至高のスープ
「この味ではない! 下がれ、無能どもめ!」
豪奢な銀食器が甲高い音を立てて大理石の床に転がり、高価なスープが虚しく飛び散った。
王国の第二王子ルードヴィヒは、自他共に認める稀代の美食家であり、同時に「わがまま王子」として悪名高かった。誕生以来、贅の限りを尽くしてきた彼にとって、望むものはすべて手に入るのが当たり前。
そんな王族の彼が、ここ数年、一皿の至高のスープに異常なまでに執着していた。
彼がここまで荒れているのには理由がある。
三年前の夏、避暑地へ向かう途中で起きた馬車転落事故。ルードヴィヒは奇跡的に助かったものの、深い谷底に取り残された。救助を待つ間、備蓄の携帯食料は底を突き、飢え死に寸前となった彼に、付き添いの従者たちが差し出した「あるスープ」――それこそが、彼が求めてやまない至高のスープだった。
ドロリと濃厚で、五臓六腑に染み渡るような、えも言われぬ甘みと深いコク。
当時「たまたま落ちていた鳥で作った」と説明されたが、王宮に戻ってから、どんな宮廷料理人に作らせてもあの味が再現できない。
事故の夜に生き残った従者たちへの聞き込みをしてみても、妙なことに、誰もが当時の鳥の姿を曖昧にしか覚えていない。
「夜でしたから、よく見えなくて……」
「とにかく羽毛のむしり取られた、奇妙な肉でした」
証言はどれも要領を得ない。
それならばと、その土地の鳥を片っ端から冒険者に捕らえさせて料理人に調理させたが、すべて「否」。
「夏だったから渡り鳥では」と思いつき、再び冒険者を雇ってあらゆる渡り鳥を集めさせたが、やはり違う。
まだ話を聞いていない侍女がいたはずだと思い出した王子は、騎士に問うた。
「……もう1人、私の身の回りの世話をしていたお気に入りの侍女がいたはずだが?」
だが、騎士は
「気のせいでございます。そんな者は最初からおりません」
全てが行き詰まったその時、王子の執着を見かねた国王が、静かに腰を上げた。
「ルードヴィヒよ。余が至高のスープ再現の手助けをしてやろう。もう一度あの避暑地へ赴けば、極上の材料が見つかるかもしれん」
王子は、父の言葉を疑いもしなかった。
再び避暑地へと向かったルードヴィヒの一行は、国王に勧められた巨大な洞窟へと足を踏み入れた。しかし、彼らが奥へ進んだその時、轟音と共に洞窟の入り口が崩落した。完全に退路を断たれ、暗闇に閉じ込められたのだ。
「何をしている! 早くここから出せ!」
王子は喚き散らしたが、崩れた巨岩はびくともしない。
救助を待つ間、持ち込んだ限られた携帯食料はすぐに底を突いた。
一日、二日、三日……。
王子の身体に、飢餓の苦しみが容赦なく襲いかかる。胃が焼け付くように痛み、意識が朦朧とする中、ルードヴィヒは三年前の餓死寸前だった事故の状況を思い出していた。
四日目の夜。暗闇の奥を捜索していた護衛騎士が、お盆に一杯の器を乗せて戻ってきた。
「王子……奥で、調理できるものを見つけました。温かいうちに、どうぞ」
差し出されたのは、ドロリと濃厚な、一杯のスープだった。
ルードヴィヒはすがるようにそれを受け取り、口に運んだ。その瞬間、彼の脳細胞が歓喜に震えた。
「――っ!! これだ……! この味だ!」
五臓六腑に染み渡るような、えも言われぬ甘みと深いコク。まさに三年前、あの山の中で命を繋いだ「至高のスープ」そのものだった。ルードヴィヒは涙を流しながら、夢中でスープを飲み干した。
まもなく、国王が手配した救助隊によって洞窟の岩は取り除かれ、王子たちは無事に生還した。
「やはり、空腹こそが最大の調味料だったのでしょうね」
周囲の従者や医師たちは、納得したようにそう口々に囁き合った。
騎士の説明によれば、「洞窟の奥に迷い込んで弱っていた野犬を殺し、それを煮込んだ」のだという。
「王族である王子は、普段から常に満たされている。だからこそ、あの極限状態の飢餓で食べたスープだけが、異常に美味に感じられたのだ」
それが最も合理的で、誰もが納得する答えだった。ルードヴィヒ自身も、「そうか、私はただ飢えていただけだったのか」と、己の浅ましさを恥じ入ることで、この一件は落着したかのように見えた。
しかし、王宮に戻って数日後。
ルードヴィヒの心に、ある「引っかかり」が生じた。
今回の避暑地の旅には、前回の事故の後から彼が新しくお気に入りとして側に置いていた、物静かで美しい侍女が同行していたはずだった。しかし、王宮に戻って以来、彼女の姿を一度も見かけないのだ。
「おい、あの侍女はどこへ行った? 体調でも崩したのか」
近くにいた料理人に尋ねると、料理人は一瞬にして顔を青ざめさせ震えながら「さあ……存じ上げません」と首を振った。
不審に思った王子は、あの洞窟でスープを差し出してきた護衛騎士の元へ向かった。
「あの侍女はどうした。まさか、あの洞窟で怪我でもしたのか?」
騎士は顔色を変え、虚ろな目で王子を見つめ、静かに頭を下げた。
「……王子。最初から、そんな侍女は同行しておりません。お忘れください」
「そんなわけはない……!」
ルードヴィヒの背筋に、氷水を浴びせられたような戦慄が走った。
三年前の夏の事故の時もそうだった。身の回りの世話をしていたはずの、存在を否定された侍女。
そして今回も、全く同じ言葉。
まさか――。
王子の脳裏に、あの洞窟での記憶が鮮烈に蘇る。
限界の飢餓の中、朦朧とする意識の向こうで、確かに聞こえた微かな衣擦れの音。肉を断ち切るような、鈍く重い包丁の音。
そして、騎士が言った「奥で、調理できるものを見つけました」という言葉。
「空腹が、最大の調味料……?」
ルードヴィヒは、自身の両手を見つめた。
あのスープの味は、本当にただの「飢え」が生み出した幻影だったのだろうか。それとも、王族である自分の命を繋ぐために、狂気の決断を下した者がいたのだろうか。
自分が飲み干した至高のスープの正体がどちらにあるのか、それを確かめる勇気は王子にはなかった。




