時は今
天正十年六月二日未明。暗闇の中、京の桂川に差し掛かる一団があった。彼らを指揮するのは、明智日向守光秀。織田信長を頂点とする、織田家で最も権勢を誇り、信長の信頼を勝ち得た男である。彼は、信長の命で、中国攻めを行う羽柴筑前守秀吉の援軍に向かう道中であった。今、この瞬間までは……。
軍を率いる光秀は、馬上で体を揺らしながら、暗い夜道の先を見据えている。家臣の者達は、光秀の様子を見て、
「殿は、今も頭の中で、中国攻めでの立ち振る舞いを考えておられるのだな」
と、思っていた。お館様、つまり信長の今度の命令は、中国地方に展開し、強大な勢力を持つ毛利を攻める羽柴筑前守秀吉の支援である。ほぼ勝ち戦でありながら援軍を求めるなど、秀吉の考えそうなことだと言うことは家臣たちでもわかることだった。
秀吉は、光秀と同格とも言える勢力を持つ出世頭である。彼は出自は百姓と言っているが、本当の身分すら定かではないところから、城持ち大名にまで出世する彼の才覚は並みではないどころか常識外れであった。彼の才覚は、人の心を察することの巧さにある。周りにいる人間すべての考えを察し、何を望むか、何を欲するかを嗅ぎ取り、それを実現することで手柄と信頼を獲得し、のし上がってきた。その手腕は、光秀ですら、
「あの人たらしには、頭が下がる。あやつの才覚は、城だけでなく、自分より格が上の者すら引き込んで手中に入れてしまう不思議なものだ。そして、あの眼の輝きを見たものは皆引き込まれる。このわしですらな」
と、恐れ入ったと言う表情で苦笑いしながら家臣に話すほどだった。今度の援軍要請も、あまりに大きな手柄を独占すると、成り上がり者の自分が家臣団の間で図抜けることで反感を買うばかりか、絶対的な支配を好む信長の感に触ると言うしたたかな読みがあった。それを知っている家臣団は、半ば白けていると同時に、勝ち戦に乗じて領地を拡大することを考えていた。恐らく殿もまた同じことを考えていると信じ切っていた。秀吉に負けぬ力量と才覚があるからこそ、織田家家臣の中で信頼と地位を勝ち得てきたのだ。そして、それくらいの読みとしたたかさはもちあわせているのが明智光秀なのだ。
光秀に率いられた軍勢は深夜の行軍を続けながら、街道を進んでいた。このまま順調に行軍を続ければ、羽柴軍に合流するのも遅くならずに済む。そのような中で進んでいる時だった。
馬に乗って行軍していた光秀が、突然手綱を引いて馬を止め、
「皆の者、止まれ」
と、静かに命令を下した。主の命は絶対だ。家臣たちは、後続の兵に立ち止まるよう命令を伝えていく。真意を理解しかねた重臣の明智秀満が、停止命令を出した光秀にどのような理由なのか問いかけてみた。
「殿。何故このような所で馬を止めるのです。夜間の移動ゆえ、早めに休息をとる場所に辿り着かねば、羽柴殿との合流が遅れまする」
秀満と共に、同じく明智家の重臣である斎藤利光もまた、光秀の命令に疑問を持っていた。
「殿、早く馬を進めませんと、足軽達にも動揺が広がりまする。いかががされたのですか」
二人の問いに、光秀は一向に応えようとせず、見ようともしない。そして、新月の空を見上げると、深いため息をついて二人の方を振り返った。そこにはいつもの明智光秀の顔があるのだが、どこか表情や目つきが本来の彼と違うことに、長年仕えた家臣も気がつけなかった。じっと二人を見つめた光秀は、ゆっくりと口を開き、言葉を発した。静かだが、確かな口調で。
「そなたら、わしのために死ぬ覚悟はあるか」
光秀の思いもかけぬ問いに、利光や秀満は驚きはしたが、それは常日頃から心に決めてあることなので、答えに躊躇はなく、もちろんだという答えを返した。それを聞いた光秀は力なく笑うと、
「そうか。お主たちも、そしてわしに率いられるこの軍の者は、わしに、この明智日向守光秀に命を預けられる、いや、くれるてやると思うのだな。……、すまぬな」
と、慈しみ深い表情を見せた。何故、このような時にこのようなことを殿は言うのか、さっぱり理解できない家臣は、あっけに取られていた。そんな彼らに、光秀は確かな口調で命令を下した。
「これより我らは東に向かう」
家臣たちは驚愕した。一刻も早く西の中国に向かわなければいけない時に、何ゆえに京に軍を向けな変えればならないのか。軍が遅れ、さらに京の都に我々がいれば、主君信長公は何と思われるか。信長公は何と思われるか……。信長……。利光と秀満の脳裏に、恐ろしい考えが浮かんだ。東に向かえば京都。そこには信長公がいる。宿泊するのは本能寺。堀や防壁などを築かれているとはいえ、ほぼ丸腰に近い状態の手勢。彼らは、光秀の考えていることを理解しつつあった。
光秀は彼らの顔を一瞥し、彼らが口にしなくてもその意を察し、自分の言葉を待っていることを理解した。ゆっくりとうなずくと彼は、静かに、はっきりとした口調で宣言した。
