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第十話 信長、光秀を見る

織田信長は、人の裏切りそのものより、裏切りに至るまでの遅れを嫌った。


人は変わる。

それ自体は珍しくもない。

忠義も、恐れも、野心も、時と立場で姿を変える。

そんなことは最初から知っている。


だが、変わるなら変わるでよい。

欲するなら欲すると言えばよい。

怯えるなら怯えている顔をすればよい。

それを隠したまま、心だけ先に沈み、足だけ遅れる。

その“半歩の鈍り”こそが、信長にとってはいちばん目につくものだった。


だから、近ごろの明智光秀の顔は、少し気になっていた。


広間には朝の光が差していた。

障子越しの明るさが、畳の縁を白く浮かび上がらせている。

家臣が控え、使者が進み、報が上がり、命が下る。

場の空気はいつも通り速い。


その中心で、信長はやや退屈そうに指先で肘掛けを叩いていた。


報は多い。

戦も動いている。

都も相変わらず面倒だ。

寺社、公家、町衆、将軍。

皆それぞれに理屈を持ち、顔を立てよ、急ぐな、旧き形も見よと口にする。


馬鹿馬鹿しい、と信長は思う。


世が動くときに、皆が同じ速さで動けるわけがない。

遅れる者がいるのは当然だ。

だが、遅れる者に合わせていれば、いつまでも何も変わらぬ。


だから踏み越える。

踏み越えねば前へは進まぬ。


それだけのことだった。


「明智」


信長が呼ぶと、座の一角から光秀が進み出た。


「は」


姿勢は変わらぬ。

所作も整っている。

返答にも乱れはない。


だが、やはり静かだ、と信長は思った。


以前から理のある男だった。

細かく、よく見、よく考え、役目に対して抜かりが少ない。

それは長所でもあり、時に鬱陶しくもある。

だが近ごろの光秀は、理に従って整っているというより、一度心を奥へ沈めてから表へ出しているような静けさがあった。


悪い兆しではないかもしれぬ。

むしろ、人は一段上がる前にそういう沈み方をすることもある。


だが、沈みが長ければ話は別だ。

深く潜りすぎた者は、地上へ戻る足が鈍る。


「近江筋の件、どう見る」


信長がそう問うと、光秀は即座には答えなかった。


ほんのわずかの間。

他の者には気づかぬほどの間。


だが信長は見ていた。


考えている。

答えを選んでいる。

いや、以前よりひとつ多く見た上で、そのうちどれを表に出すか測っている。


「地の利と、後の収め方をともに見ねばなりますまい」


光秀の返答は的確だった。

外してはいない。

だが、そこで信長は少しだけ口元を歪めた。


「後の収め方、か」


「は」


「勝つ前から、その後の顔色ばかり見ていては鈍るぞ」


広間の空気が少しだけ張った。


光秀は表情を変えぬ。

だが、内側で何かがわずかに固くなったのを信長は感じた。


やはり、と思う。


この男は今、勝敗そのものより、その後にどう見えるかを気にし始めている。

悪く言えば、慎重に過ぎる。

良く言えば、先を見始めている。


だが先を見るのはよいとしても、都の論理に引きずられすぎるのは感心せぬ。


都は遅い。

遅いくせに、後から“正しい形”だけを欲しがる。

誰が先に血を流したかではなく、最後にどう収まって見えるかを気にする。

あの湿っぽさが、信長は昔から嫌いだった。


「十兵衛」


「はっ」


「おぬしは、何を見ておる」


問いは短かった。

だが、広間にいる何人かは息を詰めた。


信長のこういう問いは、答えそのものより、答えるまでの顔を見ている。

皆それを知っている。


光秀は深く頭を垂れすぎず、しかし軽くも見えぬ角度で答えた。


「織田家の先にございます」


信長はその返答に、すぐには何も言わなかった。


嘘ではない。

だが、まるごとの本心でもない。

そういう声だった。


信長は嘘の巧拙より、何を隠す必要が生まれているかを見る。

