その令嬢は、未だ愛を知らない。
窓辺に差し込む光は、思いのほか温かかった。
その温もりを、静かに受け止めていた。
――あの頃の私は、まだ知らなかった。
その王子は、身勝手な男だった。
婚約が決まったのは、私が十六の春だった。
父から告げられたとき、私は窓の外を流れる雲をぼんやりと眺めていた。泣きたいわけでも、怒りたいわけでもなかった。これが私の生きる道なのだと、どこか遠い場所の話のように受け止めていた。
貴族の娘に生まれたということは、そういうことだ。自分の意志で歩む道など、最初から用意されていない。父も母も、申し訳なさそうな顔をしていた。だから私は笑った。大丈夫です、と。その言葉が嘘でないことを、私自身が一番理解していた。
婚儀は秋に執り行われた。
大聖堂に響くパイプオルガンの音は荘厳で、祭壇に並ぶ蝋燭の灯りは美しかった。
隣に立つ男――イヴェールは、長身で切れ長の目に透き通るような白い肌をしていた。黒髪は手入れされているのかいないのか判然とせず、それでも不思議と様になっている。容姿だけを切り取れば、絵画から抜け出てきたと言われても納得できるほどだった。
誓いの言葉を口にするとき、彼は私を見なかった。私も、彼を見なかった。
それで十分だった。これは契約だ。
だが、共に暮らし始めて分かったことがある。彼の身勝手さは、想像を超えていた。
私が楽しみに計画していた外出が、彼の気まぐれで当日に取り止めになることは一度や二度ではなかった。理由を問えば、気が変わったで済まされる。ただそれだけだ。謝罪もなければ、代わりの提案もない。
私の希望や都合などはお構いなしだった。彼の頭の中に、私は存在しないようにも思えた。
そんな彼との夕食は、たいてい静かだった。会話というものがなかった。
ある晩、私は珍しく自分から口を開いた。
セシリアおばあさまの話だった。なぜそんな話をしたのか、自分でも思い出せない。ただ、その日はやけに彼女のことが頭をよぎった。
父方の遠縁の方なのですが、と前置きしてから私は話した。子どもの頃、失敗するたびに叱られると思っていた私に、おばあさまがいつもかけてくれた言葉のことを。
『大丈夫。たとえ間違えても、失敗しても、それで終わりじゃないのよ。きっと、その次があるから』
話しながら、私は少し笑っていたように思う。窓の外を眺めるイヴェールの横顔に、特に反応はなかった。いつものことだ。私の話は少しも聞いてはいないのだろう。私はそう思い、それ以上は何も期待しなかった。
彼は何も言わなかった。フォークを置く音だけが、やけに大きく響いた。
ある日の夕刻、私は庭で摘んだ薔薇を花瓶に活けていた。よく咲きそうな一輪を選んで、水を張った花瓶に挿す。誰かに渡すわけでもなく、誰かが見ているわけでもない。それでも私は、いつも丁寧にそうしていた。
そこに彼が近づく気配がした。何か言うのかと思い、手を止めた。
彼は何も言わなかった。ただ私をちらりと見て、また視線を逸らした。窓の外へ、まるで最初から何も見ていなかったように。
再び、私は薔薇に目を戻した。
また別の夜、私は居間で彼がうたた寝をしているのを見かけた。声をかけるのも気が引けて、私はそばにあった毛布をそっと掛けた。その寝顔は、やはり美しかった。目を覚ましたら、気まずい思いをする。私はすぐに自室へと戻った。
そんな一方通行のやり取り。一緒に過ごす日々を重ねても、彼が何を考えているのか、よく分からなかった。分かろうとすることに、いつから疲れてしまったのかもしれない。私の心が次第に乾いていくのが分かった。
そんなとき、決まって思い出す人がいた。
セシリアおばあさまだ。
辛い時は、いつもおばあさまのことを思い出していた。
初めてお会いしたとき、血のつながりよりも、温かさが私を引き寄せた。
他の大人たちは私を見るとき、どこか私の後ろにあるものを見ていた気がした。出身か、家の名前か。
おばあさまだけは違った。会うたびに少し屈んで、私の顔を覗き込んだ。
『今日は、どうしたの?』
それが、いつもの始まりだった。
