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第十四話 秀吉、匂いを掴む

羽柴秀吉は、目に見えるものより、まだ形になっていないものを先に嗅ぐ男だった。


勝ち負けは後からついてくる。

戦の巧拙も、兵の数も、地の利も、すべては後で語れる。

だが、本当に先を分けるのは、

“まだ誰も言葉にしていない違和”を、どれだけ早く掴めるかだ。


その違和が、近ごろ妙に引っかかっていた。


中国筋の陣。


昼は過ぎ、空気は乾き、兵の動きも少し落ち着いた刻だった。

報せは絶えず入る。

敵の動き、味方の動き、兵糧、道、天候。

どれも重要だ。


だが秀吉の頭の片隅には、別のものがずっと引っかかっている。


都。


「また文か」


秀吉がそう言うと、小者がうやうやしく差し出した。


「都の商人筋よりにございます」


「ほう」


受け取って、さっと目を通す。


難しいことは書いていない。

いつもの挨拶に、世の様子、商いの流れ、少しばかりの不安。


だがその中に、見慣れぬ色が混じっている。


“急ぎすぎる収め方は、かえって長引く”


秀吉は、その一行で指を止めた。


「……ほう」


小さく声を漏らす。


それ自体は、間違ってはいない。

むしろ、町人としては当然の理屈だ。


だが――


「この言い回し、どこで聞いたかの」


誰にともなく呟く。


ここ数日、似たような言葉を、違う筋から何度も見ている。


公家。

寺社。

そして町衆。


言い方は違う。

だが芯は同じだ。


急ぐな。

まず静めよ。

あとで決めよ。


それが、じわじわと都の中に広がっている。


「……おかしいのう」


秀吉は紙を畳みながら、目を細めた。


都はもともと遅い。

それは知っている。

決断を嫌い、顔を見、順を見、礼を見て、なかなか白黒をつけぬ。


だが、それとは違う。


これはただの遅さではない。

遅さを“理”として言葉にし始めている。


それが違和だった。


「誰か、やっとるな」


ぽつりと漏らす。


命じて言わせているのではない。

それなら、もっと露骨に出る。

そうではなく、もっと自然に、

“もともと都がそう思っていたかのように”

言葉が揃っている。


そういうやり方は、一人しか思い浮かばなかった。


「……将軍か」


声には出さぬ。

だが、頭の中でははっきりと浮かんだ。


足利義昭。


力はない。

兵もない。

だが、どこにも完全には属していない。


あの立場で、都の空気を少しずつ撫でるように動かすなら――

できぬ話ではない。


秀吉は、机に指を軽く打ちつけた。


「いや」


すぐに打ち消す。


まだ決めるには早い。


義昭一人の手とも限らぬ。

都そのものの疲れが、自然にそういう言葉を生んでいる可能性もある。


ただ一つ、確かなことがある。


このままでは、まずい。


「……“急ぐな”が広がると、あとで困る」


秀吉は低く言った。


小者が顔を上げるが、意味までは分からぬ。


秀吉は続ける。


「何か大きなことが起きたとき、皆が“まず様子を見よう”になれば、誰が正しいかを決めるのが遅れる」


それは、ただの遅れではない。


遅れれば、そのあいだに別の話が入り込む。

別の理屈が育つ。

別の正しさが生まれる。


そうなれば、“勝った側がそのまま正しい”とはならぬ。


秀吉が欲しいのは、そこだった。


何かが起きたとき、

迷いなく

「自分が収める側だ」

と言える場。


その場を作るためには、都があまりに長く迷っていては困る。


「……静かすぎるのも、面倒じゃの」


秀吉は笑った。


騒げば、押し切れる。

怒れば、巻き込める。

だが、静かに迷われると、入り込む余地が減る。


それが今の都だ。


「ならば、少し揺らすか」


ぽつりと言う。


決して大きくは動かさない。

目立てば、相手に気づかれる。

必要なのは、ほんの少しだけ方向を与えることだ。


「文を一つ」


「はっ」


小者が筆を取る。


「商人筋へ、礼を重ねよ」


「礼、にございますか」


「うむ。流れを止めぬこと、働いた者には必ず報いること、戦があっても商いは守ること」


秀吉は言葉を選びながら続ける。


「それと」


少しだけ考えた。


「乱は長く引くものではない、と入れよ」


小者が筆を止める。


「それは……」


「急いで片をつける、とは言うな」


秀吉はすぐに補った。


「ただ、“長く引かせぬ”とだけ書け」


そこが肝だった。


“急げ”と言えば、反発が出る。

だが“長引かせぬ”と言えば、都の理ともぶつからぬ。


似ているようで、違う。


都は「急ぐな」と言っている。

ならばこちらは「長引かせるな」と置く。


その二つがぶつかるとき、

間に入る理屈を握った者が勝つ。


「承知」


小者が筆を走らせる。


秀吉はそれを横目に見ながら、さらに思案を巡らせた。


公家。

寺社。

町衆。


どれもすぐには動かぬ。

だが、どれも後で効く。


ならば、いまのうちに

“自分がその後を任せてもよい相手だ”

と思わせる芽を、少しずつ植えておく必要がある。


「……戻ったときには、もう遅い」


秀吉は低く呟いた。


戦場から戻ってから都を取りに行くのでは遅い。

戻る頃には、都の側がすでにどの理で動くか、半分は決まっている。


だから今、ここから手を伸ばす。


それができるかどうかで、次の日の顔が決まる。


秀吉は立ち上がり、外へ出た。


陣の外は明るい。

兵が動き、声が飛び、戦の匂いが濃い。


だがその中で、秀吉の意識はすでに戦場の外にあった。


都。


静かに息を潜め、急がぬ理を育て始めている場所。


そしてその静けさの中で、まだ名もない“次の日の正しさ”が、誰のものになるかを待っている場所。


「……おもろうなってきた」


秀吉は小さく笑った。


戦はまだ終わっていない。

だが、戦の先で何が起きるかのほうが、よほど面白い。


「将軍か、都か、それとも――」


言いかけて、やめた。


まだ名を決めるには早い。


だが一つだけ、はっきりしている。


このままでは、誰かに“次の日”を持っていかれる。


それだけは、許さぬ。


秀吉は空を見上げた。


雲は薄く流れ、風は穏やかだ。

戦の只中とは思えぬほど、静かな空だった。


その静けさの裏で、

都もまた、別の静けさを広げている。


そしてその二つの静けさが、やがて一つの場所でぶつかる。


そのとき、誰がその場の意味を握るか。


秀吉はゆっくりと視線を戻した。


「さて、もう一手」


その声は軽かった。

だが、その軽さの中に、すでに次の布石がいくつも重なっていた。

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