第7話 決意
『御魂改役』の壊滅だ。奴らを排除し、魂の消滅を食い止めろ』
無機質な暗闇の中で、懐かしい――いや、今では冷たく感じるマスターの声が響く。
『16だ。16歳になったら江戸へ向かえ』
『こちらの世界からの装備などの持ち込みは不可能だが……鍛錬する時間なら十分にあるはずだ』
……そうだ。
俺には時間があったはずなのだ。
十年という、途方もない時間が。
***
ハッとして目を開けると、障子の隙間から朝日が差し込んでいた。
夢か……。
俺は荒くなった呼吸を整え、ゆっくりと上半身を起こした。
隣では、兄の龍がまだ大の字になって寝息を立てている。
布団から放り出されたその左腕には、傷だらけになった『鉄線』の腕守りが巻かれていた。
これは龍の優しさの証――昨夜傷だらけになった俺の腕守りを交換してくれたのだ。
(……俺は、何をしていたんだ)
俺は静かに立ち上がると、手慣れた動作で布団を畳み始めた。
四隅をきっちりと揃え、皺を伸ばす。
単調な作業を繰り返しながら、思考を巡らせる。
昨日の出来事で、嫌というほど思い知らされた。
俺は無力だ。
ただの酔っ払い一人に敵わず、殺されかけ、結局は兄と父に守られただけだった。
(平和ボケしていた……)
その事実を認めるのは屈辱的だが、認めざるを得ない。
エージェントとしての任務を忘れていたわけではない。
だが、この番場家での温かく幸せな日々に浸り、どこかで危機感が麻痺していた。
子供の体を言い訳にし、適当に町を歩き回って「情報収集」ごっこをしていただけだ。
(見誤った。俺が今やるべきことは、噂話を集めることなどではない)
十六歳になり、江戸へ向かえば、そこには必ず情報を持った同志や、協力者がいるはずだ。
情報はそこで手に入る。
ならば、今の俺に必要なものは何か。
それは、任務を遂行し、生き抜くための圧倒的な「個の力」だ。
(俺は然るべき時、幕府の特殊部隊とも渡り合い、主力を担わなくてはいけない存在だ)
それなのに、あんなチンピラ風情に後れを取っているようでは話にならない。
マスターの言葉通りだ。『鍛錬する時間は十分にある』。
(今やるべき事。……それは、強くなることだ)
思考がまとまった。
俺は畳み終えた布団を持ち上げ、音を立てないように押し入れへとしまった。
振り返ると、龍はまだ幸せそうな顔で夢の中にいる。
俺は決意を胸に、静かに襖を開け、居間へと向かった。
***
居間に行くと、父がすでに長火鉢の前に座り、煙管を吹かしていた。
「おはよう。……広、ちゃんと眠れたか?」
「おはよう。十分すぎるほど眠れたよ」
俺は父の向かいに座りながら、短く答えた。
父の顔色を窺う。
昨日の怒りはもう消え、いつもの穏やかな顔に戻っている。
「父ちゃん。昨日のことだけど……改めて、心配かけてごめんなさい」
俺は畳に手をつき、頭を下げた。
「もういいって。忘れろとは言わねぇが、切り替えていけ」
父はポンと俺の頭を叩き、煙を吐き出した。
「……うん。で、そのことで相談なんだ」
「相談?」
父が不思議そうな顔をして小首を傾げる。
俺は一度息を吸い込み、昨夜から考え続けていたことを口にした。
身を挺して守ってくれた兄のおかげで生きていること。
そんな兄を、ただ見ていることしかできなかった悔しさ。
子供だから大人を頼れという父の意見を否定したいわけではないが、それでも自分の身と、大切なものを守る力が欲しいこと。
俺は、自分の弱さと渇望を、飾り気のない言葉で愚直に伝えた。
父は腕組みをして、黙って聞いてくれていたが、やがて困ったように眉を下げた。
「気持ちは痛いほど分かった。……とはいえ、武術や剣術なんて、誰に教えてもらうんだよ」
「父ちゃん、教えてくれない?」
俺は食い気味に頼んだ。
昨日のあの圧倒的な一撃。
父なら何か心得があるのではないかと期待したのだ。
だが、父はあっさりと手を振った。
「俺じゃあ教えられねぇな。武の字も知らねぇよ」
(つまり何も知らねぇじゃねぇか……)
心の中だけでツッコミを入れる。
どうやら昨日のあれは、単なる馬鹿力と親父としての怒りが生んだ一撃だったらしい。
