人間五十年
本能寺をほぼ包囲しつつある明智軍。光秀はその光景を見つめながら、矢継ぎ早に指示を飛ばしている。
「包囲はほぼ済んでいるなら、すぐに攻め立てよ。矢を射かけ、門を突破して境内になだれ込め。逃げる暇を与えてはならぬ。逃せば、我らに命運はなくなる。決して、容赦はするな。生き残りたくば、ひたすら前へ押し寄せろ」
光秀の指示は、家臣を通じて、末端の兵まで伝わり、やがて鉄砲の音が鳴り響き、矢を弾く弓の音がそこかしろから聞こえてくる。静まり返っていた夜明け前の本能寺は、一転して戦場の真っただ中、修羅場と化した。時の声があちこちから上がり、兵たちは怒号をあげながら寺に殺到する。彼らの心を支配するのは、命のやり取りが行われる場で生き残るための闘争心と、信長に対する拭いきれない恐怖心を払うためだ。いくら数の上では絶対的な有利を誇るとはいえ、仕留め損なえばその怒りは自分達を襲い、地獄へ叩き込まれる恐怖心がこの期に及んでも拭いきれないのだ。怖気づきそうな己を奮い立たせるためにも、兵は声を張り上げ、死に物狂いで驀進していく。
寺では、兵から侵入しようとする兵を、信長や家臣たちが弓矢で攻撃し、侵入を阻もうとしている。ほとんどの者が、万を超える兵に包囲されると言う状況に冷静さを失い、手には汗が浮かび震えが止まらず、見当違いの方向に矢が飛んだり、汗で滑って引きが足りずに的に届かない矢もあった。そんな中で、信長の佇まいは見事というか、鬼神、或は不動明王の様に堂々たる構えを崩さず、大弓を構えては的確に矢を放っていく。矢は相手の急所を捉え、命を奪っていく。矢を放つほどに精度を上げていき、次第に塀を乗り越えようとする足軽の眉間に次々と命中させていく様は、もはや助かる道などないという状況を忘れ去るほど人間離れした光景である。信長の表情は、地獄への道連れにどれだけの数を引き連れてやろうかと言う、まさに魔王の顔である。
とうとう門を破り、寺に殺到する塀にも、信長は容赦なく矢を射かける。まるで、人ではなくただの的に向かって矢を射るように、一切の躊躇がなく無表情のまま敵の頭を射抜いていく。 しかし、信長が余りにも弓を引き絞って矢を放つため、ついに弦が切れてしまった。信長はそれに全く動じることなく、床に突き刺しておいた槍を手にすると、殺到する兵達を次々と突いていく。やはり、まったく躊躇はなく、狙いに寸分の狂いもなく、相手の喉元にはを突き刺していく。まるで、人を相手にしているのではなく、わらでできた的を射ぬき、稽古でもしているかのように。
槍の斬れ味が悪くなれば、それを投げ捨て、新しい槍で再び寺の中に侵入しようとする兵を突き殺していく。是非もないと言覚悟を決めながら、凄まじい抵抗を試みるのは、飼い犬に手を噛まれると言う後世の笑い者になる様な死に方ではなく、魔王信長にふさわしい死に様を自ら構成し演出しようと試みているのではないだろうか。それほどまでに、人間業とは思えない猛攻である。
やがて刀が尽きれば、今度は刀を手にする。ギリギリまで接近する兵にきりかかり、相手の腕や首を切り捨て、鎧兜ごと叩き斬る様な豪剣であった。普段は政務に関わり、刀を抜く機会などなくなっている男のものとは思えない剣豪ぶりを見せつける。しかし、刀も永遠の切れ味を持つわけではない。切れ味が鈍り、致命傷ではなくとも体中に傷を負っていく。抵抗ももはやこれまで、いや、十分に織田信長の恐ろしさ、苛烈さをこの兵士どもの心に刻みつけた満足感なのか、極限の状況でありながら醒めきった表情をしている。
「蘭丸、来い」
信長は、身の回りの世話をさせている小姓の森蘭丸を連れて寺の奥へと入った。蘭丸は、信長の糸はもうわかっている。身近に仕えているからという理由以前に、この状況で武将がとる行動と言えば、もう考えるまでもない。
「蘭丸、寺に火をかけよ」
抵抗ももはやこれまで、首も光秀にはくれてやらん。信長の意をそう汲み取った蘭丸は、
「……、はっ」
と、言葉少なに命令に従い、信長が奥の間に入るとふすまを占め、他の物に銘じて油を撒き、火を放った。木造の寺ゆえに、火はあっという間に広まり、明智軍にも寺に火がかけられているのが見えるはずだ。
