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第九話 将軍、都に糸を張る

都の水は、見た目より遅く流れる。


川の水ではない。

人の気配、噂、礼、機嫌、顔色、そういうものの流れだ。


戦場の報せは早い。

誰が勝った、誰が敗れた、どこが焼けた、どの城が落ちた。

そういう話は風のように駆ける。


だが、その勝ち負けにどう意味をつけるか、

誰を正しいと呼び、誰を逆らった者と呼ぶか、

どこまでを乱とし、どこからを収めたと見るか。

そうしたことは、いつも少し遅れて都に沈む。


その遅さが、いまは欲しかった。


私は文机の前で、広げた書付を一枚ずつ見ていた。


近衛前久への文は、丁寧すぎず、軽すぎず返ってきた。

明言はない。

だが、病後の見舞いと都の静まりについての気遣いが重ねられている。


二条の筋も同じだ。

寺社に近いところからは、信長方の兵の振る舞いに対する小さな不満がいくつか届いている。

町衆に近い者からは、商いが乱れることへの警戒が来ていた。


いずれも弱い。

弱いが、それでよい。


今必要なのは“味方”ではない。

都の中に、まだ答えを急がぬ者が増えることだ。


「将軍様」


控えていた側近が一礼する。


「山科の筋より、昨日の返しが参っております」


「申せ」


「都の安寧を乱すことは何より避けたし、との由。ことに近ごろは、武家の進み方があまりに急で、公家・寺社・町衆ともに、表には出さずとも息の詰まる思いをしている者も少なくない、と」