おばあさまの家は、いつも薔薇の匂いがした。庭に咲く薔薇を一輪ずつ大切に育てていた。その手は土と花の匂いがいつも染みついていた。
初めておばあさまにお会いしてからというもの、理由もなく彼女のところへ足を運んだ。おばあさまは、私に絵本を読んでくれた。優しくて、いつも笑顔だった。
ある日、私は思いつきで、おばあさまを驚かせようと、家の物陰に隠れていた。驚かそうとした弾みで、私はおばあさまの大切なお皿を割ってしまった。どうやら、大切な人からもらった贈り物だったそうだ。
私は取り返しのつかないことをしたと思い、ひどく泣いた。それでも、彼女は私を叱らなかった。ただ、いつもと同じ言葉を、いつもと同じ声で繰り返してくれただけだった。
『たとえ間違えても、それで終わりじゃないのよ。きっと、その次があるから』
この世界に生まれて、自分の意志など持てないと思い知るたびに、その言葉だけが胸の奥で小さく灯っていた。いつだって私を励ましてくれた。
そのセシリアおばあさまが、療養所で過ごされていると知ったのは、木枯らしが吹き始めた頃だった。
医者から話を聞いた父は、覚悟をする必要があると、静かに私に教えてくれた。
私は会いに行くことに決めた。療養所は川を越えた先にある。距離は遠い。それでも、行かなければならなかった。もう一度、あの声が聞きたかった。
出発の朝、空は重く曇っていた。
嵐が近づいていると、屋敷の人が言った。それでも私は行くつもりだった。川を越えれば、一日もかからないはず。嵐が来る前に辿り着ける。そう思っていた。
荷物を手に玄関へ向かったとき、イヴェールが廊下に立っていた。
珍しいことだった。この時間、彼は執務室にいるのが常だった。
「……お願いだ」
彼が口を開いた。
私は思わず足を止めた。この男が、そんな言葉を使うことをこれまで聞いたことがなかった。
いつもと同じ声のはずなのに、何かが違う気がした。それが何なのか、うまく言葉にできなかった。
「今日だけは、俺のそばにいてくれないか」
低い声だった。いつもの無愛想な声と同じはずなのに、どこか違った。心の底から乞い願う姿そのものだった。そんな姿など似合うはずもない男が、確かにそう言っている。
私はしばらく彼を見つめた。
何か理由があるのだろうと思った。この男が、気まぐれでそんなことを言うはずがない。だが彼は何も説明しなかった。ただ、まっすぐに私を見ていた。
なぜか、踵を返せなかった。
仕方のない気持ちで、私は頷いた。
嵐が明けたら、向かえばいい。おばあさまのところには、すぐに行けるはず。そう思っていた。
その日、彼はいつもよりずっと、私のそばにいた。何を話すわけでもない。ただ、時折こちらを見ている視線に気づいて、私が顔を上げると、すぐに逸らされた。
一度だけ、彼が何かを言おうとして、口を閉ざした。その先の言葉を、私は結局聞けなかった。
ただ、いつもとは違う一日だと思った。
嵐は、思いのほか長く続いた。
川が増水して、橋が使えなくなった。嵐が明けても、渡れるようになるまで数日はかかると屋敷の人が言った。私は毎朝、川の様子を尋ねた。返ってくる答えはいつも同じ。まだ渡れない。
玄関の隅に置いたままの荷物はそのままだった。
イヴェールは、相変わらず私のそばにいた。何を話すわけでもなく、ただ隣にいるだけだった。彼が何を考えているのか、私にはやはり分からなかった。それでも、その沈黙は、いつもの居心地の悪いものとは少しだけ違っていた。
雨はやがて止んだ。けれど、川の水位はなかなか下がらなかった。私の中では、何かがまだ降り続いているような気がしていた。
知らせが届いたのは、それから何日も過ぎた頃だった。
セシリアおばあさまが、亡くなった。
手紙を持つ手が、震えた。文字が滲んだ。
膝から力が抜けて、椅子にへたり込んでしまった。手紙を握りしめたまま、私はしばらく動けなかった。
もう、あの人の声が聞けない。
『たとえ間違えても、それで終わりじゃないのよ。きっと、その次があるから』
