見知らぬ春
目を開けたとき、空は昔話に出てくるような、淡い春の色だった。
湖桜は濡れた体を抱きかかえられていた。見上げると、そこには黒髪の青年がいた。凛とした瞳、透き通るような白い肌。和服の裾が風に揺れている。
(……誰……?)
しかし青年は、湖桜の顔を見るなり、驚愕に目を見開いた。
「……桜……?」
その声は、まるで亡霊でも見たかのようだった。
「え……?」
次の瞬間、彼の手がふっと離れる。
重力に逆らえるはずもなく、ストンと水の中へ沈んだ。
また冷たい水が全身を包む。今度こそ、本当に――
「馬鹿っ……また落とすな、椿!」別の声が響いた。
その直後、湖桜はしっかりと抱きかかえられ、川岸へと引き上げられた。
「君、大丈夫!?」目の前にいたのは、先ほどの青年とは違う、おっとりとした目元の青年だった。
湖桜は直感的に、この声が、先ほど聞いた『お母さん!!』と呼ぶあの優しい声の主だと悟った。
けれども――声をかけられた瞬間、喉がひゅっと塞がる。心臓が強く跳ね、全身が強張った。見知らぬ人に向き合うと、いつも呼吸が乱れてしまう。思わず濡れた衣服を握りしめ、返事を飲み込んだ。
「……あ……」
かすれた声が零れた次の瞬間、言葉が堰を切ったように溢れ出す。
「ご、ごご、ごめんなさい……! ごめんなさい、私……」
湖桜は必死に頭を下げ、震える声を繰り返した。体が勝手にそうしてしまう。
(勝手に溺れたのに助けてもらった。きっと迷惑をかけた。だから謝らなきゃ、謝らなきゃ……)
爪が食い込むほど衣服を握りしめ、謝罪の言葉を口にするたびに胸の奥が締めつけられる。過去の影が背中にまとわりつき、耳の奥に声が蘇ってくる。
青年は驚いたように目を瞬かせ、慌てて首を横に振った。
「ちょっと落ち着いて。君は何も謝るようなことしてないよ!」
その言葉に湖桜は一瞬、動きを止めた。けれども、染みついた恐れがすぐに彼女を押し戻す。うつむいたまま、小さく呟くように繰り返す。
「……で、でも……私のせいで…ふ、服が…」
青年はその声を遮るように、そっと湖桜の肩へ羽織をかけた。
「……君、名前は?」
湖桜は唇をかすかに震わせ、なかなか声が出せなかった。沈黙の重みに耐えかねて、やっとの思いで小さく呟く。
「……こ、ここここ、こ、湖桜……です。」
青年はその声にわずかに目を細め、湖桜の顔をじっと見つめた。やがて、悲しげに笑いながらぽつりとつぶやく。
「こここ?まぁそっか。そんなわけないよね……」
(どうして、そんな顔を……?)
意味がわからないまま、湖桜は視線を逸らし、肩をすくめるように縮こまった。
青年は羽織りを脱ぎ、湖桜の肩にそっとかけてやった。急に近づいた気配に、湖桜の体はびくりと反応する。それでも逃げずにいられたのは、その声が、不思議と冷たくなかったからだ。
「ごめん、君を――他の人と勘違いしてた。……でも、放っておけないし。」
そう言うと、彼はそっと手を差し出した。
湖桜は戸惑いながらも、その手をじっと見つめた。胸の奥で、古い傷が疼く。人の手を取ることが、なぜこんなに怖いのか。
それでも――目の前の青年は、ただ差し出すだけで、強要はしなかった。
おそるおそる、指先だけを重ねるようにして、その手を取った。
「君、行くあてはある? とりあえず、僕たちの店に来ない?」
「……店?」
「うん。ただの茶屋だけど、体を休めるには十分だと思う。」
湖桜はしばらく黙り込んだ。見知らぬ場所で、見知らぬ人の誘い。足はすくみ、心臓が暴れる。けれど――拒めばまた一人になる。
小さく震える唇で、湖桜は静かにうなずいた。
本当は、口にしたかった。
「ありがとうございます」と。
でも、喉の奥で言葉は凍りついたまま動かない。息を吸うだけで胸が痛く、声を出そうとするたびに、昔叱られた記憶が蘇ってしまう。
(どうして……こんな簡単な言葉すら……)
結局、唇はかすかに震えるだけで、何も出てこなかった。代わりに零れたのは、また小さな「……ごめんなさい」だった。
青年は不思議そうに湖桜を見つめたが、すぐに何も問わず、ただ隣を歩き出した。
その姿に、青年はなおも水面に消えた幻影を重ねていた――あの日の面影を。
湖桜はその背に並びながら、喉の奥に飲み込んでしまった言葉の重みを抱きしめるしかなかった。
湖桜が蚊の鳴くような声で呟くと、青年の足取りはほんの少し、柔らかくなった。