信長は、奥の間にある自分の部屋に辿り着くと、太刀を投げ捨て、障子の向こう側が炎で照らし出されるのをじっと見ていた。覚悟を決め、武士らしい最期を遂げようかと思われた信長だったが、意外な行動を見せた。
「ぐあああ」
まるで人とは思えない様な雄叫びをあげ、壁を殴り蹴りつけ、障子を破り、辺り構わず当たり散らす。先程までの覚悟を決めた男の姿はそこにはない。そして、ぶつぶつと低い声で呟いている。
「確かにこうなっては是非もない。だが、光秀めの謀反が読めなかったのは不覚だ……。あ奴、まさか。……、そうか、そういうことか。あ奴の策謀か。ふっ、これで織田信長は終わりと誰しもが思うだろうが、それこそが狙いよ。まだ打つ手はあるぞ。まだ、死ねぬ。わしは死なぬぞ」
不気味なつぶやきを放つ信長は、黄金の瞳の輝きを放ちながら、何かを持ち出し、寺のさらに内部へを移っていった。
明智軍の本陣では、にわかごしらえの陣の真ん中に光秀が座り、次々と寄せられてくる報告に対し、指示を飛ばしている。斎藤利光もまた、光秀の前に駆けつけ、状況を伝える。
「殿、本能寺に火の手が上がりました」
「そうか。恐らく、お館様は、わしに首だけは渡したくはないと言う意地があるのだろう」
「そうでしょうか。もしかしたら、女御にまぎれて脱出すると言う事もありえますが」
「誇り高いお館様に限ってないとは思うが、無きにしも非ずだ。寺から出る者は、明智の者以外すぐに捕らえ、身分を明らかにしろ。お前はお館様の顔を見知っている。確認は任せる、行け」
「はっ」
利光は命令を受け、陣を後にしようとした瞬間、光秀は利光を止め、些細な事を頼んだ。
「利光、待て」
「何でしょうか、殿」
「行く前に、その辺りに居る者は誰でもよいから、ここに水を持ってくるように伝えよ。ふっ、わしも怖じ気づきそうになったか、喉が渇いて仕方がなく、喉が痛くなってきた。大将がこれでは情けないな」
「はは、仕方ありませぬ。この利光など、小便が出そうでございます」
「小便か。そのような思いもここを落とせば収まろう。気は抜くな」
「わかり申した。水の事は、近くにいる足軽に伝えましょう」
「うむ。人手を惜しむな。本能寺にとにかく押し込め。そして首をあげるのだ。証がなくば、この後の身の振り方も変わってくる」
利光は光秀の指摘に相槌をうちながら、その場を後にした。一人残った光秀は無言で地面を見つめ、物思いにふけっている。そこに、利光に命じられたのであろう、一人の足軽が光秀の前に竹筒に入れた水を持ってやってきた。足軽は普段目にかかる事のない光秀との一対一での対面の恐縮してしまい、やや離れたところにひれ伏している。光秀は笑いながら、
「そこにおって、どうすればわしが水を呑めると言うのじゃ。近う寄れ、構わぬ」
「……、ははっ」
足軽は恐る恐る近寄り、光秀に竹筒を渡した。光秀は、それを受け取り水を飲み干し喉を飲み干した。そして竹筒を返そうとしたが、足軽は顔を伏せたまま手だけ差し出す。
「そこまで恐れずともよい。不作法があったとしても、わしとお主しかいないのだから、誰も咎める者もおらぬ。顔をあげよ」
「はは、恐れ入りまする」
足軽は恐る恐る顔をあげ、光秀と顔をがあった。と、思ったその時、彼の顔に光秀の口から水が吹きつけられた。
しばらくすると、光秀の居る場のその幕の間からあの足軽が這い出てきた。しかし、彼の醸し出す雰囲気は全く違っている。おどおどした様子は全くなく、寧ろ威厳に満ち溢れている。そして、その手には何故か光秀の太刀が握られている。そして最も変わっていたのは、彼の眼が銀色に輝いている事であった。
覚悟を決めたはずの信長であったが、その目は未だ生に執着している。自室に戻ると、自身が寝ていた布団を破き、そこに何やらを放り込み包み込む。そして、息を切らせながら火がまわっている廊下から何か大きなものを運び込む。それは、一人の女だった。どうやら気を失っているらしく、ぐったりと横たわっている。信長は、その女の体の上に覆いかぶさり、自分の顔を女の顔に近づけていく。炎に包まれたこの状況で、異常な行動であるが、誰もそれを目撃する者はいない。ゆっくりと異様な時間が流れていたその時、後ろから、
