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第十三話 明智、都の声を聞く

都の声は、小さい。


大声で叫ばれることは少ない。

誰かが旗を立てるように、はっきりと形になることもない。

だが、同じ言い回しが、違う口から、違う場所で、何度も繰り返されるとき、

それはただの噂ではなく、空気になる。


明智光秀は、その空気に触れ始めていた。


その日、光秀は用向きにて公家筋を訪れていた。


大事ではない。

表向きは、礼を交わし、都の様子を伺い、近況を伝える。

そういう、いつも通りの往来だった。


座敷は静かだった。

香の匂いが淡く残り、声は低く、言葉は選ばれる。

武家の場とは違う時間の流れだ。


「近ごろは、世の移ろいが速うございますな」


相手の公家が、そう言った。


曖昧な言い方だった。

だが、その曖昧さの中に、はっきりしたものがあった。


「速さは、乱世の常かと」


光秀は答える。


「さようにございます。されど」


公家は、少しだけ間を置いた。


「速さにも、礼が伴わねば、後に収まりがつきにくうございましょう」


光秀はその言葉を、すぐには返さなかった。


礼。

収まり。

どちらも戦場の言葉ではない。

だが、都ではそれが現実になる。


「おそれながら」


光秀は静かに言った。


「礼を尽くす間があれば、よろしゅうございますが」


「それを申しておるのでございます」


公家は微笑んだ。


「間を失うほどの速さは、いずれ別の形で歪みを生みましょう。ゆえに、急ぎすぎぬこともまた、世を保つ理にございます」


光秀は、わずかに目を細めた。


まただ。


“急ぎすぎるな”。


この言葉を、すでに何度聞いたか分からぬ。


義昭。

藤孝。

そして今、公家。


誰か一人の言葉ではない。

都の側から、同じ方向を向いた言い回しが自然に出てくる。


それが何より重かった。


話はそれ以上広がらなかった。

いや、広げなかったのだろう。


公家はそれ以上踏み込まない。

光秀もまた、あえて踏み込まない。


だが、踏み込まぬままでも、十分に伝わるものがあった。


光秀は屋敷を辞し、次の用向きへ向かった。


今度は寺社筋である。


境内は静かだった。

参る者も少なく、風の音と、遠くの鐘の響きだけが残っている。


応対した僧は、言葉少なだった。

だが、その少なさの中にも、同じものがあった。


「このところ、世の動きが速すぎますな」


「そのように見えますか」


「速きは悪ではございませぬ。ただ」


僧は、少しだけ視線を落とした。


「祈りの場は、あまりに急な変わり目を嫌います。形を整える間がなければ、鎮まるものも鎮まりませぬ」


形。

鎮まり。


また同じ方向だ。


光秀は、はっきりと自覚した。


これは偶然ではない。


誰かが命じて言わせているのでもない。

もっと自然に、都そのものがそう言い始めている。


速さを否定しているのではない。

だが、速さだけで進めば、後で歪む。

だから一拍置け。


それが、都の側の理として立ち始めている。


光秀は寺を出て、町の中へ入った。


武家の道ではない。

町衆の通りである。


人の声がある。

物が動く。

銭の音が混じる。

ここでは、正しさよりもまず日々の流れが重い。


茶屋に入ると、何人かの町人が低い声で話していた。


「このごろは落ち着かぬな」


「戦の話ばかりではのう」


「いや、戦なら戦で終わってくれればよいが」


「長引くのが一番困る」


光秀は、何気なく耳を傾けた。


町人の一人が、茶をすすりながら言った。


「誰が勝つかはともかくとして、さっさと決めてしまえばよい、という話でもない気がするがの」


「どういうことだ」


「急いで決めて、あとで揉めれば、商いは止まる。道も荒れる。人も動かぬ」


「それはそうだ」


「ならば、まず静まるようにせねばならぬ。白黒はそのあとでもよい」


光秀は、その言葉を聞いた瞬間、心のどこかが静かに震えるのを感じた。


公家。

寺社。

そして町衆。


立場も言葉も違う。

だが、言っていることは同じだ。


急ぐな。

まず静めよ。

あとで決めよ。


それが、都のあちこちで自然に出ている。


光秀は茶を飲み終え、静かに席を立った。


外へ出ると、日差しが強くなっていた。

人の往来も増え、声も少し大きくなっている。


何も変わっていないように見える都だった。

だが、内側では確かに何かが変わっている。


それは、誰かの命令ではない。

戦の結果でもない。

人々の中に、同じ方向のためらいが生まれている。


そしてそのためらいが、言葉になり始めている。


光秀は歩きながら、ふと足を止めた。


気づいてしまった。


これは――


成り立つ。


義昭の言葉。

藤孝の沈黙。

そして都の空気。


それらがすべて、同じ方向を向いている。


もし。


もし本当に、信長を討つようなことが起きたとして。


そのとき、都が即座に一つの声で

「逆臣だ、討て」

とはならぬ可能性がある。


一拍置く。

様子を見る。

まず静める。


そういう時間が、現実に生まれうる。


それは、ただの想像ではない。

今、目の前にある空気そのものだ。


光秀は、ゆっくりと息を吐いた。


「……あるのか」


声には出さなかった。

だが、その言葉ははっきりと胸の内で形を持った。


退路。


それは、もはや将軍の言葉だけではない。

自分の頭の中だけの構想でもない。


都という場の中に、

確かに“そういう道が成立しうる余地”がある。


その事実が、何より重かった。


同時に、逃げ場もなくなる。


もしそれが成り立つなら。

もし本当に、その一拍が生まれるなら。


自分は、何を選ぶ。


選ばぬこともまた、選びになる。

見て見ぬふりをすることも、また一つの道だ。


だが、もう一度だけ確かめてしまった。


この都は、すぐには答えを出さぬ。


ならば――


光秀は再び歩き出した。


足取りは、以前と変わらぬように見える。

だが、その内側では、もう同じ場所を歩いてはいなかった。


信長のもとへ戻る道。

それは変わらない。


だが同時に、別の道も、はっきりと見えてしまった。


まだ踏み出してはいない。

だが、見えてしまった以上、

それはもう“存在しないもの”ではなかった。


都の空気が、それを現実のものとして支えうると知ってしまったからだ。


光秀は、ほんのわずかに目を閉じた。


将軍は、未来を当てたのではない。

未来が成立する条件を、先に揃えようとしている。


そしていま、その条件の一つが、

確かに都の中で動き始めている。


「……これは」


初めて、光秀は思った。


これは、起こりうる。


まだ決めていない。

だが、起こりうると認識してしまった。


その瞬間、人の中で何かが一段深く動く。


光秀は目を開けた。


都は相変わらず、人で満ちている。

声があり、動きがあり、何も変わらぬように見える。


だがその中で、誰もが少しずつ、

“早く決めすぎるな”

という同じ方向へ息を揃え始めている。


その静かな一致の中に、

まだ名もない未来の余地が、確かに存在していた。

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