表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/20

第一話 将軍、目覚める

※本作は改稿版(全20話完結)です。初稿版から構成・テーマを再設計しています。


本能寺の変は変わりません。

織田信長は討たれ、明智光秀は敗れます。


本作が描くのは、その「結果」ではなく、

そこへ至るまでの“確定のされ方”です。


人はなぜ、その出来事を正しいと受け取ったのか。

なぜ、その結末が一つの意味として定着したのか。


そのあいだには、本来存在し得た“余白”があります。


「本能寺は止めない。だが、明智光秀は死なせない」


歴史を変えるのではなく、歴史が一つに定まるまでの時間を揺らす物語です。


織田信長は、本能寺で死ぬ。

明智光秀もまた、その直後に滅ぶ。


それだけは、絶対に変わらない未来だと思っていた。


だが、もし。

その両方を知ったまま、歴史の内側に立たされたなら――人は何を選ぶのか。


本能寺は止めない。

だが、光秀は死なせない。


その一点だけが、燃え残った炭のように意識の底で赤く光っていた。


次に目を開けたとき、鼻を衝いたのは畳の匂いだった。


乾いた藺草の香り。

灯された蝋燭の、かすかな油の匂い。

揺れる火が、暗い天井に橙色の影を這わせている。


白い蛍光灯も、窓の外を走る自動車の音もない。

代わりにあるのは、ひどく静かな夜の気配と、呼吸のたびに胸を圧する古い空気だった。


私はゆっくりと手を持ち上げた。


自分の手ではなかった。


節くれ立ち、骨ばり、しかし不思議に品のある手。

長年、刀よりも筆と印判を握ってきた者の手だ。


喉がひりついた。


「……ここは」


声まで違う。

低く、乾いていて、奇妙に重い。


すぐ脇で、衣擦れの音がした。


「将軍様。お加減はいかがにございますか」


見れば、痩せた男が畳に額をつくほど深く頭を下げている。

白い直衣に、抑えた所作。宮中と武家のあいだを知る者の空気だった。


将軍様。


その一言が、頭の奥に鋭く刺さった。


男は顔を上げぬまま、慎重に続けた。


「足利義昭様。急に御意識を失われたゆえ、皆が案じておりました」


足利――義昭。


その名を聞いた瞬間、視界の奥で何かが反転した。


二条城の石垣。

春先の乾いた風。

視察先で見上げた、古びた城壁。

その石に指先が触れた瞬間、脳裏を焼いた白い光。


そして今。


私は、現代日本の外交官だった。

各国との交渉、利害調整、言葉の温度差を読み、決裂を先送りし、落としどころを拾うことを仕事にしていた。


そんな人間が、なぜ。

なぜ、室町幕府最後の将軍・足利義昭になっている。


混乱はあった。

だが、恐慌はなかった。


外交官という職業は、時に理不尽を前提に思考する。

「納得できるか」ではなく、「今ある条件で何ができるか」がすべてだ。


ならば整理する。


私は足利義昭だ。

ここは戦国時代。

そして私は未来を知っている。


二年後、本能寺の変が起きる。

信長が死ぬ。

光秀も死ぬ。


そこまで思考が届いたとき、背筋に冷たいものが走った。


もし本当に義昭なら、この男は信長に追われ、流転し、将軍でありながら将軍でいられなくなる。

そして本能寺の変ののちも、天下を取り戻すことなく歴史の脇へ退場する。


将軍でありながら、盤上から外される男。


それが足利義昭だ。


「……水を」


自分でも驚くほど静かな声が出た。


男はすぐに盃を差し出した。

水を飲む。冷たい。現実だ。


私は部屋を見回した。

余計な贅はない。だが、雑でもない。

調度の置き方、几帳の色、火の灯し方、控える者たちの距離。

権威はある。だが、絶対ではない。

この部屋は、天下人の居所ではなく、権威を守ろうとする者の部屋だった。


足利義昭。

なるほど、たしかにそういう空気だ。


「他には、誰が来ている」


男が答えるより早く、襖の向こうで人の気配が止まった。


「細川兵部大輔藤孝様、お見えにございます」


細川藤孝。


名前を聞いた途端、さらにもう一つの理解が落ちてきた。

義昭に近く、文化を知り、だが同時に戦国の現実にも通じた男。

この時代の“調整役”だ。


「通せ」


襖が静かに開く。


入ってきた男は、無駄のない所作で座し、深く頭を下げた。

年齢を重ねた知性と、油断のない目を併せ持つ男だった。


「御容体が戻られたと聞き、安堵いたしました」


穏やかな声音。

だが、ただの見舞いではない。

この男は見に来たのだ。――将軍が、まだ使えるかどうかを。


私は藤孝を見た。


そして、試すように言った。


「兵部大輔。この国はいま、どちらへ向かっておる」


藤孝の眉が、ほんのわずかに動いた。

