第四話 明智、眠れず
その夜、明智光秀は眠れなかった。
夜具に身を横たえても、まぶたの裏に浮かぶのは将軍の顔だった。
足利義昭。
追われ、削られ、それでも将軍の名だけは失わぬ男。
その義昭が、昨夜に限ってはまるで別人だった。
――いずれそなたは、信長を討つ。
――そして、そのままではそなたも死ぬ。
あの言葉は、声の大きさではなく、妙な静けさゆえに耳に残った。
怒鳴りつけられたのではない。
脅されたのでもない。
未来を告げる口ぶりでありながら、どこか冷徹に現実を数える者の声音だった。
光秀は寝返りを打った。
闇の中で、己の呼吸だけがやけに鮮明に聞こえる。
「……馬鹿な」
声に出してみても、胸の奥は少しも軽くならなかった。
自分が信長を討つ。
そんな考え、今この時点では欠片もない。
信長は主君である。
苛烈で、容赦なく、人の理解を置き去りにする御方ではある。
だが同時に、凡庸な武将には到底見えぬものを見ておられる。
天下という言葉を、ただ夢や飾りではなく、現実として手繰り寄せようとしている。
仕えるに足る相手だ。
少なくとも、今は。
だからこそ奇妙だった。
義昭の言葉を、ただの妄言と切り捨てられぬ自分がいた。
光秀は己を知っている。
礼法を重んじる。
秩序を重んじる。
一度仕えた相手には、できる限りの忠を尽くす。
それが武家として当然だと信じている。
だが、その“できる限り”という言葉の中に、すでに限界の影が潜んでいることも、薄々知っていた。
信長は速い。
あまりにも速い。
人がついてゆけぬ速さで決め、壊し、進む。
寺社も、公家も、旧き名家も、昨日までの理も、信長の前では「役に立つか否か」に並べ直される。
そのやり方に理がないとは言わぬ。
むしろ、大きな理はある。
だが、人の心は理だけでは従わない。
あの将軍は、そこを言い当てた。
――最後まで仕えようとした者ほど、最後に最も深く裂かれる。
光秀は目を閉じた。
言われた瞬間、否定した。
当然だ。
だが否定した後でなお、その言葉だけが心のどこかに居座っている。
見透かされた。
そう感じたからだ。
自分はまだ何も決めていない。
それでも、将軍は“決めるに至るまでの壊れ方”を語った。
そのことが、何より薄気味悪い。
灯明の火はすでに落としてある。
部屋の暗さの中で、障子の向こうだけがわずかに白んで見えた。
夜が明けるにはまだ早い。
光秀は起き上がった。
座したまま、しばらく膝の上に手を置く。
指先に力が入っているのが分かる。
自分でも気づかぬうちに、強く握っていた。
もし昨夜の言葉が、ただの狂気なら簡単だ。
聞き流せばよい。
将軍は病後で心乱れた、とでも考えれば済む。
だが、そうではない。
義昭の言葉には、筋があった。
信長が速すぎること。
朝廷も寺社も諸将も、その速さに遅れていること。
遅れが恐れを生み、恐れがいつか刃を握らせること。
そして、その刃を握るのが自分だと。
「なぜ、私だ」
小さく漏らした問いに、答えはない。
だが昨夜、義昭は答えていた。
最も近くで信長を理解しているからだ、と。
光秀はその言葉を思い返し、かすかに眉を寄せた。
理解している。
たしかに、理解しているつもりではいる。
信長が何を嫌うか。
何に激し、何に飽き、どのようなときに人を用い、どのようなときに切り捨てるか。
他の誰より分かる、とは言わぬ。
だが、かなり近くで見てきた自負はある。
そして、その理解が深いほど、逆に恐ろしくなる瞬間もある。
あの御方は、止まらぬ。
誰かが苦しもうと、古い秩序が悲鳴を上げようと、必要とあれば踏み抜いて進む。
そこにためらいがない。
英雄である。
だからこそ、恐ろしい。
光秀はゆっくりと立ち上がり、障子を細く開けた。
夜明け前の空気がひやりと頬に触れる。
庭はまだ暗い。
木々の影が地に沈み、池の水面も見えぬほどだった。
こんな夜に限って、京は静かだ。
