第1話 2193:沈黙する未来
脳髄を直接叩くような電子パルス。
次の瞬間、トレーニング中の俺の視界を、真紅の文字列が遮った。
『優先度:S 司令室へ帰投せよ』
「緊急命令?」
速度を上昇させたばかりのランニングマシンを緊急停止させた。
慣性で少し身体が浮くが、構わず降りる。
汗をナノマシンが分解する不快な熱を感じながら、俺は壁に掛けてあった隊服に袖を通した。
「優先Sか……」
億劫な心境とは裏腹に、身体は染み付いた習慣で勝手に動く。
長い廊下。
誰もいない無機質な床に、俺の軍靴の音だけが、カツ、カツと硬質に響いた。
***
司令室の最奥。俺は行き止まりの壁の前で足を止めた。
扉はない。ただの冷たい合金の壁だ。
直後、天井のセンサーから青白いレーザーが走り、俺の虹彩と骨格を一瞬でスキャンする。
その瞬間、目の前の合金が、ふいに粘度を持った水面のように波打ち、鏡となって俺の姿を映し出した。
波打つ壁に映り込んだのは、色素の薄い、アッシュグレーの髪。
温度を感じさせない灰色だ。
俺は、その髪の隙間から覗く感情の抜け落ちた瞳で、ただぼんやりと自分を見つめ返した。
『生体認証、完了』
無機質な合成音声が廊下に響いた。
『エージェント・メグル。帰投を確認』 『入室を許可します』
その言葉がトリガーだった。
水面のような鏡が、水面に落としたインクのように揺らぐ。
自分を映した壁が、数秒で完全な透明へと変化した。
壁が消えたわけではない。
そこにあるまま、物質の密度と可視性がゼロになったのだ。
俺はその「透明な壁」へと、躊躇なく足を踏み入れた。
肌に微弱な静電気のような感覚。
ナノマシンが俺の身体に合わせて道を開ける感触だ。
壁をすり抜けた先は、ドーム状の広大な空間だった。照明はない。
代わりに、無数の光の粒子が、暗闇の中で蛍のように舞っている。
俺が足を踏み入れると同時に、その光たちがゆっくりと部屋の中央へ集まり始めた。
激しい光ではない。温かな、陽だまりのような光の収束。
「急ですまんな、メグル」
部屋のスピーカーから、穏やかなバリトンボイスが響く。
光の粒子が形作ったのは、一人の老人の姿だった。
柔らかな白髪に、笑うと目尻に深く刻まれる皺。
俺が知る限り、この世で最も優しい表情をする「彼」だ。
「いえ、問題ありません。」
俺はいつものように短く答え、その光の立体映像を見つめた。
毎週の定例報告で見る、変わらぬマスターの姿だ。
髪の毛一本、皺の数ひとつに至るまで、完全に再現されたホログラム。
だが、どれだけ精巧でも、これは光の粒に過ぎない。
6歳の時──スラムで凍えていた俺を抱きしめ、熱いスープを飲ませてくれた、あの「生身の体温」はここにはない。
そう。俺は10年以上、マスターの肉体を見ていなかった。
「……それで、マスター。優先Sの用件とは?」
俺は感傷を振り払うように、努めて事務的な声を出す。
この優しい老人が、緊急コードを使ってまで俺を呼び出したのだ。
ただ事ではない。
「単刀直入に言おう。タイムスリップを行い、西暦1714年へ飛べ」
突拍子もない命令。
だが、俺は眉ひとつ動かさず、短く肯定した。
「了解」
マスターの仕事についてはある程度理解している。
これまでいくつもの訓練を行ってきたが、時間跳躍の許可が下りるのは、これが初めてだ。
ついにその時が来た。それだけの話だ。俺の心拍数は、平常時の数値を維持している。
「目的と、排除対象の詳細は?」
即座に問い返した俺に、しかしマスターはゆるく首を横に振った。
「その熱意は買おう。だが、詳細は明朝、7:00に伝える」
「明日……ですか?」
予想外の保留に、俺は初めて怪訝な顔をした。
優先Sで呼び出しておいて、作戦開始は明日?
俺の困惑を見透かしたように、光の老人は目尻を下げて微笑んだ。
「今日はもう遅い。部屋に戻って休みなさい」
「ですが、準備が」
「メグル。……初の任務だが、そう気負うことはない。」
マスターの穏やかな声が、張り詰めた俺の神経を優しく撫でる。
「明日になれば、嫌でも忙しくなる。それまでは、泥のように眠るなり、好きなことをして、リラックスして過ごすといい」
光の粒子が、フッと明滅する。これ以上、問答をするつもりはないという合図だ。
「……了解。失礼します」
俺は釈然としないものを飲み込み、踵を返した。
背後で、父のような光が静かに消える気配がした。
***
自室に戻ると、俺は壁に身体を預けた。
センサーが在室を検知し、無機質な部屋の照明が、自動的にリラックスモードの暖色へと切り替わる。
俺は深く息を吐き、重力制御クッションに腰を沈めた。
身体は休まっているが、脳は過熱したままだ。網膜のログを呼び出し、先ほどの会話を反芻する。
(西暦1714年……江戸、正徳4年か)
脳内検索が瞬時に歴史データを弾き出す。
七代将軍・徳川家継公の時代から百年以上が過ぎ、戦乱の気配など微塵もない泰平の世だ。
時の将軍は、まだ幼い七代・家継。政治の実権は、側用人の間部詮房と、学者の新井白石が握っている時代。
(そんな平和な時代に、なぜ「憂い」がある?)