私は紙の端を指で軽く押さえた。


やはり、そこだ。


信長は正しい。

正しいが、正しさが速すぎる。

その速さに置き去りにされる側が、都には積もっている。


それは反信長ではない。

そこを見誤ってはならぬ。


信長を嫌っているのではない。

ただ、ついてゆけぬのだ。

そして、ついてゆけぬ者は、自分が悪いのか時代が悪いのか分からぬまま、沈黙の中で疲れていく。


政治とは、その疲れを最初に言葉にした者が握る。


「他には」


「寺社筋より、“旧き形を一息に崩されるは、祈りの場にとっても荒ぶりに等しい”との声も」


「名は」


「出してはおりませぬ」


「それでよい」


むしろ名がないほうが価値がある。

名を伴えば、言葉は立場に引きずられる。

名のない不満は、もっと広く流れる。


私はそこで、机上の別の書付へ目を移した。


細川。

筒井。

そして都に近い公家たち。


それぞれの名の横に、小さく記した印がある。

全面ではない。

だが、すぐには切らぬ。

あるいは、まだ何色とも決めていない。

そういう者たちの印だ。


こういう顔ぶれが後で効く。


本能寺の夜、もし光秀が信長を討てば、

最初に勝負を分けるのは兵の数ではない。

誰が“即座に”明智を逆臣と断じるか。

あるいは、断じきれずに一拍置くか。

そこだ。


その一拍があれば、都は割れずに済む。

都が割れねば、秀吉が一息に“弔う側”を独占することも難しくなる。


つまり必要なのは、

明智光秀を全面的に擁護することではなく、

すぐには切り捨てられぬ都を先に作ることだった。


「将軍様」


今度は年長の側近が声を落とした。


「近衛殿への次の文、いかがいたしましょう」


「急ぐな」


私は即答した。


「返してすぐ重ねれば、こちらが頼みにしていると見える」


「では」


「別筋から、都の静まりを案ずる話を少し流せ。近衛に向けてではなく、近衛の耳にも入るように」


側近が一瞬だけ目を上げる。

意図を測ったのだろう。


「将軍様ご自身のお言葉としてではなく」


「そうだ。将軍の言葉では色がつく。都に住む者らの、もっと曖昧な息苦しさとして流せ」


「承知」


そこが大事だった。


私が露骨に動けば、反信長の将軍がまた何か企んでいると見られる。

それでは浅い。

必要なのは、都そのものがまだ答えを出しかねている、という空気だ。


私は紙を二、三枚抜き出して、別に置いた。


一つは寺社筋。

一つは町衆。

一つは公家。


どれも内容は違う。

だが芯は同じだ。


急な変化は都を疲れさせる。

乱を避けるには、拙速な断がもっとも危うい。

旧きものを一息に切れば、新しきものもまた不安定になる。


そういう言葉だ。


誰の肩を持つとも言わぬ。

信長を責めもしない。

だが、いざ本能寺が起きたときに

「まず都を静めよ」

「まず早く答えを出しすぎるな」

という理が残るようにしておく。


そのとき、控えが告げた。


「三条西の筋より使いが」


「通せ」


入ってきたのは、前に来た使者とは別の男だった。

年は少し上で、言葉の置き方が慎重そうに見える。


「主よりのことづけにございます」


「申せ」


使者は頭を垂れたまま言った。


「近ごろ都には、何事につけても“早く決め、早く従え”との気配が強うございます。しかし、そのようなときほど、礼と順を失えば、のちに長く禍根を残すやもしれぬ、と」


私は目を細めた。


よい。

それで十分だ。


礼と順。

戦場の論理ではない。

だが都では、こういう言葉が人の心に残る。


「また、もし大事あらば、まず騒ぎを鎮めること肝要にて、誰が正しきかを一息に決するは、かえって火に油を注ぐやもしれぬ、とも」


私は何も言わず、ゆっくり頷いた。


とうとうそこまで出た。


まだ仮定の言い方だ。

だが、“もし大事あらば、まず騒ぎを鎮めよ”という言葉が公家筋から自然に出てくるなら、これを後で使わぬ手はない。


これは光秀を助ける言葉ではない。

それでいい。

都を守る言葉として立っていればいい。


都を守るために、拙速な断罪を避ける。

その結果として、光秀に時間が生まれる。

その順番が重要だった。


使者が下がると、私は少し長く息を吐いた。


糸が張れ始めている。


まだ弱い。

指で払えば切れそうなほど弱い。

だが、一本の綱など最初から要らぬ。

細い糸を何本も都に渡しておけば、いざというとき、人の足は思ったより絡まる。


「将軍様」


側近が、小さく問う。


「何か、手応えがございますか」


「手応えというほどではない」


私は正直に答えた。


「だが、都がすぐには一色に染まらぬ形にはなりつつある」


「それは、十分なことでございましょうか」


「十分ではない。だが、無いより遥かによい」


私はそこで、少しだけ声を落とした。


「光秀は、おそらく今ごろ“どう勝つか”ではなく、“どう滅びぬか”を考え始めている」


側近が息を呑む。

そこまでは知らぬ話だったのだろう。


「もしそうなら、あとはそれを都の側で支えうる形にしてやらねばならぬ。でなければ、ただ一人の思い込みで終わる」


「将軍様は、明智殿をそこまで」


「そこまでだ」


言い切った。


「信長を討てる者は、そう多くない。だが討った後、ただの逆臣としてすぐ滅ぶなら意味がない」


私は机上の紙の一点を指で叩いた。


「都が『まだ答えを急ぐな』と言える。朝廷がすぐには名を出さぬ。寺社も町衆も乱れを嫌う。細川も筒井も即断しない。そういう状態があれば、光秀は“討ったその場で終わる者”ではなくなる」