それでも、私は間違えてしまったのだと深く後悔した。取り返しのないことをしてしまった。だって、おばあさまはもうこの世にいないのだから。
溢れ出るものを抑えつけようとしたが、無駄だった。
ふと気づいたとき、部屋の入口にはイヴェールが立っていた。
私の様子を見て、すべてを察したのだろう。彼は音もなく歩み寄り、短く言った。
「すまなかった……」
仕方のないことです、と返すのが精一杯だった。
彼がおばあさまを殺したわけではない。そんなことは分かっている。分かっているのに。この胸のわだかまりを、どうしても消すことができなかった。あの日、彼の言葉を聞かなければ。無視していれば。おばあさまに会えたのかもしれない。そう思う気持ちを、どこへ向ければいいのか分からなかった。
気持ちの整理がつかないまま、時だけが過ぎていった。彼と顔を合わせる回数も自然と減っていた。無意識に、彼を避けていたのかもしれない。
冬が深まったある夕方。
私は開いたままの窓を閉めようと立ち上がった。外の空気が鋭く、室内に冷たい風が流れ込んでいた。
そのとき、後ろから声がした。
「今日は、冷えるな」
低く、抑えた声。イヴェールだった。
私は窓に手をかけたまま、動きを止めた。振り返ることができなかった。彼の顔を見ることができなかった。おばあさまのことが、まだ胸の中で燻っていた。この男の顔を見たら、自分でも何を言ってしまうか分からなかった。
聞こえなかった振りをして、私は窓を閉じた。
部屋には、沈黙だけが残った。彼がどんな顔をして声をかけていたのか、私は見なかった。見ようともしなかった。
それが、私に向けられた最期の言葉になった。
数週間と経たないうちに、イヴェールは床に伏せた。医者が何度も呼ばれた。しばらくの間、彼との接触は禁じられた。
私の心は落ち着かなかった。
ある日、医者がひどく慌てていた。彼の容態が悪化した。そのまま、意識が戻ることはなかった。
葬儀の日、私は棺の前に立っていた。
泣けなかった。悲しいのか、怒っているのか、自分でも分からなかった。ただ、何か大切なことを言い損ねたまま、この人はいなくなってしまったという感覚だけが、重く胸に沈んでいた。
このわだかまりに、名前をつけることができなかった。
葬儀が終わり、人々が散り始めた頃、背後から声をかけられた。
振り返ると、イヴェールの父である王が立っていた。齢を重ねた顔に、深い疲労と悲しみが刻まれていた。それでも彼は、私を見て静かに微笑んだ。
「息子に、幸せな時間を与えてくれてありがとう」
私は言葉を失った。
幸せな時間。
私が、イヴェールに。
「彼は、屋敷の者にまで気を配るようになった。人に無頓着だった男が、だ。すべて君と過ごすようになってからのことだ。ありがとう」
私は彼に何もしていない。それどころか、壁を作り、彼の最期の言葉さえ無視をしたのだ。そんな私が、この人に感謝されている。
「こちらこそ、ありがとうございました」
それしか言えなかった。胸の奥が痛んだ。
ある日のこと、私はイヴェールの部屋に足を踏み入れた。使われていた机や、彼が愛用していた品々を整理するためだった。
引き出しの奥に、押し込まれるようにして、それはあった。
古びて、傷だらけの手帳。
年代を感じさせる革の表紙は、所々擦り切れ、角が丸くなっている。長い年月、誰かに握り締められ続けたものだと分かった。
ずいぶんと使い込まれた手帳だった。彼が最近になって書き始めたにしては、あまりに擦り切れていた。乱雑に扱っていたのだろうか、それ以上深くは考えなかった。
私はそれを手で拾い上げて、暖炉の前に座った。彼のものだろうか。
やがて、私はゆっくりと表紙を開いた。
最初のページには、几帳面とは言いがたい筆跡で、こう書かれていた。
『10月3日 親父に言われて日記をつけることになった。俺は周りの人間に対して無頓着すぎるらしい。自分自身を見つめ直すために書け、ということらしい。意味があるとは思えないが、書いてみる。』
彼の日記だった。私は思わず息をついた。
