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第五話 将軍、朝廷を読む

京という町は、武だけでは動かぬ。


朝に寺の鐘が鳴り、公家の牛車が静かに通り、町衆が店を開き、武家が槍を立てる。

そのすべてが重なって、ようやく都は都の顔をする。


信長ほどの男であっても、それを完全には無視できない。

壊すことはできる。

踏み越えることもできる。

だが、都が都であるための理そのものを、まるごと斬り捨てることはできない。


だから私は、そこを使う。


朝の支度を終えた部屋で、私は文机の前に座っていた。

机上には、昨日までの私ならただ煩わしく眺めていただけかもしれぬ書付が並んでいる。


公家の動静。

寺社の願い。

諸家から届く使者の名。

織田方の出入り。

堺との商いにまつわる断片的な報せ。


紙そのものには、天下を動かす力などない。

だが、天下を動かす者たちは、たいていこういう紙の積み重ねを軽んじる。

だから隙が生まれる。


「近衛殿からの返しは」


控えていた者が、すぐに答えた。


「まだにございます。されど、二条殿のほうには昨日、織田方の使者が参った由」


「ふむ」


近衛。二条。九条。鷹司。

摂関家の動きは遅い。

だが遅いからこそ、いったん傾けば意味が大きい。


公家は兵を持たぬ。

だからといって無力ではない。

彼らは“何が正しい形か”を言葉にする。

そして戦国の武将たちは、あれほど力を誇りながら、最後にはその“形”を欲しがる。


官位。

勅許。

追討の名。

赦免の余地。


どれも刀より遅い。

だが、一度人の口に乗れば、刀の届かぬところまで広がる。


本能寺のあとに必要なのは、まずこれだった。


光秀が信長を討つ。

その瞬間、世の大半はまだ何が起きたのか分からぬ。

分からぬからこそ、最初に意味を与えた者が勝つ。


“主君を弑した逆臣”なのか。

“暴走した天下人を討った者”なのか。

“弔う側”が秀吉なのか。

“国の形を戻すための処置”なのか。


事実は一つでも、意味は一つではない。

そして意味は、武だけで決まらぬ。


私は紙を一枚取り上げた。

寺社からの訴えだ。

信長のやり方に対する不満は、すでにあちこちに沈殿している。

表では服していても、内心では怯え、恨み、居場所を失っている者が多い。


だが、それだけでは足りぬ。


恨みは力にならない。

ただの恨みは、せいぜい刃を一本生むだけだ。

必要なのは、それを“公の理”へ編み直す者だ。


「将軍様」


声がした。


見れば、昨日までとは別の小姓が控えている。

まだ若い。だが目は利く。


「三条西家より、例の件につき使いが」


「通せ」


しばらくして、柔らかな足音とともに、年若い公家風の使者が入ってきた。

衣の色合いに嫌味はなく、所作もよく整っている。

家そのものは武を持たぬが、言葉の扱いには長けている一族だ。


使者は深々と頭を下げた。


「恐れながら、当家の主より、将軍様のお尋ねへの返答をお預かりしております」


「申せ」


「近ごろ都においては、諸方の出入り急にして、人心やや騒がしき由。ことに寺社・公家の間では、世の移ろいの速さに戸惑う声も少なからず……とのことにございます」


私は目を細めた。


曖昧だ。

だが、曖昧さの中に十分なものがある。


つまり、感じてはいる。

信長の速さに、都そのものがついていけていない。

ただし、それを誰の前でどう言うかはまだ決めていない。


当然だ。

この時点で露骨に反信長を匂わせる公家など愚か者である。

賢い者は、まず“空気だけ”を返す。


「他には」


「もし将軍様におかれまして、都の静まりを第一にお考えなら、旧き縁を急にはお捨てにならぬこと肝要、とのこと」


私は小さく頷いた。


これもよく分かる。

旧き縁を捨てるな。

つまり、過去の秩序につながる顔をまだ切るな、という話だ。


それは私の考えとも一致していた。


今は旗を立てる時ではない。

誰が味方かを明らかにする時でもない。

ただ、“まだ切れていない”という曖昧な糸を都のあちこちに残すこと。

それだけでいい。


「ご苦労であった」


使者が退出すると、私は机に肘を置き、しばらく考えた。


朝廷は使える。

正確には、“すぐ使う”のではない。

使える形に、今から整えておく。


公家は決断が遅い。

だが、一度言葉を与えれば、その遅さゆえに重く見える。

朝廷もまた同じだ。

電光石火では動かぬ。

だからこそ、本能寺のような急変のあとで、むしろ価値が出る。


秀吉はそこを知っている。

知っているからこそ、あれは必ず“弔う者”を演じる。

すばやく悲しみ、すばやく怒り、すばやく大義名分を抱き取る。


だからこちらは、その前に都の中へ別の言い方を仕込んでおく必要がある。


“乱を鎮める”