今の光秀には、何かを全部は出さぬ理由がある。

それだけで十分だった。


「そうか」


それだけ言うと、信長は視線を外した。


詰めるほどではない。

まだそこではない。


この男は忠義の人間だ。

少なくとも今この場で、明確に牙を剥く気配はない。

だが、忠義だけで人が保つとは限らぬことも信長は知っている。


むしろ、忠を尽くそうとする者ほど、己の中で何かが裂けたとき、変わるまでが遅く、変わったあとは深い。


その意味で、光秀は少し面倒な型かもしれぬ。


だが、まだ使える。

いや、使えるどころか、近ごろの沈みを越えれば、さらに切れるようになる可能性もある。


信長はそこまで考え、同時に別の顔も思い浮かべた。


足利義昭。


あの将軍もまた、近ごろ少し変わった。


以前の義昭は、もっと露骨に感情が前へ出た。

将軍としての面子、奪われた立場、反発、恨み。

そうしたものが言葉の節々に滲んでいた。


だが先日、ふと顔を合わせたときの義昭は違った。


静かだった。

静かだが、ただ弱っている者の静けさではない。

何かひとつ、先に別の景色を見て戻ってきた者のような目をしていた。


あれもまた、気に入らぬ変化だった。


人は打たれて静かになることはある。

だが、静かになった者が同時に奥行きを増すときは厄介だ。

力がなくとも、言葉に別の重さが出る。


「都は面倒よの」


信長がぽつりとそう言うと、そばに控えた者たちは返答に困った顔をした。


信長は構わず続ける。


「皆、遅れる。遅れたうえで、後から形だけを欲しがる」


誰に向けた言葉でもない。

だが広間の者たちは、それが都全体――公家、寺社、町衆、将軍をまとめて指しているのだと察した。


「形が要るのは分かる」


信長は低く言う。


「だが、形ばかり整えても世は進まぬ。誰かが踏み抜かねば、いつまでも同じ場所を回るだけよ」


その声音には苛立ちがあったが、怒り一色ではなかった。

むしろ、何度も同じ抵抗を見てきた者の倦みが近い。


光秀はその言葉を聞きながら、表情を崩さなかった。

だが信長には、その無表情の底で別の思考が動いたのが分かった。


やはり近ごろのこやつは、都の遅さをただ愚かとは見ておらぬ。

むしろ、その遅さにも一理あるのではないかと見始めている。


それ自体は悪ではない。

悪ではないが、信長とまったく同じ歩幅ではなくなる兆しかもしれぬ。


「明智」


再び呼ぶ。


「はっ」


「近ごろ、将軍とは会うたか」


その問いは、広間に微かな波を生んだ。


光秀はわずかに目を上げたが、動揺は最小限に抑えた。


「お見舞いに、一度」


「病後の顔はどうであった」


「……以前より、お静かに見えました」


「そうか」


信長はそこで、ほんの少し笑った。


「静かな者は面倒だ。怒る者より、よほどな」


何人かが愛想笑いのようなものを浮かべたが、信長自身は笑っていなかった。


義昭も光秀も、近ごろ妙に静かだ。

別々の静けさではある。

だが偶然にしては、少しばかり匂いが似ている。


まだ線にはならぬ。

ならぬが、信長はそういう“線になる前の湿り気”を嫌う。


とはいえ、今ここで何かを断ずるほどではない。

断じるには材料が足りぬし、何より、今は進めるべきことのほうが多い。


中国筋。

四国。

都の押さえ。

寺社の扱い。

そして、この国そのものの作り替え。


人の小さな揺れ一つ一つに構っていては進まぬ。


だからこそ信長は、見えていても踏み込まぬことがある。

その者が自分で立ち直るか、あるいは本当に綻ぶか、そこで見極めればよい。


「よい」


信長は手を軽く振った。


「十兵衛、案をまとめて持て。都の顔色などに引かれすぎるな。人は遅れる。遅れる者にいちいち歩を合わせるな」


「承知いたしました」


光秀が下がる。


その後ろ姿を、信長はしばらく見ていた。


姿勢に乱れはない。

歩みにも隙はない。

だが、以前の光秀より、ほんの少しだけ背に考えが乗っている。