「我らはこれより東に向かい、京へ戻る。足軽にはまだ伝えるでない。彼らは、それほど忠義が強くない故、怖気づく者も出るであろう。事の次第は、その時までお主達と一部の者以外に知らせるな。敵は、敵は本能寺にあり」
予想していたとはいえ、あまりにも恐ろしい主君の発言に、家臣は言葉を詰まらせ、顔面は蒼白になっていた。信長の苛烈さは度を超えており、この事が知られる様なことになったり、事が失敗した後は死より恐ろしい仕打ちが待っていることは、織田家に仕える明智の家臣であれば恐怖を伴ってわかっていることだった。胆冷やして思考停止に陥っている家臣を見つめながら、光秀はあくまで冷静に、淡々と己の心の内を打ち明けていく。その顔には表情はなく、まるで能面が口を利いているようである。
「お主たちが肝を冷やすのも無理はない。お館様は、自分に手向かう者や牙をむく者に対しては、一切の情けはかけず、鬼となってこれらを征伐する。神仏を恐れぬあのお方にとって、人の道を外れることに後ろめたさはない。白か黒か、その二つのみ。灰色をこの世に認めぬのだ。故に、我らの行いは決して許さず、怒髪天を突きながら襲いかかるであろう」
光秀は、淡々と信長の恐ろしさを口にしていく。それは家臣たちもわかっている事ではあるが、光秀落ち着いて口にするほど、恐怖に体が固まるしかなかった。利光は無駄かもしれなくとも、光秀に今一度そに考えを改めてもらうことを願う気持ちで、真意を問いただした。まさに、地獄への分かれ道に達っている心境だった。
「それほどまでにお館様の恐ろしさをわかっていながら、何故にこのような謀反を企てるのですか」
はっきりと光秀の考えを謀反と断じた家臣に対し、光秀は怒るでもなくただ淡々と答えるのみであった。その表情は、能面のように無表情で、人の物と思えなかった。
「これは謀反にあらず。お館様は、いつのころからか人の道を外れ、人であることをやめてしまわれた。神仏をないがしろにし、城の石垣に墓石を使う始末。僧侶であろうと一切容赦せず、寺を焼き払う所業。一向宗とあらば、女子供と容赦はせず、平気で屍の山を築く。挙句の果てには、朝廷に対しても恭順の意を捨て、帝に対してもはや敬意を持っては居らぬ。朝廷の臣下ではないものが兵力を誇示するがため、京で馬揃えを行うなど、危険極まりない恫喝である。お館様は、第六天魔王などとのたもうておる。それはその所業を見れば、わしも同意する。だが、第六天魔王は天上にあるからこそ、魔王たりえる。この世におる魔王など、鬼畜の如きもの。我らは、織田信長と言う人の体に巣食う魔物を天に帰す者と思え。謀反にあらず。これは天が命ずるもの。お館様の魂を天に送るとともに、魔からこの世から救うものと思え」
光秀の圧倒的な演説は、家臣たちの恐怖を取り払い、魂をも引き寄せるほどの力を持っていた。謀反の原因など、古今東西に溢れかえっている。それは、謀反の原因を相手を貶め、己の正義を作るための物。しかし、光秀の言葉は、あまりに荒唐無稽でありながら、信長の非道を的確に指摘し、誰もが言いだせず、心の奥底に押しこめていたものを代弁していた。忠義と共に存在する恐怖支配への不満。それを光秀は的確に言葉にし、また謀反ではなく、あまりにも人の道を働く外道と言ってもいい信長の行為を止めると言う、恨みではなく、ある意味最後の信長への忠義すら感じさせるものであった。あの信長に、今の行動を止めさせるには、もはや死しかない。主君である光秀の思いを受け止め、これから自分達の起こす行動に整合性を求めるには、この考えしかなかった。時はもうない。恐怖支配から逃れるには、今夜を置いて好機はない。日頃から、心の片隅にあった信長への懐疑心が加わり、家臣達はついに決断した。
「わかり申した。これが野望にあらず、真に殿の先ほどの言葉道理だとするなら、我らの命、殿に差し上げましょう」
家臣の決断を聞き届けた光秀は、わずかに頭を下げ、その心意気に感謝の意思を伝えた。主が頭を下げるなど、ありえない事であった。
「お主たちの決意、感謝するぞ。今宵は新月、闇にまぎれて行動するにはまたとない。見よ、天も我らに味方しておる。夜が明けぬうちに、本能寺を包囲せよ。この数で囲み攻めれば、必ずやうまくいくであろう」
「はっ」
家臣たちは、後続の部隊に指令を飛ばしに馬を走らせた。もう後戻りはできない。本能寺へ向けて、一本道を行く行軍が始まった。
その時、光秀の顔を見る者は誰もいなかった。もしも、一人でも彼の顔を見ていれば、歴史は大きく変わっていただろう。馬の腹を蹴り、自らも移動を始めた光秀の瞳が、一瞬だけ銀色に輝いた。そして、その口から彼の声であるが、その声の主が他の誰かの様な言葉が口から洩れていたが、一人としてその声が耳に入る者はいなかった。
「明智殿、すまぬ。だが、この好機を逃すわけにはいかぬのだ。今しばらく、この命を貸して下され……」