第4話 0℃の孤独、100℃の喧騒
俺がこの時代に誕生してから、早6年が経過した。
この身体の成長は順調だ。
背丈も三尺八寸(約115センチ)ほどにはなっただろうか。
水瓶の水面に映るのは、前世のあの色素の薄いグレーの髪……ではない。
少し陽に焼けた小麦色の肌に、意思の強そうな黒い瞳。
そして髪はといえば、伸びる端から親父に剃り上げられ、相変わらず青々とした「坊主頭」のままだが……。
しばらくたってわかったが、ここでは2193年の常識が一切通用しない、極めて「野蛮」で「不便」な世界だということだ。
脳内ネットワークへの常時接続はなし。思考伝達も不可能。
情報は、紙のインクの染みや、人を伝って広まる噂くらいしかない。
だが、どういうわけか、俺はこの恐ろしく非効率な「江戸時代の生活」に、奇妙なほど馴染んでしまっていた。
情報のノイズがない静けさと、その代わりに満ちている「生」の騒がしさ。
そのギャップに戸惑っていたが、今の俺はこの不便さをどこか楽しんですらいる。
「帰ったぞ~!」
思考に耽っていた俺の耳に、玄関の方から野太い声が響いた。父、番場建蔵だ。
どうやら一つの現場を納めてきたらしく、その声には疲労よりも達成感が滲んでいる。
「親方、道具こっちに置きますか?」
「おう、手入れしてからしまえよ!」
ドカドカという重厚な足音と共に、弟子たちの活気ある声が続く。
木の香りと、男たちの汗の匂いが廊下を流れてくる。
2193年なら「公衆衛生違反」で即刻クリーニング対象になるようなその匂いも、今では「父が帰ってきた合図」でしかない。
「父ちゃん、お帰りなさい!」
俺の横を風が抜けていった。
視界を横切ったのは、俺の無骨な坊主頭とは対照的な、絹糸のような髪だ。
耳の高さで丸く切り揃えられたその柔らかな黒髪が、走る勢いに合わせてフワフワと弾んでいる。
兄の龍だ。
パタパタと廊下を走り、泥だらけの父の元へ一番乗りで駆け寄る。
「お帰りなさい、父ちゃん」
俺も慌てず、しかし小走りでその後を追った。
玄関には、ねじり鉢巻きを首にかけ、作業着を木屑だらけにした父が仁王立ちしていた。
短く刈り込んだ髪に、少し太めだが岩のようにがっちりとした体躯。
普段はきりりと吊り上がっているその鋭い眉が、俺と龍の顔を見た瞬間、ふにゃりと崩れる。
「おう、たでーま」
父はだらしなく破顔すると、汚れた手で俺たちの頭を豪快に撫で回した。
父の巨大な背中が退くと、その影から褐色の男たちがぞろぞろと入り込んできた。
父が抱える弟子たち――通称「番場組」の面々だ。
「おーい、邪魔すんなよー」 「親方、靴が泥だらけだ」
むさ苦しいことこの上ないが、彼らもまた、この家の構成要素の一部のようなものだ。
その中でも一際人懐っこい笑顔を浮かべて、先頭の男がしゃがみ込んだ。
一番弟子の岳だ。
その鶏冠頭をタオルで拭きながら、俺と龍の顔をまじまじと覗き込んでくる。
「おおっ! 龍! 広! しばらく見ない間に、またでかくなったな~!」
岳は感極まったように声を上げた。
まるで数年ぶりの再会のようなテンションだ。
俺は眉ひとつ動かさず、淡々と事実を指摘した。
「先週会っただろうが」
「……ぶっ! 相変わらず可愛げがねぇなぁ、広は!」
俺の冷静な返しに、岳は吹き出しながら豪快に俺の頭をガシガシと撫でた。
事実を述べただけなのに、なぜかこの家では「面白い」と解釈される。
これもまた、この時代の不可解なバグの一つだ。
「はいはい、どいてどいて! 玄関が詰まってるよ!」
男たちの熱気でむせ返るような玄関に、カラッとしたよく通る声が響いた。
奥の台所から、割烹着姿の母・夏が小走りでやってくる。
丁寧に手入れされた艶やかな長い黒髪を、動きやすいよう背中で一つに括っている。
自分の母親に対して言うのもなんだが、かなりの美人だ。
あの岩のようなむさ苦しい親父が、どうやってこれほど美しい人を射止めたのか。
この時代に来てからの一番の謎だ。
「お帰りなさい、あなた!」
母は父に向かって太陽のような笑顔を向けると、すぐに後ろに控える弟子たちへと視線を移した。
「みんなも、本当によく頑張ったねえ! お腹空いたでしょう?」
