狸 夢 窯
ある所に、人間に化ける事が得意な狸がいた。
しかし狸は、決して衆愚の評価には驕らず、むしろ卑下するようでもあった。
狸の化ける力とは、想像力であって、創造力である。
自らの成りたい形を、自らで創り出す力である。
これは、無手勝流というわけにはいかない。自らが生きてきた形を放棄するというのは、大変な労力を要するものである。
すべて生き物は、自分という容器の中で生きている。
人の形は、ころんと丸い狸に比べると、たしかに非常に複雑である。
そして、幾分かの「ゆらぎ」も許されない。
これは外見にとどまらず、所作のすべて。言語、非言語、態度、表情、目線、言葉の使い方…
それらを、調和させて創り出さなければならない。
人の作る社会は非常に強固に団結して、それらの「ゆらぎ」を弾き出してしまうからだ。
この狸は、個そのもののみならず、社会というものを創り出す、人間に成ってみたかった。それが夢だった。
狸は、人間の観察を繰り返した。
陰から、ときには大胆に人として、社会に混ざり込みながら。
ある日、非常な様子で悩んでいるらしい態度の人間を観察していたのも、人間に成りたい一心からである。
悩みとは、人を人たらしめるものだと、この狸は信じていた。
狸は、押し並べて悩まないからだ。
その人間は、自らが創り出す土器の出来に悩んでいるようだった。
人間の社会の中には、そのような職業がある。人が必要なものを創り出すことで、相応の対価を得て生きるのだ。
とはいえ、この人間はそうではなく、ただの道楽でそんなことをしているようだった。
狸は、人の形で声をかけてみることにした。
どうしてそんなことで、悩むのですか。道楽であるならば、楽しまねば。理屈が合わないではありませんか。
「や、これはどうも。旅のお方ですかな。」
と、人間は慇懃に受け合った。人間は、自らが悩む理由を詳らかに、狸に聞かせた。
「なるほど、確かにあなたの言う通りであります。道楽であるならば、悩むべきではない。
道楽ではありますが、恥ずかしながら私などは道楽で生きている人間です。
生きるための金は幸福なことに余っている。それも私以外の家族、特に祖父や、その息子である、私の父が尽力した結果です。
私は、生きるために得る必要がないのです。ただ生きるだけで、生きていけてしまう。
ただの道楽息子です。しかし、ドラはドラなりに悩むものです。
こうして窯の前に座り、その悩みを道楽を通して考えるのですよ。
自らに与えられた器を、器を見て明らかにするのです。」
禅問答というやつだろうか、と狸は思った。
わかるようで、まるでわからない。
そして聞いた。
「なるほど?わからない物言いをしましたでしょうか。
では、この器をごらんなさい。
…いびつ?
は、は、は、そうでしょう。器としてはたいへん使いづらいと思います。
しかし、こんなものでも求めるものがある。
これは観るためのものですよ。
使えない器にも、一方では使うものがある。
私はこんな物を見て慰められます。そうして、自分という人間の使い道を考えます。
どうして、自分が社会で生きていくのかを、考えます。
自分が社会に求めるものを考えます。
社会が自分に求めるものを考えます。」
狸は理解しようと努めた。けれど、人の語るものは複雑怪奇で理解しがたいものだった。
そしてそれは、どうしてか、惹かれるものであった。
器を焼く道楽息子は、狸が求める夢の答えを持っているものだと信じられた。
そうして狸は、足繁く道楽息子のもとへ通った。
道楽息子の方も、狸を無下には扱わなかった。
人の時間で、長い間、交流を続けた。
その短い時間に狸が求めるものが、得られたのかどうかはわからない。
狸は狸流に、悩むことをした。
狸は押し並べて悩まない。
狸はもうその頃には、狸ではなくなっていた。
私はその時産まれたと言っていいのでしょう、と狸は鼻を鳴らす。
「成程。」
傍らの人間は、動かし続けていた筆を置いた。
一度聞いた話でも、こうして改めて聞くと発見があるものである、と思う。
人は自らの形を求めて苦悩した。
狸は人であらんと苦悩し狸をやめた。
人間にはなれずじまいでしたけどね、やっぱり人間はどうもむずかしい、と狸。
狸は不貞腐れたように床に転がって、すぐに寝息を立てはじめた。
どうも、先程舐めた酒の勢いも手伝った、舌の回りだったらしい。
人間は考える。
人たらんとして人の形に悩む狸と、人から求むらるる形にならんとする人。
その二つの道の、いつか至る果は、同じものではなかろうか、と。
この「ゆらぎ」は、世に認められぬ異端であろうか、と。
そして苦笑する。
どれだけ悩んだ所で、ひとまず、この酒と獣臭い毛玉が人社会に認められることはあるまい。
「いつかそうなれるといいな。」
人間は小さく呟いて、狸の襟髪を掴み上げて寝床に放り投げた。
臥所を共にするわけではない。自らの枕にするためだ。
人たらんとする狸は、ただの枕としての器に収まっている。
それが本当に彼女の望んだ所であるのかは、今のところはわからない。




