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誰もユキ姉のことを覚えていない。

作者: 冬至 柚
掲載日:2026/03/08

「え、誰のこと?」


 最初にそう言ったのは、商店街の角で八百屋をやっている高田さんだった。春先のぬるい風にキャベツの葉がめくれ、店先の赤い提灯がかすかに鳴っていた。ぼくは学校帰りの鞄を肩にかけたまま、何を言われたのかわからず、しばらく口を開けていた。


「え……いや、ユキ姉だよ。ほら、駄菓子屋の」


 ぼくがそう言うと、高田さんは眉をひそめた。冗談を言われたときの顔ではなかった。本気で知らない顔だった。


「駄菓子屋なんて、あそこはもう十年くらい空き家だろう」


 ぼくは笑おうとした。でも笑えなかった。だって今朝だって、ぼくはあの店できなこ棒を一本おまけしてもらったのだ。学校に行く前、ユキ姉はいつものようにカウンターに頬杖をついて、「タケル、寝ぐせすごいよ」と笑っていた。レジの横には古びた扇風機、天井からは色あせた風船、ガラス瓶の中には色とりどりの飴。あの店の空気のぬるさまで、ちゃんと覚えている。


 なのに高田さんは、ぼくが変なことを言っている子どもを見る目で、白菜の値札を書き直し始めた。


 そのとき、胸の奥で何かがきしんだ。


 嫌な音だった。


 家に帰ると、母さんは台所で煮物を作っていた。湯気の向こうに、いつもの夕方があった。味噌と醤油の匂い。テレビから流れるニュース。ぼくは靴も脱ぎきらないまま言った。


「母さん、ユキ姉って知ってるよね」


「誰?」


 お玉が止まった。


「だから、商店街の駄菓子屋の……」


「タケル、変なこと言わないで。あそこはずっと空き家でしょ」


 落ちた。


 何かが、胸の底まで、すとんと落ちた。


 母さんだけじゃない。父さんも、隣の美咲ちゃんも、学校の担任も、クラスのやつらも、みんな同じだった。ユキ姉のことを話すたび、相手は少し困って、少し気味悪そうにして、最後には「疲れてるんじゃない?」と言う。


 ぼくの部屋には、昔ユキ姉にもらったビー玉が一つある。青く透き通っていて、光にかざすと中に小さな泡が閉じ込められているのが見える。小学校に上がる前、泣きながら店の前に座り込んでいたぼくに、ユキ姉がくれたものだ。


『秘密基地の鍵。なくすなよ』


 そう言って笑った。


 だから、夢じゃない。忘れたくても忘れられないくらい、本当にそこにいた。


 次の日、ぼくは一人で商店街の駄菓子屋に向かった。


 店の名前は「しらゆき堂」。白いペンキの剥げた看板に、青い文字でそう書かれていた――はずだった。けれどそこには、看板ごとなかった。シャッターの半分錆びた、ただの古い空き家があるだけだった。


 ガラス戸もない。自動販売機も、店先のアイスケースもない。


 ただ、ぼくには見えた。


 夕方の傾いた光の中に、薄く重なるみたいに、もう一つの風景があった。空き家の向こう側に、ちゃんと駄菓子屋がある。のれんが揺れ、ラムネ瓶が並び、カウンターの奥でユキ姉があくびをしている。


「遅いよ、タケル」


 声がした。


 ぼくは息をのんだ。


「ユキ姉……!」


 駆け寄ると、空気が水みたいに揺れた。冷たくもないのに、皮膚がぶるっと震えた。次の瞬間、ぼくは店の中に立っていた。


 古い木の床。色あせたポスター。粉っぽい甘い匂い。全部、ちゃんとあった。


 カウンターの向こうで、ユキ姉はいつものように笑っていた。白いカーディガンに、星の柄のエプロン。長い髪を後ろで雑に束ねて、眠そうな目をしている。ぼくよりずっと年上なのに、なぜか大人にも子どもにも見えた。


