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是非に及ばず

 明智軍は、それまでとは違うh調で移動を開始した。新月の暗闇を味方につけるには、夜の内に異動を完了し、今日に入らなければならない。それが叶えば、悟られ巣に本能寺を包囲できる。寺とは言え、堀などを巡らせた城塞の構造を持つ本能寺だ、数が多いとはいえ、それを決定的なものにするには、完全包囲を完成させ、相手の防御を無に帰さなければならない。それが完了して、初めてこの作戦は成功する。京には信長だけではなく、嫡男の信忠もいる。最大の目標は信長なれど、信忠に勘付かれると好機はしぼんでしまう。何としても、電光石火の勢いで本能寺を包囲することが必要であった。

「秀満、足軽どもには、何と命令が行き渡っている」


「さすがに信長公を討つなどと申せば、動揺が走りまする故、相手は徳川殿と伝えております。何しろ、この軍には織田家の兵も居ります故」


「なかなかやるの。徳川殿は恭順はしているが、あくまで大名。我らと違い一家臣ではない。野心はあって当然であるがため、武田と結ぶという話もあったほどだ。さらに嫡男と正室をお館様の命で死に至らしめている。よく耐えているものだともっぱらの噂だ。内心では恨みを抱いていても不思議ではない徳川殿を討てとお館様が命じても、むしろそれは当然の成り行きとも言える。徳川殿も、今は丸腰同然だからな」


「ですが、本能寺に近づきますと、さすがに感づくでしょう。間際になって騒がねばよいですが」


「秀満、お前も心の内では臆しているのであろう。だがな、人と言うものは追い込まれると不思議な考えを起こす。道理ではない、獣の如き習性で己が生き残る道を選ぶ。獣の感と言うものは、忠義や理屈を超えておる。故に人は、瀬戸際ではその習性に従い、道を選ぶ。この手勢で本能寺に向かえば、己が生き残る道は、頭で考えなくともともわかる。丸腰同然の本能寺に駆け込むか、我らと共に本能寺を囲むか。生きるか死ぬかの瀬戸際にいる足軽は、なおのこと獣に近づき、その感性が示す方に向く。お主も、その恐れは京に着くころには消え失せよう」


 光秀の的を得た人の習性への考えに秀満は、心の中で唸るしかなかった。五十五年の生涯の間に幾多の出会い、命のやり取りが行われる戦、丁々発止の政事の裏舞台、そして名君と暴君の二つの顔を持つ織田信長のもとで生きてきた体験が、人の心まで操り見抜くと言う技を身につけたのだろう。感服し頭を下げた秀満は、光秀の目に宿る銀色の目の光に気がついていない。




 夜明けが近づき、空が少しずつ青みがかってきた京の都。その京の四条西洞院、油小路、六角、錦小路にいたる広大な土地に、今にも迫りくる明智軍が目指す本能寺がある。そして、この本能寺に、この戦国の世を龍の如き勢いで昇ってゆき、今や天下すらその手中に収めようとする織田信長が逗留している。武田を滅ぼし、上杉を封じ込め、長宗我部に圧力を与え、毛利を追い詰めた彼の勢力は、もはやその完成形を築き上げたと言って過言ではなかった。周りに敵なし、奢りでも油断でもなく現実にそれを成し遂げてしまった彼は、まさに覇王とも言える。しかし、それほどの圧倒的な強さを誇る彼であったが、その器の大きさとは裏腹に、家臣に対する苛烈さは口で表すことのできない、心の底から湧きあがる根源的な恐ろしさを備えていた。

 光秀の指摘したように、神仏に対する姿勢は、この時代ならば、いや、現代においても目を引くような異様な行為と言えるものである。それを躊躇いもせずに発想し、口にして、部下に命令を下す。科学の発達が進んでおらず、理屈ではなく観念が思考を左右される時代において、宗教と言うのは非常に大きな場を心の中に占め、物事の決断を大きく左右する。それほど大切なものを壊せ、殺せと言うのは、己の心を破壊するに等しいのだ。心の拠り所を自分自身の手で傷つける行為を家臣たちは、自分の納得のいく理由で心を補い、信長の命に従うしか生きる道はなかった。

 観念でものを考える民と比べると、信長は理屈、つまり論理で物事を決めていく。これがよいという判断を下せば、その道にある思想や観念は全く気にしない。実をとるためには名は必要ない。権威も必要ない。必要なのは、そこにある物、目に見える確かな物しかありえないだ。そのような異物感を放つ信長が、他と違う存在感を大きくする度に、周りは戸惑い、反発するが、他者と根本から違う信長にとっては、敵とは思考から違う故に、形式を伴う戦いが成立しない。信長にとって戦いとは、自分の道にあるものでしかないだから、取り除くだけと言う考えがある。だから、手段を選ばず相手を滅ぼし、容赦もせず、信じがたい作戦すら可能にする。まさに、戦乱の世を一つにまとめるために時代が必要とした異端である。

