誰もユキ姉のことを覚えていない。
「え、誰のこと?」
最初にそう言ったのは、商店街の角で八百屋をやっている高田さんだった。春先のぬるい風にキャベツの葉がめくれ、店先の赤い提灯がかすかに鳴っていた。ぼくは学校帰りの鞄を肩にかけたまま、何を言われたのかわからず、しばらく口を開けていた。
「え……いや、ユキ姉だよ。ほら、駄菓子屋の」
ぼくがそう言うと、高田さんは眉をひそめた。冗談を言われたときの顔ではなかった。本気で知らない顔だった。
「駄菓子屋なんて、あそこはもう十年くらい空き家だろう」
ぼくは笑おうとした。でも笑えなかった。だって今朝だって、ぼくはあの店できなこ棒を一本おまけしてもらったのだ。学校に行く前、ユキ姉はいつものようにカウンターに頬杖をついて、「タケル、寝ぐせすごいよ」と笑っていた。レジの横には古びた扇風機、天井からは色あせた風船、ガラス瓶の中には色とりどりの飴。あの店の空気のぬるさまで、ちゃんと覚えている。
なのに高田さんは、ぼくが変なことを言っている子どもを見る目で、白菜の値札を書き直し始めた。
そのとき、胸の奥で何かがきしんだ。
嫌な音だった。
家に帰ると、母さんは台所で煮物を作っていた。湯気の向こうに、いつもの夕方があった。味噌と醤油の匂い。テレビから流れるニュース。ぼくは靴も脱ぎきらないまま言った。
「母さん、ユキ姉って知ってるよね」
「誰?」
お玉が止まった。
「だから、商店街の駄菓子屋の……」
「タケル、変なこと言わないで。あそこはずっと空き家でしょ」
落ちた。
何かが、胸の底まで、すとんと落ちた。
母さんだけじゃない。父さんも、隣の美咲ちゃんも、学校の担任も、クラスのやつらも、みんな同じだった。ユキ姉のことを話すたび、相手は少し困って、少し気味悪そうにして、最後には「疲れてるんじゃない?」と言う。
ぼくの部屋には、昔ユキ姉にもらったビー玉が一つある。青く透き通っていて、光にかざすと中に小さな泡が閉じ込められているのが見える。小学校に上がる前、泣きながら店の前に座り込んでいたぼくに、ユキ姉がくれたものだ。
『秘密基地の鍵。なくすなよ』
そう言って笑った。
だから、夢じゃない。忘れたくても忘れられないくらい、本当にそこにいた。
次の日、ぼくは一人で商店街の駄菓子屋に向かった。
店の名前は「しらゆき堂」。白いペンキの剥げた看板に、青い文字でそう書かれていた――はずだった。けれどそこには、看板ごとなかった。シャッターの半分錆びた、ただの古い空き家があるだけだった。
ガラス戸もない。自動販売機も、店先のアイスケースもない。
ただ、ぼくには見えた。
夕方の傾いた光の中に、薄く重なるみたいに、もう一つの風景があった。空き家の向こう側に、ちゃんと駄菓子屋がある。のれんが揺れ、ラムネ瓶が並び、カウンターの奥でユキ姉があくびをしている。
「遅いよ、タケル」
声がした。
ぼくは息をのんだ。
「ユキ姉……!」
駆け寄ると、空気が水みたいに揺れた。冷たくもないのに、皮膚がぶるっと震えた。次の瞬間、ぼくは店の中に立っていた。
古い木の床。色あせたポスター。粉っぽい甘い匂い。全部、ちゃんとあった。
カウンターの向こうで、ユキ姉はいつものように笑っていた。白いカーディガンに、星の柄のエプロン。長い髪を後ろで雑に束ねて、眠そうな目をしている。ぼくよりずっと年上なのに、なぜか大人にも子どもにも見えた。
「みんな、忘れちゃった」
ぼくが言うと、ユキ姉は少しだけ目を伏せた。
「うん。そういう日だから」
「そういう日って何だよ」
「終わる日」
店の奥で、風鈴がちりんと鳴った。
外は無風なのに。
「意味わかんないよ」
「わかんなくていいよ、本当は」