「みんな、忘れちゃった」


 ぼくが言うと、ユキ姉は少しだけ目を伏せた。


「うん。そういう日だから」


「そういう日って何だよ」


「終わる日」


 店の奥で、風鈴がちりんと鳴った。


 外は無風なのに。


「意味わかんないよ」


「わかんなくていいよ、本当は」


「よくないよ!」


 自分でも驚くくらい大きな声が出た。棚に並ぶ駄菓子の袋が、かすかに震えた。ユキ姉は黙って、しばらくぼくを見ていた。それから、レジの横に置いてあった古びた丸椅子を顎で示した。


「座りな」


 ぼくは座った。小さいころから何度も座った椅子だった。


 ユキ姉はカウンターに肘をついて、ゆっくり話し始めた。


「この店ね、ほんとはもうずっと前になくなってるんだ」


「……は?」


「十年前。火事で」


 言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。


「火事って……」


「夜中にね。古い配線がショートしたんだって。新聞にも載ったらしいよ。ぼくは見てないけど」


「じゃあ……ユキ姉は」


「死んだ」


 あっさり言った。その言い方が、かえって残酷だった。


 ぼくは何も言えなかった。喉が詰まった。目の前のユキ姉は、どう見ても生きていた。ぼくより背が高くて、ちょっとだるそうで、笑うと八重歯が見えて、手を伸ばせば触れられそうだった。


「でも、変でしょ。ぼくはここにいる」


「……うん」


「たぶん、残っちゃったんだろうね。店ごと。思い出みたいなもんかな」


 ユキ姉は棚からガラス瓶を下ろし、金平糖を一粒つまんで口に入れた。


「商店街の子どもたちが来て、泣いたり笑ったりして、そういうのが積もって、店の形だけ残った。だから、見える子には見えた」


「ぼくが見えてたのは……」


「タケルが、よく覚えてたから」


 ぼくは俯いた。


 小さいころ、鍵っ子だったぼくは、学校が終わると毎日のようにここに来ていた。母さんが迎えに来るまで、宿題をしたり、カードを広げたり、意味もなく冷蔵ケースを眺めたりした。転んで泣いた日も、テストで満点を取った日も、友だちと喧嘩した日も、最初に寄ったのはここだった。


 ユキ姉はうるさいことを言わなかった。ただ、たまに飴をくれたり、黙って話を聞いたりした。


 たぶん、ぼくの子ども時代の一部が、そのままここに置いてあった。


「でも、どうして急にみんな忘れたの」


「思い出って、ずっとは残れないから」


 ユキ姉は店の奥を見た。棚の輪郭が少しだけ薄くなっているのに、そのとき初めて気づいた。


「もう限界なんだよ。この店も、ぼくも」


「そんなの、困る」


「困るねえ」


 他人事みたいにユキ姉は笑った。


「笑いごとじゃないよ!」


「じゃあ泣く?」


 その言い方が、昔と同じで、ぼくは何も言えなくなった。


 沈黙の中で、風鈴だけが揺れた。


 やがてユキ姉は、カウンターの下から大学ノートを一冊取り出した。表紙は日に焼け、角はすり切れていた。


「これ、タケルにあげる」


「何これ」


「交換日記」


「は?」


「……正確には、みんなの日記かな。ここに来た子たちが、勝手に書いてた。嬉しかったこととか、むかついたこととか、将来の夢とか」


 ノートを開くと、見覚えのない字が何ページも並んでいた。下手なひらがな、丸文字、勢いのある漢字。『きょう、ザリガニをつかまえた』『ピーマンは敵』『将来ケーキやさんになる』『好きな人ができた』。ページのあちこちにシールが貼られ、ラムネの輪っかみたいな汚れがついていた。


