春の訪れ
春の日差しは、静かに、しかし確かに肌をあたためる。
さっきまで重たかった布が、茶屋に到着する頃には軽く風をはらんでいた。
茶屋には、時の流れを静かに刻むように、古びた木の看板が掲げられていた。
流木で作られたそれは、風雨にさらされながらも、どこか穏やかな気配をまとっていた。ところどころ削れた文字は、【亭〇〇】と書かれていることがうっすらわかる程度で、他の文字は読み取れなかった。
湖桜が自分の背丈よりも遥かに上にある看板を何とか読み取ろうとぴょんぴょんと飛び跳ねていると、羽織をかけてくれた青年が少し面倒気味に振り返った。
「あーそれね〜。【おうみてい】っていうんだって。」
湖桜には不思議に思った点が二点あった。一つは読み取りにくいとはいえどう見ても最初の一文字は亭だったこと。そしてもう一つは、青年の言葉がどうして伝聞的なのか。
「あ、もしかして字読めないとか?苦労したんだね。」
何か勝手に勘違いされたようだが、訂正する間も無く抱き上げてくれた青年――椿がそそくさと暖簾をくぐっていった。湖桜もその後を静かに追う。
中は質素ながら清潔で、柔らかな木の香りがした。囲炉裏の炭火がまだ赤々と燃えており、奥には台所らしき空間がある。壁にはいくつか、季節の草花が墨で描かれた掛け軸が飾られていた。
「椿、乾いた布ある?」
「……ああ、ある。今持ってくる。」
ややあって、椿が、ふたたび姿を現した。彼は、濡れた髪を結い直し、さっきよりも落ち着いた様子だった。が、湖桜を見た瞬間、その目はまたどこか戸惑いを含んだ。
「……こちらへどうぞ。奥の間が、陽当たりがいい。」
湖桜は椿に導かれるまま、囲炉裏の脇の畳間へと通された。
(また…ありがとう。って言いそびれちゃった。)
手渡された乾いた布で髪を拭いながら、ずっと気になっていたことを口にする。
「その……さっき、私のことを“桜”って……呼びましたよね?」
椿は、その手の動きを一瞬止めた。が、すぐに静かに目を伏せる。
「……ごめん。取り乱した。」
「さ、桜さんと私が、似ていた…とかですか……?」
椿はその場で黙り込んでいたが、代わりに隣にいた青年が、静かに口を開いた。
「……“桜”っていうのは僕たちにとって大切な人だった女の子のことなんだよ。」
「……!」
「君と同じくらいの年だと思う。昨年の春、川で溺れた少年を助けて亡くなったんだ。」
そう言った彼の声は、決して取り乱していなかったが、どこか遠くを見るような目をしていた。
椿は、じっと俯いたまま微動だにしなかった。
青年の言葉が空間に静かに溶けていくのを、何も言わず受け止めていた。
やがて、彼はわずかに息をつき、立ち上がった。
その動作には特別な感情の色はなかったが、わずかに指先が強く握られていた。
「……ちょっと、外の空気を吸ってくる。」
そう呟いた声は低く、淡々としていたが、どこか遠くを見つめるような響きがあった。
誰もその言葉に返す声を持たなかった。引き止めることもなく、ただ椿の背を目で追った。
引き戸が開くと、柔らかな春の光が差し込んだ。椿の背がそれに溶けるように外へ出ていく。
そして、戸が音もなく閉じられると、風の匂いだけが部屋の中にほんのわずか残された。
「気にしないでね。椿は、あれ以来誰に対してもずっとああだから。まぁ動揺しちゃうのはわかるけどさ。」
そう言った青年の言葉のあと、部屋の空気は少し静かになった。湖桜は、閉じた戸の方を見つめながら、彼の背に漂っていた寂しげな空気が、どこか他人事に思えなかった。
――そのときだった。
「はーいつーくん!また一人でうじうじしてるーっ!」
戸の向こうから、甲高く元気な声が響いた。思わず湖桜が振り返る。直後、がらりと引き戸が勢いよく開き、椿が引きずられるようにして戻ってきた。
「……だから、袖を引っ張らないで。」
「ダメーっ。勝手に出てっちゃやーだもん!」
椿の腕をぐいぐいと引いていたのは、信じられないくらい小柄な、子どもだった。
肩にかからないくらいの長さのフワリとした髪を跳ねさせ、古風な学生帽を目深に被っていた。