第5話 腕守り
(……今日も、特に有益な情報はなしか)
往来物と筆を包んだ風呂敷を小脇に抱え、俺は砂埃の舞う通りを歩いていた。
寺子屋に通い始めて2年くらい。
この時代の読み書き、そろばん、そして幕府の定めるお触れ書きの内容は完全に把握した。
だが、俺が欲している江戸の状況や『御魂改役』の情報は今のところ皆無だ。
思考を巡らせながら、俺は「番場」の看板――と言っても、木の板に墨で書かれただけの無骨なものだが――が掲げられた自宅の潜り戸をくぐった。
「ただいま」
薄暗い玄関に足を踏み入れると、奥からドタドタと慌ただしい足音が駆け寄ってきた。
「広、遅かったな! なんか母さんがすげぇ御馳走つくってるぜ」
兄の龍だ。目を輝かせて報告してくるが、言われなくても分かっていた。
家の中には既に、煮炊きの香ばしい匂いや、ツンとした酢飯の匂いが充満している。
たまらずお腹がグゥと鳴りそうになるほど、食欲をそそる香りだ。
「母さん、ただいま」
「あら、お帰りなさい」
土間の方へ声をかけると、襷掛け姿の母の姿があった。
「お母さん、ちょっとご飯の用意で忙しいから、龍と一緒に庭で遊んでおいで」
そう言って、すぐに竈の方へと戻ろうとする。
その背中は、明らかにいつもの夕餉の支度とは違う気迫に満ちていた。
「……何か手伝おうか?」
「ううん、今日はいいのよ」
母は振り返らず、弾んだ声でそう返した。
その一言で、ピンときた。
(……そうか。今年の誕生会は今日やるつもりだな)
番場家には一つの恒例行事がある。
俺と龍は誕生月が同じ1月だ。
そのため、毎年二人の誕生祝いは同日にまとめて開催されるのが習わしとなっている。
開催日は暦通りではない。
父の仕事の山場が越え、弟子たちも全員集まれる日が選ばれるのだ。
つまり今夜は、あのむさ苦しい大工集団を巻き込んだ、盛大で騒がしい大宴会が確定したということだ。
***
日が暮れると同時に、表からドヤドヤと賑やかな声が響いてきた。
父と弟子たちの帰宅だ。
「おう、帰ったぞ! 今日は飲むぞー!」
「へい、親方!」
母が腕によりをかけた料理の山――煮しめに刺身、そして見事な鯛の塩焼きを見て、弟子たちが「うおっ!」「すげぇ!」と歓声を上げた。
全員が膳につき、それぞれの盃に酒が注がれる。
父が咳払いを一つして、自分の盃を手に取った。
それまで騒がしかった弟子たちが、親方の言葉を待って静まり返る。
「さて……」
父の視線が、俺と龍を行ったり来たりする。
その目は、酒が入る前から既に細められていた。
「龍が十二、広が十か」
父は感慨深げに呟いた。
「早いもんだな。……まあ、細かいことは言わねぇ。とにかくお前たちが、健やかに育ってくれればそれでいい」
父はニカッと笑うと、高々と盃を掲げた。
「龍と広に、乾杯!」
「「「乾杯!!」」」
野太い唱和と共に、番場家の狂乱の宴が幕を開けた。
***
宴もたけなわとなり、大人たちの笑い声が少し遠くに聞こえ始めた頃。
いつものように、俺と龍は目配せをして席を立った。
「父ちゃん、母ちゃん。俺たちもう寝るよ」
そう言って部屋を出ようとした時だった。
「……ちょっと待て」
背後から、父の低く太い声が掛かった。
また酔っ払って「まだ早いだろ!」とでも言うつもりか。
そう思って振り返ったが、父の表情を見て俺は足を止めた。
目は据わっているが、ふざけている様子はない。真剣そのものだ。
「ここに座れ」
父が顎で俺たちの前の座布団をしゃくる。
その声音に含まれる威厳に打たれたのか、それまで馬鹿騒ぎをしていた弟子たちも、一人、また一人と口を閉ざし、居住まいを正した。
一瞬にして、座敷の空気が張り詰める。
「夏。持ってきてくれ」
「はい」
(……なんだ?)
父の指示で、母が奥から二つの小さな木箱を持ってきた。
白木の、飾り気のない質実剛健な箱だ。
母は龍の前に、父は俺の前に、それぞれその箱を置いた。
「開けてみなさい」
母の静かな声に促され、俺たちは蓋を持ち上げた。
中に入っていたのは、渋い茶褐色に染められた、平たくて丈夫そうな組紐の腕輪だった。
目を引くのは、その紐を繋ぎ止めている長方形の金属製の留め具だ。
鈍い光を放つその真鍮の表面には、一輪の花の絵が深く刻印されている。
「腕守りだ」
父が短く言った。
(……腕守り?)