 そして途中に、ぼくの字があった。


『きょう、おかあさんとかぜんぜんはなせなかった。でもユキ姉は、べつにしゃべらなくていいって言った。ちょっとたすかった』


 自分の字なのに、知らない子の字みたいだった。


 鼻の奥がつんとした。


「これがあれば、少しは残るかも」


「残るって、何が」


「ぼくのいた証拠」


「そんなの、これがなくてもぼくが覚えてる」


 言うと、ユキ姉は少しだけ寂しそうに笑った。


「それがね、怪しいんだ」


「え?」


「覚えてるって、思ってても。人の記憶って、けっこう簡単にほどけるから」


 ぞっとした。


「じゃあぼくも忘れるの」


「たぶんね」


「嫌だ」


「うん」


「嫌だ!」


 立ち上がった拍子に、丸椅子が倒れた。ごとん、と乾いた音がした。その音がやけに遠く聞こえた。


「ぼく、忘れたくない」


「知ってる」


「じゃあなんとかしてよ!」


「できたら、とっくにしてるよ」


 初めて、ユキ姉の声が少しだけ揺れた。


 ぼくは息を呑んだ。


 ユキ姉は目を伏せ、しばらく黙っていた。それから、小さく笑った。


「ごめん。八つ当たりだね」


 その笑い方は、今にも消えそうだった。


 店の天井が、少しずつ透けてきていた。夕焼けがその向こうに見える。棚の駄菓子の輪郭も、カウンターの木目も、だんだん曖昧になっていく。


 時間がないのだとわかった。


 ぼくはノートを抱えたまま、泣くのをこらえて立っていた。何か言わなきゃと思うのに、何を言えばいいのかわからない。


 ありがとう、じゃ軽すぎる。

 さようなら、は認めるみたいで嫌だった。

 忘れない、はたぶん守れない。


 ユキ姉はそんなぼくを見て、ふっと笑った。


「タケル。最後にひとつ、お願いしていい?」


「……何」


「大人になったらさ、たまにでいいから、居場所を作ってあげて」


「居場所?」


「誰かが、用もないのにふらっと来られる場所。別に立派じゃなくていい。駄菓子屋じゃなくても、カフェでも、部室でも、変なオンライン空間でもいい。そういうの、なくなると困るから」


 ぼくはうなずいた。うなずくしかできなかった。


「うん」


「いい返事」


 ユキ姉は手を伸ばした。額を小突かれると思った。でも指先はぼくに触れる寸前で止まり、そのまま光の中に溶けた。


「それと、秘密基地の鍵、まだ持ってる?」


 ぼくはポケットから青いビー玉を出した。


 ユキ姉は目を細めた。


「よかった」


 それが最後だった。


 風鈴が鳴り、店の輪郭がゆっくりほどけて、夕焼けの色に混ざっていった。棚も、床も、カウンターも、ユキ姉も。まるで最初から何もなかったみたいに、空き家の薄暗い空間だけが残った。


 ぼくはしばらく、そこに立ち尽くしていた。


 手の中には、青いビー玉と大学ノートだけがあった。


     *


 それから何年も経った。


 正直に言うと、ユキ姉の顔はもうかなり曖昧だ。髪が長かったこと、少し眠そうな目をしていたこと、笑うと八重歯が見えたこと。そのくらいしか、はっきりとは思い出せない。声も、きっと少し違っている。


 忘れたくないと思ったのに、やっぱり記憶は少しずつほどけていった。


 それでも、完全には消えなかった。


 ぼくは今、小さな店をやっている。商店街の外れ、昔より少し寂しくなった通りにある、古本とコーヒーの店だ。学校帰りの子が漫画を読みに来る。仕事帰りの人が黙って座っていく。何も買わずに、ただ雨宿りだけして帰る人もいる。


 それでいいと思っている。


 カウンターの隅には、青いビー玉を置いてある。意味を聞かれたら、「秘密基地の鍵です」と答えることにしている。たいていのお客さんは笑う。


 閉店後、ときどき大学ノートを開く。ページをめくるたび、知らないはずの夏の匂いや、ラムネ瓶の冷たさや、古い扇風機の回る音が、胸の奥でかすかに蘇る。


 そして最後の白いページに、ぼくは今日のことを書く。


『きょう、小学三年生の子が、友だちと喧嘩したって泣いていた。ココアを出したら、少しだけ笑った』


 ペンを置く。


 窓の外では、商店街の街灯がひとつ、またひとつと灯っていく。


 ふと、店の奥で風鈴が鳴った気がした。


 振り向いても、もちろん誰もいない。


 けれどその瞬間だけ、夕暮れの空気の中に、懐かしい駄菓子の甘い匂いがした。


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