「それまでだ」
と言う声が聞こえた。人がいるなどありえない状況の中での呼び掛けに、信長は眼を見開いて跳ね起き、刀をとって、相手の正体を確かめようとする。しかし、相手も姿を隠すつもりなどさらさらないらしく、燃え盛る障子を蹴り飛ばして寝室に入り込んできた。その人物は、あの光秀に水を運び込んできた足軽であった。あのへりくだった態度は消え失せ、天下人目前である織田信長と対等の目線で、堂々とした態度を保っている。
「何者だ」
信長は狼狽し憔悴しきりながらも、尚も自身の威厳を保とうとしているが、もはやその目は血走り、生々しい人間の本性が剥き出しになっている。一方の足軽は、冷静な態度を保ち、次第にその体が大きく見える様な錯覚に陥りそうだ。
「何者だと。名など意味はない。体を持たぬ我らにしてみればな」
「体を持たぬだと……。まさか、貴様」
「わしが近くにいる事を気がつかぬほど、お前は覇道に、いや魔道に酔っていたようだな、金閣とでも言おうか。この世の人々に倣って」
「ならば、お主は銀閣か。この星に落ちて以来、まさかまた巡り会うとはな」
「一時は完全に見失い、諦めはしたが、お主の臭いは決して消えなかった。だから、今こうしてお主の目の前にいる」
彼らは人ではない。人の姿は器、つまり傀儡として扱う存在だ。ならば、一体いかなる存在か。人はそれを幽鬼と呼び、物の怪と叫び、狐や鬼と蔑む。それは未知の存在だからだ。ならば、彼らもそう言う類という事ができる。なぜなら彼らはこの世に生まれたものではない。人の生きる現の外より来た未知の者、宇宙より来た者だから。なれば、安土桃山時代と言われる事になるこの時代においては、物の怪の類いと変わらぬ存在だ。だが、その姿が変わっている。
彼らに肉体らしい肉体はない。というより、この世に降り立った時にその体をなくしてしまった。生きとし生きるもの、生きていく上で、好む場所はそれぞれ異なる。人は屋敷の中に暮らす。獣は山の中で暮らす。魚は水の中で暮らす。鳥は空をかける。虫は土の中や物陰に隠れて暮らす。お天道様を嫌う者すらいる。だから、金閣や銀閣のような存在がいようとも、さして驚く事でも珍しい事でもない。
彼らが好む所、それは空気の濃い所、つまり気圧の高い世界であった。何の因果か、彼らはこの世界に落ちてきた。しかし、不幸な事にこの世界は彼らの体を拒絶してしまった。彼らにとって低すぎるこの星の気圧により、彼らの体は持ちこたえる事ができず、肉体が崩壊してしまった。しかし、生への飽くなき執念か、或はこの世の不思議か、またあるいは神仏の気まぐれであったのか、彼らは生き残る事が出来た。それは体をほぼ九割方水の様にして溶解することで、肉体を持たずとも魂をこの世に留める事が出来た。しかし、水は日照りの中ではあっという間に消え失せる。そうなってしまえば、今度こそ彼らの命はない。そこで、彼らは日よけを求め、人の体に入り込んだ。人の体にも水はある。そこに混ざり込めば、器となった人間と一心同体になる事が出来るからだ。
そして、不思議なことに、ただかりそめの宿と思っていたその体を、自分の思い通りに動かせるようになってきた。彼らの体は人の脳に入り込めたおかげで、宿の主の心をも操ってしまう事がわかった。だが、彼らとて、彼らなりの倫理や道徳と言った観念は持ち合わせている。宿の主の魂を奪うような真似はしてはならぬと、コミュニケーションをとる以外の干渉はしてはならぬという掟ができた。
宿をとっている仲間は、目を見れば若った。金色、銀色、青、茶、赤、黒、様々な色に変わる。他の人々と違う色を見つければ、それで仲間の事がわかってしまう。そんな生活を続けることで生きながらえていた彼らだが、悪人というものはどの世界に人びとの間でも生まれてしまうのが摩訶不思議なものである。