続きを読んでいいものだろうか。一瞬迷ったが、読み進めることにした。
『10月11日 アイツとの相性は極めて悪い。俺がしたいことの真逆ばかりする。これから何十年も一緒に過ごすのかと思うと、気が重い。』
少し腹が立ったが、ページをめくる。
『10月20日 アイツはまた薔薇をいじっている。何が面白いのだろうか。』
しばらくは私への愚痴が続いた。読んでいて嫌になる。読むのをやめようかと思ったとき、目を引く文字があった。
『11月2日 アイツが、セシリアという人の話をしていた。興味はなかった。だが、話しながら笑っていたアイツの顔は、案外悪くない。』
手が止まった。
あの夕食の席のことだ。私が話しているとき、彼は窓の外を見ていた。聞いていないと思っていた。
『11月7日 ソファーで寝ていた。起きたら毛布が掛かっていた。掛けたのは、どうやら屋敷の奴ではなかった。』
そんなこともあったことを思い出した。眠っていた彼に毛布を掛けたのは私だった。
『11月8日 屋敷の奴に聞いた。アイツは、毎日屋敷の奴らに声をかけているようだ。体調や日々の出来事について、気配りをするらしい。誰にでも優しく、素敵な方だと。親父の言うように、俺は無頓着な人間なのかもしれない。』
自覚があったんだなと、思わず口元がほころぶ。同時に少し寂しくも感じた。
『11月9日 たしかにアイツは周りに目を向ける。人だけでなく、植物に対してもだ。アイツのことが気になる。しばらく様子を見てみようと思う。』
その後の日記は、まるで私の観察日記のようなものが続いていた。気恥ずかしさを感じた。
そして、そのページに行き着いた。
『11月16日 俺はアイツに惚れているらしい。結婚した後に惚れるとは、笑える話だ。今まで俺はどうやって生活していたんだろうな。』
息が、止まりそうになった。胸の鼓動を感じる。
ページをめくる手が、止まった。
その後も、愛の告白は続いた。そんな様子など、ちっとも見せなかったのに。
しかし、その日に辿り着くと、様子は変わった。
『11月26日 アイツが死んだ。』
短い文章。ただそれだけだった。
一瞬、意味が分からなかった。
最初は、いたずらかと思った。そうだとしたら、趣味の悪い冗談だと思った。
だが、次のページをめくっても、冗談ではないとすぐに分かった。
『11月28日 親族が集まっていた。みんな悲しんでいた。アイツは、誰からも愛されていた。』
『12月10日 もうそばにいない。アイツはいない。俺は、一人だ。心に穴が空いたようだ。』
懺悔のような言葉が続く。
『12月24日 俺は馬鹿だ。今になって、そばにいてほしいと思うなんて。生きていてほしいと思うなんて。頼むから、アイツに会いたい。どうかもう一度、アイツの声が聞きたい。』
私は混乱した。理解が追いつかないのに、胸が締め付けられた。何度も読み返した。そして続きをめくる。
すると、なぜだか日付が黒く塗り潰され、過去の日付に遡っていた。
『11月26日 今日、起きたことを書く。アイツがそばにいた。生きている。あの日だった。そして、同じように死んだ。同じ光景。俺はとうとう頭がおかしくなったらしい。それにこの手帳だ。時が戻っても、ここに書いた文字は残っている。』
『11月28日 やはりそうだ。親族が集まり、アイツの死を嘆く。そして俺に声をかける。お気の毒にと。悪い夢だ。棺の中のアイツを、また目にするなんて。』
『11月26日 また戻った。あの日だ。アイツが渓谷に行きたいと言った。そこで見える花々を見たいと。俺は止めなかった。そしてアイツは死んだ。だから今度はやめさせた。アイツはそばにいる。生きている。』
『11月27日 アイツに、今起きていることを話そうかと思った。だが、やめた。こんな馬鹿げた話、信じてもらえないだろう。俺も信じていない。からかっていると思われるだけだ。それだけは嫌だ。』
『12月1日 死んだ。今度は川辺の橋だった。俺はどうすればいいんだ。アイツに生きていてほしいだけなんだ。』
