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第十二話 藤孝、家を思う

細川藤孝は、友のためだけに動ける身ではなかった。


若い頃なら、あるいは違ったかもしれぬ。

一人の主に仕え、一つの縁を重んじ、そのために命を賭けることを疑わずにいられた頃なら。


だが今は違う。


家がある。

名がある。

守るべき者がいる。

そして、そのどれもが、情だけでは支えきれぬ重さを持っている。


だからこそ、近ごろの自分の心の動きが、藤孝にはいっそう厄介に思えた。


朝まだきの屋敷は静かだった。

庭の草葉には露が残り、空気には夜の冷えがわずかに残っている。

家人もまだ表の声を抑え、屋敷全体がひとつ深い息の中にあるような時間だった。


藤孝は一人、縁近くに座して庭を見ていた。


石。

砂。

苔。

どれも整えられている。

整えられているものを見ると、心が少しだけ落ち着く。

それは生まれつきの性分でもあるし、乱世を長く生きた者の癖でもあった。


整うものは、守れる。

だが人の心だけは、整って見えても、内側では静かに崩れる。


明智光秀の顔が浮かんだ。


あの男も、外から見ればまだ崩れてはいない。

所作も、言葉も、理も、保たれている。

それなのに、もう以前の光秀ではない。


将軍の一言が、あの男の中にまだ存在しなかったはずの道を作った。

その事実を思うたび、藤孝は背筋のどこかが冷えるのを覚えた。


恐ろしい将軍だ。

それはもう、何度も思った。


だがもっと厄介なのは、その恐ろしさを理解してなお、

義昭のしていることに理があると感じてしまう自分だった。


「父上」


不意に声がした。


振り向けば、忠興がそこに立っていた。


まだ若い。

若いが、目つきにはすでに鋭さがある。

血の気も、才気も、いずれ人を率いる者のそれだ。


「起きていたか」


「父上こそ」


忠興は少しだけ庭を見やり、それから藤孝のそばへ来た。


「近ごろ、朝が早うございますな」


「歳を取ると、長く眠るのも難しい」


そう返すと、忠興はわずかに笑った。

だがその笑いの奥にも、父の変化を測るものがあった。


藤孝は内心で少し気を引き締める。


家の中にいる者ほど、変化には敏い。

毎日同じ顔を見ているぶん、小さな違和も見逃さぬ。


「何か案じ事でも」


忠興が問う。


率直な物言いだった。

若さゆえでもあるし、この男なりの真っ直ぐさでもある。


「案じ事のない時代ならよかったがな」


「それは違いありませぬ」


忠興はそう言って、少しだけ声を落とした。


「都の空気も、どこか重うございます」


藤孝は目を上げた。


「そう見えるか」


「皆、表向きは静かですが」


忠興は言葉を選んだ。


「静かすぎるときの都は、かえって気味が悪いものです」


その感覚は、悪くない。

若いなりに、都の“何も起きていない静けさ”と、“何かを決めかねている静けさ”の違いを嗅いでいる。


「おぬしは、どう見る」


藤孝が逆に問うと、忠興は少し考えた。


「早く片をつけよ、という声もあれば、いや急ぐなという顔もある。皆が一つの方を見ているようで、まだ見ておらぬように思えます」


藤孝は、それを聞いて小さく頷いた。


そこまで見えるなら十分だ。


都は今、たしかにそうなりつつある。

誰かを露骨に支持しているわけではない。

だが、“早く決めすぎるな”という気配だけがじわじわと広がっている。


忠興はさらに言った。


「父上は、どちらがよいとお思いです」


難しい問いだった。


若い者は、正しいほうを知りたがる。

どちらが筋か、どちらが武家らしいか、どちらが後悔なく動けるか。

だが、乱世の現実はそう単純ではない。


「どちらがよい、では済まぬこともある」


藤孝は静かに答えた。


「早く決めねばならぬときもある。だが、早く決めたことがのちに家を裂くこともある」


忠興は黙って聞いている。


「人として正しいことと、家として残ることが、いつも同じとは限らぬ」


その言葉を口にしながら、藤孝は自分の胸の奥が少し痛むのを感じた。


まさにそれが今の自分だからだ。


光秀を友として見れば、

ただ逆臣として即座に切り捨てる未来は、あまりに薄情に思える。


だが細川の主として見れば、

一人の友のために家を危地へ引きずり込むことは許されぬ。


どちらも本当だ。

どちらも嘘ではない。

だから苦しい。


「父上」


忠興が少しだけ声を落とした。


「人を見捨てぬことと、家を守ることは、やはり別なのでしょうか」


藤孝はすぐには答えられなかった。


朝の光が少しずつ庭に広がっていく。

露が消え始め、石の色がはっきりしてくる。


「別だ」


やがてそう言った。


「だが、別だからこそ、どうにか重ねる形を探さねばならぬ」


忠興は父の横顔を見ていた。

おそらく今の言葉に、ただの教訓以上のものを感じたのだろう。


藤孝はそれ以上は語らなかった。

語りすぎれば、家の中にまで今の揺れが広がる。

まだそれは早い。


忠興が去ったあと、藤孝はしばらくその場から動かなかった。


重ねる形。

自分で言いながら、まるで義昭の考え方そのものだと思った。


情を捨てずに済む形。

家を壊さずに済む形。

即断せずに済む形。


あの将軍は、そこを先に見ていた。


武家の論理は、しばしば単純だ。

