第六話 藤孝、光秀を測る
細川藤孝は、人の言葉そのものより、言葉と言葉のあいだを見る男だった。
何を言ったか。
それも大事ではある。
だが、それ以上に、どこで黙るか、どこで目を伏せるか、どの名を先に出し、どの名を最後まで避けるか。
そういうわずかな綻びのほうに、人の本音は出る。
だからこそ、将軍の命は厄介だった。
――問い詰めるな。探るな。説得もするな。ただ、彼の言葉の選び方を見よ。
あれは命というより、見立ての共有だった。
そしてそれができてしまう将軍は、やはり恐ろしい。
朝の京はもうすっかり動き出していた。
町路には物売りの声が混じり、寺の門前には人の気配が増え、武家屋敷の周りでは使者が行き交う。
いつもと同じ朝だ。
少なくとも外から見れば。
だが、藤孝にとっては違った。
昨夜から、目に映るものすべてに別の意味が重なって見える。
信長の速さ。
将軍の変化。
明智光秀の沈黙。
そして、本能寺の後という、まだ存在しないはずの時間。
そんなものを意識して都を歩くのは、ひどく奇妙な感覚だった。
光秀の屋敷に着いたとき、門前は静かだった。
静かすぎる、と藤孝は思った。
慌ただしく人が出入りしていない。
だからといって緩んでもいない。
張り詰めた糸をそのまま見えぬように隠しているような静けさだ。
案内を受けて中へ入る。
庭はよく整っていた。
石の置き方も、砂の均し方も、植え込みの刈り込みも過不足がない。
派手さはなく、しかし隙もない。
いかにも明智光秀らしい、と藤孝は思う。
屋敷とは、その主の心の癖が出る。
整えすぎる者は乱れを嫌い、粗く見える者は細部に頓着しない。
光秀の屋敷は、秩序を愛し、秩序を崩されることを嫌う者の屋敷だった。
通された座敷で、しばし待つ。
やがて襖が開き、光秀が現れた。
「待たせたな、兵部大輔」
「いや」
光秀の姿はいつも通りだった。
衣に乱れはない。
所作にも滞りはない。
声の調子も平静だ。
だが藤孝は、席につくまでのわずかな歩みで一つ気づいた。
歩幅が少しだけ狭い。
疲れか。
あるいは慎重になっているのか。
普段の光秀なら、もう少し迷いなく座へ入る。
ほんのわずかな違いだが、見逃さぬ価値はある。
「朝よりすまぬな」
藤孝がそう言うと、光秀は小さく首を振った。
「ちょうど考え事をしていた」
その答えに、藤孝は心の中で留めを打った。
普段の光秀なら、もっと別の言い方をしただろう。
「用があれば構わぬ」でも、「ちょうど手が空いていた」でもなく、
わざわざ“考え事をしていた”と言った。
つまり本人も、自分が思索の中にあることを隠しきれていない。
茶が運ばれ、二人の間に一度だけ静かな時間が流れる。
藤孝は急がなかった。
ここで直ちに昨夜の件へ触れれば、観察は崩れる。
相手も構える。
だからまず、あえて遠い話から始める。
「近ごろ、都も少し空気が変わりましたな」
光秀が茶碗を置く。
「変わった、とは」
「皆、表向きは静かにしておりますが、速すぎるものには内心戸惑っておるように見えます」
あえて主語を曖昧にする。
信長とも、朝廷とも、寺社とも言わない。
すると光秀は、少しだけ目を伏せてから答えた。
「戸惑いは、遅れる者の側に生まれる」
その言い方は理に寄っている。
感情ではなく、構造で返してきた。
「では、速い者が正しいか」
藤孝が問うと、光秀はすぐには答えなかった。
一拍。
いや、二拍。
ここだ、と藤孝は思う。
以前なら光秀はこの手の問いにもっと早く返した。
しかも主君たる信長が暗に含まれる話ならなおさらだ。
だが今は、一度自分の中で何かを測っている。
やがて光秀が言った。
「正しい、だけでは足りぬのだろうな」
藤孝は表情を動かさなかった。
だが胸の内では、確かなものが走った。
それは昨夜、義昭が口にした言葉に近い。
信長は正しい。だが、正しさだけでは国は保たぬ。
まったく同じではない。
しかし、明智光秀の口から自然にそれが出ること自体が変化だった。
「十兵衛殿らしくない言い回しですな」
あえて軽くそう返す。
光秀はわずかに目を上げた。
「そうか」
「以前の十兵衛殿なら、理があるなら押し通すほかあるまい、とでも仰せになりそうなものです」
「買いかぶりだ」
「そうかもしれませぬ」
藤孝は茶を一口含んだ。
ここで押さない。