“都を静める”

“旧き秩序と新しき勢いを繋ぐ”


こういう言葉だ。


誰が主語になるかは、まだ決めぬ。

だが、言葉だけは先に流しておく。


そのとき、控えの者がまた声をかけた。


「将軍様。山科より使いが」


「今日は多いな」


「皆、将軍様のご快復を気にかけてのことかと」


私は内心で少し笑った。


病が都合のよい言い訳になっている。

ありがたい話だ。

病後ゆえに周辺の空気を改めて見直している。

そう思わせておけばいい。


通されたのは、今度は寺社筋に近い者だった。

都の外れの小さな争い、荘園をめぐる揉め事、信長方の兵の振る舞いへの不満。

一つ一つは些細だ。

だが、些細だからこそ本物でもある。


大きな陰謀はたいてい後から作られる。

本当に世を変えるのは、こういう無数の小さな不満だ。


私は聞きながら、少しずつ確信していた。


本能寺は、やはり誰か一人の激情では終わらない。

終わらせてはならない。

光秀一人の短い謀反にしてしまえば、秀吉の物語に呑まれる。


必要なのは、光秀の一撃のあとに、都の側が

「そう言われてみれば、たしかに今の世は速すぎた」

と思える余白を作っておくことだ。


納得ではなく、余白。

全面支持などいらない。

ただちに“逆臣”と断じきれぬ空気があればいい。


「……将軍様」


控えていた近習が、遠慮がちに声を落とした。


「何だ」


「例の件にて、二条のあたりで、織田方の者どもが近ごろ出入りを増している由」


「誰の名が出ておる」


「明確には。ただ、羽柴方の使者ではなく、丹羽・堀筋に近い者らしき、と」


私は軽く机を指で叩いた。


秀吉ではない。

まだ遠い。

だが、織田家中は都を“押さえるべき場所”として当然見ている。

信長一人が強くても、その死後は別だ。

家中の誰もが都の意味を取りに来る。


ならば、こちらも急がねばならない。


そのとき、ふと一つの顔が浮かんだ。


近衛前久。


信長とも関わりが深く、公家としての格式もある。

しかも完全な反織田ではない。

こういう人物こそ要だ。


敵でも味方でもない。

だが、どちらからも完全には切れぬ。

その“曖昧な重さ”が、いま最も価値を持つ。


「紙を」


すぐに白紙が出された。


私は筆を取った。


文は短いほうがよい。

長い文は、本心を隠そうとしてかえって色が濃くなる。


病後のご挨拶。

都の静まりへの憂慮。

旧縁を忘れぬ旨。

そして、折あらば一度静かに語りたい、という程度。


それで十分だ。


重要なのは内容ではなく、今この時期に私から近衛へ糸を投げることそのものにある。


書きながら、私は思った。


将軍とは、つくづく面倒な立場だ。

兵がない。

金もない。

実務を回す手も少ない。

だが、その代わり“まだ誰にも完全には属していない”という奇妙な余地がある。


この余地は弱さである。

同時に、使いようによっては力にもなる。


信長の家臣ではできぬことが、将軍の立場ならできる。

公家に文を出し、寺社に顔を立て、細川のような者に“まだ切るな”と言える。

誰の陣営にも完全には入っていないからだ。


「将軍様」


また別の者が声をかけた。


「例の明智殿の件にて……」


私は顔を上げた。


「何かあったか」


「直接の報せではございませぬ。ただ、明智方の屋敷では、今朝はいつもより人の出入り少なく、静かすぎると」


私はほんの少しだけ目を伏せた。


静かすぎる。

それは悪くない。


騒いでいないなら、少なくとも昨夜の言葉に取り乱してはいない。

光秀は考えている。

考え込んでいる。

それでよい。


今の光秀に必要なのは、決断ではない。

決断を急がせれば、かえって浅くなる。

必要なのは、“もしその日が来たなら”という問いを抱え続けることだ。


そして、その問いの答えとなる受け皿を、こちらが先に用意しておくこと。


「明智には、こちらからはまだ触れるな」