その者が犯したのは、最初は盗人であった。食料から始まり、金、宝石、そんなものを盗んでいた。しかし、とうとう人殺しを働いてしまった。人様の星で、しかも人の体を借りて生きていながら、厚かましすぎるその所業に同族達は怒り、その咎人を追い始めた。しかし、九割が水である本来の体は、いとも簡単に他人に乗り移ってしまった。そして、海を超えて東の国へ逃げたということ以外、手がかりがわからなくなってしまった。その海を超えた悪党が金閣であり、彼を追って捕らえに、或は成敗しに来たのが銀閣であった。
「久しぶりだな、金閣。お主がゴアを抜け出す際に、宣教師と共に東の海へ渡ったと聞いて、わしがお主を追ってきたのだ」
「しつこい奴だ……」
「我らは、この星に住まわせてもらう身。そう、この国の人の言葉で言えば客人。その立場を笠にきて、人の魂を食らい、あまつさえその体を乗っ取り、悪行三昧をふるうなど、まさに外道の所業」
「黙れ。人ではない我らに、外道も何もないわ。しかし、よくこの信長という男に入り込んだ事がわかったものよ」
「まずこの国に来るのに苦労した。だが、お前がゴアを発った後に、同じ場所へ向かう人物がいてな。フロイスという方であった。あの方も宣教師であったが、夢の中で語りかけたわしの声を聞いてくださり、共に海を渡ってくださった。このわしを神の御使いと言って下さった」
「水の体しか持たぬ貴様を神の使いとは笑わせるわ」
「お主のその傍若無人な考えが、わしに気がつかせたのだ。フロイス殿の目を通して、この国の世情を知ることができた。物欲や征服欲の強いお主の事、必ずそれが表面化するはず。そして己の欲を満たすためにはそれ相応の権力者に近づくはずだと思ってな。そして目をつけたのが織田信長という人物だった」
「ほう。なかなか鋭い奴だ。だが、どうやって見抜いた」
「フロイス殿の目と耳を借り、織田信長という人間の評判を聞いたのだ。この国で未だかつてない人物であった。既存の価値観にとらわれず、平気で破壊する異端者。伝統や権威を尊び、その下で自立した社会を築く社会を否定し、すべてを己の許に集約する、わしはそのような予感を抱いた。わしがそう思えば、お主とてそう思ったはずだ」
銀閣は欲に流されず、人の体や目や耳を借りながら、その心理を学んできた。そして、人とは比べものにならないほど長い時を生きてきた経験と重ねることで、人の本質を見抜く眼力を養う事が出来た。それ故に、信長が持つ伝統や前例にとらわれぬ価値観を持つ面と、恐れるものがない故に禁忌を平然と破る凶暴性が並立する。それは、金格と同じ存在であることを意味し、互いに重なり合う存在である彼らが惹かれあうのは必然と言え、銀閣は金閣が信長を器に選んだことを確信したのである。
「確証は得られずとも確信は持っていた。フロイス殿の使命もあり、信長殿との謁見が叶うこととなった。お主は、器になった人間の事など一切配慮しない故、平然と表に出てくる。金色の瞳とその態度や言動で、わしは察した。その場で討ち捨てようかと思ったが、フロイス殿は血で汚してはならないお方であった故、その場は見逃すしかなかった」
「あの時に貴様と会っていたとは気付かなんだ。だが、ここまで来るには随分と時を要したな。策でも練っていたか」
「お主と出会った以上、これ以上フロイス殿を器に使うわけにはいかなかったわしは、この国の侍と言うものを学ばなければ、この国の覇王である織田信長に接近し、お主を確実に仕留める方法はないと考えた。策を持たずに近寄れば、お主に勘付かれ、信長殿に仕えていると信じている家臣に打ち捨てられるのは目に見えている。どうしても、一対一になる場が必要だった。だから、侍と言う生き物を学ぶことにしたのだ。だが学ぶほどに、織田信長とお主の行動、どちらが狂っているのかわからなくなった」
二人ん周りは、完全に炎と煙に包まれ、もはや脱出できる経路は廊下一本である。しかし、そこを通るには、お互いにどちらか一方を討ち捨てねばならない。そんな極限の中でも、二人の間に漂う空気に一数の乱れもない。
「ほう。何に狂気をみた」
