣に良く似ておるな。わしは、天下を狙うと言う大きな野望を持つとしたら、徳川殿と考えていた」
「あの方は、未熟な私にはよくわからぬお方です。わからぬ故に怖いのでござりますが、秀吉殿の心に秘めたる炎の前に怯んでしまうかもしれませぬ」
「お主、人と言うものを知るには、いい筋をしているかもしれぬぞ。では、お主の願いとは何じゃ」
「信長公を討った殿を討てば、織田家で名を上げられる。そのように考える輩が大勢おりまする。ですが、そのような方々に、悪名をかぶってまで信長公への忠義を果たした殿が討ち滅ぼされるなど、到底我慢できませぬ。ですから、今一度、殿の体に戻り、殿と共に戦いとうござりまする。私の浅はかではございますが、有益な知恵がござりましたら、如何様にでも使って構いませぬ。例え勝てぬとも、明智光秀と言うお方と共に果てるのなら、この銀閣、本望であると断言できます」
人ではないはずの銀閣が、光秀と共に果てようと言う覚悟を持つ。奇妙なことではある。信長からも、光秀からも、そして己自身すらも、人と言うものを理解していないと指摘される銀閣が、ここにきて忠義と言う、ともすれば現代人でも理解しきれない思いに身を任せ、その思いを口にしているのだ。もしかしたら、それは、歴史に名を残す事になる二人の武将との出会いが、銀閣に思いもよらぬ変化を促した結果だったのかもしれない。心と言う、目に見えぬが確実に存在するものを、理屈でしかものを考えることができなかった銀閣が、理解できなくとも感じることができるように変えられたためだろうか。
そんな銀閣に、温かい笑みを向けた光秀は、穏やかな口調ではっきりと言った。
「それはならぬ」
「何故でございますか」
「わしには勝ち目はあるまい。だが、明智光秀と言う名を後世に残す晴れの舞台じゃ。あの織田信長を一夜にして打ち滅ぼした明智光秀。痛快ではないか。お館様への思いは、この胸に抱いておくだけ良い。五十五年の間、この世で生きてまいった。何のための人生だったかと思う。だが、思い返してみれば、何かを成し遂げ、生きた証を残したい。そんな夢を持ってこの日まで来た。一家臣として生きる道もあった。だが、それではわしと言う人間がいたと言う事にしかならぬ。だが、今この日から、明智光秀の名はこの国が続く限り残るであろう。忠義を果たし、己の夢も叶えた。思い残す事のない、晴れ晴れとした気分じゃ。だから、この晴れ舞台を誰にも邪魔されとうはないのだ。銀閣、例え友であるお主であってもな」
「私が、友でございますか」
「おお、そうじゃ。お主はわしの友じゃ。お主が人であれば、主君と家臣の間で合ったであろうが、人ではないお主にそのような関係は無用じゃ。お主との関係はわしが決める。お主はわしの友じゃ。そして、お主にとってもわしは友と言えるであろう。五分と五分の間柄じゃ」
「も、勿体のうございます……」
「だから、泣くでないと言っておる。涙もろい物の怪など聞いた事がない。銀閣、友の願いを聞いてくれ。わしの最後の舞台、一世一代の舞を舞わせてくれ。この通りじゃ、頼む。わしの五十五年の夢の最後を飾らさて欲しいのじゃ」
「……。わかりました。ですが、私にできることは、何かございませんか。これも、友の願いでございます」
「おお、そうじゃ。それでこそ、友だ。まず一つ。その男を里に返してやってくれ。恐らく、この後の戦では明智軍は助かることはないであろう。そんな中でも、家臣たちはわしのために命を捨てる。それを思うと、何とも殿様と言うものは、因果なものじゃ。多くの人の命を散らせてしまい、そして、散らせてきたこのわしからの願いは、我らのために働いてくれたその男を、無事に親兄弟、女房子供のいる里に送り届けてくれ。多くの人を死なせ、この後も死なせるわしのせめてもの善行だ。お主なら、簡単な事であろう」
「わかりました。確かに、この器となった男は、里に送り届けます」
「もう一つの願いは、……。銀閣よ、もう少し、この世を生きてみよ」
光秀の意外な願いに、銀閣は言葉を失った。器の男を送り届けた後の事を、彼は考えていなかった。この国来る時に出たゴアと言う所に向かう術もない。語り合える者もいない。それなら、いっそ消えてしまった方がいいとさえ思っていたからだ。所詮、人の世では自分は物の怪、相容れぬ存在でしかない。存在を認められないなら、そんな世の中で生きていくより、消えて方がましかもしれない。日差しに本体をさらせば、あっと干からびて事が済む。炎に巻かれて消えた金閣の様に。そんな破滅的な事を考えていた銀閣に、光秀が願った事は、生き延びろと言うものだった。
「お主は、しばし、この世の中を見てまわれ。人の事をよく知らぬと言いながら、しっかり学んで居るではないか。ならば、もう少し、心を学んでみよ。心を読むのではない。一体になって、同じものを見て感じるようになるまで生きてみよ。そんなお主の姿が楽しみでならぬ。そして、心を知った時、お主は人が面白くて仕方なくなり、生きることが楽しくなる。わしは、そのようにお主を育ててみたくなった」
「何とも……。意外なお言葉に、何と返事をして良いものやら」
「友の願いじゃ。嫌とは言わせぬ。わしも多くの命奪い、物を壊してきた。だから、最後に何かを生み、育ててみたいのだ。自分の子供とは違う何か。人の世に、人ではない命を生む痛快な思いをしてみたい。そして、お主が人の世をどのように生きていくのか考える楽しみを抱きたいのじゃ」
「参りましたな……。ですが、友の願いにござりまする。約束いたしましょう。この銀閣、この体が朽ち果てるまで、人の世と人の心を学びまする。そして、楽しんで見せましょう」
「うむ、それでよい。できれば、今より変わったお主に会いたいものじゃがな。それは来世かもしれぬのが、心残りじゃ」
「私も、いつまで生きるのか、とんと見当もつきませぬ。もしかしたら、来世でお会いするかもしれませぬ。ですが、万が一、殿が生き延びることがありましたら、……、再び会いましょう。死ぬために戦うのはおやめ下され」
「友の願いだ、約束しよう。さあ、他の者に気付かれる前に、本能寺を離れよ。そして、その男を無事に送りと届けるのじゃぞ」
銀閣は、深々と頭を下げると、光秀の本陣から出ていった。まだ喧騒の中にある本能寺を離れ、銀閣は男の体を彼の故郷に送り届けるため、今日を脱出した。友である、光秀の願いをかなえるために。
天正十三年六月十三日。天王山の麓の山崎にて、明智光秀の軍と、中国地方より十日の強行軍で引き返してきた羽柴秀吉との戦いが始まった。だが、瞳の奥に秘めた野心の炎を解き放った秀吉は、すべての兵力も人心も運も引き寄せ、明智軍を打ち破った。三日天下と言われる程のあっけない明智軍の敗北は、既に最期を悟り、受け入れていたかにすら思えるもろさである。
明智光秀は、敗走する途中にて、落ち武者狩りの手で討たれたと伝えられる……。