あれは、よくも悪くも人が深くなりかけるときの背だ。


「深くなるのはよいが、沈みすぎるなよ」


信長は誰にも聞こえぬほどの声で呟いた。


それは半ば、独り言だった。


広間ののち、信長は別室で簡単な報を受けていた。


寺社筋の小さな不満。

町衆の商いの滞りへの懸念。

公家たちの、相変わらず歯切れの悪い言い回し。

どれもいつものことと言えばいつものことだ。


だが今日は、信長のほうに少し引っかかるものがあった。


「近ごろ、都は妙に“早く決めるな”という顔をしおるな」


報告の者は、返答に困ったように頭を垂れた。


「恐れながら……都はもとより、そのようなきらいが」


「違う」


信長は短く切った。


「もともと遅いのは知っておる。そうではなく、遅さを理として抱え始めておる」


部屋が静まる。


誰もすぐには答えられぬ。

だが信長の感じていることは、完全な的外れでもなかった。


都の遅さは以前からあった。

だが近ごろは、それをただの逡巡ではなく、

“早く決めすぎるな”

“礼を失うな”

“静まりを先にせよ”

という言い方で、少しずつ理屈にし始めている。


面倒だ、と信長は思う。


誰かが意図してやっているのか。

それとも、都そのものの湿り気が自然にそうなっているのか。

まだ分からぬ。


だが仮に誰かがやっているとしても、派手ではない。

糸のように薄く、しかしあちこちへ触れている。

そういう動かし方だ。


そして、そういう面倒なことを考えそうな顔が、一人だけ思い浮かぶ。


「……将軍か」


信長が小さく呟くと、側の者は顔を上げられなかった。


義昭。

力はない。

兵もない。

だが、将軍であるがゆえに、誰にも完全には属していない。


あの中途半端さは、使いようによっては厄介だ。


信長は一度だけ鼻で笑った。


「まあよい」


今はまだ、放っておいても大事にはならぬ。

そういう線引きだった。


だが、義昭も、光秀も、都も。

別々に見えながら、どこかで同じ“静けさ”を帯び始めている。

そのことは頭の隅に残しておくべきだろう。


その日の暮れ、信長は廊下から庭を眺めていた。


空は赤く、木々の影が長い。

日が沈みきる前の、すべての輪郭がいったん濃く見える時刻だ。


信長はこういう時間が嫌いではない。

一日のうちでもっとも、物の形がはっきりする。


ただ、人だけは別だ。


人は輪郭が見えたようでいて、ふいに形を変える。

忠義も、恐れも、才も、時に応じて別の顔を見せる。

だからこそ、使える。

だからこそ、面倒だ。


「明智は、まだ使える」


信長は誰にともなく言った。


それは確認でもあり、半ば命令のようでもあった。


まだ使える。

ならば使う。

揺れがあるなら、その揺れごと前へ使う。

それで折れるなら、そこまでのことだ。


義昭も同じだ。

静かになったなら、静かなまま置いておけばよい。

都が遅さを理にしようとするなら、それもまた踏み越えればよい。


信長の世界は、つねにそうだった。

立ちはだかるものを細やかに癒すのではなく、前へ進むことで後ろへする。

そのやり方が、多くを置き去りにすることも知っている。

だが、置き去りを恐れて止まる気はなかった。


そのとき、遠くで鐘が鳴った。


都の夕暮れの鐘である。


信長はその音を聞きながら、わずかに目を細めた。


都は遅い。

遅いくせに、最後には自分が意味を決める顔をする。

気に入らぬ。

だが、その気に入らなさごと、信長はこの都を使うつもりでいた。


使えるうちは使う。

使えぬなら壊す。

それだけだ。


ただ、その“それだけ”の先で、何人もの心が静かに裂け始めていることまでは、

このときの信長にも、まだ輪郭としては見えていなかった。


見えていたのは、せいぜい違和の匂いだけである。


そしてたいてい、破局はその匂いから始まる。

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