「この国の侍と言うものは形式や格、そして権威と言うものを大事にする。如何に能力がある者であってもこの権威の力を借りぬ事には天下は取れぬ。そのような国の中で、信長と言う御仁は権威を破壊し、この国が積み重ねてきた形式に揺さぶりをかけると言う異形の男。わしはそこに狂気を感じた。そして、お主はいつ信長殿に入り込んだのかは知らぬ。だが、茶器狂い言う所業に、わしはお主の影を見た」
「なるほど、鋭いな」
「茶の湯と言うものはわしには理解できぬ。信長殿は恐らく情報を集めたり、価値を付属することで通貨や国の値打ちに引き上げ、家臣や大名を操ろうとした。そこは天才の故であろう。だが、お主の茶器狂いは度を越していた。国一つ滅ぼさんとし、そのような土くれの焼き物のために人を死に追いやる。そこが狂っておる」
「土塊とは無礼な。貴様に何がわかると言うのだっ」
信長、いや、金閣のあまりの剣幕に、銀閣は意外を感じ、驚いてしまった。決して余裕を崩そうとしなかった金閣が、初めて感情を露わにした瞬間であった。
「土塊とは無礼先晩。この形、色、質感、重み、そしてここに漂う魂、これを理解できぬお前など、下郎に過ぎぬ」
「理解できぬな。少なくとも今のわしには。たかが土塊のために多くの命を殺め、人生を狂わせ、国すら滅ぼしかねない妄想など、理解しようとも思わん」
金閣は歪んではいるものの、芸術を理解してしまった。しかし、元が外道故に常軌を逸した偏愛を示し、現に生きる者の道理を無視した。銀閣は、芸術を理解できぬある意味では唯物史観である。人でない故、致し方のないことである。だが、人の心情や道徳を受け入れ、学ぶ度量は持ち合わせていた。人徳を持ち合わせていた者の体を借りた事が幸いしたのだ。
人を理解せずに喰らい、ねじ曲がった世界に足を踏み入れた金閣。人を理解し、尊重することで学び続けた銀閣。人の世に紛れ込んだ二つの人ならざる者達は、ここに至り、同族でありながら決して交わることのない道に完全に分かたれたのだ。そして、それを悟ったかのように、二人は太刀を鞘から抜きはなった。同族という存在、その最後のつながりを断ち切るために。
「もはや、話し合う価値はなし。ここで成敗してくれる」
「よかろう。この炎の中だ。水である我らの体はひとたまりもない。生きて出られるのは一人のみ。行くぞ、金閣」
二人はついに刀を交えた。体を操られる傀儡、それを操る傀儡子が燃え盛る炎の中で争う。
本来は自分の体ではない、人の体で戦う故に、その体になじんでいる方が有利になるのは必然であった。つい先ほどまで、光秀の体に乗り移っていた銀閣にとって、この足軽の体で戦うのは非常に難儀なことであった。体の重さや手足の長さを把握しきれず、紙一重の差で重傷は避けてはいるが、至る所に剣先がかすめ、傷だらけになっていく。
人の道徳と言うものを学び、さらに元々の教えであった、乗り移る人間への干渉は最小限にという教えもあり、銀閣としては、乗り移っている男にこれ以上負傷を追わせるわけにはいかなかった。かといって、この機を逃せば、金格を討ち果たす機会は失われてしまう。葛藤を抱えながら、銀閣は受け一方になる。
金閣の方は銀閣と対照的に、長年信長の体に入り込んでいたため、完全に体を我がものとしており、自在にそれを操り、剣術も自分のものにしている。その差で、玄人と素人同然の差が生まれている。
その差を最大限に利用し、金閣は刀を振りかぶり、剣圧で銀閣を一刀両断にしようとした。銀閣は、必死にそれを刀で受け止めた。刃がぶつかりあって火花が散り、びりびりとした痺れが両腕を伝わり、鍔迫り合いをしながら互いの顔が刀越しに最接近する。
「適当に足軽などに乗り移るから、このような不利をこうむるのだ」
「くっ、おのれ……」
銀閣とて、この展開を予想しなかったわけではない。しかし、最新の注意で信長に接近するお膳立てを整えた上、多くの兵の命を預かる光秀をここまで連れてくるわけにはいかなかった。かといって、命が軽いから足軽を選んだわけではない。誰にも怪しまれず、ここに忍び込むには、誰にも気づかれずに光秀の体から出る必要があった。そのため、この足軽の体に乗り移ったわけであったが、慣れぬ体の上に剣術の心得があまりない男だったようで、幼いころから剣術を修めてきた信長の体を使い、それに馴染んでいる金閣に対して、あまりにも分が悪かった。