押せば相手は閉じる。
「兵部大輔」
不意に光秀のほうから問いが来た。
「そなたは、都をどう見る」
「急ですな」
「答えにくければよい」
「いや、答えましょう」
藤孝は少し考えた。
これはただの雑談ではない。
光秀が、今の自分の思考を相手の言葉で確かめようとしている。
そういう問いだ。
「都は、いつの世も遅いものにございます」
「遅い」
「はい。武の決断より遅く、戦の報せより遅く、人の死よりも遅い。ですが」
藤孝は静かに続ける。
「遅いからこそ、後から意味を決める力を持ちます」
光秀の視線が、ほんのわずかに鋭くなった。
刺さったのだ。
「戦は先に終わる。だが、あれは正しかったのか、誰が乱を起こしたのか、誰が都を騒がせたのか――そういうことは、いつも遅れて定まる」
光秀は何も言わない。
その無言の濃さに、藤孝はさらに確信した。
もうこの男は、“その後”を考えている。
しかも、兵の話だけではなく、意味の話へ足を踏み入れ始めている。
「兵部大輔」
「は」
「人は……」
光秀はそこまで言って、少しだけ言葉を探した。
「人は、どこで主を裏切るのだろうな」
藤孝は顔を上げた。
ついにそこまで来た。
だが、ここで驚いてはならない。
問いを重く受け止めすぎてもいけない。
これは告白ではない。
思考の輪郭をなぞる問いだ。
「難しい問いですな」
「そうだろう」
「ですが、裏切りと申しても、一つではありますまい」
「たとえば」
「欲で動く者もおります。恐れで動く者もおります。家を守るための者もおりましょう」
藤孝はそこで一呼吸置いた。
「ただ、もっとも厄介なのは、裏切ったつもりのない者かもしれませぬ」
光秀の目が細くなる。
「それは」
「最後まで仕えようとした末に、ある日、それでは守れぬものがあると知る者です」
言ってから、藤孝は自分でも少し背筋が冷えるのを感じた。
これはかなり踏み込んだ。
だが、将軍の言葉をなぞったわけではない。
自分の言葉として出した。
そしてその瞬間、光秀の沈黙が明らかに変わった。
否定しない。
すぐに返さない。
怒らない。
ただ、言葉が胸のどこに刺さったかを確かめるように、静かに息をしている。
それで十分だった。
「兵部大輔は、怖い男だな」
やがて光秀が、かすかに苦笑を交えて言った。
「将軍様ほどでは」
その返しに、光秀は少しだけ口元をゆるめた。
だがその笑みは、すぐに消えた。
「私はまだ、何も決めてはおらぬ」
「承知しております」
「いや、これは言い訳ではない」
「分かっております」
「分かっているならよい」
だがそのやり取りの最中にも、藤孝は別のものを見ていた。
光秀は“決めていない”ことを、必要以上に言葉にした。
本当に何も揺れていない人間は、そこまで念押ししない。
つまり今の光秀は、まだ決めていないが、決める可能性の存在を否定しきれないところまで来ている。
将軍の見立ては正しかった。
しかも恐ろしいことに、それは昨夜ひと晩でここまで進んでいる。
「十兵衛殿」
藤孝はあくまで穏やかに言った。
「何も決めておられぬなら、それでよいのではありませぬか」
「そう簡単ではない」
「なぜ」
光秀は、少しのあいだ庭の方を見た。
風が葉を揺らし、わずかな影が畳に落ちる。
「一度、あり得ぬはずの道を見せられると」
静かな声だった。
「その後は、何を見ても“もしあの道を行けば”と考えてしまう」
藤孝は返事をしなかった。
もうこれ以上は不要だった。
光秀は自分で、自分の変化をほとんど言ってしまっている。
「厄介ですな」
それだけ言うと、光秀は低く笑った。
「他人事のように言う」
「半ばは他人事にございます」
「半ばは」
「十兵衛殿が道に迷えば、私もまったく無縁では済みませぬ」
その言葉には、友としての情と、家を負う者としての距離の両方を込めた。
光秀もそれを正確に受け取った顔だった。
「そなたは正直だな」
「十兵衛殿ほどでは」
「私は正直ではない」
「では、律儀にございます」
今度は光秀が、はっきりと笑った。
ようやく少しだけ、空気がゆるむ。
だが藤孝は、その笑いすら観ていた。
以前の光秀なら、ここまでで会話を閉じただろう。
だが今の光秀は、笑ってなお、どこかで別の思考を続けている。
人の目の前にいながら、半歩だけ先の時間へ心が出ている。
