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第十七話 本能寺

火は、まだ上がっていなかった。


夜は深く、都は静まり返っている。

人は眠り、灯は落ち、何も変わらぬ夜の顔をしている。


だがその静けさの底で、

すでにすべては動いていた。


明智光秀は、門の前に立っていた。


本能寺。


闇の中に沈むその姿は、あまりに静かだった。

ここに、あの織田信長がいる。


天下を動かした男。

誰より速く、誰より遠くまで踏み越えた男。


光秀は、その門を見つめた。


もう戻れぬ。


その認識は、恐れではなかった。

むしろ、奇妙なほど静かな確信だった。


勝つためではない。


この場を、通るためだ。


そのための形は、すでに整っている。


都はすぐには答えを出さぬ。

公家も、寺社も、町衆も、一拍を置く。

細川も、すぐには動かぬ。


その一拍があれば――


光秀は、ただの逆臣では終わらぬ。


そこまで、見えている。


「……進め」


低く言った。


それで十分だった。


兵が動く。


音は小さい。

だが確実に、夜が割れ始める。


織田信長は、すでに起きていた。


最初の違和は、音ではなかった。


気配。


人の気配が、妙に濃い。


普段なら気にも留めぬ程度の揺れが、

今夜はなぜか、ひとつの線として感じられる。


「……来たか」


信長は、短く言った。


声に驚きはない。

恐れもない。


ただ、理解があった。


理由は分からぬ。

だが、この夜は何かが違う。


それだけで十分だった。


外が騒がしくなる。


足音。

怒号。

火の気配。


そこでようやく、形が揃う。


「明智か」


その名は、疑いではなかった。


信長は立ち上がる。


迷いはない。


問いもない。


なぜ、ではない。


来たなら、受ける。


それだけだ。


炎が上がる。


本能寺が燃える。


夜が一気に赤く染まる。


だが、その光の中でも、

信長の顔は変わらない。


「十兵衛」


炎の向こうへ向かって、声を放つ。


その声には怒りも、嘆きもなかった。


ただ――


「ようやくか」


その一言だけがあった。


それは皮肉でも、賞賛でもない。


理解だった。


人は裂ける。


それを、信長は知っている。


そして、裂けるなら、いずれ誰かがここへ来る。


それが光秀であった。


ただ、それだけのことだ。


光秀は、炎の中にいた。


煙。

火。

叫び。


だが、そのすべてが、遠い。


目の前にあるのは、ただ一つ。


織田信長。


あの男が、そこにいる。


光秀は一歩、進んだ。


足は震えていない。


心も、揺れてはいない。


揺れは、ここまでで終わっている。


「信長様」


声は、はっきりとしていた。


信長は炎の中で、わずかに笑った。


「遅いぞ、十兵衛」


その言葉に、光秀は目を細めた。


遅い。


それは、責めではない。


信長は知っているのだ。


光秀がここへ来るまでに、どれほどの時間を内で費やしたか。


どれほど考え、どれほど裂け、

それでもなお、ここに来たか。


すべてを言い当てられたような気がした。


「……御免」


光秀は言った。


その一言に、すべてを込めた。


信長は、それを聞いて、ほんの一瞬だけ目を細めた。


「よい」


短い返答だった。


その一言で、終わった。


そこに、主と家臣の関係も、裏切りも、弁明もなかった。


ただ――


それぞれが、それぞれの道を通った。


それだけだった。


炎は強くなる。


本能寺が崩れていく。


夜は完全に破れた。


だがその瞬間。


都は、まだ動いていない。


誰も、声を上げていない。


逆臣だ、とも。

討て、とも。

正しきはどちらだ、とも。


何も決まっていない。


ただ、燃えているという事実だけが、

都の中に静かに広がっていく。


その静けさ。


それこそが――


義昭の置いた一手だった。


足利義昭は、報せを受けていた。


「本能寺――炎上」


その一言だけ。


それで十分だった。


義昭は、すぐには何も言わなかった。


目を閉じる。


来た。


ついに、来た。


止めなかった夜。

止められなかった夜。


だが――


終わりではない。


むしろ、ここからだ。


「……急ぐな」


静かに言う。


誰にともなく。


だが、その言葉は、すでに都のあちこちにある。


「まず、静めよ」


それだけでよい。


都がそれを言うなら、

明智光秀は、すぐには消えない。


義昭は、ゆっくりと目を開けた。


その瞳は、もはや過去ではなく、

完全に“次の日”を見ていた。


中国筋。


秀吉は、夜半の報せを受けた。


「本能寺――」


言葉は最後まで聞く必要がなかった。


「……やりおったか」


低く言う。


遅れた。


一手、遅れた。


都の静けさ。

違和。

すべては、このためだった。


秀吉は、すぐに立ち上がる。


「間に合わせる」


その一言に、迷いはなかった。


戦は終わっていない。


むしろ――


ここからが本当の戦だ。


誰が、次の日の意味を握るか。


その勝負が、今始まった。


本能寺は燃えている。


だがその火は、ただの戦の火ではない。


信長という一つの時代が、終わる火。


そして同時に――


誰がその終わりを語るかを巡る、新しい戦の始まりだった。


静けさは、破れた。


だが、その破れ方は、まだ一色ではない。


都は、まだ決めていない。


その一拍。


そのわずかな時間の中に、

すべての勝敗が、これから流れ込んでいく。

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