第三十話 将軍、最後の 毒 を撒く
江戸幕府が成立し、日の本の隅々まで徳川の法度が浸透した頃。
かつて将軍として乱世の渦中にいた義昭は、今や歴史の表舞台からは完全に消え、一人の 過去の遺物 として、静かな隠居生活を送っていた。
しかし、その隠居所には、密かに、かつての面影を失った若き武士たちが訪ねてくるようになっていた。
「公方様……。今の世は、あまりに正しく、あまりに静かすぎて、己が何のために剣を振るうのかさえ、わからなくなっております」
訪ねてきた若い旗本は、三成が作ったような精緻な帳簿を抱え、疲れ果てた表情で項垂れていた。
義昭は、彼に一服の茶を差し出し、枯淡な笑みを浮かべた。
「ほう。内府(家康)殿が与えた泰平は、貴殿らにとっては少々、風通しが悪すぎるか」
「……法を違えず、役目をこなし、波風を立てずに生きること。それが今の『武士』の定義にございます。ですが、胸の奥にある何かが、ずっと燻っているような心地がするのです」
義昭は、庭の隅に咲く、名もなき野花を指差した。
「それはな、貴殿の中にまだ『毒』が残っている証拠だ。家康殿は、この国から毒を抜き、誰もが害のない薬となることを求めた。だが、薬ばかりでは人は生きられぬ。時として己を焦がすほどの情、理屈に合わぬ怒り……そうした『無駄』こそが、人を人たらしめるのだ」
義昭は、若者の帳簿をそっと閉じさせた。
「良いか。この動かぬ世で、貴殿にできる唯一の戦いがある。それは、己を管理させぬことだ。数字や役目という名の檻の中に、己の魂まで閉じ込めてはならぬ。時には、法に触れぬ程度の『悪戯』や『粋』を忘れるな。それが、この窒息しそうな世の中で、呼吸を続けるための秘訣よ」
若者は、ハッとしたように顔を上げた。
義昭が若者たちに教えていたのは、謀反の計略ではない。管理され、規格化されていく波の中で、いかにして 個の歪み を守り抜くかという、静かなる抵抗の術であった。
遠く、江戸城の天守では、家康が完璧な支配の図面をさらに強固なものに描き変えていた。
だが、その城下の一角で、義昭は 停滞 という罠の中に、わずかな、しかし消えることのない 個の熱量 を植え付け続けていた。
「藤孝。私は、この『静かなる檻』の中に、小さな風穴を掘り続けよう。いつか、この国が自らの重みで動けなくなった時、その風穴から再び、理屈では測れぬ人間たちの声が響くように」
義昭の瞳には、三百年後の未来にまで届くような、悪戯っぽくも鋭い光が宿っていた。
彼は敗北したのではない。この 管理された平和 という名の巨大な現実の隅っこで、最後の、そして最も強力な 毒 を撒き散らしていたのである。