「よくないよ!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。棚に並ぶ駄菓子の袋が、かすかに震えた。ユキ姉は黙って、しばらくぼくを見ていた。それから、レジの横に置いてあった古びた丸椅子を顎で示した。
「座りな」
ぼくは座った。小さいころから何度も座った椅子だった。
ユキ姉はカウンターに肘をついて、ゆっくり話し始めた。
「この店ね、ほんとはもうずっと前になくなってるんだ」
「……は?」
「十年前。火事で」
言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
「火事って……」
「夜中にね。古い配線がショートしたんだって。新聞にも載ったらしいよ。ぼくは見てないけど」
「じゃあ……ユキ姉は」
「死んだ」
あっさり言った。その言い方が、かえって残酷だった。
ぼくは何も言えなかった。喉が詰まった。目の前のユキ姉は、どう見ても生きていた。ぼくより背が高くて、ちょっとだるそうで、笑うと八重歯が見えて、手を伸ばせば触れられそうだった。
「でも、変でしょ。ぼくはここにいる」
「……うん」
「たぶん、残っちゃったんだろうね。店ごと。思い出みたいなもんかな」
ユキ姉は棚からガラス瓶を下ろし、金平糖を一粒つまんで口に入れた。
「商店街の子どもたちが来て、泣いたり笑ったりして、そういうのが積もって、店の形だけ残った。だから、見える子には見えた」
「ぼくが見えてたのは……」
「タケルが、よく覚えてたから」
ぼくは俯いた。
小さいころ、鍵っ子だったぼくは、学校が終わると毎日のようにここに来ていた。母さんが迎えに来るまで、宿題をしたり、カードを広げたり、意味もなく冷蔵ケースを眺めたりした。転んで泣いた日も、テストで満点を取った日も、友だちと喧嘩した日も、最初に寄ったのはここだった。
ユキ姉はうるさいことを言わなかった。ただ、たまに飴をくれたり、黙って話を聞いたりした。
たぶん、ぼくの子ども時代の一部が、そのままここに置いてあった。
「でも、どうして急にみんな忘れたの」
「思い出って、ずっとは残れないから」
ユキ姉は店の奥を見た。棚の輪郭が少しだけ薄くなっているのに、そのとき初めて気づいた。
「もう限界なんだよ。この店も、ぼくも」
「そんなの、困る」
「困るねえ」
他人事みたいにユキ姉は笑った。
「笑いごとじゃないよ!」
「じゃあ泣く?」
その言い方が、昔と同じで、ぼくは何も言えなくなった。
沈黙の中で、風鈴だけが揺れた。
やがてユキ姉は、カウンターの下から大学ノートを一冊取り出した。表紙は日に焼け、角はすり切れていた。
「これ、タケルにあげる」
「何これ」
「交換日記」
「は?」
「……正確には、みんなの日記かな。ここに来た子たちが、勝手に書いてた。嬉しかったこととか、むかついたこととか、将来の夢とか」
ノートを開くと、見覚えのない字が何ページも並んでいた。下手なひらがな、丸文字、勢いのある漢字。『きょう、ザリガニをつかまえた』『ピーマンは敵』『将来ケーキやさんになる』『好きな人ができた』。ページのあちこちにシールが貼られ、ラムネの輪っかみたいな汚れがついていた。
そして途中に、ぼくの字があった。
『きょう、おかあさんとかぜんぜんはなせなかった。でもユキ姉は、べつにしゃべらなくていいって言った。ちょっとたすかった』
自分の字なのに、知らない子の字みたいだった。
鼻の奥がつんとした。
「これがあれば、少しは残るかも」
「残るって、何が」
「ぼくのいた証拠」
「そんなの、これがなくてもぼくが覚えてる」
言うと、ユキ姉は少しだけ寂しそうに笑った。
