春の淀み
水面から立ちのぼった“影”は、黒でも白でもない。泥に濡れた布のように、揺れながら形を定められずにいた。
ひとたび揺らぐと、人の顔のようにも、獣のようにも見える。けれど、そのどれもがどこか「欠けて」いて、まともに視線を合わせてはいけないもののようだった。
「……っ!」
湖桜は喉が凍りついたように声を飲み込んだ。影の周囲から、あの鈴の音が幾重にも響き、空気が波のように押し寄せてくる。
「目ぇ合わしたらアカン!」
惣樂が鋭く言うと同時に、足を踏み込み地を揺らす。小さな震動が波紋のように広がり、影と人の境目を押し戻そうとする。
——しかし。
「……たす……けて……」
それは、ひどくか細い声だった。
湖桜の耳にだけ届くように、濁流の底から掬い上げられたかのような懇願の声。
「……え……?」
湖桜の足が、無意識に前へ出た。胸の奥のざわめきが、より一層強くなる。
「行くな!!」
椿が鋭く呼び止める。しかし次の瞬間、影は人の腕の形を作り、湖桜の方へと伸ばしてきた。
湿った冷気が頬を撫で、骨の奥まで凍るような感覚が走る。
「——下がれッ!」
椿の声が響き、風が鋭く切り裂いた。枝葉がざわめくような気配とともに、椿の銛が閃き、風を裂く。刃が触れると同時に、影の腕が一瞬で弾かれる。
「……っ!」
湖桜は思わず顔を覆った。ぬるりとした温度が指先を伝い、胸の奥がぎゅっと縮む。
視界の端で、暗いしぶきが夜気に散り、草に斑点のように落ちていく。
鉄の匂いが鼻を突き、吐き気に似た衝動が喉をこみ上げた。
「こ、これ……血……?」
湖桜は自分の声が震えているのがわかった。
ただの影のはずなのに。そこから溢れ出したものは、あまりに現実的で——。
「椿!!湖桜ちゃんの前だよ。落ち着いて。惣樂さんお願いします。」
もえ黄の手が湖桜の目を覆う。湖桜の目元に添えられた手は温かくけれど強く、ほんの一瞬の安心感を与える。
「はぁ……しゃあないな〜。しっかしこれはひとつやふたつの“穢れ”やないで。」
惣樂の顔が険しくなった。
「積もり積もった祈りと呪い、そのものや……」
湖面の裂け目がさらに広がり、影はひとつの塊から、いくつもの“顔”を生み出していった。
それぞれが沈められた者たちの残響のように、助けを求める声と怨嗟の呻きを同時に吐き出す。
「堪忍な——。」
次の瞬間、ためらいもなく想樂の手が影の胸の奥――心臓を正確に一突き。
濁った呻き声と共に黒い靄が吹き散り、影はゆっくりと崩れ落ちた。
「ごめんね。湖桜ちゃん。急にこんなもの見せて。」
やがて、覆っていたもえ黄の手が、ゆるやかに離れていく。
光が戻った視界の先にあったのは、崩れ落ちる影と、無言で手を引き抜く惣樂の背だった。