『11月26日 またこの日だ。俺はアイツを引き止める。悲しい顔をさせた。アイツのやりたいことを、何一つ叶えてやれない。それでも俺は、アイツに生きていてほしい。何度繰り返しても、ここだけが積み重なっていく。』
そこから数ページ、日付が行き来していた。戻るたびに記述が短くなっていく。短い一文だけが、繰り返し姿を変えて現れた。
『アイツがまた死んでしまった。』
『俺はどうしたらいい。』
『これは悪夢か。』
『だめだ。』
やがて、あるページに行き当たった。
それは黒いページだった。
最初は、墨を塗りつぶしたようにしか見えなかった。ページ全体が、重く沈んだ黒に覆われている。
だが、違った。
目を凝らすと、その黒の中に、無数の線が見えた。何十、何百、何千もの筆跡が、同じ場所に重ねて書かれていた。何度も何度もなぞるように。インクは紙の繊維にまで染み込み、ページは波打って分厚くなっていた。同じ場所に、言葉を書き続けていた。
重なり合う筆跡の隙間から、言葉をかろうじて拾えた。
『セシリアに会わせてやりたい。』
文字は震えていた。
私はそのページから、目が離せなかった。
これがどれだけの時間を積み重ねたものなのか、私には分からない。
繰り返すたびに、彼自身の一部をそこへ差し出しているかのようだった。
そのページの最後、余白にはこう書かれていた。
『セシリアには会えない。アイツも死ぬ。』
次のページをめくると、元の白いページへと戻っていた。
『12月10日 セシリアが亡くなった。アイツは悲しんでいた。涙を流していた。あんな顔をさせるために俺は』
そこで文章は途切れていた。
『12月20日 あれからアイツに、異変は起きない。もう大丈夫なのだろうか。』
そこから先は、私に異変がなかったかどうかを記す、経過観察が続いていた。
むしろ、異変があったのは彼の方だった。
『12月28日 咳が出る。体がひどく重い。こんなのは初めてだ。すぐに治るだろうか。』
『1月5日 仕方なく医者に診てもらった。どうやら俺は病気らしい。もう治らない。家族に伝えるように言われた。今さらアイツに何を伝えるというんだ。』
その後の内容は、彼の身体の不調に関するものだった。読み進めるのが、辛かった。
『2月1日 窓辺に立つアイツに、つい声をかけてしまった。他愛もない話だ。自分でも愚かだと思う。アイツの声が、ただ聞きたくなったのかもしれない。返事はなかった。きっと聞こえなかったのだろう。それなのに、不思議と安心した。アイツの笑顔を奪ったのは俺だ。どんな顔をすればいいのか、俺自身も分かっていなかったから。』
『2月14日 夢を見た。アイツが年老いて、家族に囲まれている夢。笑っていた。それだけでいい。俺はもう、アイツの隣にいなくていい。もう大丈夫だと、声が聞こえた気がした。これは都合の良い夢なのかもしれない。俺の願望なのかもしれない。それでも、信じることにした。』
最後は、ひどくかすれた文字で綴られていた。
『そばにいてくれてありがとう、クロエ』
それが残された最後の文章だった。
これまで一度だって呼んでくれなかった、私の名前。
私は静かに手帳を閉じた。言葉が何一つ出てこなかった。
やがて、机の上のペンを取った。手にしたそれは、ひどく重く感じられた。
ページを遡り、まだ何も書かれていない余白を探した。そこに、彼が繰り返し戻っていたはずの日付を、震える手で綴った。
11月26日。
ペン先を、紙に押し当てた。
書き終えても、部屋には物音ひとつなかった。
インクは、ただ紙の奥へと沈んでいくだけ。その黒は、何も答えなかった。
もう、あの日に届かない。
私はペンを置いた。
その傷だらけの手帳を、胸に抱きしめた。
どれだけの時間が経っただろうか。
気づくと、窓の外では冬の風が木々を揺らしていた。枝が擦れる音だけが、遠くに響いていた。
私はふと、窓の方を見た。
「今日は、冷えるな」
声が聞こえた気がした。
私は、小さく息を吐いた。
「そうだね」
誰もいない部屋で、そう返した。
窓の隙間から、柔らかな風が入り込んできた。
差し込む光が、静かに揺れていた。




