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第十五話 明智、決断の縁へ

決断とは、踏み出すことではない。


踏み出すより前に、

「もう戻らぬ」と知ってしまうこと。

その時点で、人はすでに決断の縁に立っている。


明智光秀は、その縁に立っていた。


夜。


屋敷は静まり返っていた。


灯火は一つ。

机の上に置かれた火が、紙の上に淡い影を落としている。


光秀は、長く動かずにいた。


目の前には、いくつかの紙が並んでいる。


地図。

名の書かれた覚え。

そして、自ら書いたいくつかの言葉。


退


そこに、さらに一つ、新しい言葉が加えられていた。



光秀はその字を見つめていた。


すべては、時だった。


どの道も、正しさだけでは決められぬ。

どの選びも、理だけでは足りぬ。


だが、いつ動くか。

その一点だけは、すべてを決める。


早すぎれば、ただの逆臣になる。

遅すぎれば、何も変わらぬ。


では、どこか。


その問いに、光秀はすでに答えを持ってしまっていた。


持ってしまっていることが、何より重かった。


信長の顔が浮かぶ。


あの御方は、止まらぬ。


迷わぬ。

振り返らぬ。

踏み越える。


それが、この国をここまで動かした。


その正しさも、強さも、誰より知っている。


だが同時に、分かっている。


そのまま進めば、どこかで人が裂ける。


遅れた者。

ついてゆけぬ者。

礼を失われたと感じる者。

それらが、ある一点で耐えきれなくなる。


その一点が、まだ来ていないだけだ。


だが――


来る。


光秀は静かに目を閉じた。


義昭の言葉が、思い出される。


勝つな。

生き残れ。


それは、ただの生き延びよではなかった。


滅びぬ形を作れ。

切り捨てられぬ位置にいろ。

そのために、先に退路を設計せよ。


最初は、理解できなかった。


今は違う。


都を見た。

公家を見た。

寺社を見た。

町衆を見た。


皆が同じことを言っている。


急ぐな。

まず静めよ。

あとで決めよ。


それは誰かの策ではない。

都の呼吸だ。


ならば――


もし何かが起きたとき。


都はすぐには一色にならぬ。


一拍が生まれる。


その一拍があれば、

ただの逆臣では終わらぬ。


そこまで、分かってしまった。


光秀はゆっくりと立ち上がった。


障子を開ける。


夜気が冷たい。


庭は暗く、石の輪郭だけが浮かぶ。

静かな夜だった。


だがその静けさの中で、光秀の中ではすでにいくつものものが動いている。


信長。

義昭。

都。

秀吉。


すべてが、同じ一点へ向かっているように感じられた。


逃げ場はない。


いや――


逃げ場はある。


だがそれは、逃げることではない。


通るか、通らぬか。


その違いだけだ。


ふと、足音がした。


振り向くと、家臣が一人、遠慮がちに立っている。


「十兵衛様」


「何だ」


「明日の出仕の件にて、時刻の確認を」


「承知している」


短く答える。


家臣は頭を下げ、去っていく。


日常は変わらぬ。


それが逆に、恐ろしい。


この何も変わらぬ顔のまま、

内側だけが変わっていく。


信長の前に出れば、見抜かれるかもしれぬ。

いや、もう何かは感じ取られている。


あの御方は、人の“前と違う”を嗅ぐ。


だがまだ、断じてはいない。


それはつまり――


まだ間に合う


ということだ。


だが同時に、


今しかない


ということでもある。


光秀は机に戻り、紙を一枚引き寄せた。


新しく書く。


一拍


筆を止める。


この一拍を、どう使うか。


都はすでに、それを用意し始めている。

義昭は、それを設計している。

藤孝は、それを家の論理として抱え始めている。


では、自分は。


光秀はゆっくりと息を吐いた。


「……ここか」


声は、ほとんど音にならなかった。


だが、その一言で十分だった。


もう、戻るか進むかではない。


どの形で、この場を通るか


そこに問いは変わっている。


遠く、中国筋。


秀吉は夜の陣で、灯の下に座っていた。


文が一通、手元にある。


都からのものではない。

だが、都の匂いがする。


秀吉はそれを読み終え、しばらく動かなかった。


「……静かすぎる」


低く言う。


戦の最中に、都が静かすぎる。


それは、何もない静けさではない。


何かを決めかねている静けさだ。


そして、そういう静けさは、放っておくと他人に取られる。


「誰かが、場を作っとるな」


秀吉は目を細めた。


将軍か。

都そのものか。

あるいは、別の誰かか。


まだ分からぬ。


だが一つだけ、確かなことがある。


このままでは、遅れる。


「……戻るだけでは足りぬのう」


秀吉は小さく笑った。


戻る前から、すでに手を打たねばならぬ。


戦の勝ち負けだけではなく、

その後の意味を先に握る必要がある。


秀吉は筆を取り、静かに書き始めた。


場面は再び、光秀の屋敷。


光秀はまだ、机の前に座している。


紙の上には、言葉が並ぶ。


家。

友。

都。

形。

退。

人。

時。

一拍。


すべてが揃った。


揃ってしまった。


足りないものは、もうない。


あるのは――


選ぶことだけだ。


光秀は、筆を置いた。


手は震えていない。

だが、内側では何かが決定的に変わっている。


まだ、動いてはいない。


まだ、何も起こしてはいない。


だが、この瞬間。


明智光秀は、すでに戻れぬ場所に立っていた。


夜は深い。


だが、その深さの底で、

確かに次の一手が、形になり始めていた。

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