 その信長も眠っている時は、一人の壮年の男に過ぎない。この男が見る世界、そして口から発せられる言葉。それが世を動かすとともに、世の中の何かを破壊していくなど、信じがたいものである。静かな寝息を立てながら深い眠りの中にいた信長だったが、突然目を見開いた。信長ともあろう者が悪夢にうなされ、寝具を跳ねのけ飛び起きることは考え難い。しかし、先程まで眠っていた人間とは思えないほどに目は爛々と輝き、眠気などは一切感じさせない。信長は音もなく寝具から抜け出すと、部屋の隅に行くと桐の箱を引っ張り出し、中から茶器を取り出し、それを恍惚とした表情で見つめていた。その顔は、家臣に恐怖を与える男とは同一人物とは思えないほどの変わりようで、一種の病的とも思えるとりつかれたような表情を浮かべている。

「美しい……」


 普段、家臣や家中の者に対して見えることのない恍惚とした表情、甘い口調は、魅入られている人間そのものである。


 茶器狂い、今の見方で言えばそうであろうが、当時の価値は一国一城に相当するものであった。そして、茶器にそれほどもまでの価値を付与したのが、まさに信長であった。

 元々信長は茶の湯に興味があったが、リアリストであった彼が、当初から芸術的価値に入れ込んだとは思えない。むしろ、そこに集まる人間から情報を交換し合う、一種のサロンとして考えていたのだろう。しかし、それなりの家柄に育った者には、本物を見抜く目、さらにはいかに現実主義者とは言え、物に宿る無形の魅力や価値に気がつくものである。程なく、信長も茶の湯の持つ魅力と価値、そして茶器の値打ちに気がついた。そして、それは上洛した時に大きな炎となって燃え上がった。

 茶室に集まる人々は、政治の中枢に関わる者、物流を一手に握り富を築く商人など、世の中を動かす地位にいる人物のなんと多いことか。そして、そこで飛び交う情報がどれだけ高度なものかを、信長は天性の才覚で見抜き、これを掌握することの重要性を認識した。

 まず、茶の湯のブランド化、ステータス化に手をつけ始めた。茶の湯接待の主催権を家臣に許可制にして与えた。当然関心は高ま売る上、取り上げられると一層したくなるのが人間の性。こうして、茶の湯はさらに洗練され、価値を高めていく。そして、そこで使用される茶道具の価値も高騰する。次第に、それは道具としてではなく、芸術性と言う目に見えぬ付加価値を際限なく上げていき、国よりも茶器を欲しがる武将まで現れる始末であった。信長は、如何に自分の勢力が拡大していっても、家臣が論功を上げるほど、自分が与えられる土地がなくなるのを予期していたのだろう。武士は地位と土地を得ることを求めて主君に仕え、戦に邁進する。その価値観を壊し、物質的なものではなく目に見えぬ無形の価値を論功にするという画期的な発想を生み、それを現実の物にした。

 しかし、自分で構築した新たな価値観に信長自身が飲み込まれるのには、それほどの時間がかからなかった。名物狩りと呼ばれ、天下の名器ありと聞けばすぐに使いを出し交渉するのだが、相手にしてみれば断ればどのような結末が待っているかは、信長の性格を考えれば火を見るより明らかである。形ばかりの話し合いで、信長は欲しいものは強引に手に入れていった。行きつくところまでいくと、三大名器を揃えようと松永久秀にその一つを譲るように言ったが、彼は茶器に火薬を詰め爆死するという前代未聞の顛末を迎えている。

 このように、茶器に取りつかれたのは事実だが、茶器の価値を高めたことにより、茶器の収拾が天下を掌握することにもつながっていったのである。


 信長は、まだ世も明けぬ内から、持ち込んでいた茶器を取り出し見入っているのである。自分の権力の象徴、そして物欲の権化であるそれを見つめる様は、やはり異様と言えば異様である。権威を恐れぬものが、無形の価値や美にとり憑かれているのは、矛盾を抱え奇妙であった。

「美しい。こうやって日に一度は眺めぬと、落ち着かぬわ」


 自らのコレクションを眺め、恍惚とした表情で満足感に浸ると、精気を得たという様子で再び茶具を慎重な手つきでしまい込み、厳重に保管した。何年も前から、朝になり目を覚ますとこうやって鬼気迫る様子で包みを開け、うっとりとした様子で茶器を眺め、目覚めたときとは打って変った生き生きとした様子で茶器をしまい込むという、人知れぬ習慣が信長の日課となっていた。