そこまで話したとき、私はふと筆を取った。


今度に必要なのは、問いではない。

一種の合言葉だった。


都を静める。

礼を失わぬ。

拙速を避ける。

この三つを、別々の場所から、別々の口で出させる。


私は三通の短い文を草した。

どれも曖昧で、だが匂いだけは揃えてある。


一つは寺社筋へ。

一つは公家へ。

一つは町衆へ。


文面は違う。

だが読み終えた者の胸に残るのは同じものだ。


早く決めすぎるな。


それが都の言葉になればいい。


そのとき、別の控えが急ぎ足で来て、膝をついた。


「将軍様、中国筋よりの報せが」


「申せ」


「羽柴筑前守、陣中よりまた諸方へ文を遣わし、兵の慰撫と先々の約を抜かりなく進めている由。近ごろは“戦だけでなく、人も回す男”との評、広がりつつあります」


私は一瞬だけ視線を止めた。


やはり秀吉は早い。


まだ遠い場所にいながら、もう“その後”の顔を作っている。

戦の最中に兵だけでなく、人心を回す。

そういう男だ。


「下がれ」


報せの者が去る。


部屋が静まる。

だが今の一報で、空気の奥に別の速さが差し込んだ。


秀吉はすでに、自分が後で何者になるかを準備している。

ならばこちらも、都に先んじて別の準備を置いておかねばならぬ。


「将軍様」


側近が低く言う。


「羽柴殿は、そこまで」


「うむ。だから厄介だ」


私は短く答えた。


「信長ほどには見えぬ。だが、見えぬうちに人の迷いへ入り込む」


そこが秀吉の恐ろしさだった。


信長は圧で時代を進める。

秀吉は、進んだ時代に意味を与えて自分のものにする。

だから、本能寺のあとに本当に争うべき相手は、信長の亡骸そのものではなく、秀吉の語る“次の日の正しさ”だった。


私はしばらく考え、やがて言った。


「町衆の筋へ、もう一つ加えよ」


「何を」


「乱れが長引けば、もっとも先に痩せるのは都の商いだ、という話だ」


「……それは」


「光秀のためではない。都のためだ」


私ははっきりと言った。


「だが、その言葉が残れば、のちに“早く誰かを討てばよい”というだけの理では足りなくなる」


町衆は、正義より先に安定を求める。

だがそれは卑しさではない。

都を持たせるための現実だ。


もし本能寺のあと、秀吉が怒りだけで押し切ろうとしても、

都の側に“商いを止めるな”“拙速な断は長引く乱を招く”という声があれば、

少なくとも一枚ではなくなる。


それでいい。

一枚でないことが、何より重要なのだ。


「将軍様」


年長の側近が、少しだけためらってから問う。


「そこまで周到に整えておられても、なお明智殿が動かれぬこともございましょう」


「あるだろうな」


私はあっさり答えた。


「光秀が最後まで動かぬなら、それはそれでよい」


側近が驚いた顔をする。


私は続けた。


「大事なのは、あの男に“選べるだけの視界”を持たせることだ。見えぬまま裂けるのと、見えた上でなお選ばぬのとでは、意味が違う」


そこは自分でも、かなり大きな本音だと思った。


私は光秀に謀反を強いたいわけではない。

ただ、本能寺が起こると知っている以上、

もしそこへ至るなら、そのあとを誰も設計していないまま落ちるのが最悪なのだ。


だから今やっていることは、

光秀の背を押すことではなく、

落ちたときに地面がただの石ではなくなるよう、先に土を入れておくことに近い。


「将軍様らしいお考えにございます」


側近のその一言に、私は少しだけ笑った。


「どういう意味だ」


「刀ではなく、下に敷くものから整えられる」


「誉めているのか、それは」


「恐れながら」


私は筆を置いた。


よい。

今のところはよい。


都に糸は張れ始めている。

寺社、公家、町衆、細川、筒井。

どれも決して強くない。

だが、強すぎぬからこそ価値がある。


強い味方は目立つ。

目立てば切られる。

弱く曖昧な接点は、ぎりぎりまでただの空気に見える。

そういうものだけが、この段階では役に立つ。


私は立ち上がり、障子を少し開けた。


昼の都は明るかった。

寺の屋根が陽を受け、遠くで人の声が交じり、牛車の軋みが小さく聞こえる。

何も変わらぬ都だ。

少なくとも外から見れば。


だが、その変わらなさの奥で、いくつもの糸がすでに渡り始めている。


そのとき――


場面は遠く、中国筋の陣へ移る。


羽柴秀吉は、文を読み終えると、指先で紙の端を軽く叩いた。


戦の合間の陣である。

外では兵が動き、報せが行き来し、地図と兵糧の算段が絶えず頭を巡る。

だが秀吉の顔には、疲れより先に機嫌のようなものがあった。


「都は静かじゃの」


誰にともなく言う。


脇に控えた小者が、戸惑ったように顔を上げる。


「は……」


「静かなときほど、人は腹の中でいろいろ考えておる」


秀吉は薄く笑った。


「信長様のご威光が強うございますれば、皆おとなしくしておる。じゃが、おとなしいのと、何も思うておらぬのとは違う」


その言い方に、小者はただ頭を下げるしかない。


秀吉は紙を畳みながら、目だけは別のことを考えていた。


都。

朝廷。

公家。

寺社。

あのあたりは、いざ何かあったとき、最初に勝敗を決める場所ではない。

だが、二日後三日後の正しさを決める場所ではある。


だから、目を離してはならぬ。


「……何か、匂うのう」


秀吉は低く呟いた。


まだ形にはなっていない。

報せの上にも、はっきりした異変はない。

それでも、都が静かすぎるときの妙な湿り気のようなものを、秀吉は本能的に感じ取っていた。


「文をもう一つ出すか」


「どちらへ」


小者が尋ねると、秀吉は少しだけ笑う。


「急ぐことはない。急ぐと、こちらが気にしておると見える」


その一言に、遠く離れた将軍のやり方と、どこか似たものがあった。


秀吉は立ち上がり、陣の外を見た。


戦はまだ続く。

だが、勝つだけでは足りぬ。

勝ったあと、誰が世を継ぐ者に見えるか。

そこまで含めて戦だと、この男はもう知っている。


「都は、あとで取りに行けばよい」


そう言って秀吉は笑った。


だがその笑みの奥にあるのは、気楽さではない。

自分が戻る頃には、すでに都の意味を抱え取れるようにしておくという、鋭い計算だった。


場面は再び、将軍の部屋へ戻る。


私は障子を閉め、静かに机へ戻った。


秀吉もまた、見えぬところで動いているだろう。

だがこちらも、ようやく都に最初の網目を作り始めたところだ。


勝負はまだ先だ。

だが、先だからこそ今しかできぬことがある。


私は白紙を一枚取り、短く一行だけ書いた。


都は、早く答えを出しすぎてはならぬ。


それをしばらく見つめ、やがて静かに畳んだ。


これは命令ではない。

祈りでもない。

ただ、これから都のあちこちへ滲ませていくべき考えの芯だった。


光秀がまだ決めていないように、

都もまた、まだ決めぬままでよい。


決めぬこと。

急がぬこと。

それ自体が、いまは最も大きな備えになる。


本能寺は止めない。

だが、そのあとの歴史を一人の語り手に渡しはしない。


そのための糸は、ようやく都の空気の中へ見えぬまま張られ始めていた。

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