病み上がりの将軍が問うには、妙に芯を食った言葉だったからだろう。


「……織田殿のもと、統一へ向かっております」


「統一、か」


私は低く繰り返した。


たしかにそれは表の答えだ。

だが、本質ではない。


「では問う。統一の先に、何が残る」


藤孝は沈黙した。


この問いには、正解がない。

あるのは立場だけだ。


信長は壊す。

既存の秩序を、寺社を、武家の論理を、朝廷との距離感を。

その破壊が新時代を開くのは間違いない。

だが同時に、壊される側の恐怖と反発もまた積み上がっていく。


本能寺は、誰か一人の激情ではない。

構造が生む。


私はその結論だけは知っていた。


「兵部大輔」


「はっ」


「信長は、この国を進める。だが、進め方が速すぎる」


藤孝が顔を上げた。

今度ははっきりと、驚きが目に出ていた。


「速すぎる変化は、理では収まらぬ」


「……将軍様」


「人は新しさに従う前に、まず居場所を失うことを恐れる。信長は正しい。だが、正しさだけでは国は保たぬ」


言いながら、自分でも分かった。

この身体に入ってなお、私の武器は同じだ。


軍略ではない。

権威そのものでもない。

利害の衝突を見抜き、破局の前に配置を変えること。


政治だ。


藤孝はしばし黙した後、ゆっくりと頭を垂れた。


「お言葉、胸に刻みます」


その返答は、半分は本心で、半分は探りだった。

この将軍は、ただ病み上がりで弱っただけの男ではない。

そう見極めたのだろう。


そのとき。


廊下の向こうの空気が、変わった。


誰かが来る、というのとは違う。

場そのものの密度が、一段重くなるような感覚だった。


控えていた者たちが息を呑む。

誰一人として声を上げないのに、恐れだけが波のように伝わってくる。


私はまだ姿を見ていない。

だが分かった。


織田信長だ。


足音は乱れず、早すぎず、遅すぎない。

それなのに、近づくほどに周囲の人間の呼吸が浅くなる。

力で従わせる者ではない。

存在そのものの速度で、人を置き去りにする男だ。


襖の前で、その気配が止まった。


沈黙。


室内の誰もが、次の一言を待っている。

何を問われるのか。何を見透かされるのか。

それだけで場が凍る。


やがて、向こうから低い声がした。


「……目が変わったな、義昭公」


短い言葉だった。


だが、その一言で信長は見抜いていた。

病の回復などではない。

中身が変わった、と。


私は答えなかった。

答えれば負ける気がした。


信長もまた、それ以上は言わない。

襖の向こうに立ったまま、笑っている気配だけがした。


「面白い」


そう残して、気配が遠ざかる。


室内に詰まっていた息が、一斉にほどけた。

侍女が小さく肩を震わせ、藤孝でさえ一度だけ深く息を吐いた。


私はようやく理解した。


この男は危険だ。

ただ強いのではない。

時代を先に進めることにためらいがない。

そのためなら、人も秩序も、昨日までの常識も踏み越える。


英雄だ。

同時に、災厄でもある。


だからこそ、本能寺は起きる。


その確信が、前世の記憶よりもむしろ現実味を帯びて胸に落ちた。


そして、その直後だった。


襖の外から、今度はきわめて整った声が響いた。


「明智十兵衛光秀、参上いたしました」


私は顔を上げた。


来た。


本能寺で信長を討ち、

その後すぐに歴史から消される男。


救うべき相手が、自分の足でここへ来たのだ。


私は静かに言った。


「入れ」


襖が開く。


現れた男は、端正な顔立ちに一点の乱れもなく、礼法も隙がない。

聡明で、実直で、そしてどこか張り詰めている。

有能であるがゆえに、己を折って主君に仕える男の顔だった。


光秀が頭を下げる。


「将軍様。御加減が優れぬと伺い、見舞いに参りました」


私はその男を見つめた。


この男はまだ、自分が信長を討つ未来など知らない。

自分が天下を取ることも、その三日後に転げ落ちることも知らない。


だが私は知っている。


ならば、ここが始まりだ。


本能寺は止めない。

だが、光秀は死なせない。


そのためにまず必要なのは、

この男を“謀反人”ではなく、歴史の次の担い手として生かす道をつくることだ。


私は盃を置き、はっきりと告げた。


「十兵衛。そなたにだけは、先に言っておくことがある」


光秀が顔を上げる。

藤孝もまた、息を止めた。


「いずれそなたは、信長を討つ」


部屋の空気が、凍りついた。


だが私は目を逸らさない。


「そして、そのままでは――そなたも死ぬ」


ここからだ。

将軍・足利義昭による、歴史の奪還は。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