「夏さん、ただいま!」 「へへ、腹ペコっす!」
弟子たちが尻尾を振る犬のように顔を輝かせる。
この家において、母の存在は絶対だ。
父が群れを率いるボスなら、母はその群れを養う大地そのものと言っていい。
「さあさあ、突っ立ってないで上がって!今日は祝い酒だよ!とびきり美味いのができてるからね!」
「うおおっ! さすが夏さん!」 「いただきます!」
母の号令一下、男たちがドヤドヤと家に上がり込んでいく。
まるで雪崩のような勢いだ。
***
親方である父が現場を一つ納めると、必ず「宴」が開催される。
それが番場家の、ひいてはこの時代の不可解なルールらしい。
襖を取り払った大広間には、座卓が隙間なく並べられ、その上には母が作った大量の料理が山のように積み上げられている。
唐揚げ、刺身、煮しめ、そして一升瓶の森。
大人たちは顔を赤らめ、箸で茶碗を叩き、怒鳴るように笑い合っている。
(……狂気の沙汰だ)
お茶を啜りながら、俺は冷ややかな視線を大人たちに向けていた。
2193年の基準で言えば、この行為は「資源の浪費」以外の何物でもない。
栄養摂取なら、完全食のペーストチューブ一本で事足りる。
それをわざわざ、過剰なカロリーと、脳細胞を破壊するアルコール(毒物)を摂取し、生産性のない会話で時間を浪費する。
非効率。非合理的。まさに、文明レベルの低いこの時代特有の「おかしな習慣」だ。
「ガハハハ! 見ろ岳! 龍のやつ、もう眠そうだぞ!」
「親方、飲みすぎですよ! 夏さんに怒られますって!」
父の豪快な笑い声が、タバコの煙と料理の湯気が充満した部屋に響き渡る。
母が呆れ顔で、それでも楽しそうに空いた皿を下げていく。
兄の龍は、父の膝元で眠そうにしながらも、幸せそうにニコニコしている。
……騒がしい。暑苦しい。匂いがきつい。
だが、どうしたことか。
頭ではこんなこと考えながらも心からこの現状を拒否しているわけではなかった。
俺は小さく息を吐き、お茶を飲み干した。
論理的には否定すべきこの無駄だらけの喧騒を、俺の心は 「居心地がいい」と感じてしまっている。
かつての「冷たい静寂」よりも、この「温かいノイズ」の方が、今の俺には必要なものなのかもしれない。
***
夜も更け、宴の熱気は最高潮に達していたが、子供の活動限界時間はとっくに過ぎている。隣を見ると、兄の龍はもはや座ったまま気絶する寸前だ。
(……潮時だな)
俺は立ち上がり、空いた皿を片付けている母に声をかけた。
「母さん。もう部屋に戻るよ」
「あら、もうそんな時間。そうね、龍も目がとろーんとしてるし。龍、ほら起きて。もう寝なさい」
母に肩を揺すられ、龍がハッとして目をこする。
その様子を見て、真っ赤な顔をした父が不満げに声を上げた。
「あぁ? なんだお前たち、もう寝ちまうのか? だらしがねぇぞ!」
「そうだぞ広!俺と腕相撲しろ!」
さらに、出来上がった一番弟子の岳が、丸太のような腕をまくり上げて絡んできた。
腕の太さが一回り、いや二回りも違う6歳児に、本気で力比べを挑もうとする。
アルコールによる前頭葉の機能低下が著しい。
俺は呆れを通り越して憐れみの視線を向け、淡々と返した。
「……もうちょっと逞しくなったらやってやるよ」
その瞬間、ドッ! と大広間が揺れるほどの爆笑が沸き起こった。
「ガハハハ! 言ったなこいつ!」 「岳!お前6歳に待たれてんじゃねぇよ!」 「違いねぇ!」
大人たちが腹を抱えて笑い転げている。
単に「物理的に勝負にならないから成長を待て」と事実を述べただけなのだが、なぜかこの場では「小意気なジョーク」として処理されたようだ。
「みんな、おやすみ」 「……おやすみなさい」
俺と龍が部屋を出ようとすると、背後から嵐のような声が追いかけてきた。
「おう、おやすみ!」 「いい夢見ろよー!」
野太く、騒がしく、そして温かい声の塊。
俺たちはその音圧に背中を押されるようにして、静かな廊下へと出て床へと着く。
こうして騒がしい番場家の一日が終わる。
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