主につくか、敵につくか。

討つか、討たれるか。

だがその単純さで切り分けられぬ者たちが、都には大勢いる。

公家、寺社、町衆、そして家を持つ武家。


誰もが、今日の正しさだけでは動けない。

明日も、来年も、その先も残るものを考える。

義昭はそこに糸を張ったのだ。


「……厄介な」


藤孝は小さく呟く。


自分は、光秀にも、義昭にも、まだ全面では乗っていない。

それでも、もう完全に外へ出ることはできない。


もし本能寺が起きるなら。

もし光秀が本当に信長を討つなら。

そのとき細川はどうあるべきか。


以前の藤孝なら、もっと早く答えを出したかもしれぬ。

家のため、立場のため、損得のために。

だが今は、その即断そのものがあとで己を裂くと知ってしまった。


義昭の理が、もう自分の中にも入り始めている。


そこへ、家臣が一人やってきた。


「兵部大輔様、例の山科の件にて使いが」


「通せ」


使いは短い報せだけを持ってきた。

町衆のあいだで、近ごろ

“長引く乱が一番困る”

“急いで片をつけようとして、かえって揉めれば元も子もない”

という声が目立つ、という。


藤孝は報せを聞き終え、静かに礼を返した。


やはり広がっている。


将軍が張った糸は、もう工作というより空気になりつつある。

誰かが命じたようには見えぬ。

都そのものが、そう呼吸し始めているように見える。


これが恐ろしいのだ。


露骨な同盟なら切れる。

明確な謀議なら距離も取れる。

だが空気は切れぬ。

切ろうとすれば、自分だけが場を読まぬ者になる。


藤孝はそのことを、家を持つ者として骨身にしみて理解していた。


もし本能寺のあと、すぐに

「明智は逆臣、ただちに討つ」

と声を張り上げればどうなるか。


家としては筋が通るかもしれぬ。

だが都の空気がまだ“急ぐな”のほうへ傾いているなら、

その即断は、あとで別の歪みを生む。

細川はただ忠義の家ではなく、空気を読めぬ家として残るかもしれぬ。


逆に、明智へ露骨に与すれば、それはそれで家を危うくする。


結局、必要なのは間なのだ。

一拍。

一呼吸。

友を見捨てぬとも言わず、家を賭けるとも言わず、

ただちに答えを出さぬことで、後の道を残す。


それは曖昧だ。

曖昧だが、今の時代にもっとも高い技かもしれぬ。


藤孝は立ち上がり、書院へ入った。


机の前に座し、紙を広げる。

誰に見せるものでもない。

自分の頭を整理するためだけの紙だ。


そこへ、短く書く。


一拍


最後の二字を見て、藤孝はしばらく動かなかった。


一拍。

それだけのことが、こんなにも重い。


早く決めるのは簡単だ。

簡単で、武家らしくも見える。

だがその簡単さが、のちに人を苦しめる。


光秀は、おそらく今、もっと深い場所で同じことを考えている。

あの男は自分よりさらに内へ沈む。

だから、決めれば深い。

深いぶん、後戻りもしにくい。


友を止めたい気持ちがないわけではない。

ある。

当然ある。


だが藤孝は知っている。

いまの光秀に

「考えるな」

「忘れよ」

と言っても意味はない。


一度生まれた道は、もう消えぬ。

消そうとするほど、むしろくっきりする。


ならば自分にできるのは何か。


答えは、以前より少しだけ見えてきていた。


動かすことではない。

決めさせることでもない。

ただ、いざというときに即断即決で友を切り捨てる側へ、自分の家を置かぬこと。


それだけで、もしかすると足りる。

あるいは、それしかできぬ。


「父上」


また忠興の声がした。


今度は襖の外からである。


「何だ」


「今日の出立の支度、整っております」


「分かった」


紙を伏せる。

その仕草に、少しだけ自分で苦笑した。


隠すものが増えている。

それだけでもう、以前の自分ではない。


藤孝は立ち上がりながら、ふと別の未来を想像した。


もし本能寺のあと、光秀が討たれず、ただちには滅ばず、

都がすぐには答えを出さず、

秀吉もまた一息では飲み込めぬ形になったなら。


そのとき細川は、どこに立っているべきか。


味方か、敵か。

そういう粗い問いではなく、

どの順で動けば家も友も都も、すべてを捨てずに済むか。


そこまで考え始めた自分に、藤孝は静かに驚いた。


これもまた、将軍の毒なのだろうか。

あるいは、もともと乱世を生きる者の中にあったものを、

あの義昭がただ掘り起こしただけなのか。


どちらでもよかった。

重要なのは、もう見えてしまったことだ。


見えてしまった以上、

忠義の名だけで即断する昔の自分へは戻れない。


藤孝は廊下へ出た。

外では朝がすっかり進み、人の気配も濃くなっている。

家は今日も動く。

日々の務めは変わらぬ。

それが家を持つ者の現実だ。


だがその現実の下で、

藤孝の中にも、静かに別の時間が流れ始めていた。


家を守る。

友を見捨てぬ。

都の理を読む。


その三つは、以前なら同時に持てぬと思っていた。

だが今は、その三つをどうにか重ねる“一拍”があるのではないかと、

本気で考え始めている。


それが希望なのか、破滅の入口なのかは、まだ分からない。

ただ一つ分かるのは、細川藤孝もまた、もう元の位置へは戻れぬということだけだった。

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