静かなぶんだけ、昨夜の言葉が耳の内側で繰り返される。
――討ったその日、何もしなければそなたは死ぬ。
――備えるなら、今からだ。
――勝ち方ではない。生き残り方を先に作れ。
そこで光秀の思考が止まった。
生き残り方。
そこだけが、ひどく現実的だった。
謀反を勧めるなら、勝ち筋を語るはずだ。
兵数、城、味方、名分。
だが義昭はそうではなかった。
あの将軍は、一度も「勝て」とは言わなかった。
ただ、「何もしなければ死ぬ」と言った。
そして「退路を作れ」と。
それはまるで、すでに本能寺の後を見てきた者の言い方だった。
光秀は障子から手を離した。
そのとき、外で小さく気配がした。
「殿」
家臣の声である。
「何事か」
「細川兵部大輔殿が、お見えにございます」
光秀の眉がわずかに動く。
やはり来たか、と思った。
来ぬほうが不自然ではある。
昨夜の場に居合わせた者同士だ。
互いに何もなかった顔をして済ませられるほど、軽い話ではない。
「通せ」
「はっ」
ほどなくして、襖が開く。
細川藤孝は、朝の空気をまとったまま、静かに入ってきた。
衣に乱れはない。
表情も平素と変わらぬ。
だが、目の下にほんのわずかな疲れがあった。
この男も、眠れていないのだろう。
「朝早くから失礼つかまつる」
「いや」
光秀は座を勧めた。
「兵部大輔も、お休みにはなられなかったか」
藤孝は苦く笑った。
「見て分かるほどでございましたか」
「私も同じだ」
その一言で、二人の間に、奇妙な率直さが生まれた。
打ち解けたわけではない。
ただ、昨夜のことで互いに消耗しているのを隠しても意味がないと分かっている。
藤孝が座し、しばし沈黙が落ちた。
先に口を開いたのは、光秀だった。
「兵部大輔。率直に聞く」
「何なりと」
「昨夜の将軍の言葉、そなたはどう見た」
藤孝はすぐには答えず、まず光秀を見た。
その視線は柔らかいが、観察も混じっている。
「率直に申し上げれば」
「うむ」
「恐ろしいお言葉でございました」
光秀は小さく頷いた。
同意だった。
不快ではなく、恐ろしい。
まさにその通りだ。
「妄言と思うか」
「思いたい、とは思いました」
「だが」
「だが、将軍様の言葉には筋がありました」
そこで二人の視線が合った。
逃げられぬところまで、同じ認識に来ている。
その確認だけで、かえって場が重くなる。
「十兵衛殿」
藤孝が静かに言う。
「気を悪くされずに聞いていただきたい」
「申せ」
「私は昨夜、将軍様が十兵衛殿を脅したとは思いませぬ」
「……」
「むしろ、救おうとしておられた」
光秀の目がわずかに細くなる。
その見立ては、自分でも感じていた。
だからこそ厄介なのだ。
「なぜそう思う」
「勝てとは一度も仰せにならなかったからです」
藤孝の答えは、まっすぐだった。
「謀を勧める者なら、兵を語り、味方を語り、勝機を語りましょう。ですが将軍様は違いました。討った後の孤立と、羽柴の速さと、退路だけを語られた」
光秀は黙った。
藤孝の見方は、ほぼ自分と同じだった。
「兵部大輔は、将軍を信じるのか」
その問いに、藤孝は少し考えた。
「信じる、という言葉はまだ早うございます」
「では」
「見捨てきれぬ、と申しましょうか」
光秀は、かすかに息を吐いた。
その答えは、この男らしかった。
藤孝は一方に賭け切る男ではない。
軽々しく熱狂もせぬ。
だが、筋のあるものを切り捨てるほど冷たくもなれない。
「十兵衛殿は」
今度は藤孝が尋ねた。
「どう見られます」
光秀はすぐには答えなかった。
障子の向こうが、少し明るくなっている。
庭木の輪郭が見え始めていた。
「分からぬ」
ようやく口にしたのは、その一言だった。
「分からぬが……忘れられぬ」
藤孝は何も言わない。
先を促す沈黙だけを置く。
「私は、今のところ信長公を討つつもりなどない」
「それは当然にございます」