それが何よりの変化だった。
しばらくして、光秀がふと尋ねる。
「兵部大輔。仮にだ」
「また仮に、ですか」
「そうだ。仮に、誰かが大きなことを成した後、生き延びようとするなら」
藤孝は静かに待った。
「最も要るのは何だと思う」
昨夜、将軍が光秀に告げた問いの続きだった。
藤孝はあえて、すぐには答えなかった。
この問いには、軽々しい正解を与えないほうがいい。
「人、にございましょうな」
やがてそう答える。
「兵でも城でもなく」
「兵も城も要りましょう。ですが最後にものを言うのは、人でございます。味方になる者だけではなく、敵に回しきれぬ者もまた人です」
光秀は静かに聞いている。
「討った翌朝に、“あれを直ちに滅ぼしてよいのか”と迷う者が何人いるか。それで生死は変わりましょう」
それはほとんど、将軍の言葉の別の形だった。
味方ではなく、“敵に回しきれぬ者”を増やせ。
その一線に、光秀も気づいている。
もう偶然ではない。
「……やはり、人か」
光秀は低く呟いた。
その“やはり”に、藤孝は決定的なものを見た。
この男はもう、自分なりに同じ問いを考え始めている。
もはや昨夜の一言は、衝撃ではなく思考の軸になりつつある。
藤孝は茶碗を置き、静かに背を正した。
「長居をいたしました」
光秀も頷く。
「兵部大輔」
「何でしょう」
「そなたは、将軍をどう見る」
またその問いか、と藤孝は思った。
だが先ほどとは意味が少し違う。
今の光秀は、義昭の人柄ではなく、義昭という存在の危うさを測っている。
「恐ろしい御方におなりです」
藤孝は率直に答えた。
「未来を知るからではなく」
「では」
「人の中に、まだ無いはずの考えを芽吹かせるからにございます」
光秀は、それを聞いてしばらく黙っていた。
否定しない。
その必要もないのだろう。
やがて小さく言う。
「同感だ」
それだけで十分だった。
藤孝は立ち上がり、一礼する。
「では、これにて」
「ああ」
襖の前まで来たとき、後ろから光秀の声がした。
「兵部大輔」
「は」
「私はまだ、信長公を討つつもりはない」
振り返らずに、藤孝は答えた。
「存じております」
「だが」
そこで光秀の声が、ほんのわずかだけ低くなる。
「もし人が、ある日突然変わるのではなく、変わらざるを得ぬところまで少しずつ追い込まれてゆくものなら……」
藤孝は静かに待った。
「人は、ずいぶん前から変わり始めているのかもしれぬな」
その言葉に、藤孝はようやく振り返った。
光秀は座したまま、庭の方を見ていた。
その横顔は静かで、整っていて、いつもの光秀のままだ。
だが、もう以前と同じではない。
「十兵衛殿」
「何だ」
「その答えは、まだ急がずともよろしいかと」
光秀はかすかに笑った。
「将軍にも同じことを言ってやりたいものだ」
「それは難しゅうございますな」
「違いない」
二人はそれ以上、何も言わなかった。
藤孝は今度こそ屋敷を出た。
外へ出ると、昼の光は思ったより強かった。
町のざわめきも、朝より一段濃くなっている。
人々は今日も、いつも通りに生きている。
本能寺のことなど誰も知らぬ。
明智光秀の心の中に、まだ存在しない道が芽吹き始めていることも。
だが藤孝には、もう分かっていた。
将軍の言った通りだ。
光秀はまだ決めていない。
謀反の意思など、今はない。
それは本当だろう。
だが同時に、もう以前の“ただ忠を尽くす明智光秀”でもない。
あの将軍は、一夜でこの男の思考の向きを変えた。
無理やりではない。
脅しでもない。
ただ、“その後”という視界を与えることで。
恐ろしい。
あまりに恐ろしい。
藤孝は歩きながら、ふと空を見上げた。
空は高く、雲は薄い。
都の上には何事もない春の光が広がっている。
だが、その穏やかさの下で、誰にも見えぬところから少しずつ時間の流れが変わり始めている。
そして自分もまた、
その変化をただ眺めるだけでは済まぬところへ足を踏み入れつつある。
「……下りられぬな」
誰に聞かせるでもなく、藤孝は小さく呟いた。
細川藤孝は、まだどちらの旗も取っていない。
光秀にも、将軍にも、全面では乗っていない。
それでももう、完全に無関係な位置へは戻れない。
その事実を胸の底で認めながら、
藤孝は静かに将軍のもとへ戻る道を選んだ。




