妖しき春風
湖桜は葛餅に視線を落としたまま、小さく息を吐いた。
(……なんで、こんなに胸がざわざわするんだろう。)
周囲の空気が、ほんの少し変わった気がした。
春の匂いの中に、何か湿った土の香りが混ざっているような——。
——ちりん……
それは風に紛れるように、ひどく小さく、けれど確かに耳に届く音だった。
「……なにこの音……」
湖桜が無意識に声を漏らす。
ちりん……ちりん……
遠くから、どこか懐かしくもある鈴の音が、幾重にも重なって聞こえてくる。最初は一つ、次いで二つ、そして無数に。
ちりり……ちりん……ちりりり……
その音に混じって、何かが擦れるような、湿った空気が肌にまとわりついてくる。
「まーた来よったか……」
惣樂が低く呟く。
「えっ……何が、ですか?」
湖桜が問いかけたが、惣樂は答えない。代わりに、静かに空を見上げた。
「この音は、この地で“捧げられた者たち”の数なのよ。」
それはまるで懺悔と祈りを含んだようにもえ黄の口から語られ始めた。
「…捧げられた……?」
「昔からこの近江では“災い”が起きるたび、生贄を差し出してきた。平安の世、あるいはそれ以上前から百を超える命が、穢れとともに沈められてきたの。そのたびにひとつ、鈴が打たれる。」
——ちりん……ちりん……ちりり……ちり……ん……
音はやがて、ひとつの方向から響き始めた。空気が薄くなる。肺に入った空気が、まるで水のように重たく感じられる。
「鈴が鳴るとき、穢れが揺らぐ。“何か”が境を越えようとしてるってことや。ちなみに君が来た時もえらい鳴ってたで。」
そう言って惣樂は、薄く笑いながら地を踏みしめた。音が鳴っただけで、空気の張りがぴたりと変わる。
「穢れがこちらへ顔を出す時、まず先に音がくる。——あの音は、祈りでもあり、呪いや。」
風もないのに、湖面がざわめいた。
そして。
——じゃらんっ
今までとは違う。鈴の束が落ちたような、重く、軋むような音が耳を裂いた。
「っ……来るで。」
椿の声に振り返ると、水面が裂けるようにして、“影”が姿を現した。