「だが、将軍は“討つ理由”ではなく“討るに至る人の壊れ方”を語った」
そこで光秀は、一度言葉を切った。
自分の中にある、もっとも口にしづらいものを選び取るためだった。
「まるで、私の中にまだ形もない綻びを、先に見つけられたようで……気味が悪い」
藤孝の目がわずかに伏せられた。
共感だろう。
昨夜あの場にいた者なら、同じような薄気味悪さを覚えていても不思議ではない。
「十兵衛殿」
「何だ」
「怒ってはおられぬのですな」
その問いに、光秀は少し驚いた顔をした。
怒り。
言われてみれば、たしかにそれは薄かった。
侮辱されたとも思わぬ。
不快ではある。
だが、本質はそこではない。
「怒る、か」
「はい。理不尽なことを言われたと、腹立てることもできましょう」
「……できぬな」
光秀は静かに答えた。
「腹立たしさより先に、なぜそこまで言い当てるのかという気味の悪さが来る」
藤孝は小さく頷く。
「やはり」
「やはり、とは」
「将軍様は、十兵衛殿の怒りではなく、思考を動かしたのでございましょう」
その言葉に、光秀は返す言葉を失った。
そうなのだ。
もし腹が立っていれば、むしろ楽だった。
無礼だ、妄言だと切って捨てればよい。
だが実際には、思考の歯車だけが無理やり一段先へ回されてしまった。
まだ起きてもいない未来の、その“後”へ。
「兵部大輔」
光秀は低く言った。
「そなたは、あの将軍に何を見た」
藤孝は少しだけ遠くを見るような目をした。
「以前とは違う御方、にございます」
「それは分かる」
「勝ちたい方ではなくなっておられました」
光秀は黙った。
「勝ちたい方ではなく、残したい方になっておられる」
その表現は、妙に腑に落ちた。
義昭はもはや、自分が信長に勝つことそのものを望んでいるようには見えなかった。
代わりに、信長が壊した後に何を残すか、それを先に組み始めている。
そういう目だった。
「だから、厄介だ」
光秀がそう言うと、藤孝は少しだけ笑った。
「まことに」
しばし、二人の間に静かな間が落ちた。
やがて光秀は、ふと問う。
「兵部大輔。仮にだ」
「はい」
「仮に、人が大きなことを為したとして」
「うむ」
「その直後に滅ぶのだとすれば、何が足りなかったのだろうな」
藤孝はその問いの重さを理解した顔をした。
これは歴史談義ではない。
昨夜の続きだ。
「一つではありますまい」
「たとえば」
「時、にございましょう」
藤孝は穏やかに答えた。
「早すぎれば、人はついて参りませぬ」
信長のことでもある。
そして、これからの光秀にもなりうる。
「他には」
「名分」
「……」
「どれほど理があっても、世が“それでよい”と思わねば、長くは続きませぬ」
光秀は頷いた。
それも分かる。
ただ勝つだけでは足りない。
人が後から意味を載せられる形でなければ、続かない。
「まだあるか」
「ございます」
藤孝はそこで、少しだけ声音を低くした。
「討った後の、顔ぶれにございます」
光秀は目を上げる。
「どれほど大事を成しても、その翌朝に誰が横に立っているかで、世の見方は変わります。友を持つ者か。孤立した者か。次を任せられる者か。昨日限りの者か」
その言葉は、胸に重く落ちた。
昨夜の義昭の言葉と重なったからだ。
孤立する。
朝廷は動かぬ。
細川は動けぬ。
筒井は揺れる。
秀吉は誰より早く戻る。
あれは脅しではなく、顔ぶれの話だったのだ。
光秀は気づいた。
自分はもう、“仮にその日が来たなら”という思考を始めてしまっている。
それ自体が、恐ろしかった。
まだ何も決めていない。
決めるつもりもない。
それなのに将軍の一言が、ありもしないはずの分岐を頭の中に作ってしまった。
「十兵衛殿」
藤孝が静かに呼ぶ。
「今すぐ何かを決める必要はございますまい」
「分かっている」
「ならば、今はただ心に留め置けばよいのでは」
「それも分かっている」
言いながら、光秀は自分の声が少し硬いことに気づいた。