「それがね、怪しいんだ」
「え?」
「覚えてるって、思ってても。人の記憶って、けっこう簡単にほどけるから」
ぞっとした。
「じゃあぼくも忘れるの」
「たぶんね」
「嫌だ」
「うん」
「嫌だ!」
立ち上がった拍子に、丸椅子が倒れた。ごとん、と乾いた音がした。その音がやけに遠く聞こえた。
「ぼく、忘れたくない」
「知ってる」
「じゃあなんとかしてよ!」
「できたら、とっくにしてるよ」
初めて、ユキ姉の声が少しだけ揺れた。
ぼくは息を呑んだ。
ユキ姉は目を伏せ、しばらく黙っていた。それから、小さく笑った。
「ごめん。八つ当たりだね」
その笑い方は、今にも消えそうだった。
店の天井が、少しずつ透けてきていた。夕焼けがその向こうに見える。棚の駄菓子の輪郭も、カウンターの木目も、だんだん曖昧になっていく。
時間がないのだとわかった。
ぼくはノートを抱えたまま、泣くのをこらえて立っていた。何か言わなきゃと思うのに、何を言えばいいのかわからない。
ありがとう、じゃ軽すぎる。
さようなら、は認めるみたいで嫌だった。
忘れない、はたぶん守れない。
ユキ姉はそんなぼくを見て、ふっと笑った。
「タケル。最後にひとつ、お願いしていい?」
「……何」
「大人になったらさ、たまにでいいから、居場所を作ってあげて」
「居場所?」
「誰かが、用もないのにふらっと来られる場所。別に立派じゃなくていい。駄菓子屋じゃなくても、カフェでも、部室でも、変なオンライン空間でもいい。そういうの、なくなると困るから」
ぼくはうなずいた。うなずくしかできなかった。
「うん」
「いい返事」
ユキ姉は手を伸ばした。額を小突かれると思った。でも指先はぼくに触れる寸前で止まり、そのまま光の中に溶けた。
「それと、秘密基地の鍵、まだ持ってる?」
ぼくはポケットから青いビー玉を出した。
ユキ姉は目を細めた。
「よかった」
それが最後だった。
風鈴が鳴り、店の輪郭がゆっくりほどけて、夕焼けの色に混ざっていった。棚も、床も、カウンターも、ユキ姉も。まるで最初から何もなかったみたいに、空き家の薄暗い空間だけが残った。
ぼくはしばらく、そこに立ち尽くしていた。
手の中には、青いビー玉と大学ノートだけがあった。
*
それから何年も経った。
正直に言うと、ユキ姉の顔はもうかなり曖昧だ。髪が長かったこと、少し眠そうな目をしていたこと、笑うと八重歯が見えたこと。そのくらいしか、はっきりとは思い出せない。声も、きっと少し違っている。
忘れたくないと思ったのに、やっぱり記憶は少しずつほどけていった。
それでも、完全には消えなかった。
ぼくは今、小さな店をやっている。商店街の外れ、昔より少し寂しくなった通りにある、古本とコーヒーの店だ。学校帰りの子が漫画を読みに来る。仕事帰りの人が黙って座っていく。何も買わずに、ただ雨宿りだけして帰る人もいる。
それでいいと思っている。
カウンターの隅には、青いビー玉を置いてある。意味を聞かれたら、「秘密基地の鍵です」と答えることにしている。たいていのお客さんは笑う。
閉店後、ときどき大学ノートを開く。ページをめくるたび、知らないはずの夏の匂いや、ラムネ瓶の冷たさや、古い扇風機の回る音が、胸の奥でかすかに蘇る。
そして最後の白いページに、ぼくは今日のことを書く。
『きょう、小学三年生の子が、友だちと喧嘩したって泣いていた。ココアを出したら、少しだけ笑った』
ペンを置く。
窓の外では、商店街の街灯がひとつ、またひとつと灯っていく。
ふと、店の奥で風鈴が鳴った気がした。
振り向いても、もちろん誰もいない。
けれどその瞬間だけ、夕暮れの空気の中に、懐かしい駄菓子の甘い匂いがした。