金閣は、銀閣が宿る足軽の腹を蹴飛ばして体を倒すと、大きく刀を振りかぶりとどめをさす構えに入った。
「これまでだ」
勝ち誇った金閣が言い放ったが、その一言が余計だった。戦場の兵であれば、もの言わず最短距離で相手を仕留めなければならない。しかし、外道になり果て、人殺しに快楽を覚え始めていた金閣は、相手を倒し命を奪う陶酔感に酔い、言わなくともよい台詞を吐いた。それが好きとなり、銀閣には最後の好機となった。
型など関係なく、ない振り構わず銀閣は刀を振り、伸び長の足を斬り払った。一念のこもった剣は技を超えた威力を発揮し、信長の足の拳を切り裂いた。足元を不意に斬られ、立っていられなくなった信長は体勢を崩し膝をついた。逆に跳ね起きた銀閣は、渾身の力を込めて、太刀を信長の頭上に振り下ろした。刀は頭蓋骨を叩き割り、脳に達した。
金閣も銀閣も、乗り移った相手を動かすために、普段は脳に潜む。そして、相手の体の自由を意のままにして、ものを見、音を聞き、舌で味を感じ、肌で寒暖を知り、口でものを言う。それ以外では、彼らはただ潜むだけで表には出ないが、五感を使う際は体を制圧するため、その際に不思議な瞳の輝きを発する。
銀閣は刀を引き抜くと、支えを失った信長の体が大の字になって倒れ込んだ。潜んでいた脳を直撃され、金閣はその痛みも自分のものとして感知し、体内に潜んでいられなくなり、傷口から本体が這い出てきた。それは、どう見ても水にしか見えない。無色透明で形もないのだが、意思あるものの様にあちこちをすべるように移動を繰り返す。
金閣は体を失い、用意していた女の体に逃げ込もうとしたが、その前に銀閣が立ちはだかった。金閣は、すべての逃げ場を失った。そして、水の体は、寺を包む炎にじかにさらされ、次第に湯気が上がり始めた。近くの畳に火がつき、体が直接火に触れてしまい、いよいよその体は気泡があがり、蒸発を始めた。湧きあがる泡はまるで、金閣の断末魔の様に聞こえるが、それは人の耳では聞き取れなかった。銀閣は同族の最期を見守りながら、
「迷わず、地獄とやらに行くがよい」
と、念仏のように呟いた。その言葉と共に、金閣の体は炎に包まれ、湯気となって蒸発し霧散していき、絶命した。長い務めを果たし、ほっとして力が抜けそうな銀閣であったが、この足軽の体まで燃やすわけにはいかぬし、自分達の争いに巻き込まれた女も助けなければならない。銀閣は刀を鞘におさめ、女の体を肩に担いで、まだ完全に火がまわってない廊下へ向かおうとした。その時、絶命したかと思われた信長が、
「人間、五十年……」
と、はっきりと口にした。
銀閣はぞっとした。金閣は確かに絶命し、この目で見届けた。となれば、そこにいるのは織田信長であるが、あの傷で生きているはずがない。銀閣は、空耳と思おうとしたが、理屈で考えるようにできている頭を持つ銀閣は、納得いく理屈を得るために、そっと後ろを振り向いた。
信長の体は今も変わらず、大の字になって倒れているのだが、口だけははっきりと動いていた。恐らく、足軽の腕では金閣を高温にさらすことで体から引き出すことはできても、本体である信長を即死させるまでには至らなかったようだ。しかし、致命傷には変わらず、信長の声は今にも消え入りそうな声であった。
「人間五十年。そう思い、生きている内にできることはすべて為す。そのためには、邪魔者はすべて消さねばならなかった。構ってはおれぬ、人の命は長くはない……。それがよもや、物の怪に体を奪われ、物の怪に介錯されるとは。神仏を信じぬ、このわしが……」
「信長殿、あなたは死んではおられなかったのですか……」
