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あすの湖へ桜より  作者: 久知梨之花
第一章 時を超える春
9/10

春の淀み

水面から立ちのぼった“影”は、黒でも白でもない。泥に濡れた布のように、揺れながら形を定められずにいた。

ひとたび揺らぐと、人の顔のようにも、獣のようにも見える。けれど、そのどれもがどこか「欠けて」いて、まともに視線を合わせてはいけないもののようだった。


「……っ!」

 湖桜は喉が凍りついたように声を飲み込んだ。影の周囲から、あの鈴の音が幾重にも響き、空気が波のように押し寄せてくる。


「目ぇ合わしたらアカン!」

 惣樂が鋭く言うと同時に、足を踏み込み地を揺らす。小さな震動が波紋のように広がり、影と人の境目を押し戻そうとする。


 ——しかし。


「……たす……けて……」


それは、ひどくか細い声だった。

湖桜の耳にだけ届くように、濁流の底から掬い上げられたかのような懇願の声。


「……え……?」


湖桜の足が、無意識に前へ出た。胸の奥のざわめきが、より一層強くなる。


「行くな!!」

椿が鋭く呼び止める。しかし次の瞬間、影は人の腕の形を作り、湖桜の方へと伸ばしてきた。


湿った冷気が頬を撫で、骨の奥まで凍るような感覚が走る。


「——下がれッ!」


椿の声が響き、風が鋭く切り裂いた。枝葉がざわめくような気配とともに、椿のもりが閃き、風を裂く。刃が触れると同時に、影の腕が一瞬で弾かれる。


「……っ!」

湖桜は思わず顔を覆った。ぬるりとした温度が指先を伝い、胸の奥がぎゅっと縮む。

視界の端で、暗いしぶきが夜気に散り、草に斑点のように落ちていく。

鉄の匂いが鼻を突き、吐き気に似た衝動が喉をこみ上げた。


「こ、これ……血……?」

湖桜は自分の声が震えているのがわかった。

ただの影のはずなのに。そこから溢れ出したものは、あまりに現実的で——。


「椿!!湖桜ちゃんの前だよ。落ち着いて。惣樂さんお願いします。」

もえ黄の手が湖桜の目を覆う。湖桜の目元に添えられた手は温かくけれど強く、ほんの一瞬の安心感を与える。


「はぁ……しゃあないな〜。しっかしこれはひとつやふたつの“穢れ”やないで。」

惣樂の顔が険しくなった。

「積もり積もった祈りと呪い、そのものや……」


湖面の裂け目がさらに広がり、影はひとつの塊から、いくつもの“顔”を生み出していった。

それぞれが沈められた者たちの残響のように、助けを求める声と怨嗟の呻きを同時に吐き出す。


「堪忍な——。」

次の瞬間、ためらいもなく想樂の手が影の胸の奥――心臓を正確に一突き。

濁った呻き声と共に黒い靄が吹き散り、影はゆっくりと崩れ落ちた。


「ごめんね。湖桜ちゃん。急にこんなもの見せて。」

やがて、覆っていたもえ黄の手が、ゆるやかに離れていく。

光が戻った視界の先にあったのは、崩れ落ちる影と、無言で手を引き抜く惣樂の背だった。

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