 まさに、一日の始まりに体の中に魂を吹き込まれたかのようになった信長は、早朝から快活な動きを始めた。まだ、寺は静まり返っているが、すっかり目が覚めた信長は用を足そうと厠へ向かった。霧が濃く、六月だが少し肌寒さを感じる外の空気であった。廊下の外れにある川やまであと少しと迫ったところで、後ろから誰かが廊下を走る、騒々しい足音がした。この早い時分から何事だと癇に障った信長は、どなりつけようかと思ったが、それを制するが如く矢のような声が耳に飛び込んだ。

「殿、お伏せ下さいっ」


 家臣の鬼気迫る声に、信長おただ事ではない何かを感じ、言葉に従って身を伏せようとした瞬間、肩に衝撃が走り、壁に叩きつけられてしまった。そして、すぐに鋭い痛みが走り肩口を見ると、長い矢が肩口に深々と刺さっていた。さすがの信長も、いきなり早朝に矢を射かけられるという情う今日を飲み込めずにいたが、本能寺の自分が逗留していることなど、京にいる者や家臣も知っていることだ。そこに矢を射かけてくる者となると……。

 そこに、他の家臣が駆けこんできた。信長は、湧きを抱えられて部屋の中に引きずり込まれていた。追い討ちをかけられるのを恐れてのことだ。矢を抜き取られると生温かい血が流れるのを感じたが、信長は眉一本動かさず手当てを受けていた。そこに駆け込んだ家臣が、息を切らせながら膝をつき報告をする。

「お館様、一大事にございまする」


「わしに矢を射かけるなど、確かに尋常ではないな。して、如何したのじゃ」


「寺のまわりを尋常ではない兵が囲んでおりまする。霧に隠れてすべては見ませぬが、百、二百ではありませぬ」


「容易ではない事態だな」


 現実主義である信長にしてみれば、この事態を悲観するという概念はない。自分に弓引く者が包囲している、ただそれだけのことである。そして、その事態に自分がどう立ちまわるか、それしか考えない。

「泊っているものをすべて叩き起こせ。この寺には、弓、刀なども貯蔵してある。全く手の打ちようがないわけではない。まず、敵が誰かを調べよ」


「はっ」


 寝静まっていた寺がにわかにあわただしくなり始める。それと共に寺の周辺も騒ぎだしてきた。信長は五十を目前に最大の難関を迎えようとしていた。それをが超えられる難関かどうかは、まだわからない。家臣達は弓や刀を持ち運び、出来る限りの武装を始める。信長も、大弓を携え、床には刀や槍を突き刺し、臨戦態勢を整えていく。

 そこに外の様子を探っていた家臣が戻ってきた。その顔面蒼白な湯オスは、粗さなる悪い知らせがあることを如実に物語っている。

「お館様、一大事です」


「それはわかっておる。このバカげたことを企てたのはどこの誰かが知りたい」


「それが、……、外にたなびく旗は桔梗の紋。……、明智様でございます」


「光秀だと。……、あ奴、二万の軍を率い、わしは京に丸腰同然で本能寺を宿をとることを知って、引き返してきたな」


「お館様、まだ、完全に囲まれたわけではありませぬ。女衆にまぎれて逃げることもできまする」


「光秀が、そのような逃げ道を作るはずはない。わしは、誰よりもあの者の頭も胆力も知っておる。知っていて、このような有様とはな。だが、相手が光秀なればこそ、もはや勝ち目はない。是非に及ばず。わしに勝ちはないのだ。逃げたいものは逃げても構わぬ。後は、死に方の問題じゃ」


「お館様……」


「泣くしかできぬなら、目の前から去れ。犬死にするよりなら生きる道もあろう。わしは、辱めを受けて生きるくらいなら、織田信長らしい死を迎えよう」


 信長はそう言い、一旦寺の中に去っていった。もうすぐ、明智軍は圧倒的な兵力で攻め入って来る。勝ち目は全くない。家臣たちの前では覚悟を決めたように見えた信長の顔絵だったが、奥に引き下がり周りに人がいなくなると、口元を歪ませ、別人のような表情と声を上げた。そう、あの茶器に見入っていたあの時と同じように。

「光秀、か。あ奴の心は読めなかったな。こしゃくな真似をしてくれる。だが、これしきの事で死なぬ。そして、捕まらぬ。まだ、こちらには打つ手がある……」


 まるで、信長ではない何者かが信長の声と口を使って喋っている、そうとしか思えなかった。そして、その目は金色に不気味に輝いている。


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