俺は箱の中身と父の顔を交互に見た。
なぜ今、これを渡されたのか。ただの装飾品にしては、場の空気が重すぎる。
俺がその意図を測りかねていると、隣で衣擦れの音がした。
龍だ。
彼は迷いなく立ち上がると、頭を深々と頭を下げた。
「父ちゃん、母ちゃん。……ありがとう! 大切にするよ!」
その声は震えていて、心からの感謝が滲み出ていた。
俺は一瞬遅れて、慌ててそれに倣った。
「……ありがとうございます」
とりあえず礼は言ったものの、俺の中にはまだ疑問符が浮かんでいた。
そんな俺の戸惑いを察したのか、母が優しく微笑みながら口を開いた。
「それはね、ただのお守りじゃないのよ」
「その刻印されている花は『鉄線』。うちの家紋だよ」
母が、俺の手首にある腕守りを愛おしそうに指先で撫でた。
「この花の蔓はね、鉄のように強くて、決して切れることがないの。だから『固い絆』という意味があるわ。それに、『精神の美』という意味もね」
「絆、と……精神の美……」
俺がその言葉を反芻していると、父が重々しく口を開いた。
「この家紋が入った腕守りを持ってるのは、世界広しといえど、お前たち二人だけだ」
父の視線が、俺と龍を射抜く。
酔いは完全に消え失せ、現場で指揮を執る時のような、棟梁としての顔つきになっていた。
「父ちゃんと母ちゃんが、何を伝えたいか分かるか」
その問いかけに、俺と龍は姿勢を正し、父に対して真剣な眼差しを向けた。
父は満足そうに頷くと、ゆっくりと語り始めた。
「龍、広。お前たちは二人とも十を過ぎ、これから一人の男として、大人になっていく」
父の太い指が、空を掴むように握られた。
「将来、どんな道に進むも結構。俺の大工の跡を継げなんて言わねえ。幸い、うちには岳をはじめ、優秀な弟子たちが育ってるからな」
父の言葉に、弟子たちが照れくさそうに頭を掻く。
だが、すぐに父の声色が一段低くなった。
「ただ、二人ともこれだけは約束しろ」
父は、俺と龍の目を交互に見据えた。
「お前たちは、唯一の血を分けた兄弟だ。二人がこれからどんな道に進もうが、離れ離れになろうが、困ったときは必ず助け合え」
そして、父は俺の胸のあたりを指差した。
「そして、人としての道を踏み外すな。……人は、心なんだからな」
シンプルな言葉だった。
だからこそ、飾り気のない本心として、胸の奥底にすとんと落ちてきた。
2193年の無機質な社会では聞くことのなかった、「心」という不確定な概念。
だが今の俺には、それが何よりも確かな指針のように感じられた。
「はい! 父ちゃん!」
龍が、部屋の空気が震えるほど元気よく返事をした。
その横顔には、一点の曇りもない決意が浮かんでいる。
俺も、深く息を吸い込み、腹の底から声を絞り出した。
「……忘れません」
その返事を聞いた瞬間、父の厳格な表情が崩れ、いつもの豪快な笑顔が戻った。
「よし! これが俺たちからの贈り物だ! 受け取れ!」
「二人とも、誕生日おめでとう」
母が優しく微笑み、手を叩いた。
それを合図に、静まり返っていた座敷が一気に爆発した。
「うおおおっ! おめでとうございやす!!」 「いいっすねぇ! 兄弟愛!」
ドッと沸き起こる拍手喝采。
その中で、一番弟子の岳だけが、なぜか顔をくしゃくしゃにして号泣していた。
「ううっ……親方ぁ……いい話だぁ……ちくしょう、酒が美味ぇよぉ……!」
「岳、お前が泣いてどうすんだよ!」
弟子たちのツッコミと笑い声が混ざり合い、再び宴は賑やかな熱気に包まれていった。
***
宴がお開きになり、俺と龍は布団に入った。
障子の向こうからは、まだ大人たちの微かな話し声と、虫の声が聞こえてくる。
俺は布団の中で、左腕につけたままの腕守りに触れた。
硬い金属の感触と、組紐の温かみ。
(困ったときは助け合え、か……)
父の言葉を反芻しながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
こうして、騒がしくも温かい、十歳と十二歳の夜が更けていった。
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