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歌が聞こえる

作者: 暇庭宅男

最初の衝撃は大学時代だった。

本放送時は物心つく前だったこともあり、知ってはいるけれど見たことがなかったアニメ、「新世紀エヴァンゲリオン」を連休を使ってTSUTAYAでシリーズまるごと借りて一気見し、いわゆる旧劇までを3日間かけて通しで見た。


そのうち旧劇、すなわち劇場版THE END OF EVANGELION「まごころを、君に」内で劇中歌として流れる「Komm,susser tod.」(甘き死よ、来たれ)がどうしようもないほど美しく、同時に恐ろしく感じた。当時恥ずかしながら、ホラー映画を観た後のように、シャワーを浴びるのに恐くて目を瞑れなかったのを覚えている。


最初はあの人の精神をミキサーにかけて床にぶちまけたかのような映像との合わせ技かと思ったのだが、DVDを返した後もなんだかあの曲だけが恐怖の記憶として染み付き、以降ほぼ1年ほど、悪夢の中にまで、「甘き死よ、来たれ」が流れる羽目になった。


そんな個人的に恐ろしい曲であったが、私は同時にそれを「何かの曲に似ている」と感じていた。既視感の正体はその後、旧劇の記憶がようやくこなれてきたころに現れた。


中学校時代、学期ごとに変わる夕方6時を告げるメロディがあった。そのうち1つが、「パッヘルベルのカノン」。たまたま運転免許取得のため地元に帰省していたとき、母校の夕べに流れるカノンの調べを聞いて、脳の中に稲妻が走る思いがした。


似ている。この曲と「甘き死よ、来たれ」は似ている。


音楽は聴くことは好きでも知識に疎かった私は、ネット検索でその共通点が「コード進行」にあることを知った。

ポジティブな喜びや慈愛を示すようなメジャーコードと、切なさの感情や思い出を呼び起こすマイナーコードの絶妙な組み合わせ。クラシックから出発して大衆音楽としても定番の、人々から長く愛されているコード進行である……云々。


何が恐ろしいのか自分でもよく分からぬまま、「甘き死よ、来たれ」を恐れていた私は、そこで答えを得た気がした。


これは死そのものを愛する歌だ。


死こそは悲しみを終わらせて永遠の安寧へと連れて行ってくれる。元は教会色のあるカノンをベースにして、神への愛を死への愛にすり替える歌。コード進行をそのまま、歌詞を変えることでそれを成した歌だ。理屈ではない、私の感性の部分がそう訴えてくるのを感じた。


生きていくにあたって辛いことは次から次へと起こるもの。正面から格闘してもいいし、受け流すすべを身に着けるのも立派な智慧のひとつだ。


だが、一足飛びに何もかもに決着をつけられる方法を、我々は知っている。


その命を投げ出してしまうこと。それは最も端的で、最速の救いだ。無論様々な理屈でそれを諌める言葉は存在する。けれど、心の中に、死こそがあらゆる苦痛を解決してくれる!と死を求める声が無いなどと本当に言えるだろうか?


普段生活していて、信仰なり倫理なりで抑えているそれを、枷を外し、優しく無邪気に肯定されたら?その時、我々は本当にそれでも、明日の選択肢に、みずからの死を含めずいられるだろうか?


わけも分からぬまま恐れていた音楽の、その恐怖の正体が形を現してきたとき、私は安堵するだろうと思っていた。だが違った。優しく甘く、生の苦役から逃れてもいいのだと肯定するその歌の力に、私は一つの確信を得ていた。


必ず、この手の歌は将来また現れる。その時、死を愛する歌はもっと洗練されて、大衆音楽として強い説得力を持ち、たくさんの人に聴かれるはずだ。そうして音楽を聴く人の将来の選択肢に、そっと自死の選択肢を与えるだろうと。


果たして、それは約束のように訪れた。後にコロナ禍と呼ばれる災厄が始まるまさにその時、YOASOBIの「夜に駆ける」がリリースされた。私が「夜に駆ける」を聴いたのは出勤時にかけていた車内のラジオだったが、サビに差し掛かったときまさしく「甘き死よ、来たれ」をはじめて聴いたときと同じ戦慄が背筋に走った。歌詞が聞き違いであることを願って縋るようにスマホで検索をかけ、恐れていたことが起こったことに心臓が凍るかと思った。


あまりにもあっさりと、軽やかなメロディに乗せて紡がれる「死にたさ」の表現。シリアスではあるがそれはすでに「甘き死よ、来たれ」ほどの非日常感もなく、我々が生きる今日の夜が、まさしく「夜に駆け出していく」夜かもしれないと、そう思わせるものだった。


ついに自死の結末は日常と結びついたのだ。来週の約束をしながら今日死を選ぶ人が、普通の人の中に浸透していって、街を行き交ういたって普通の人々が、心の片隅に自死の選択肢を持っている。そういう日常が始まってしまったのだと私は思った。激化していくコロナ禍の様相と共に、私は新しい、命が台所のスポンジのように投げ捨てられる時代の到来を感じていた。


あれから5年。社会に思ったほどの混乱はなかったにせよ、私の周囲には自死の選択肢が普通に存在するようになった。四駆さん絡みの元からギリギリで生きていたメンバーは大半がこの世におらず、会社の先輩が旅行先で、ご近所さんが借金苦で……。

中でも驚いたのはあれだけ自分に謎の自信があり、闘病中も利己的に他人の意見を潰して憚らなかった母が、日常的に希死念慮を口にするようになったことだ。かつて私が同じことを漏らしたとき頬を張り飛ばして私の考えの幼稚さを責めた母とは、全く別人のようになった。


晩御飯の献立と、苦しくない自死の方法の検索。

旅行の計画と、時間差で実家に届くように遺書の投函。

取引先のアポイントメントをとって、商談をしてから、アパートに帰ってきたあと自死に向けて物品整理。

スーパーに買い出しへ行って、食料とともにいつでも死ねるだけのアルコールを買ってくる。


みな普通だ。普通の生活の中に、自死に向けての行動が普通に入れる余地がある。私もあれだけ気味悪く恐ろしく聴いた「甘き死よ、来たれ」が今は別に恐ろしいとも思わない。


ああ、狂っているのなら狂っていると、誰か激しく叱ってはくれませんか。


いつかの夢を思い出す。遠くから、歌に乗って誰かの心がじわりと私の心を毒していく夢を。

そんなに辛い思いをしなくていいのに。そんなに我慢して生きていなくていいのに。

あなたがそうしたいと思うなら、死ねばいいのに。


寝床で雨の音を聞いていると、今も聞こえる。歌が聞こえる。私を遠いどこかから、いざなう歌が。

考えていることをちゃんと書いてみようシリーズ。

読んだ方もしも恐がらせたら申し訳ない。


一人称視点の中で視野狭窄に陥っていくさまを書くというのをやってみようと思い立って書いたもの。もし適切なジャンル等ありましたら感想にて「暇庭、このジャンルはこれじゃね?」とお声かけください。

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