「……誰か、知り合いにいない? 誰でもいいんだ。武術でも剣術でもいい。とにかく強い人」
「そう言ってもなぁ……」
父は腕組みをしたまま、天井を仰いだり、顎を撫でたりして唸っている。
大工の知り合いは山ほどいるだろうが、武芸者となると心当たりがないのだろう。
しばらく考え込んだ末、父は諦めたように大きく息を吸い込み――
「夏ー!!」
思考を放棄し、我が家の最高権力者を呼びつけた。
「どうしたの、朝っぱらから大声出して」
母が台所から手巾で手を拭きながら現れた。
父は、俺がさっき話した「強くなりたい」という思いと、「誰か師匠を紹介してほしい」という要望を、一言一句変えることなく、そのまま母に伝えた。
「……というわけだ。夏、お前なんか宛てはないか?」
父に問われ、母は少し考える素振りを見せたが、すぐにあっさりと答えた。
「それなら……平太がやってる道場があるじゃないの」
「平太? ……ああっ! そうか! 平ちゃん、道場やってたっけな!」
父がポンと膝を打って嬉しそうに声を上げた。
平太とは、母の弟。つまり俺にとっては叔父にあたる人物だ。
だが、その名前を聞いた瞬間、俺は思わず眉をひそめた。
どうにも納得がいかない。
「……どうしたの? 広」
俺の微妙な表情を察して、母が顔を覗き込んでくる。
「……平ちゃんって、強いの?」
俺は率直な疑問を口にした。
無理もない。
俺の記憶にある叔父・平太の姿は、とても「武の達人」とは結びつかないからだ。
身長は五尺三寸(約160センチ)ほどしかなく、成人男性にしてはかなり小柄だ。
髪は眉上くらいに奇麗に揃った「おかっぱ頭」。
鼻の上には分厚い眼鏡を乗せている。
その風貌は、どこからどう見ても、売れない手習いの師匠か、神経質な学者といった感じで、強さの欠片も感じられない。
「馬鹿野郎! 人を見かけだけで判断すんじゃねぇ!」
俺の失礼な想像を見透かしたのか、父が俺を叱った。
「そうねぇ……」
母は顎に手を当てて、少し言葉を濁した。
「そんなに腕がいいって話は、姉の私でも聞いたことはないけど……昔っから、人に教えるのだけは好きだし、得意だったわよ」
(……それ、本当に大丈夫なのか?)
俺の不安は解消されるどころか増すばかりだった。
「名選手、名監督にあらず」という言葉はあるが、「弱そうな男が名匠」という保証もない。
だが、今の俺に贅沢を言える立場ではないことも事実だ。
他に宛てはない。
藁にもすがる思いだ。まずはその叔父を頼るしかないだろう。
「……分かった。平ちゃんに教えてもらうよ」
俺は腹を括って頷いた。
***
朝食を済ませ、俺は手拭いと竹の水筒だけを持って玄関に向かった。
草鞋の紐を締め直していると、背後から母の心配そうな声がかかった。
「広、本当に一人で大丈夫? お父ちゃんについて行ってもらった方が……」
昨日の今日だ。母が神経質になるのも無理はない。
だが、これは俺自身の戦いだ。
最初の一歩から誰かに頼っていては意味がない。
「大丈夫だよ。場所もしっかり聞いたし、一人で行けるよ」
俺は母を安心させるように、努めて明るく振る舞った。
母から聞いた場所によれば、平ちゃんの道場はここから歩いて二時間ほど。
町外れの山道を登った、結構な山奥にあるらしい。
道場というより、もはや隠れ家だ。
そんな場所で経営が成り立っているのか、新たな不安が頭をよぎる。
「気をつけて行けよ! 寄り道すんじゃねぇぞ!」
奥から、父の野太い声が飛んできた。
「分かってるよ! 行ってきます! 日が暮れる前には帰ってくるから!」
俺は大きく手を振ると、勢いよく家を飛び出した。
ひんやりとした朝の空気が肌に心地よい。
俺は山の方角を見据え、一歩一歩、地面を踏みしめるように駆け出した。
第7話の更新は、2/6(金)の予定でしたが、第6話の反響があったため急遽本日更新いたしました。
読んでくださっている皆様本当にありがとうございます!
次回、広の修業が始まります。
叔父の平ちゃんこと平太はどんな人物なのでしょうか。
次回は2/6(金)21:00更新予定です!
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