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生々流転 ~未来のエージェント、魂だけで江戸に潜入し、滅びの運命を書き換える~  作者: 弓藤 千人


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第3話 1714:遥かなる産声

「わかった。ならば、ポッドへ入れ」


 マスターの短い指示と共に、音もなく壁がスライドした。  

 現れたのは、淡い青色の光を放つガラス質のカプセル――時間跳躍装置(タイムスリップポッド)だ。


 メグルは迷いなく歩き出し、その中へと身を沈めた。  

 ひやりとした感触が背中に伝わる。

 温度管理された完璧な素材だが、そこには温もりと呼べるものはない。


「身体機能スキャン完了。精神データのバックアップ、および転送シークエンスへ移行する」


 透明なカバーが滑らかに閉まり、外界の音が遮断され、完全な静寂がメグルを包み込んだ。

 プツッ、という無機質なノイズと共に、ポッド内のスピーカーからマスターの声が響いた。  

 それは耳元で囁かれているようでもあり、脳に直接響くようでもあった。


「メグル、最後に忠告しておく」


 相変わらず抑揚のない冷徹な響きだ。


「今回の転送、時代座標の固定はできたが、お前の魂が『具体的にどこ』に着床するかまでは完全には限定できない。第一目標は江戸……だが、どの階層、どの人間に宿るかは運次第だ」


「どこに落ちようと、まずはその『家族』に馴染め。周囲を欺き、情報を集めろ。そして、いつ敵が来てもいいように戦闘に備えておけ」


 そこで通信が途切れるかと思われたが、最後に低く、くさびを打ち込むような言葉が続いた。


「いいか、決して忘れるな。どんな姿になろうと――お前はエージェント・メグルだ」


「了解」


 メグルは短く、迷いなく答えた。  

 その言葉が唇を離れた瞬間、世界が裏返った。

 駆動音も振動もなく、ただ視界が爆発的な「白」に塗りつぶされる。  

 目を開けているのか閉じているのかさえ分からない。

 上も下も、自分の肉体の輪郭さえも、その圧倒的な光の中に溶解していく。

 思考が途切れる。エージェント・メグルという個が、光の粒となって霧散する。

 そして、プツリと意識が消えた。


 ***



 意識が、深海から浮上するように戻ってきた。

 どれほどの時間が経過したのか、体内時計が完全に機能を停止しているため判別できない。

 一瞬だったようにも、数百年もの時が流れたようにも感じられる、奇妙な空白。

 あの網膜を焼くような強烈な白光は消え失せていた。  

 今はただ、どこまでも深い、漆黒の闇があるだけだ。


(……俺は、生きているのか?)


 問いかけてみるが、声にはならない。  

 身体の感覚は、確かにある。手も足も存在している。  

 だが、以前のように自由には動かなかった。

 まるで分厚い何かに全身を包み込まれ、小さく折り畳まれているような窮屈さがある。

 手足を伸ばそうとしても、見えない壁のような弾力に押し返されてしまう。

 そして、決定的な違和感に気づき、巡の思考が凍りついた。


 ――息をしていない。


 肺が動いていないのだ。

 空気を吸い込み、吐き出すという生命維持の基本動作が、完全に停止している。  

 だというのに、苦しくない。窒息の恐怖も、酸素欠乏による警告アラートも鳴らない。

 ただ、穏やかな浮遊感だけがある。


 呼吸をしていないのに、生きている。かつて経験したどんな過酷な訓練とも違う、未知の感覚。

 エージェントとして鍛え上げられた理性が、この理解不能な状況に戸惑っていた。


***


 それから、さらにどれほどの時間が過ぎ去ったのか。

 相変わらず視界は漆黒のままだ。  

 視覚、聴覚、触覚……外部からの情報を遮断された状態では、時間の概念など意味をなさない。

 ただ、思考だけが空回りし続ける。


(……転送事故か?)


 不安が、黒い霧のように思考にまとわりつき始めた。

 座標設定のミスで、虚数空間の狭間に放り出されたのではないか。

 このまま永遠に、この暗闇の中で漂い続けることになるのではないか――。


 焦燥感がピークに達しようとした、その時だった。

 ぐらり、と世界が動いた。  


 いや、俺の体が、何らかの強烈な圧力によって押し出され始めたのだ。

 全身を締め付けるような圧迫感。 だが、それはすぐに解放へと変わる。  

 スポン、と頭が重苦しい暗闇から抜け出した感覚があった。


 直後、何かが肌に触れた。  

 温かく、それでいて力強い感触。誰かの手だ。  

 その手が俺の体をガッシリと掴み、強引に、しかし確かな意志を持って引っ張り出した。

 

 途端に、肌を刺すような冷気と、全身が開放される感覚。  

 肺が、渇いたスポンジのように空気を求めて痙攣した。


 ――呼吸ができる。

 俺は本能のまま、その冷たくて新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。


「オギャアアアアッ! オギャアアアアッ!」


 口から飛び出したのは、言葉ではなく、言葉にする以前の原始的な叫びだった。


(……なんだ、この甲高い声は)