「死んでおったわ。お主はわしと同じで、魂など信じまい。だが、わしは、物の怪に体を奪われたことで、魂と言うものがあると知った。……。理屈ではないな、魂だけは、今日まで生きながらえてきた。たまらぬな、物の怪の言葉を皆、わしの言葉と思い、ひれ伏した来たのだからな……。銀閣と言ったな、お主、いつわしと金閣が入れ替わったことを確信した。茶器狂いだけではあるまい」
「……、比叡山の焼き打ちであります。茶器狂いはきっかけに過ぎませぬが、真の確証はあの時です。如何に目で見えるものしか信じぬお方とはいえ、信長殿は日の本の国のお方。触れてはならぬものはわきまえておられると思っていました。あれは人の所業にござりませぬ。人として踏み越えてはならない一線を超えた。そう感じた時、織田信長は金閣であると確信しました」
「……、己の心を芯まで理解するものがいると、これほどまで心が安らぐものか。……。わしは、神仏は信じぬが、否定はせぬ。己の目で見えぬものは信じぬが、心の中にとどめておけばそれで構わんと思っておった。わしが嫌ったのは、まつりごとへの干渉や修行を忘れ堕落し武装した僧がどもが、『仏の道』などを抜かすことに反吐が出たのだ。だが、それを知る家臣は誰もおらぬ。そして、焼き打ちを命じたのも、わしではなく物の怪であるとも気がつくものは誰一人いない……。生まれて初めて、孤独を感じたわ」
魔王を自称し、価値観を破壊して乱世を統一しようとした男の口から、孤独を言う言葉が出ようとは。勝ち続けることで恨みを買う。頂点を目指すほど、共に寄り添うものがいなくなる。物の怪に体を奪われたことだけではなく、覇道を目指す上で織田信長が常に戦い続けたのは、勝つ度に、昇り詰める度に膨れ上がる孤独だったのではなかったのか。その孤独に破れないために、弱き心のためにすがる神仏などを否定して言ったのではなかろうか。いまわの言葉を聞きながら、銀閣は一人の人としての織田信長を見る思いであった。
「だが、もうよい。すべて終わるのだ。……。銀閣、礼を言う。金閣と言う輩を成敗し、織田信長を救いだした男、あっぱれである。……この信長があっぱれと言うのだ、誇りに思うがいい」
「……。信長殿、お許しくだされ。このような形でしか、奴を仕留めらなかった故……」
「それこそ、是非もない事よ。わしの言葉を誇りに思え。……、最後に、そこにある茶器をここに置いてくれ。それが最期の頼みじゃ」
「茶器、でございますか」
「お主が言う土塊、よ。お主とは気が合う者同士と思うが、こればかりは理解できなんだな」
「恐れながら……」
「人を信じぬわしであった。故に、信じるものを求めた。目で見えるものであり、また心を委ねられるもの、それが茶の湯だ。……、茶道具に宿る魂、狭い空間に身を委ねる安堵、そして己と向き合える唯一の場、それが茶の湯にわしが見出したものだ。だから、茶器に狂う素ができたのやも知れぬし、金閣に付け込まれたのであろう。……、銀閣よ、今少し人の世を見てまわれ。人と言う生き物を知れ。そうすれば、お主にも風情や風流、うつくしきもの、そして魂がわかる。それを知れば、……、ふふ、人の世は面白きものと思うであろう……」
「……、面白きもの、でございますか。……、心に留めておきまする。……、では、最期の願いはこうして叶えました故、おさらばでございます」
銀閣は信長の茶道具を傍らに寄せ、部屋を後にした。かすかに信長が笑みを浮かべた様に思ったが、もうそれを確認するゆとりはない。燃え盛る寺の廊下を必死で走る。自分の命だけではなはなく、乗り移っている足軽と担いでいる女の命も預かっているのだ。
炎のため、酸素が薄くなり、そのせいで体の自由が次第に利かなくなってくるが、ここで諦めるわけにはいかず、必死で足を動かす。やがて、寺に侵入したものの、火で進路を失って立ち往生している明智軍の兵士の姿が見え、銀閣はホッとして大声をあげた。
「おおい、女が倒れておったぞお。もう火が回った、中には行けん」
ここから脱出するための言葉ではあったが、織田信長と言う男の死をこれ以上汚したくはない、そんな思いが銀閣の心をよぎったためであった。
本能寺は完全の炎に包まれる。そして、魔王と恐れられた織田信長は、その炎の中へ永久に姿を消していった。