「はっ」


「静けさは壊すな。そのままでよい」


近習が下がる。


私は筆を置き、書き上がった文を見た。

近衛への一通。

たったそれだけの紙だ。


だが、こういう紙が後で効く。


本能寺の夜、人はみな急いで答えを出そうとする。

そのとき、すでに一度言葉を交わしている相手と、何もない相手では重さが違う。


人は危機のときほど、見知らぬ正論より、既に触れたことのある曖昧な縁を頼る。

政治とは、そういうものだ。


私は次の紙を取った。


今度は寺社筋へ。

露骨ではなく、あくまで都の安寧を気遣う文。

そしてもう一通、町衆に近い筋へ。

商いの滞りは都を痩せさせる、という、ごくもっともな話。


誰にも本音は書かぬ。

書く必要がない。

今必要なのは陰謀ではなく、接点だ。


接点を増やす。

糸を投げる。

すぐには結ばぬ。

だが、切れぬ程度に絡めておく。


その最中、ふと、机の端に置かれた別の報せが目に入った。


中国筋。

羽柴秀吉。

戦はなお続き、表向きは忙しい。


私はその紙を手に取り、少しだけ眺めた。


今はまだ遠い。

だが、遠いからといって安心はできぬ。

あの男は、距離のある場所からでも最短で帰ってくる。

そして帰ってきた時には、すでに“自分が正しい側だ”という物語を背負っている。


だからこちらは、その前に都の言葉を整える。


秀吉が“主君の弔い”を掲げるなら、

こちらは“都の静まり”を掲げる。


秀吉が“逆臣討伐”を語るなら、

こちらは“拙速な断罪はさらなる乱を招く”と言える空気を用意する。


光秀を全面的に正当化する必要はない。

そんなことをすれば、かえって人は引く。

必要なのは、即断即決で光秀を切り捨てることに、都の側が少しだけためらうことだ。


それだけで、時間が生まれる。


時間さえ生まれれば、歴史は一本ではなくなる。


「将軍様」


最後に、年長の側近が声をかけた。


「近衛殿への文、使者は誰に」


私は少し考えた。


ここは目立たぬ者がいい。

だが軽すぎてもいけない。

“病後の挨拶”として自然でありながら、先方が雑に扱えぬ者。


「山崎の者を使え。顔は立つが、色は濃くない」


「かしこまりました」


「それと」


「はっ」


「返答を急ぐな。こちらが急いていると思わせるな」


「承知」


そこまで指示して、私はようやく背を預けた。


少しずつではある。

だが盤面は動き始めている。


細川はまだ下りていない。

光秀はおそらく眠れていない。

都の公家は、まだ明言せぬが速すぎる世に戸惑っている。

寺社にも不満がある。

町衆もまた、乱れを嫌う。


足りないものだらけだ。

兵も、金も、確たる味方もない。


だが、だからこそいい。


大きすぎる力は人を従わせる。

小さな糸は、人を迷わせる。


いま必要なのは勝利ではない。

“すぐには一つにまとまらぬ都”を作ることだ。


そのとき、不意に胸の内に、遠い足音のようなものが響いた気がした。


羽柴秀吉。


まだ姿はない。

だが、いずれ必ずこの都の意味を取りに来る。

信長の死を、自分の正しさへ変えるために。


ならばその前に、こちらは都に別の顔を用意しておく。


私は書き終えた文を静かに畳ませながら、低く言った。


「都は、早く答えを出しすぎてはならぬ」


誰に向けた言葉でもなかった。

ただ、自分に言い聞かせるように呟いた。


本能寺は一夜だ。

だが一夜で勝つ者は、たいていその前に“次の日の言葉”を仕込んでいる。


ならば私も、仕込むだけだ。


朝の光はすでに高く、部屋の隅々まで届いていた。

将軍の部屋に差し込むその明るさは穏やかだったが、

その穏やかさの下で、見えぬ糸がいくつも都へ伸び始めていた。


そしてその糸の先に、

まだ誰も知らぬ本能寺の夜が、静かに待っている。

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