 自分の喉から(ほとばし)る叫び声を聞いて、混乱していた思考が急速に冷却される。

 制御できない肺の動き。小さく、濡れた身体。そして、何者かに抱き上げられている感覚。

 そこでようやく、脳の奥底にしまい込まれていたマスターの言葉が蘇った。


『お前がその時代に存在するためには、『新たな命』として誕生する以外にないのだ』


 ――そうか。そういうことか。  

 俺は今、新たな生命としてこの時代に「誕生」したのだ。


 あれほど念押しされていた作戦内容を、暗闇への恐怖と未知の感覚ですっかり失念していたとは。

 エージェント・メグルにあるまじき失態だ。

 ただの環境変化ごときでパニックに陥り、任務の前提条件すら忘れるとは。


(落ち着け。状況は想定の範囲内だ)


 俺は自らの未熟さを恥じ入ると同時に、弛んでいた精神のタガを締め直した。  

 まずは情報の収集だ。俺は今、どこにいて、誰の腕の中にいる?


「奥さん、元気な男の子だよ!」


 しゃがれた、だが張りのある老婆の声が鼓膜を叩いた。


(……男か。性別は前と同じだな)


 メグルが冷静に分析しようとした矢先、その思考を塗りつぶすような、野太い絶叫がすぐ耳元で響き渡った。


「夏ぅぅぅっ!! よくやった! よくやったなぁぁぁっ!!」


 視界の隅から、巨大な影がのしかかってくる。この暑苦しいほどの感情の爆発には気圧された。


「ええい、鬱陶しいねぇ! ほら旦那、泣いてんじゃないよ!」


「母子ともに無事なんだ、へばりついてるんじゃないよ!ここからはまだ仕事があるんだ、さっさと出ていきな!」


 産婆が、呆れたように、容赦なくを旦那を追い出す。


***


産婆が帰り、慌ただしかった室内にようやく静寂が戻ってきた。  

残っているのは、家族の水入らずの時間だけだ。


(なつ)、お疲れさん。よくやったな」


 先ほどまでの怒鳴り声が嘘のように、父親の声は穏やかだった。  

 ゴツゴツとした硬い指先が、恐る恐る俺の頬をつつく。

 まるで壊れ物を扱うような手つきだ。


 ふと、母親が視線を部屋の入り口に向けた。

 そこには、襖の隙間から中に入ろうとせず、正座して待機している小さな気配があった。


(りゅう)、そんなところにいないで、こっちにいらっしゃい」


 母親の優しく通る声に、パタパタという軽い足音が近づいてくる。


「ほら、あなたの弟よ。仲良くしてあげてね」


「わかりました!」


 兄――龍の返事は、軍隊の点呼のように元気で、それでいて実直さが滲み出ていた。  

 まだ姿は見えないが、俺の顔を覗き込んでいるのだろう。温かい吐息が顔にかかる。


「さて……」


 母親が、少し姿勢を直す衣擦れの音がした。


「この子の名前、決めなくてはね」


「おう、それならもう決めてあるぞ」


 父親が得意げに胸を張る気配がした。勿体ぶることなく、その太い声が宣言する。


「――『(ひろ)』だ」


「広……?」


 母親が不思議そうに繰り返す。


「どうして広?」


「そりゃあお前、なんでも広い方がいいだろう! 家も心もな! 器の広い人間に育ってほしいんだよ!」


 父親の声は、自信と屈託のない明るさに満ちていた。

 あまりにも単純明快すぎる論理。


(……俺の父は、とんでもなく馬鹿らしい)


 2193年の高度な教育を受けてきた広 (メグル) は、内心で冷ややかに毒づいた。

 器の広さを願うのはいいが、その理由が「なんでも広い方がいい」とは。論理的思考のかけらもない。


「あらそう。それなら『広人(ひろと)』とかの方が、字面的にも落ち着くんじゃない?」


 母親が可笑しそうに混ぜっ返す。

 広も(その方がまだ名前らしいな)と同意しかけたが、父親は即座に却下した。


「だめだ! 龍が一文字なんだから、この子が二文字だとおかしいだろ! 兄弟揃って一文字! これが粋ってもんだ!」


「ふふっ、あはははっ!」


 母親が吹き出した。

 それは、太陽の日差しが降り注ぐような、カラッとした明るい笑い声だった。

 俺は生まれて初めて、母親の「笑い声」を聞いた。

 父親の単純な理屈と、それに呆れながらも愛しそうに笑う母親。

 そして、わけもわからず一緒になって「あはは」と笑っている兄。

 騒がしくて、論理的ではなくて、暑苦しい。

 けれど、その笑い声の渦の中心は、どうしようもなく心地が良かった。

 こうして俺のもう一つの人生が始まった。


第3話、ご覧いただきありがとうございます。

巡の時間跳躍が成功し、任務が開始されました!

しかし、生まれ変わったメグル(広)の家は少し癖つよ。

江戸時代の日常にも注目です!

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