春の足音
椿の顔はむすっとしていて、どうやら抵抗できなかったらしい。
「……惣樂さんには逆らえない。」
その言葉を聞いた瞬間、湖桜の頭の中に「?」がいくつも浮かんだ。
(え……この子が“さん”付けられる相手なの?)
まるで幼女のような容姿に、てっきり年下の子かと思っていた湖桜は、目を丸くしてしまう。惣樂はその帽子の下から覗く大きな瞳で湖桜をじっと見つめ、ぱちぱちと何度か瞬きをしたあと、椿の背に隠れるように顔を寄せた。
「……ごっつい!」
「ご、ごっつい…?」
湖桜の頭の中には再び「?」が浮かんでいた。
「ごっついびっくりした〜!おねーさん幽霊?死神?亡霊?妖怪?」
「え!?」
ニッコリした顔で凄いワードが出てくる子供に驚きを隠せない。
「惣樂さん、この子がびっくりしてるから。少し落ち着いて。」
青年がその場を宥める。
「えー!だって背格好とか顔の感じとか、さーちゃんにそっくりなんやもん。さーちゃんがそのまま帰ってきたみたいでびっくりしたわー!なー!つーくん!」
椿は黙って頷いた。
惣樂の言葉は少年のように軽やかだったが、その声の奥にふっと翳りが差す。
「……まさか、ほんまにさーちゃんが戻ってきたんやないか……とか、思ってしもたよ。ねぇ、もえちゃん?」
「うん。私もちょっと心臓止まるかと思った…。」
そう言って現れたのは、落ち着いた雰囲気をまとった女性だった。
柔らかな髪を後ろでまとめ、上品な身のこなしで湖桜の前に座ると、にこっと微笑んで手を差し出した。
「初めまして。私は根津もえ黄。ここの茶屋で働いてるの。あなたのお名前を教えてくれる?」
「……え、あ、はい……私は、湖桜。望月湖桜といいます。」
突然の賑やかな展開に、湖桜は返事が遅れてしまった。
しかし、その名を口にした瞬間、再び場の空気が凍りつくように静まり返った。
「……望月?」
誰が最初に声を漏らしたのか、はっきりとはわからなかった。
だが、その言葉が引き金のようにして、全員の視線が湖桜に集まった。
「さーちゃんと一緒やね。」
先ほどまで話題にのぼっていた、“桜”という名の少女の苗字は望月。
そして、彼女もまた“望月”と名乗った。
偶然にしては、あまりにもできすぎている――誰の目にも、そう映っていた。
青年が、ふと湖桜を見つめる。その視線は驚きというよりも、何かを探るような、静かな光を宿していた。
室内に、言葉にならない戸惑いと、目に見えない波紋が、静かに広がっていった。