藤孝は責めず、ただ見ている。
光秀はゆっくり息を吐いた。
「……分かっている。だが、人は一度聞いたことを無かったことにはできぬ」
そこは本音だった。
義昭の言葉は、もう耳から離れない。
これから先、信長の激しさを見るたびに、将軍の一言がよみがえるだろう。
その意味で、昨夜はすでに何かを変えてしまっている。
藤孝がふと、柔らかく言った。
「それでも十兵衛殿は、今すぐ変わられますまい」
光秀はその言葉を受け、かすかに目を細めた。
「なぜそう思う」
「変わるには、十兵衛殿はあまりに律儀にございます」
その言い方に、光秀は初めて少しだけ笑った。
皮肉ではない。
古くからの友にしか言えぬ、苦い理解だった。
「それは褒めているのか、案じているのか」
「半々にございます」
「そうだろうな」
二人の間の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
だが、問題が消えたわけではない。
むしろ今ので、互いに“まだ決していないが、もう無視もできない”地点まで来たのを確認しただけだ。
藤孝は座を正した。
「私は、しばらく京の空気を見ます」
光秀はその言い方に少しだけ引っかかった。
「京の空気」
「ええ。信長公の機嫌、公家の噂、寺社のざわめき。小さなことでも、重なると流れになりますゆえ」
光秀は黙って頷いた。
自然な言い方だった。
不審ではない。
だが同時に、藤孝もまた昨夜以後、少し先を見始めているのが分かった。
「兵部大輔」
「はい」
「そなたは、私に何か隠しておるか」
唐突な問いだったが、藤孝は表情を変えなかった。
「隠し事のない者など、この世におりますまい」
「相変わらずだな」
「十兵衛殿も同じにございましょう」
それ以上は踏み込まなかった。
今ここで互いを暴いても益はない。
むしろ重要なのは、まだ話せることだ。
藤孝が立ち上がる。
「長居いたしました」
「ああ」
「十兵衛殿」
「何だ」
藤孝は一瞬だけ言葉を選び、そして静かに言った。
「昨夜のこと。無理に忘れようとなさらぬほうがよろしいかもしれませぬ」
光秀の眉がわずかに動く。
「忘れようとするほど、かえって心に残るものです」
それだけ言って、藤孝は一礼した。
襖が閉まる。
光秀はしばらく、その閉じた襖を見ていた。
部屋はもうすっかり朝だった。
庭の木々も、池の水面も見える。
夜のあいだには見えなかったものが、明るさの中で輪郭を持ち始めている。
だがそれは、心の内も同じだった。
見たくなかったものが、少しずつ形を持ち始めている。
光秀は机の前に座り、何も書かれていない紙を前にした。
筆を取る。
だが、すぐには何も書けない。
誰に宛てるわけでもない。
命令でも、報告でもない。
ただ思考を置くためだけの紙だった。
しばらくして、光秀はひとつだけ文字を書いた。
退
それを見つめる。
退路。
退くためではない。
生き延びるための道。
信長を討つなど、まだ考えてはいない。
考えてはいないはずだ。
それでも、もし人が大事を成した直後に滅ぶのだとしたら、
滅びぬために何が要るのか。
その問いだけは、もう捨てられなかった。
光秀は筆を置き、静かに目を閉じた。
義昭の言葉は毒のようだった。
飲んだその場では死なぬ。
だが、体のどこかに残り、じわじわと考えを変えてゆく。
恐ろしい将軍だ、と光秀は思った。
未来を言い当てたからではない。
まだ存在しないはずの分岐を、人の中に作ってしまうからだ。
そして、その分岐を自分はもう見てしまった。
見てしまった以上、
今までとまったく同じ顔で、同じように信長に仕え続けられるのかどうか。
そのことに、光秀は初めて言いようのない不安を覚えた。
朝の光はもう十分に差している。
新しい一日が始まる時刻だ。
だが明智光秀にとっては、
昨夜の一言から、すでに別の時間が始まっていた。




