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あすの湖へ桜より  作者: 久知梨之花
第一章 時を超える春
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時を超える春

「似合ってんで、湖桜。」

「そ、…そんなこと……きいちゃ…橘平くんもとても似合ってます。」

昔のあだ名で呼んでくれなくなってしまったことに少し不満を抱きながらもあまり元気そうではない湖桜を勇気付けたい一心で話を進める。

「あ、ありが……そ、そんな褒めてもなんも出へんで!!」


「ありがとう。」そう言葉にするだけなのにどうしても出てこない。橘平は湖桜を前にすると何故か素直になれない自分に嫌気を指す。


橘平きっぺいと湖桜は、幼なじみの関係だ。この日ふたりは、橘平の実家である長等神社の花見祭りに参加し、神社の手伝いに来ていた。


橘平の装束は、花橘のかさねに橘の紋様があしらわれ、春の陽気を思わせる鮮やかな橙色と鶯色が美しく調和している。長等神社には女の子の神職者がいないため、これまでは彼の姉・蜜柑みかんが巫女の役を担っていたが、昨年嫁いだことにより、その役目は湖桜に引き継がれた。


「ほんまに大丈夫? 花見祭りの巫女の役目って、結構しんどいで。」

橘平が心配そうに声をかける。


湖桜はぎこちなく笑い、肩をすくめた。

「大丈夫です……蜜柑さんいつも素敵ですし、私も……頑張ります。」

以前なら明るく元気に返していたはずの言葉も、今は少し弱々しく、声は小さく震えていた。


花見祭りでは、巫女が神事の一環として**疏水を渡る“みそぎ船”**に乗る。かつては巫女を人身御供とする過酷な神事だったが、100年以上前に改められ、今では象徴的な清めの儀式として受け継がれている。


船は琵琶湖に通じる水路をゆっくりと進み、春の風に舞う桜の花びらとともに、巫女が身を清め、春の神へ祈りを捧げる。春の気配が感じられるとはいえ、桜はまだ咲き始めの季節。琵琶湖の水はなお冷たく、巫女の身にひんやりとまとわりつく。


「緊張する……でも、桜、きれい……」

桟橋の端に立った湖桜は、目を細め、足元をそっと見つめた。


(……ここで舞を披露するんだ……動かないと……)

心の中で自分に言い聞かせる。しかし胸は強く跳ね、手足はぎこちなく震えていた。


「……あ、猫!」

白い毛並みの猫が、桟橋の向こうにぴょんと姿を現した。神社に住みついている野良猫だ。


「待って…!」

「おい湖桜!危ない!」


橘平の声が耳に届く。ほんの少し心が安らぐ。けれど、素直に体を任せられず、湖桜は足をすくめるだけだった。


ずるっ——


濡れた板で滑り、湖桜の体は琵琶湖の水へ落ちた。


冷たい水に包まれ、湖桜は息が詰まりそうになる。桜の花びらが水中にゆらゆらと漂い、ゆっくりと沈んでいくのが見える。


(やだ……息しなきゃ……)

心の中で必死に叫ぶ。体は思うように動かず、手足が重く感じられる。怖さが先に立ち、体が硬直してしまう。


そのとき、不意に声が聞こえた。

『お母さん!!』


どこか落ち着いた、優しい声。橘平の声に似ている……。湖桜は、ほんの少しだけ胸が温かくなる。けれど、素直に声を返せない自分に気づき、唇をかすかに噛む。


意識が遠のきそうになったその瞬間、何かが彼女の身体をぐっと引き上げた。冷たく澱んでいた視界が、徐々に光に溶けていく。

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