綻び始める春
「それで……湖桜ちゃんは、どこから来たの?」
青年の問いに、湖桜は少し困ったように視線を伏せた。
(どこ、って……)
ついさっきまで橘平といたはずの湖桜は、辺りを見渡しても橘平がいない事態に困惑していた。いつもの町並みとは違うけど、全く見知らぬ場所というわけではない。だけど、どう考えてもおかしい。夢じゃないことは肌で感じていた。
「……あの、長等神社の花見祭りを手伝っていて、禊船に乗って…そしたら、足を滑らせて川に落ちちゃって……それで気がついたら、ここにいて……」
「禊船!?!?!?」
ぱっと反応したのは惣樂だった。
「禊船ていうと、生贄の……」
湖桜を除くその場の人間の顔が強ばる。
この時代における禊船は、生贄を捧げるものである。つまり、禊船に乗るということは”死”を意味するのだ。
「それは大変な御役目、辛かったよね。」
もえ黄は湖桜をそっと抱きしめる。
(なんだろう、さっきからちょっとずつ、話がかみ合ってない……)
「何も言わなくていいんだよ。とにかく甘いものでも食べてほしいな。」
そうしてもえ黄は「何か口にできるものがあったかな」と呟いて、暖簾をそっとくぐり、店の奥へと向かった。
もえ黄の姿が奥へと消えると、室内にはふたたび静けさが戻った。湖桜は、ぽかんとしたまま、膝の上で指先をもぞもぞと動かした。
目の前の椿は真っ直ぐに湖桜を見つめていた。鋭い視線ではない。ただ、どこか様子を探るような眼差し。居心地の悪さというほどではないが、説明のつかない空気がその場を満たしていた。
「え、あの……ご迷惑かけてすみません。わたし、本当にどこかで頭でも打ったのかな……」
湖桜がそう言うと、惣樂が椿の背から顔をひょこりと出して、ぱちぱちとまばたきをしながら言った。
「ふむ……夢とか、幻とか、そういうんともちょっと違う感じするんやよなあ」
「え?」
「いやいや、なんでもない。こっちの話。」
そう言ってにっこり笑う惣樂の笑顔は無邪気で人懐っこいが、どこか深い思案を含んでいるように見えた。
その時だった。
「お待たせ。甘いもの、あったよ〜。」
もえ黄が運んできたのは、湯気を立てた葛餅だった。黒蜜ときな粉の香りがふわりと室内に広がる。
「はい、湖桜ちゃん。お腹すいてない? 少しでも口にできるなら、ね。」
「あ、あああ、り、あり…あり……」
感謝を述べたくて必死に己の口を動かす。そうしているともえ黄が何故か下を覗き込んだ。
「あ!ほんとだ!ありだね!!」
また絶妙な勘違いをされてしまってどう訂正するか思案している間にぷるんとした葛餅が用意された。
差し出された葛餅を受け取りながら、湖桜はまた室内を見渡す。どこか古めかしく、だけど手入れの行き届いた室内。着物姿の人たち。外から聞こえてくる人力車の音――。
(なんでだろう。知ってる場所のはずなのに、違う。全部が、ちょっとずつ昔みたいで……)
けれど、それが何を意味しているのかまでは、まだ彼女には分からなかった。
ただひとつ、胸の奥に小さな種のようなものが芽吹いたのは確かだった。