もし歴史改変を狙うなら、もっと分かりやすい分岐点──関ヶ原や本能寺──を選ぶはずだ。
なぜ、あえて1714年なのか。
それに、あのマスターの態度も解せない。
『優先度S』の緊急招集だったはずだ。
一刻を争う事態なら、今すぐポッドに詰め込まれてもおかしくない。
それなのに「明日まで待て」だと?
(……準備期間か? いや、転送装置の不調か?)
あるいは、俺自身のメンタルの調整のためか。思考は堂々巡りを繰り返し、答えには辿り着かない。
「……考えても仕方がないか」
俺は独りごちて、クッションから立ち上がった。
答えは明日になれば分かる。
今はマスターの言葉通り、しっかりと休むべきだ。
思考のスイッチを強制的に切るには、熱いシャワーに限る。
シャツのボタンに触れると、形状記憶繊維が解け、一瞬で隊服が床へと滑り落ちた。
全裸になり、ガラス張りのシャワーブースへと足を踏み入れる。
「洗浄開始」
四方の壁から微細なミストが噴き出した。
貴重な水をナノ単位まで気化させた、高圧洗浄ミストだ。
肌にまとわりつく汗と汚れが、瞬く間に分解され、排水溝へと吸い込まれていく。
俺は目を閉じ、人工的な霧の中で、しばし無心に身を委ねた。
シャワーを終えると、キッチンから軽やかな電子音が鳴った。
予約しておいた夕食の調理完了を告げる合図だ。俺は万能調理器のトレイを引き出した。
そこに鎮座しているのは、分子配列から再構築された最高級のハンバーグステーキだ。
湯気と共に立ち上る、焦がし玉ねぎと肉汁の芳醇な香り。
かつての「本物」以上に本物らしい、食欲をダイレクトに刺激する匂いが鼻腔をくすぐる。
「……いい焼き加減だ」
ナイフを入れると、閉じ込められていた肉汁が堰を切ったように溢れ出した。
一切れ口に運ぶ。
舌の上で解けるような食感と、計算し尽くされた旨味の爆発。
今の時代の合成食材は、過去のどんな名店よりも「正解」の味を叩き出す。
俺はこの完璧な食事を味わいながら、何気ない動作で空中に指を滑らせた。
「ニュースを」
即座に、食卓の向こうにホログラムのキャスターが現れる。
『──定例の人口統計です。本年度の出生率は0.004%……過去最低を更新しました』
キャスターの声は事務的だが、その背後に表示されたグラフは残酷なほど雄弁だった。
赤いラインは、もう何年も「1.0」を割り込み、今は限りなくゼロに近い場所を這いずっている。
画面が切り替わり、街頭インタビューの映像が流れる。
映っているのは、高度医療で若作りをした老人ばかり。
子供の姿は、どこにもない。
『専門家は、「統計上の絶滅」まであと数年との見解を──』
「暗いな……あまりにも」
俺は溢れる肉汁をパンで拭いながら、重苦しい呟きを漏らした。
食は満たされ、病も克服し、寿命も伸びた。
この世界はこんなにも「完成」されているのに、未来だけが閉ざされている。
複雑な後味のまま食事を終え、俺はベッドルームへと向かった。
中央に置かれた純白のスリープ・ポッド。
俺が身を横たえると、内蔵されたセンサー群が即座に仕事を始める。
『スキャン中……筋肉硬度、疲労レベルを確認』
ウィイ、と微かな駆動音が響く。
今日のトレーニングで張った背中や腰に合わせて、形状記憶ジェルのマットレスが波打つように変形していく。
硬すぎず、柔らかすぎず。
まるで無重力空間に浮いているかのように、俺の身体の凹凸に完璧に密着した「極上の寝心地」が生成された。
全身の力が抜け、泥のような眠気が襲ってくる。
意識が落ちる寸前、部屋を管理するAIのアイリスの音声が枕元で囁いた。
『メグル。明日の朝食はどうする?』
俺は瞼を閉じたまま、夢現で答える。
さっきの夕食が美味かったせいか、朝も少し贅沢をしたくなった。
「……卵サンドだ。マヨネーズは多めで頼む」
『承知しました。お飲み物は?』
「カフェラテにして。あとヨーグルトをくれ。……はちみつを入れてな」
『かしこまりました。甘めの朝食で、良き目覚めを』
照明がゆっくりと落ちていく。
とろけるような甘い朝食の味を想像しながら、俺の意識は深い闇へと溶けていった。
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